祝Queenの日!フレディ・マーキュリーの年代別ファッション&ヒットソングまとめ

世界史で質問です。以下の写真は世界史の窓というサイトからスクショしたものです。
以下の写真の文より「南ネーデルラント継承戦争でオランダがイギリス、スウェーデンと三国同盟を結んだ」とありますが、南ネーデルラント継承戦争は1667年に起きており、1652年から1672年の間には第1,2,3次英蘭戦争が起きています。そんな中でどうしてイギリスとオランダは同盟を結んだのですか??

「世界史で質問です。以下の写真は世界史の窓」の質問画像

A 回答 (1件)

元々、イギリスとオランダ(ネーデルラント)は、カトリックへの対抗勢力として協力関係にあったのですが、アジア貿易絡みで関係が悪化し、戦争に至りました。

これが英蘭戦争です。
第2次英蘭戦争の終盤、イギリスが敗北か…という時期に、南ネーデルラント継承戦争が起こり、フランスが南ネーデルラントを奪うべく侵攻してきました。
これに脅威を感じたオランダは、イギリスとの戦争を終わらせて、フランスの侵攻に対抗するためにイギリスとの協力関係を結ぶことに方針転換します。
オランダの立場で言えば、「カトリック国の大国フランスがすぐそこまで攻め込んできている、ヤバい! イギリスと戦争している場合じゃない、反カトリック国同士という利害も一致するんだからさっさと講和条約を結んで、一緒にフランスに対抗しよう!」というわけです。「敵(=カトリックのフランス)の敵(=反カトリックのイギリス)は味方」という発想ですね。
優勢だったオランダのほうから早期の終戦を望んだため、劣勢だったイギリスにとってはマシな条件で講和条約を結ぶことが出来、イギリスにとっても渡りに船だったと言えます。
また、フランスが南ネーデルランドまで勢力を拡大した場合、それはオランダにとってだけでなく、すぐ対岸のイギリスにとっても脅威になるわけですし。イギリスにとっても、「敵(=フランス)の敵(=オランダ)は味方」ということになります。

戦争とか同盟というのは、国にとっての利害関係で発生するものです。
南ネーデルラントに侵攻してきたフランスの勢力拡大を防ぐことは、オランダにとってもイギリスにとっても、戦争をやめて協力するだけの利害が一致することだった、ということです。
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Q日本が一番のんびりしてた時代って60年代か70年代ですか?

日本が一番のんびりしてた時代って60年代か70年代ですか?

Aベストアンサー

No.5 回答者: Mocojima_Z さんが、回答日時:2019/03/05 16:42 に
「むしろ、一番のんびりしてるのは今では?」と回答しています。
私もそう思います。
理由は、❶ のんびり = 身心がゆったりと落ち着き、内外の制約を気にせずに自分の満足するように行動しているさま ❷ 社会保障厚生施策が厚くなり、収入や職の有無を強く気にせずに済む社会になっている、性差、個体差、人種差、能力差、年齢差、長幼上下先輩後輩血族同族勤務先などの人間関係のしがらみや制約を気にしない発言行動スタイルがとがめられない、❸ テレビの番組内容でも何でもありでとがめらることが少なくなっている、❹ 犯罪事例でも今までは想像しにくい行動が公然となることが多くなっている = 昔ならばもっと別の理由や背景をセットで報じないとおかしいと思われてしまう = 現在はどんなこともあり得る、制約を内的にも持たない人物が出現することさえも納得する時代になっている と思うからです。

まあ、今は子供たちが塾やお習い事で大変で、スマホも離せない時代になっていて、子どもは子どもで勝手に遊び回るというような時代とは違いますが、その子どもは、異年齢子供たちだけで勝手に集団遊びをするのをきついと感じるようですから、現代の子どもにとっては昔の子どもはのんびりとはしてられないというように感じると思うでしょう。
おそらく、人類の歴史では、20歳過ぎまで就労せず家事労働せずというような人が多くなったのは、世界でみても、1970年代以降ではないでしょうか。
http://www.garbagenews.com/img17/gn-20170613-01.gif
「"食うため、生きるために!"を、自分自身の指針として頑張る」のは《のんびりとも言える》と考えるのであれば別ですが、《温泉に浸かってのんびりと》《一日景色を楽しみ海岸でのんびりと》《ビールを飲みながらテレビでものんびりと》のようなのんびりの時間帯を人生の多くの時間で過ごせるのは、多分、現代が一番でしょう。
https://www8.cao.go.jp/youth/whitepaper/h26honpen/img/z1_4_13.gif
職場になじめない、学校になじめない、就活が希望のように進まないという理由で無職で親元にいられるのであれば、それをのんびりした時代の証とも考えられらるでしょう。
未婚者の増加も、江戸の未婚者とは状況が違って、現代のはのんびりした時代だからでしょう。

No.5 回答者: Mocojima_Z さんが、回答日時:2019/03/05 16:42 に
「むしろ、一番のんびりしてるのは今では?」と回答しています。
私もそう思います。
理由は、❶ のんびり = 身心がゆったりと落ち着き、内外の制約を気にせずに自分の満足するように行動しているさま ❷ 社会保障厚生施策が厚くなり、収入や職の有無を強く気にせずに済む社会になっている、性差、個体差、人種差、能力差、年齢差、長幼上下先輩後輩血族同族勤務先などの人間関係のしがらみや制約を気にしない発言行動スタイルがとがめられない、...続きを読む

Q豊臣秀吉は朝鮮半島南部くらいなら支配できたのではないですか?

豊臣秀吉の朝鮮出兵ですが、朝鮮の首都(漢城)はすぐに陥落し、次に明軍との戦争になり、明・朝鮮連合軍との戦争になって最終的に撤退することになります。

でも、いくら秀吉軍が強いといっても、さすがに明を征服できる力があったようには思えません。

明との衝突を避け、目的を朝鮮半島南部の支配に限定すれば、目的が達成できた可能性が高いと思いますが、どうでしょうか。
そして、毛利や島津、徳川といった、後で逆らってきそうな大大名を朝鮮南部に配置すれば、邪魔者を追い出せますし、一挙両得のように思います。

Aベストアンサー

文禄慶長の役は征明嚮導とか仮道入明と言われたように、
朝鮮は通り道で秀吉は朝鮮を支配する意志がほぼ無いので
秀吉が朝鮮南部だけ統治するということはまずありません。
ただし、思考実験としての可能性を述べてみます。



文禄・慶長の役で、日本が明の参戦で苦戦に陥って
不利になったのは事実と言えなくはないですが、
文禄の役では碧蹄館の戦いをはじめ、第一次・二次平壌城の戦い
慶長の役では第二次蔚山城の戦い、泗川の戦い、順天の戦い等々
ほとんどの戦いで明(と朝鮮連合軍)には戦術的に勝っています。
ちなみに、文禄の役の時に碧蹄館の戦いで大損害を出した明は、
以後は朝鮮の意向を無視して講和に方針転換しています。
さらに慶長の役が終わった後、明史では

  (前略)喪師數十萬,糜餉數百萬,
  中朝與屬國迄無勝算,至關白死而禍始息
 (明史 朝鮮伝(320巻)26年11月)

  10万の兵を失い、100万の糧食を浪費したけど
  中朝(中国)と属国(朝鮮)には勝算が無かった。
  関白(秀吉)が死んだから終わってくれた。

と書かれていたくらいです。
このように、明とはそれなりの勝負はできているので、
本格的に準備をすればいい勝負はしたと思います。

余談ですが、南原城の戦いで見ても判るように
明は朝鮮南部まで軍を進めています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E5%8E%9F%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
講和がうまくいった場合など、状況にもよりますが、
朝鮮南部だから明が来ないというわけではありません。


日本が勝てなかった理由は兵站が続かなかったから。
(慶長の役を含めるなら秀吉が死んだから)
当時、兵糧はある程度を現地調達するのが常でしたが、
朝鮮はそもそも春窮という言葉があるくらい貧しく、
耕作に適する土地が少ないので収穫は期待できません。
戦時には日本・朝鮮・明がそれぞれ徴発したから
ますます何もなくなりました。
たとえ朝鮮南部に限定して支配しても、
長大な国境線を長期にわたって維持するのは
(明側が意図しなくても)焦土戦術となって
かなりの負担で益は無いと思われます。


ちなみに、今の韓国の歴史認識に惑わされて
朝鮮人は果敢に抵抗した事を憂慮する方が多いようです。
確かに住民の反乱はそれなりにてこずりましたが、
日本が漢城に到着した時、国王は逃走し、町は既に焼かれていて
王子二名を捕虜にしたのは朝鮮人の働きなのは有名な話。
碧蹄館の戦いに先立つ第三次平壌城の戦いで
「日本側の戦死者を調べるとほとんど朝鮮人でした」
というオチが朝鮮王朝実録に書いてあるくらい。
  是日天兵當陣斬獲一千二百八十五級、生擒二名、
  竝擄浙江人張大膳、奪馬二千九百八十五匹、
  救出本國被擄男婦一千二百二十五名。
  (中略)
  李如松 平壤之役、所斬首級、半皆朝鮮之民、
  焚溺萬餘、盡皆朝鮮之民
政策さえ誤らなければ統治できなくはないと思います。

文禄慶長の役は征明嚮導とか仮道入明と言われたように、
朝鮮は通り道で秀吉は朝鮮を支配する意志がほぼ無いので
秀吉が朝鮮南部だけ統治するということはまずありません。
ただし、思考実験としての可能性を述べてみます。



文禄・慶長の役で、日本が明の参戦で苦戦に陥って
不利になったのは事実と言えなくはないですが、
文禄の役では碧蹄館の戦いをはじめ、第一次・二次平壌城の戦い
慶長の役では第二次蔚山城の戦い、泗川の戦い、順天の戦い等々
ほとんどの戦いで明(と朝鮮連合軍)には戦術的に勝っていま...続きを読む

Qこの忠魂碑について、 ・人数 ・誰が建てたのか(文字を書いたのか) が知りたいです。 他にもある限り

この忠魂碑について、
・人数
・誰が建てたのか(文字を書いたのか)
が知りたいです。

他にもある限りの情報が欲しいので、知っている方教えてください!
説明のあるサイトなども教えて欲しいです




1番左の石には「明治二十七年八戦捷記念碑」、真ん中の石には「明治三十七八年戦捷記念碑」と書いてあります。場所は、埼玉県大里郡寄居町立原です。

Aベストアンサー

こんばんは。
「明治二十七年八戦」というのは日清戦争、「明治三十七八年戦」は日露戦争のことを指している様ですね。
Wikiで日清戦争、日露戦争で調べると、明治27年、明治37年に戦争が起こったことが分かります。
埼玉県だけでなく、その様な名前の記念碑は他の県にもあちこち、あることがネットで調べると分かりますよ。

分かり易く書かれていた記念碑について書かれているURLが
【引用】広島ぶらり散歩 三役戦捷記念碑(http://yutaka901.fc2web.com/page5esx08.html)
に書かれていました。
埼玉県慰霊碑の情報はこれも引用ですけど、一覧で丁寧にまとめられていました。
【引用】(http://oukanokizuna.web.fc2.com/cyukonhi/cyukonhi-kenbetu-saitama-1.html)

ご参考まで。

Qなぜ戦後の日本人はGHQを疑わなかったのか?

日本は第二次大戦の敗戦後、価値観が180度変わり、旧軍を悪とみなす風潮になったとされています。マスコミも負けた途端言うことがガラッ変わりました。でもそれを疑う人っていなかったのでしょうか?
 日本が負けてから政治もメディアも教育も、GHQの統制下にあることは国民も知っていたはずです。だからメディアがいくら「日本の軍部はこんなに悪かった!アメリカの民主主義は素晴らしい!」みたいなことを言っても、「今のメディアはアメリカに都合の良いことしか言えないよう統制されている。これは占領政策の一環で、国民を洗脳するための陰謀だ。」と疑ってかかるのが普通だと思います。なぜ当時の人は疑わずに180度違う価値観を受け入れてしまったのでしょうか。

Aベストアンサー

でもそれを疑う人っていなかったのでしょうか?
 ↑
勿論おりましたよ。
でも、そうした意見はマスコミが取り上げず
表にでることはありませんでした。
ネットがあれば出たでしょうが。




日本が負けてから政治もメディアも教育も、GHQの統制下にあることは
国民も知っていたはずです。
だからメディアがいくら「日本の軍部はこんなに悪かった!アメリカの民主主義は
素晴らしい!」みたいなことを言っても、
「今のメディアはアメリカに都合の良いことしか言えないよう統制されている。
これは占領政策の一環で、国民を洗脳するための陰謀だ。」
と疑ってかかるのが普通だと思います。
なぜ当時の人は疑わずに180度違う価値観を受け入れてしまったのでしょうか。
 ↑
それを受け入れたのが、日本の支配層であり、
指導層だったからです。
多くの国民は、日本は負けたから悪者にされた、なんて
ことは百も承知でした。
そういう意見は総て封殺されたのです。

では、どうして指導層、支配層は受け入れた
のか。

表面だけ従うように見せておき、米国の
影響が無くなったら元に戻そう、と考えて
いたのです。

ところが、GHQが、洗脳工作に、当時盛ん
だった社会主義者を使ったので、彼らが
マスコミなどの要職に就き、
見せかけが本当になってしまいました。


■1945年7月に作成された対日心理作戦報告によれば、占領軍に友好的な
「自由主義者」として、野坂参三、鹿地亘らの共産主義者を挙げて活用した。

マッカーサーの政治顧問付補佐官であったエマーソンの米上院での証言によれば、
野坂らの提唱で設立された日本人民解放連盟の中国での
日本兵捕虜洗脳教育を対日心理戦に利用できると確信し、
WGIPのモデルとなった。

エマーソンは「日本国内の戦争反対分子を励まし、内部崩壊を早める」
よう提言し実行されたが、同証言で「共産主義の目的についての理解がなかった」
と弁明している。

日米合作の太平洋戦争史観とコミンテルン史観との奇妙な癒着が戦後の
「反日」歴史教育の土壌となり、戦後の「反日日本人」のルーツ、温床となった。

でもそれを疑う人っていなかったのでしょうか?
 ↑
勿論おりましたよ。
でも、そうした意見はマスコミが取り上げず
表にでることはありませんでした。
ネットがあれば出たでしょうが。




日本が負けてから政治もメディアも教育も、GHQの統制下にあることは
国民も知っていたはずです。
だからメディアがいくら「日本の軍部はこんなに悪かった!アメリカの民主主義は
素晴らしい!」みたいなことを言っても、
「今のメディアはアメリカに都合の良いことしか言えないよう統制されている。
これは占領政策の一環で...続きを読む

Q明治時代と一世一元の制について

明治時代は厳密には一世一元の制には入らないのですか。
理由も含めて答えていただけると幸いです。

Aベストアンサー

慶応の時に即位してますが、改元はその時でなく、少しずれて、新政府の発足をきっかけにしてますから。

Q織田信長の城ってどこですか? もう焼け落ちて現存していないんですか? 徳川家康が名古屋城で、豊臣秀吉

織田信長の城ってどこですか?

もう焼け落ちて現存していないんですか?

徳川家康が名古屋城で、豊臣秀吉が大阪城ですよね?

織田信長の城はどこ?

Aベストアンサー

そもそも「信長は安土城」みたいに武将と城が1:1で対応しているわけではありません。
もちろん1つの城にずっととどまっている武将も多数存在しますが、信長・秀吉・家康は複数の城を転々としています。

ちなみに徳川家康は名古屋城を居城としたことはありません。

Q歴史についての質問なのですが、三国協商の加盟国を答える問題でロシア帝国と答えたらバツにされました。そ

歴史についての質問なのですが、三国協商の加盟国を答える問題でロシア帝国と答えたらバツにされました。それで、何故かと質問したらロシア帝国は存在しないみたいな事を言われました。どういう意味ですか?

Aベストアンサー

おかしいですね。

三国協商とはドイツ帝国の勃興に対抗して。イギリス・フランス・ロシア帝国の各国の間で締結された、
露仏同盟・英露協商・英仏協商によって作られた三国の協調関係を指した言葉とされていますよ。

ロシアは第一次世界大戦中にロシア革命がおこりますが、それまでは帝国です。

三国協商(ウィキ)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%8D%94%E5%95%86

Q朝鮮はどうして独立を維持できたのでしょうか。

朝鮮半島を見ていて、いつも不思議に思うことがあります。それは、中国はどうして朝鮮半島を取り込もうとしなかったのか。逆に言えば、朝鮮はどうして独立を維持できたのかという事です。中国が帝国主義であることは紛れもなく、広大な国土に加え、今でも「台湾の独立は認めない」、「チベットの自治は認めない」と言っています。普通に考えれば、朝鮮半島は海に突き出ていて立地条件も良く、何としても手に入れたい土地だと思うのです。独立というのは口で言うほど簡単ではなく、国力がなければできません。力関係で言ったら、朝鮮は中国(清)にとても敵わなかったはずです。朝鮮半島は、かつては百済、新羅、高句麗と三つに分裂していました。なおさら取り込まれ易かったはずです。それを思うと不思議でなりません。よろしくお願いします。

Aベストアンサー

朝鮮は中国の冊封体制に組み込まれた属国の一つで、
独立国のように見えますが、冊封国と言われるものです。
つまり、すっかり取り込まれていたのです。



華夷思想において、中央は高貴なものとされたのに対し、
周辺の地域は東夷・西戎・南蛮・北狄といわれ、
辺境の蛮族扱いされていました。
このような辺境は直接統治より冊封による間接統治が
効率的と考えられていました。
辺境の国家は冊封されないと国として認められないので
多くは交易もできない状況でした。
冊封国は基本的に中国から内政・外交の干渉は受けませんが、
子分になって中国の強い影響下にあることを認めたものです。
詳しくは冊封(国)で調べてみてください。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%8A%E5%B0%81

朝鮮の始祖である太祖李成桂は高麗から王位を簒奪した時に
明に報告すると「王朝が交代したなら国号を改めよ」といわれ、
「朝鮮」と「和寧」のどちらが良いかを洪武帝(明の皇帝)に
選んでもらいました。
朝鮮の国号からしてこのような状況です。
また、朝鮮は国王の交代があっても中国の事前承認を重視しました。
拒否した実例はありませんが、中国の許可なく王になれなかったのです。
これは朝鮮だけで、冊封国には越南(ベトナム)や琉球も含まれますが、
他の冊封国は自分たちで国王を決めてからの事後承諾でした。
近年では朝鮮最後の皇帝(注:独立後大韓帝国を名乗りました)である
純宗が立太子の時(皇太子への就任)認めてもらうために
清との交渉が行われました。

冊封国にも序列があり、王の服の色や描かれた竜の数などで表され、
朝鮮の序列は低くはありませんでした。
しかし、東北の金(後金)を下位にみていたため
明が衰え金の勢力が強くなっても明の庇護を頼りに
強気で臨んだため丁卯胡乱と丙子胡乱で完敗し、
三田渡の盟約で清の属国であると認めさせられ、
皇帝ではない清からの勅使に対しても
(朝鮮)王が三跪九叩頭の礼により迎えました。
ちなみに、三跪九叩頭は1度ひざまずいて3回土下座を3セット
都合9回土下座をするもので、清の皇帝が臣下にさせた儀礼です。
余談ですが台湾出兵の後始末で日本の使者が皇帝に対するとき
皇帝への儀礼として要求されましたが拒否しています。

朝鮮が清の冊封から脱したのは日清戦争の結果で、
下関条約の第1条は清からの独立を認めさせるもの。
一般の方にも読める「朝鮮紀行」(講談社学術文庫)には
この時に無理やり独立することで清の庇護下から解放させられて
ガクブルの高宗の様子が書かれています。(P319~P341 )

現在の韓国では、属国ではなく「兄弟国」という表現が多いのですが、
実際には壬午軍乱(1882年)の後始末で真に結ばされた
「中朝商民水陸貿易章程」でも属国であることが確認されました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9C%9D%E5%95%86%E6%B0%91%E6%B0%B4%E9%99%B8%E8%B2%BF%E6%98%93%E7%AB%A0%E7%A8%8B

朝鮮が冊封国を維持できたのは、清による虎の威を借りたから。
現在の韓国の国旗である太極旗の原型(諸説あります)は、
1882年に訪日使節団が使ったものです。
そこには日本になめられないように「大清国属」と書かれ、
清の支配下にあることを自称していたことがわかります。



現在の中国がチベットなどを侵略するのは
現代において価値があるから。
紛争で注目される尖閣諸島も、1970年代に国連の調査で
海底資源が指摘されるまで無関心どころか
国の機関紙に日本領と書いていたくらいです。
価値があって与しやすいと思われれば侵略されます。

朝鮮は中国の冊封体制に組み込まれた属国の一つで、
独立国のように見えますが、冊封国と言われるものです。
つまり、すっかり取り込まれていたのです。



華夷思想において、中央は高貴なものとされたのに対し、
周辺の地域は東夷・西戎・南蛮・北狄といわれ、
辺境の蛮族扱いされていました。
このような辺境は直接統治より冊封による間接統治が
効率的と考えられていました。
辺境の国家は冊封されないと国として認められないので
多くは交易もできない状況でした。
冊封国は基本的に中国から内政・外交の干渉...続きを読む

Q平成初期、末期で携帯電話、ゲーム、車、PC等、さまざまな技術の進化がありました。 ですが江戸時代は鎖

平成初期、末期で携帯電話、ゲーム、車、PC等、さまざまな技術の進化がありました。

ですが江戸時代は鎖国の影響もあり、初期と末期ではあまり違いが見られません。農作業道具等、少しは進化していたのだとは思いますが、実際どの程度進化していたのか気になります。現代に例えると、2008年と2018年の10年間の進化くらいらでしょうか?

だとすると、仮に1850年に住んでる人が1650年に行ってもすぐ生活に馴染めるんですかね。

Aベストアンサー

江戸時代初期の、一人当たりGDPは5百ドルぐらいです。

それが末期だと740ドルぐらいになっています。

だから、1,5倍程度の技術進歩があった
のでしょう。




2008年と2018年の10年間の進化くらいらでしょうか?
  ↑
これだと10%にも満たないです。

一人当たりGDPで1,5倍を計算すれば
2018年と1987年程度の違いになります。

Qもし明治時代にタイムスリップしたら今の人が使ってる言葉の何割くらいは通じますか?6、7割はいけますか

もし明治時代にタイムスリップしたら今の人が使ってる言葉の何割くらいは通じますか?6、7割はいけますか?

Aベストアンサー

明治の初めと終わりでは全然事情が異なります。 明治初期の日本語は各地の方言だけで、統一された日本語(標準語)はありませんでした。 明治政府は、アメリカやヨーロッパの進んだ文明に対抗するため、全国を統一し、急いで国力をつける必要があると感じていました。 新しい国をつくるには、教育が重要となるため、日本中同じ言葉で教科書をつくって教育ができるように標準語作りが国家事業として推進され、明治36年には教科書が固定化されました。 ただし、実際に標準語が全国に浸透するのは、大正14年にラジオ放送が始まってからになります。 よって、明治初期には現代の言葉のせいぜい3割、明治後期で6-7割程度は通じるということになるんじゃないでしょうか。


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