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説明できることですか?

質問者からの補足コメント

  • 散逸構造の理論は 人文・社会科学の分野としては ケ・セラ・セラと
    〔安心して言えると〕言っていますか?

    単純に運命のさだめのごとく決まった単一方向にのみすすむかたちで 
    ほろびることはないと。

    No.1の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/02/17 08:50
  • ★ 人文科学は以前の主張を修正しながら発展してきましたが、自然科学
    は以前の主張を拡張しながら発展してきた。・・・

    ☆ ニュートンを――まるきり否定してではなくそれを――超えてアイン
    シュタインが出て来たという話は 承知していたのですが。

    ★ 自然科学の発展は以前の理論が間違っていたことを示すことではなく、
    以前の理論を内包するように拡張してきたところにあります。
    ☆ という事態の一般性について 認識不足でした。おそわりました。

    ★ ですから、今後自然科学がどんなに発展しても、以前に論じらていた
    理論の適用限界内の現象は、その説明が間違っていたということにはなら
    ないように、自然科学は発展して行くのです。

    ☆ デカルトとやらが 精神と身体との分裂をつなぐ松果腺がどうのこう
    のという説を発表したというのは 理論ではなくまだ仮説の段階であった
    という捉え方をするということですね。

    No.7の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/02/17 13:53
  • №19つづき

    ★ だから、ケ・セラ・セラで出来てくる複雑な構造という最も本質的な部分
    を強調して「散逸構造」って名付けられたんだ。ここでの会話の成り行きだっ
    たら、「ケ・セラ・セラ構造」って呼んでも良いね。

    ☆ たぶん哲学としては 《成るように成る / 成るべくして成る》構造〔過程〕
    に棹を差しつつ しかもその同じ流れを 人間として・人間のチカラで演出する
    ことが出来るか? という問題に究極としては行き着くでしょうね。


    なにせ:
    ▲ わたしは 命を捨てることもできるし ふたたび命を得ることもできる。
    ☆ なんて言った人間がいたのですから。

    とんでもない飛躍ですが。

    散逸を統合する主体・・・といったイメージですかね。

    No.19の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/02/18 23:14

A 回答 (28件中1~10件)

>ケ・セラ・セラと言っていてよい確率は ふつうの人間のけんかだとか社


会的対立の場合に 50%を超えるのですか? それとも もっと少ない
のですか?
あるいは ケースバイケースの多様性があり過ぎますか?

質問の意味が、もう一つしっくりと判らないんだけど、ケ・セラ・セラ(What will be, will be、なるようになる)から来る、私の反応を書いておきます。

我々が複雑な構造と言うときにその言葉で表されているものに、その出現の根拠が全く違った2種類のものがある。その一つは、精密で巨大な振り子時計や昔のゼンマイ仕掛けの腕時計(ルビーの石が入っていて、何ルビーの腕時計なんて言ってたあの懐かしい腕時計)の内部や、からくり人形の内部のような複雑な機械の構造。もう一つは、生物の体の内部の複雑な構造だ。

この二つの間の決定的な違いは、時計など前者の構造の出現には、まずそれが何故作られたかの目的が前もって与えられており、さらにその目的を追考するために、その機械の外部にある者が目的や設計図に沿って作り出された複雑な構造であるのに対して、後者には、そんな目的もそれを作る外部の者も、そして前もって与えられたシナリオもなく、外界のと成り行きに任せて、擦った揉んだしながら、すなわちケ・セラ・セラってな具合に自発的に発生した複雑な構造だ。この成り行き任せで自発的に創出された複雑な構造のことを物理学では「散逸構造」って呼んでいる。

前者と後者の際立った違いは、前者は外部からのいろいろな障害や状況の変化に大変脆いのに対して、後者はそれらに対して頑強な抵抗力があることだ。何故なら、後者は外部との予期せぬ(従って確率的に起こる制御不可能な)いろいろな状況との相互作用で、成り行きに任せながらケ・セラ・セラてな具合に収まるところに収まるようにして、自発的に出来上がってくる。ケ・セラ・セラとその状態に留まっているのが(少なくとも局所的に)一番安定していることが理由で出来上がってきた構造だから、その状態を外部の者が無理やりズラしてしまっても、再びその安定状態に自発的に戻ってしまう。すなわち、自己修復の機構を持っているんだ。さらに、元々その構造が何のためにそこにあったのかなんてな目的が始めから無いんで、なんとなくそんな目的でも有ったつもりでいたのに、状況が変わって、その目的がなんだかわからなくなってしまっても意に介せずに存在し続けられる。ところが、前者には自己修復の機構もなく、また状況が変わって目的がなくなったら存在している意味すらなくなってしまうから、外部からのいろいろな障害や状況の変化に対して大変脆いんだ。

んで、さらに制御不可能な環境から、どのような仕掛けでそんな複雑で無目的な構造が自発的に創出できるのか、その条件は何かってな問題が当然浮かび上がってくる。それには3つあって、1)開放系であること、2)非線形効果が無視できなくなってしまうぐらい熱平衡状態から十分離れている「非平衡状態」にいること、3)一旦偶然に出来上がった構造を破壊するように制御不可能な形で外部から飛び込んできた要素をいつまでも覚えているんじゃなくて、その要素を「散逸」させて忘れさせてしあう仕掛けがあること、この3つだ。

あたしゃ、この文脈で「非平衡」って言葉使っているんで、ブラブラさんのこの言葉の用法とは違っているいみたいだね。

この3つの条件の中で数学的に一番面白いのは2)の非線形性だ。でも、物理的にもっと面白いのは3)だ。情報の散逸が起こるということは時間の向きの対称性が破れているってことだ。さらにその現象を数学的な方程式で書く場合、決定論的な微分方程式ではなくて、確率変数の従う非決定論的確率論的微分方程式になってしまう。だから、この宇宙って決定論的にできているのか、それとも非決定論的にできているのかという、物理学の最も基本的な問題に絡むからだ。

要するにケ・セラ・セラってえのは、神様がいるのかいないのかってな問題に絡み出す。だから、ケ・セラ・セラで出来てくる複雑な構造という最も本質的な部分を強調して「散逸構造」って名付けられたんだ。ここでの会話の成り行きだったら、「ケ・セラ・セラ構造」って呼んでも良いね。

今回は、ブラブラさんが、あたしの得意なケ・セラ・セラってな言葉を的を射て使ってたんで、今回はあんたを揶揄うのをやめて、あたしからぬ真面目な反応をしたんだ。いつもと違って、気持ち悪かっただろう。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

まづかんたんなところから:
☆☆ 非平衡
☆ と言ったのは わたしが自然科学の素養が 専門家からは言うにおよばず
理系の人たちからも――遺憾ながら―― 埋めがたいへだたりがあるという意
味です。

★ 今回は、ブラブラさんが、あたしの得意なケ・セラ・セラってな言葉を的
を射て使ってたんで、今回はあんたを揶揄うのをやめて、あたしからぬ真面目
な反応をしたんだ。いつもと違って、気持ち悪かっただろう。
☆ わたしは 自分で言うのもなんですが 接触面でいろんな驚きや怒りをも
見せますが その本体は 動揺していません。今回 特に違った受け留めはな
かったですね。むしろ つづくかどうか。どこまで続けて行けるかに関心があ
りました。

たぶん ほかの《読者――フォロワーですか――》が どんな印象を受けたか
を聞いてみたい感じですね。



★ 生物の体の内部の複雑な構造だ。

★ この成り行き任せで自発的に創出された複雑な構造のことを物理学では
「散逸構造」って呼んでいる。

★ 条件は・・・3つあって、
1) 開放系であること、
2) 非線形効果が無視できなくなってしまうぐらい熱平衡状態から十分離れ
ている「非平衡状態」にいること、
3) 一旦偶然に出来上がった構造を破壊するように制御不可能な形で外部か
ら飛び込んできた要素をいつまでも覚えているんじゃなくて、その要素を「散
逸」させて忘れさせてしあう仕掛けがあること


★ 数学的に一番面白いのは2)の非線形性だ。でも、物理的にもっと面白い
のは3)だ。

★ 情報の散逸が起こるということは時間の向きの対称性が破れているってこ
とだ。
☆ これは 素人ながら おもしろそう。時間が逆流してしまう?

★ この宇宙って決定論的にできているのか、それとも非決定論的にできてい
るのかという、物理学の最も基本的な問題

★ 要するにケ・セラ・セラってえのは、神様がいるのかいないのかってな問
題に絡み出す。
☆ ふむふむ。

つづく

お礼日時:2019/02/18 23:05

定義というか与える条件です。

人が滅びることは、客観的には死以外にはあり得ない。
死をいやと思うのは概念を伝えたまでで程度について言及していません。
他者の死を受け入れる事ができなければ自分の死を受け入れることもできないはずです。しかし、他者の死を受け入れる方法を誤っていた場合、自分の死を受け入れることはまずできないでしょう。それは個人の哲学に依存します。絶対的な悪いことがあるとすればそれは、時間が経過しても絶対的な方法で人の死を受け入れられていない場合です。もちろん、人の死は悪いことで、それは嫌と思うからです。その感情が必ずしも正しくないと思えたとき、それが世の中で起こりうる他の悪いことと全く同じ相対的な悪いこととして人の中で解釈(変換)されます。つまり、起きたばかりは絶望するので、死が絶対的な悪でないというのは確かに微妙な問題ではあります。ですが、それによって自らの意志までもがないがしろにされある程度の時間が解決しない場合、その人の思考体系に問題があると思われます。
人間性と言った時点で芸術です。真善美は実は相容れないのです。引きこもりの人も、麻薬中毒者も、殺人鬼も皆実存的には一人の人として成立しているはずです。もし、そこに何らかの価値(+,-)を見出すのであれば、それは他の一人の好き嫌いに他なりません。こう生きた方がいい(好き嫌い)という形はない訳ではないが、それは例えばあなたと私でも異なるはずで、人類全体の意思として総括することは誤りに繋がります。また、根本的に私が考えているのは、滅びた のではなく、その人の生き方で生きているだけだというだけで、自殺間際の人でも滅びかけなだけで滅びてないと思います。
サイコパスが滅びていないという個別の事例に対して議論することが哲学だとは思っていません。つまり、どのような場合にも対応できる言葉が哲学では。
滅びるという言葉の響き、音がどうしても絶対的なイメージを連想させるため、必ずしも多数決が絶対とも思っていない私は、この意味でその言葉を使いたくはありません。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 定義というか与える条件です。
☆ 十分条件をも満たしていれば ひとまづ定義は成っているかも分かり
ません。

★ 人が滅びることは、客観的には死以外にはあり得ない。
☆ という一つの見解なのだと見ます。それで サイコパスを例に出しま
したが コミュニケーション不能であれば あたかも《ほろびている》と
言えるという見解もあるのではないかと。

★ 死をいやと思うのは概念を伝えたまでで程度について言及していませ
ん。他者の死を受け入れる事ができなければ・・・
☆ ご見解の復唱を省略しましたが。そうですね。《死=ほろびる》とい
う見解の場合は はっきりしています。話が早いです。そのものずばりを
答えとすれがよいわけです。

そして それとして誰もが受け留めることになります。

ということは ここでは ほかに別の見解はないか? と実際には問うて
いることになります。どうでしょう?

つまり 別の見解はない。あっても これこれの理由でそれは間違いだと
示してくれるなら ありがたいわけです。

あるいはつまり 別の見解としては 死は自分のも他人のも難なく受け容
れるが ほろびることは いやだ・成りたくないという場合もあるかも知
れない。


★ 死が絶対的な悪でないというのは確かに微妙な問題ではあります。
☆ たぶん そうではなく 死んだなら もう意志の錯乱としてのほろび
は 治すことができなくなる。――という単純な事態を言ったまでです。


★ 人間性と言った時点で芸術です。真善美は実は相容れないのです。引
きこもりの人も、麻薬中毒者も、殺人鬼も・・・
☆ ですから 死≠ほろびる という見解の場合は 話し合いが成り立た
ないということをもって その立ち場に立つわけです。真善美の議論など
とは別だと見ているわけです。

★ サイコパスが滅びていないという個別の事例に対して議論することが
哲学だとは思っていません。
☆ こちらにとっての問題点は はっきりしています。《話し合いが成り
立つ》かどうかです。これを問題とするなら ほろびるについての別の見
解がみとめられるかも知れないと。

そして そのような意思疎通の不能というのが 不可抗力によって生じた
のではなく あたかも自分からそうなった――という場合に ほろびたと
言えるかも知れないと。

お礼日時:2019/02/22 10:47

サイコパスはもう人が滅びているかもしれない


それは説明不足でしょう。通常、人が滅びると言えば死を連想するでしょう。
人の死が絶対的に悪いことではないのは、つまり、もちろん相対的には悪いことであって、それは産まれながらにして我々人間が備えている いやだな と思う感情に起因します。因みに、なぜそれがいやと思うかは考えても無駄です。それを許してしまうと、無限のなぜが生まれるので、人間の短い一生の内でそれらの答えに辿り着くことは不可能だからです。しかし、これらの悪いことは人はなんとかして受け入れることができます。対して、絶対的な悪いことは人は受け入れることができません。これは観測者としての神が、人間を宇宙という檻に閉じ込めている(と考える)ならばです。
あなたは 人が滅びる という言葉を、人の本来の性質がそこなわれるということの意味で使っているということですが、それはあなたに人の本質はこうあるべきという思想があるからではないでしょうか。もし、全人類が犯罪の思想に満ちていたらならば、それが人間の真実なだけではないでしょうか。全ての人間の行う全ての正のフィードバックも負のフィードバックも、言うなれば全て人間の本来の姿ではなかったのですか。私は、この場合、滅びるという言葉の定義があいまいか、誤解を与えるのではないかと思います。なぜなら、私は、サイコパスはまだ人として滅びていないと思っているからです。私が思う適切な表現は、少数派であるということです。周りの全ての人がある人を滅びてるね君と言ったとして、本人がまだわい滅びてないよと言ったら、誰がその人が滅びてることを証明しますか。もちろん、本人が自分のことを滅びていると言った場合に本当に何か精神的に侵されていたりしたならば、それはこの意味での滅びていると言うに相応しいと思いますが、それはおそらく当人にしかわからないことです。そして、そうであるならばそれは必ず悪いことであり得ます。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ サイコパスはもう人が滅びているかもしれない
それは説明不足でしょう。通常、人が滅びると言えば死を連想するでしょう。
☆ つまり 《死ぬ》とは別の《ほろびる》の事例として まったく安易に
出してみただけです。


★ 人の死が絶対的に悪いことではないのは・・・
☆ 意志や心や気持ちが完全にないがしろにされるのは ほとんど死です。
そして 存在じたいが消えることは 意志の死をふたたびよみがえらせる
機会すらが 奪われます。

つまり ひとの一生がすでに無になります。だったら 人の死は その一
生まるまるにとって絶対的だという意味を持ちます。


★ 産まれながらにして我々人間が備えている いやだな と思う感情
☆ どころの話ではないと思われます。

★ しかし、これらの悪いことは人はなんとかして受け入れることができま
す。
☆ 一生が消えてなくなっていても ですか?

存在の無化は:
★ 観測者としての神が、人間を宇宙という檻に閉じ込めている(と考える)
☆ どころですらないはずです。


★ あなたは 人が滅びる という言葉を、人の本来の性質がそこなわれると
いうことの意味で使っているということですが、
☆ それは あるでしょうね。

★ それはあなたに人の本質はこうあるべきという思想があるからではない
でしょうか。
☆ いや。述べて来ているように 生きてゆけず人間性を活かすことができ
なくなるのを 惜しむのです。

★ もし、全人類が犯罪の思想に満ちていたらならば、それが人間の真実な
だけではないでしょうか。
☆ その仮想は 起きてみなければ分かりません。


★ この場合、滅びるという言葉の定義があいまい
☆ ですよ。そうですよ。まだ定義を得ていないのです。事例や必要条件を
考えたまでです。

★ 私は、サイコパスはまだ人として滅びていないと思っている
☆ あっ それでしたら その話をお聞かせください。

★ 本人が自分のことを滅びていると言った場合に本当に何か精神的に侵さ
れていたりしたならば、
☆ ううーん。サイコパスを例に出しましたが まだこれでは 何とも・・
ですね。

★ そして、そうであるならばそれは必ず悪いことであり得ます。
☆ 良い悪いよりも コミュニケーションの不能とか要因を出して欲しいで
すね。

お礼日時:2019/02/22 03:16

人が滅びる=人類が絶滅する。


もし、説明が不充分というのなら、人が滅びることがこの宇宙の中で何か特別なことであるとでも言うのでしょうか。つまり、人の精神がその言葉とどう対峙しているか、していくべきかというところに踏み込んだ質問なのでしょうか。そうであれば、それは個人の思想や哲学に依存すると思います。私自身は究極には人がこうあるべきとも思ってないですし、こうあるべき人は個々の人間が作り上げていくものだと思っているので、例えばあなたが犯罪を犯そうが私自身はそれを史実として受け入れることができます。もっというと、一匹の犬が死んだことと2人の少女が亡くなったことは、どちらも単なる死として認識できます。ですが、例えば犬は事故で死んで、少女2人はある男に銃殺されたとすると、ここでその少女たちの外部に犬の時とは何か別の感情を見出したくなると思います。もちろん、少女たちも犯罪によって“滅び”たので、そういう意味では犬の死と同じ死として認識することはできますが、思考実験として、もし2人の人間ではなく、70億の人間が犠牲になっていたとしたら、これは我々が普段経験し許容可能な確率の上に成り立つ事象、いわゆる自然の現象からは大きくかけ離れることになる、このことが一瞬間私の我々の脳裏に過るのです。したがって、一口に人が滅びると言ってみても、それが隕石によって絶滅したのか、核戦争によって滅びたのかというところで、若干ですが私の人が滅びるに至っての感情は異なります。しかし、その場合にもそれらの死は、多くの生命体と近しい者の死として抽象化されて私の記憶の一部になり、宗教などそこから逃れる術を模索するようなことはないでしょう。究極の実存であり、絶対的な悪いこととして認識することはおそらくありません。私のこの哲学の奥にある心理学的要因は、おそらく、宇宙がほとんど際限なく続いているのでこの世の終わりというにはかなり些細な現象だからだと思います。つまり、私は無心論者を名乗っていながら、無意識のうちに宇宙全体を信仰していたということです。ただ、私が汎神論者ではないことは明らかです。その理由は単純で、私は人が自分意外の何者に動かされている訳でもないと信じているし、この宇宙が神の意志で成り立っている必要性を感じないからです。また、宇宙の消滅の方法が自然ならばそれを受け入れることができます。と今は思っています。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 人が滅びる=人類が絶滅する。
もし、説明が不充分というのなら、人が滅びることがこの宇宙の中で何か
特別なことであるとでも言うのでしょうか。
☆ はい。つまり いわゆる《死ぬ》と同じかどうか。これが 知りたい
ところです。同じではないとすれば それは どういうことか? です。


★ つまり、人の精神がその言葉とどう対峙しているか、していくべきか
というところに踏み込んだ質問なのでしょうか。
☆ あっ。そういう捉え方もありますか。でもそれは いちおう《死ぬ=
ほろびる》という前提は 同じですよね。

乱暴な言い方をすれば 《サイコパス》は もう《ひとがほろびている》
かも知れない。というような感じです。

★ 少女2人はある男に銃殺された・・・もちろん、少女たちも犯罪によ
って“滅び”た
☆ 間違いとは言わないでしょうが でもふつうは言いませんよね。《ほ
ろびた》とは。

犯罪者どうしが 殺し合って《ほろびた》とは言うかも知れません。


★ 一口に人が滅びると言ってみても、それが隕石によって絶滅したのか、
核戦争によって滅びたのかというところで、若干ですが私の人が滅びるに
至っての感情は異なります。
☆ そういった事例も ほろびるにはありますね。


★ しかし、その場合にもそれらの死は、多くの生命体と近しい者の死と
して抽象化されて私の記憶の一部になり
☆ ですか。表現として 死ぬことが ほろびるとも言い表わされること
がある。という程度ですかね。

★ 究極の実存であり、絶対的な悪いこととして認識することはおそらく
ありません。
☆ ん? ということは ほろびるには 何がしか《よくないこと》と結
び付けられている。のですかね。


★ 私は人が自分意外の何者に動かされている訳でもないと信じているし、
この宇宙が神の意志で成り立っている必要性を感じない
☆ というように 《神》にかかわって《ほろびる》という概念があるか
も知れないってことですかね。 ハドスン夫人さんは そうではないと。死
を神にからめて捉えることをしないからと。

お礼日時:2019/02/21 22:12

ShowMeHowさんのおっしゃっていることは、系が開放系でなく、すなわち孤立しており、かつ熱平衡状態に近い状況で非線形効果が効いてこない場合には、正しいことですね。



でも、この地球はShowMeHowさんのおっしゃっている状態にはない。事実、地球は太陽から熱をもらっているから開放系です。さらに、太陽に向かった地球の面は常に温められ、反対側は常に冷やされているので、その熱の出入りで、熱平衡状態から十分に離れた非平衡状態に保たれている。そして百億年のオーダーの時間スケールで地球は非平衡定常状態でいられる。そんな状態が保たれている限り、地球の上で生成されたエントロピーは地球外にどんどん放出されていき、地球全体ではエントロピーが増大せずに、その反対に低エントロピー状態に進化しているのです。

その太陽からの熱の流れの結果として、大海にはカリフォルニアの沖で南下し日本沖で北上する巨大な海流が現れ、さらに、深海と海面付近の間でも地球規模の巨大な対流が流れている。地球はとても熱平衡状態に近い状態だと言えない状態に保たれているのです。要するに地球は非平衡熱力学で言う散逸構造系の典型的な事例なのです。

そもそも、地球がShowMeHowさんのおっしゃっているような孤立系で、さらに熱平衡状態に近かったら、この地球上では生命現象すら創出されず、ShowMeHowさん自身がこの地球上に出現できなかったのです。

ですから、太陽が今の状態に保たれていて、あと数十億年後にその太陽が赤色巨星になる最終段階に至ってこの地球が太陽に飲み込まれてしまうまで、この地球は均一化されず、その反対に益々非均一化され、多様化されて進化していきます。

人間社会一つとっても、一見エントロピー増大の法則と矛盾していると勘違いしてしまうように、初めは単純で原始的な社会構造をしていたものが、複雑で多様性を内包した非均一な社会になり、だから、エントロピーが減少して方向た進化してきましたね。しかしこの現象は決してエントロピー増大の法則と矛盾している訳ではありません。上に述べたように地球が開放系であり、エントロピー増大の法則に従って増大したエントロピーを地球外部に放出することによって、地球という部分系でエントロピーを低い状態に保っているのです。

でも、その放出されたエントロピーで宇宙全体のエントロピーが差し引きで増加してしまうので、結局宇宙全体は均質化に向かって滅びてしまうんのではないかとの反論が出てくるかもしれません。しかし、この反論は熱力学の成り立つ根拠を理解していない人から出てくる反論です。

熱力学の成り立つための最も基本的な条件は、その系の大きさを大きくすると、その系全体のエネルギーもその系の大きさに比例して大きくなるようにその系ができている条件を満たしていることです。そして重力を除いた残りのすべての力によってその系の内部が支配されている限りには、その条件は満たされていることが知られています。しかし、重力だけはその例外で、重力が物理学の専門用語で「長距離力」と呼ばれる特殊な力であることから、上記の熱力学の成り立つための最も基本的な条件を満たすことができないのです。

だから、重力の役割が無視できるほど小さい、例えば太陽の周りの恒星間の距離の数倍程度の限られた領域では熱力学の法則が成り立っていますが、恒星間の距離の数十倍とか数百倍というもっと大局的領域で、星雲ができるようになってくる大きさのスケールでは、最早熱力学の主張が成り立たなくなってきます。ましてや宇宙全体のスケールでは熱力学の法則が成り立っていません。

実際、エントロピー増大の法則の力学的根拠を与えているボルツマン方程式と呼ばれている方程式は、短距離力と呼ばれている力で相互作用をしている通常の気体系では成り立っていますが、重力の相互作用を通して多大な恒星の集団に出来上がってくる星雲に対しては、このボルツマン方程式は成り立たないことが知られています。

だからエントロピー増大の法則は、重力のおかげで宇宙全体としては成り立たなくなるっているのです。いわば、重力が宇宙の大局な領域が熱平衡状態に行こうとするのを妨げているのです。ですから、時々物理の教科書に書かれているような、この宇宙は大局的に見て時間とともに均一化されて行く、という主張は間違いです。この宇宙は大局的に見て均一化されて行くのではありません。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

ShowMeHowさんは 自由にやり取りされましょう。




とんでも話ですが:
重さは 意志。心のヱクトルがはたらくところ 顔無しのような
のっぺらぼうにはならない。????

お礼日時:2019/02/19 21:31

「ほろび」とは「いのち」の終焉


「いのち」とは情報の集約でエントロピーを低下させる

人の遺伝子も意識も継承されるが
時間とともに均一化され、「ほろび」に至る
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

○ エントロピーを低下させる・いのちの遺伝子が それとして
継承されつつも 均一化されることによって いのちは終焉をむ
かえる。

☆ ってことですか。

なぜ《均一化》するのですか? 
そうなるしかないということですか?

お礼日時:2019/02/19 10:43

すべてが均一化したとき


人は完全にほろびる
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この回答へのお礼

ふうーむ。

★ すべてが均一化したとき
☆ のっぺらぼうが社会の隅々にまでわたって流行るということ
ですかね。

顔無しになる。



ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2019/02/19 10:04

ブラさんにはプラチナの勝ちがあるってことですよ♡

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この回答へのお礼

HEHEHEHEHEHEHE・・・



ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2019/02/19 10:02

このスレッドの価値は猪突さんが主成分です。


ブラさんは触媒。
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この回答へのお礼

HAHAHAHAHA・・・



ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2019/02/19 08:48

序でに言っておくと、共産主義やソ連の社会主義の計画経済のやり方は、いわゆる「賢人」たちが世の中のあり方の目標を定めて設計図を作り、そのその設計図に従って、経済活動に携わってる本人じゃなくて、その外部からああせいこうせいと命令を出して行くやり方だ。

それは丁度、人間の活動も精密な時計仕掛けのようなものだという考え方だ。しかし、そんな形で出来上がってきた構造は、外部の状況の変化や、その計画経済の成果として富が蓄積してきてその内部の状況が変わってくると、それに耐えられなくなって自己崩壊してしまう。

それに対して、自由主義経済のやり方は、別に目標など立てずに、その社会の膨大な構成員のバラバラな考え方に任せて、ケ・セラ・セラで成り行きに任せちまおうってやり方だ。そんなやり方で自発的に創出された構造は、前回に説明したように、外部内部の状況の変化に対して頑強な抵抗力がある。それどころだ、その状況が変化したら、またそれに合わせて収まるところに収まるように変化して行く仕掛けが内部にある。

だから、計画経済の下で一時期一見眼を見張る発展を遂げているように見えても、所詮、その本質的な脆さのゆえに、そんな構造は長続きしない。最近の中国では、部分的に自由主義経済のやり方を取り入れたお陰で、ソ連よりも効率良く経済を発展させたように見えるけれども、所詮「賢人」の指導者たちが、ああせいこうせいとその経済活動に制限をつけながらやっているので、近いうち内部崩壊してくるのが見え始めている。

このように、なぜ計画経済が自由主義経済よりも脆ろかったのかという歴史的事実は、散逸構造の理論の一つの応用例として理解することができる。

もちろん、自由経済にも欠点はある。なんせ、目的も設計図もないんだから、なんとなく行き先はわかっているんだが、その行き先にいくつもの選択肢があって、その選択が成り行きに任せて決まってくるので、そのどの選択肢が選ばれるのか前もって何もわからない。だから、経験の未熟な若い連中にとっては、理詰めで選択されたバラ色の行き先を前もって提示してくれている計画経済の方がわかり易くて、ついそちらに流れていってしまう傾向がある。

しかし、人間の今までの痛い経験では、賢者に任せた計画経済の失敗続きで、結局、先は良く見えないけど、人々を信用して、その近視眼的な欲望の成就と長期的な自己コントロールの知恵に任せて、好きなように経済活動をやらせてきた自由主義経済の方が、大局的に見てより多くの人々を満足ことが実証されてきた。

要するに、「人間はどうあらねばならぬ」という理念的な問題提起よりも、「実際の人間はどうあるのか」という科学的な問題の提起の方が、より生産的に人々を満足させてきたっちゅうのが我々の経験で知ったことだね。

事実、科学の進歩で一番重要な寄与は、世の中を便利にしたり、より多くの人々に富を享受できるようにしてくれたことではない。そうではなくて、どんな僻地に住み、どんな貧しい家に生まれて来ても、その人々に教育の機会を与えることを可能にしてくれたところにある。その結果、幸運にもごく限られた権力者や裕福な家に生まれて、教育を受ける権利を独占してきた少数の人間が「人間はどうあらねばならぬ」なんて言いながら、残りの大多数の連中の生き様のあり方を決定していた状態から人々を解放してくれるようになった。そして、その残りの大多数の人々にもこれから来る社会のありように関して、その意志決定に参加できるようにしてくれたのが、科学の一番の功績だ。

だから、科学の発達は、多くの人たちに自分の人生を自分で決められるようにしてくれたんだ。これって、「人間はどうあらねばなぬ」という理念ではなくて、「実際の人間はどうあるのか」という事実を問い続けてきた科学の結果得られた成果なんだよね。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ ソ連の社会主義の計画経済のやり方は、いわゆる「賢人」たちが
世の中のあり方の目標を定めて設計図を作り、そのその設計図に従っ
て、経済活動に携わってる本人じゃなくて、その外部からああせいこ
うせいと命令を出して行くやり方だ。それは丁度、人間の活動も精密
な時計仕掛けのようなものだという考え方だ。・・・
☆ 時計仕掛けという切り口は 新鮮で分かりやすいですね。

コミュニズムは 別の一面を持っています。ソ連のソウシャリズムは 
共産主義社会への段階の飛び越しによって出来たという弁明です。

キャピタリズムによってじゅうぶん産業が発達し 生産物=消費財に
ゆとりが出来た段階から ソウシャリズムそしてコミュニズムに入っ
て行くと。

そのときには――そのアカツキにはという常套文句ですが―― 社会
の誰もが自由で主体性をもって 経済活動をもおこなう。という議論
としての反論を持っているでしょう。

言いかえると 話を端折りますが コミュニズム理論は あたかも散
逸構造の理論の出来損ないのようなものかも知れません。バラ色の未
来を人びとに見せました。

そんな感じでしょうか。


あとは このスレッドをおとづれる方たちの閲覧におまかせするとし
ましょう。






屁理屈によるへんなおまけの議論をしますと:

★ 「実際の人間はどうあるのか」
☆ の探究とその成果によれば:
★ 「人間はどうあらねばならぬ」という理念的な問題提起
☆ をおこなわないか?

つまり 《人間はそして社会は どうあってはならぬ》といった提
案をするのか。しないのか?


中国共産党の独裁制とその覇権主義なる路線。
王道ではなく 覇道以外の何ものでもない思想。

これを観察する・・・に――むろん抵抗はしつつ――とどめるのか? 
それとも たとえば《開放系》であれ! と叱責し譴責するのか?

ケ・セラ・セラなる道には 他者へのハタラキカケという行動は 
視野に入っているのか・いないのか?

われわれの外部で・また外部から 制御不可能なほどの困ったこと
が起こっているし 起こされている。

いま 当面している問題には 散逸構造の理論は どんな回答を繰
り出すか?

お礼日時:2019/02/19 05:02

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Q哲学カテ界隈で話が噛み合わない現象が起きるのは何故だと思いますか?

タイトル通りです
自分で色々考えてますがたまには
他人の意見聞いてみたくなったので質問しました

私個人の現在の考えでは
「質問という体で問いかけしてるが
実際は(質問者にとって)優秀な弟子、賛同者が
欲しいだけなんとちゃうかな」
って考えが主流となってますね

「話が噛み合わない現象なんて起きてないよ!」
って思う人はこの質問スルーしてください
尚、この質問は哲学的な問答を求めていません
アンケートみたいなものです

Aベストアンサー

>私個人の現在の考えでは
「質問という体で問いかけしてるが
実際は(質問者にとって)優秀な弟子、賛同者が
欲しいだけなんとちゃうかな」
って考えが主流となってますね

顕著ですね。
基本的に素人の集まりにすぎないので、質疑を交わすこと自体が問題を次第に掘り下げていく形になる場合が多いと思います。
持論を述べるのはむしろたたき台として必要なわけですが、しかし、賛同者を求めるのが目的の人は、その過程を重視せずに、相手を持論に引きずり込むことだけを考えている。
最初から質問が目的じゃないので噛み合うはずがない。

そういった輩と、真摯に何かを探求しようとする人との違いは、論理的な根拠を示しつつ持論を展開しているかどうか、という点。
賛同を求める乞食の輩は、論理的な根拠が提示できなくなると、強引にかぶせてきますからすぐに判別できる。
どうでも良い箇所では物分かりの良い顔して猫なで声を出すのが得意ですが、いざ本丸に攻め込まれると見境も無く髪を振り乱してあたふた大声で怒鳴り散らす。
おだてられての木登りも大得意。

それでも論理を辿ることさえお互いできれば、そんなに大きな齟齬は生じないものです。
で、そういう輩に限って、自分の質問に回答がひとつもつかなかったりすると、自分の頭が良すぎて他人には理解できないのだ、などと妄想に浸りつつ、ひとり悦にいったりする。
ダダを捏ねる赤ん坊みたいなもので、誰か面倒を見てくれる人がいると世の中は平和で助かる。
見解の相違だね、とお互いに質疑を保留できる余裕があるうちは、可能性がまだある。

>私個人の現在の考えでは
「質問という体で問いかけしてるが
実際は(質問者にとって)優秀な弟子、賛同者が
欲しいだけなんとちゃうかな」
って考えが主流となってますね

顕著ですね。
基本的に素人の集まりにすぎないので、質疑を交わすこと自体が問題を次第に掘り下げていく形になる場合が多いと思います。
持論を述べるのはむしろたたき台として必要なわけですが、しかし、賛同者を求めるのが目的の人は、その過程を重視せずに、相手を持論に引きずり込むことだけを考えている。
最初から質問が目的じゃな...続きを読む

Q足りないのは頭

だから、あなたと私は同じ。
なんか意見ある?

(削除されたので訂正再投稿)

Aベストアンサー

No.4です。

そっか、もし本当に知らなかったのならd_y_nさんは、ここの哲学欄を切っ掛けに好奇心をエンジンにして、いろいろ検索したり勉強すればこれから見違えるように伸びるよ。d_y_nさんはソクラテス並みに優れてるってことです。無知の知で検索してね。だから、あなたは皆さんと同じじゃない。

Q絶対善はあるのです。

私は絶対善はあると主張していますが、皆さんはそんなものなどないと否定されます。でも私が言いたい事は常識的なことなのです。

この群れ社会において最も大切なものは何か?それは群れ社会の安寧秩序です。これは社会が平穏でルールが守られ安心して暮らせることです。これを守る事が最も正しい事なのです。この群れ社会においてこれ以上大切なことはないのです。これに異論がありますか?

そしてその群れ社会の安寧秩序を守る為に最も優れた方法が「私より公を優先すること」なのです。でも「私より公を優先すること」と言われても何か分からないでしょう。ですから分かり易く言えば愛や思いやりや慈悲心などですと説明しています。これはキリストが説いた愛です、孔子が説いた仁、つまり思いやりです、そして釈迦が説いた慈悲の心です。そしてこれらに内包、共通しているのが「私より公を優先する心、行為」です。

「私より公を優先する」とは分かり易く言えば「私欲という自分の思いを少し抑えて公の為とみんなで考え行うこと」です。自分の私欲の心を少し抑えて、一人一人がみんなの為と考えることです。これは民主主義を示しています。そして「みんなの為」と考えるということは皆さん一人一人がリーダー、その群れのトップの立場に立って考えると言うことです。それは強い責任感をもって考えると言うことです。そのような心を一人一人みんながもって、みんなで考えれば最も正しい答えに辿り着ける確率が高くなるよ、ということです。これ以上に優れた方法が何かありますか? これが私の言う絶対善なのです。

その群れ社会にとって絶対的に正しいことは社会の安寧秩序であり、そのために最も優れた方法が「私より公を優先する事、つまり愛や思いやりや慈悲心」なのです。もちろんこれは最高の方法を示しているので一般的にはなかなかできないことです。しかしそれを目指す事こそが最もより良い社会が創れるのだ、と言う事なのです。

私は絶対善はあると主張していますが、皆さんはそんなものなどないと否定されます。でも私が言いたい事は常識的なことなのです。

この群れ社会において最も大切なものは何か?それは群れ社会の安寧秩序です。これは社会が平穏でルールが守られ安心して暮らせることです。これを守る事が最も正しい事なのです。この群れ社会においてこれ以上大切なことはないのです。これに異論がありますか?

そしてその群れ社会の安寧秩序を守る為に最も優れた方法が「私より公を優先すること」なのです。でも「私より公を...続きを読む

Aベストアンサー

いろいろな人がいっぱい書き込んでくれて、芯木(shinwood)さんは今回いろいろ学んだんじゃないでしょうか。芯木さんの今回の作戦の誤りは、世の中には、形式を重要視する人と実態を重要視する人の両方がいることを無視して、実態を重視する芯木さんの一方的な表現を使ってその主張がなされていることです。

「手術は成功した。しかし、患者は死んだ」

要するに、患者の生死の実態よりも、手術の手順と形式の正確さの方に興味を持つ方がこの世の中にはいくらでも居られるのです。そして、哲学好きな人にこの形式組の人がいっぱいいます。そうした方々は、言葉の使用法の形式の方に興味が優先してしまい、たとへそこで使われている言葉が不完全でもそこで言っていることの内容や実態をなんとか理解しようという方向に興味を向けない傾向にあります。

「あんたの言いたことはなんとなく判るんだが、そのような言葉の用法はその内容と矛盾しており、間違っている」

などと言って、言葉の使い方が間違っているから、あなたの言う内容も間違いだ、などと考えてしまう人もいくらでもいます。だから、芯木さんが言いたいことの本質を論じようとするのではなくて、絶対の意味などの言葉の使い方がこだわった回答が多くなっているのです。

そのような人たちは、左を指差しながら、「右、右」と言っている人の心を察することができず、その間違いを言いつのる傾向があります。この場合、常識的に見て、指を差している方向をその発信者が言いたいのは明らかですのに。

物事を論じるためには、その内容も、その言葉の使い方も、両方とも重要です。しかし、その両方を同時に論じることにどれだけの生産性があるか、自明ではありません。大論文でもない限り、それを意識せずに両方とも同時に論じてしまうと誤解を招き、混乱さえ起こしかねません。ですから、何かを論じる場合には、内容か、形式か、そのどちらにより重点を置いているのか、文面から明確にわかるように書いておく方が、生産的な議論のやり取りができます。

ここでの主題は「公に対する奉仕」なのだと思いますが、例えば、「公」という言葉一つとっても、人によってその意味がだいぶ違い、芯木さんが言いたい意味では受け取ってくれない場合が散見されます。いわんや、「絶対」などという、一神教の影響を受けた西洋文化大好連中が好んで使う言葉は、哲学好みの人たちには刺激的すぎて芯木さんの言いたい内容よりも、その刺激的な言葉に拘ってしまう人がいくらでもいます。

出来るだけ刺激的な言葉を避けてご自分で言いたいことを表現することを工夫すると、芯木さんのご主張に賛同する方も増えるのではないでしょうか。また、どうしても「絶対」と言う言葉を使いたいならば、論述を始める前に、ここでのこの言葉は、、、、を意味するものとして特殊な使い方をしている、などと一言を入れておくと、読者もそのつもりで読んでくださると思います。

いろいろな人がいっぱい書き込んでくれて、芯木(shinwood)さんは今回いろいろ学んだんじゃないでしょうか。芯木さんの今回の作戦の誤りは、世の中には、形式を重要視する人と実態を重要視する人の両方がいることを無視して、実態を重視する芯木さんの一方的な表現を使ってその主張がなされていることです。

「手術は成功した。しかし、患者は死んだ」

要するに、患者の生死の実態よりも、手術の手順と形式の正確さの方に興味を持つ方がこの世の中にはいくらでも居られるのです。そして、哲学好きな人にこの形式...続きを読む

Q泣く子と地頭には勝てぬ

泣く子と地頭には勝てぬとは、道理の通じない者や権力者にはどうやっても勝てないから、無理を言われても従うしかないということ。
http://kotowaza-allguide.com/na/nakukotojitou.html

時と場合によりけりでしょうが、どうでも良いことに関してなら妥当な諺だろうと思います。
「道理が通じない者」かどうか、みなさんは、どういった基準で判断しますか?

Aベストアンサー

1.信念というものを持たない人だと判断した時。

2.信念を持っているものの、それに対する全体観を持たず、点で理解している人だと判断した時。

3.私を軽く見ている人だと判断した時。(反撃はします)

4.私のことを憎み、ダメージを与えることしか頭にない人だと判断した時。(やはり反撃します)

5.自分の手柄が一番と考えている人だと判断した時。

6.価値観が著しく異なる人だと判断した時。


申し上げたいことがもう少しありました。

「泣く子」というものの本質は、人間として未熟であるため、無理を通すということに羞恥心
がないということだと思います。従って1.2がそれにあたると。

「地頭」というものの本質は、力を持っているため、人を軽く見て、自分のエゴを通そうとす
る、という点にあると思います。従って、3.4.5がそれにあたると考えます。

また、人間は複雑であるので、この二つがミックスされたケースが考えられます。
これを「泣く地頭」と今後呼びたいと思いますが、これは厄介です。

それから、価値観の相違ということの中に、信念・哲学を持たない(あるいは捨てた)、という
ことが紛れ込んできていると思っています。
その人(状況)では、詭弁もありますが、何か判断のつかない論理を使います。

これがミックスされると「泣く腹黒い地頭」となり、究極に厄介です。

1.信念というものを持たない人だと判断した時。

2.信念を持っているものの、それに対する全体観を持たず、点で理解している人だと判断した時。

3.私を軽く見ている人だと判断した時。(反撃はします)

4.私のことを憎み、ダメージを与えることしか頭にない人だと判断した時。(やはり反撃します)

5.自分の手柄が一番と考えている人だと判断した時。

6.価値観が著しく異なる人だと判断した時。


申し上げたいことがもう少しありました。

「泣く子」というものの本質は、人間として未熟であるため、無理を通すと...続きを読む

Q科学

超初歩的な質問です。

「サイエンスする」とはどういうことでしょうか?

哲学は科学の範疇には入らない、という考え方が多いようですが、そうだとすると
それは、何故ですか?

Aベストアンサー

基本的には、科学が形而上学でないと言う事が違いなんだと思います。(これに関しては、量子力学の「解釈」は、その実体を観察できない以上「形而上学」に過ぎないと言う批判はあるでしょう)
あらゆる形而上的な概念を排除しようとした、マッハなどは、その立場としては、科学的でしょうが、それを思想的な衝動とした時点では、哲学的と言えるでしょう。
20世紀初頭は、現代の科学的な方法論は、ほぼ確立していましたが、現象の解釈と言う点では、まだ自然哲学から抜け出ていなかったと言えるでしょう。
実際問題としては、「科学」、狭義には「自然科学」の厳密性を担保するのは、「現象」そのものです。(現象以外は、基本的に検証の対象にならないと言えるでしょう)
「哲学」は、その性質上、形而上の存在も対象としなければいけません。 したがって、その厳密性の担保は、哲学が方法そのものから、生み出す必要があります。(これが、「哲学」が一筋縄では行かない所以です)
厳密性が一定の範囲で、確実に担保できるのは、形式科学としての「数学」ですね。(むしろ、厳密性が担保できる「形式」を見つけるのが、「数学」なのかもしれません)
宗教もある意味、「数学」に似ています。 それは、宗教の信仰者からは、そのようなものでは無いと言われるかもしれませんが、何らかの信仰対象に対して、信仰者がある形式で、その信仰を行う活動と言えなくも無いわけです。(その形式の分析は、宗教では無く、「宗教学」と呼ばれるでしょう)
古代ギリシャにおいては、これらは、全て「哲学」の領域にあったと言えるでしょう。(「数学」、「自然学」、「形而上学」は、「哲学」の中で混然一体として議論されていたわけです)
ヨーロッパにおいては、ローマ帝国によるキリスト教の国教化に伴い、しばらくは、(キリスト教)「神学」は、自然哲学や「形而上学」としての、プラトニズムと混然一体として、「哲学」としても、蜜月を迎えましたが、16世紀以降は、暗黒時代を経て、「哲学」からは、それぞれ「神学」、「自然科学」として、分科していきました。
分科した理由はさまざまでしょうが、基本的に「哲学的」な厳密性では、上手くゆかなくなったのが、一番の理由でしょう。
(キリスト教)「神学」は、その宗教的理由から、教義にかかわるような議論を嫌ったわけでしょうし、「自然科学」は、原因を追究するより、現象の法則の科学的解明の方が重要だったと言う事です。
「数学」も、論理実証主義により、その厳密性を確立する事を目指しましたが、ヘーゲルなどにより、その基盤が確実で無い事が証明されてしまいました。(したがって、一定の形式における論理的整合性の検証に特化したわけです)
これらは、「Why(何故)」から、「How(どのように?)」への転換と言えます。
「哲学」が追求するのは、「Why」でしょう。
「科学」は、「How」であり、一部の解釈は、「Why」となります。(ただし、解釈は、あくまで解釈であり、実証は成されていないでしょう)
これが、「哲学」と「科学」を分ける境界なんでしょう。

基本的には、科学が形而上学でないと言う事が違いなんだと思います。(これに関しては、量子力学の「解釈」は、その実体を観察できない以上「形而上学」に過ぎないと言う批判はあるでしょう)
あらゆる形而上的な概念を排除しようとした、マッハなどは、その立場としては、科学的でしょうが、それを思想的な衝動とした時点では、哲学的と言えるでしょう。
20世紀初頭は、現代の科学的な方法論は、ほぼ確立していましたが、現象の解釈と言う点では、まだ自然哲学から抜け出ていなかったと言えるでしょう。
実際問題...続きを読む

Q公理って何?

再び初歩的質問です。

「公理」を辞典で調べますと、

・数学で、論証がなくても自明の真理として承認され、他の命題の前提となる根本命題。

・論理学で、演繹的理論の出発点として、証明なしに採用される命題。

・現代においては、自明な命題ではなく、理論の前提となる仮定。

等の記述があります。

1.学問がないので、いまいちピンとこないのですが、具体的にはどのようなものがあるの
でしょうか?そして、どう理解したらいいのでしょうか?

2.「理論の前提となる仮定」から組み立てられた理論というものが、自然科学においても
検証されるとはいえ、何故、事実・真実と言えるのでしょうか?

Aベストアンサー

公理で一番有名なのは、平行線公理(平行線公準とも呼ばれる)でしょう。

「一つの直線上にない一点を通ってその直線は一つしかない」

この命題を証明することはできません。以前はこれを証明しようと多くの数学の天才たちが試みました。しかし誰にも証明できなかった。ロバチェフスキーが1829年に『幾何学の新原理並びに平行線の完全な理論』を発表して、彼が1826年に発見した新しい幾何学を提示して、上記の命題が証明不可能な公理であることが明らかになったのです。

ロバチェフスキーは、上記の命題の代わりに

(1)「一つの直線上にない一点を通ってその直線は何本でも引ける」

としても、数学的に無矛盾で閉じた論理体系を構築できることを明らかにしました。それがいわゆる非ユークリッド幾何学の始まりでした。この幾何学で表現されている空間は曲がった空間なのです。

その後に、リーマンが

(2)「一つの直線上にない一点を通ってその直線は一本も引けない」

としても、数学的に無矛盾で閉じた論理体系を構築できることを明らかにしました。この公理(2)が成り立つものとして構築された幾何学をリーマン幾何学と呼びます。一方、上記の公理(1)が成り立つものとして構築された幾何学をロバチェフスキー幾何学と呼びます。

さらに、リーマン幾何学の一つの具体的な例が球面状の幾何学であることもわかるようになりました。その場合この非ユークリッド幾何学を球面幾何学と呼ぶこともあります。

上記の事実の発見は、人類に多大な知的進展をもたらしました。なぜなら、自分の主張の論理的矛盾性をいかに証明しても、それでこの世界が解ったわけではないことが明らかになったからです。例えば、我々が埋め込まれている宇宙が上記のどの幾何学によって記述されている世界なのかは、論述の無矛盾性や整合性をいくら明らかにしても、判定できないことが明らかになったからです。

その判定には必ず実験や観測が必要である。すなわち論理的な理念の整合性に加え、事実はどうなのかを実験や観測で判定しなくてはならない。その判定をするのが自然科学なのです。そして数学は、命題の間の無矛盾性を論じる言語学であり、すなわち人文科学の一つであり、事実を論じる自然科学ではないことが明らかになったのです。

公理で一番有名なのは、平行線公理(平行線公準とも呼ばれる)でしょう。

「一つの直線上にない一点を通ってその直線は一つしかない」

この命題を証明することはできません。以前はこれを証明しようと多くの数学の天才たちが試みました。しかし誰にも証明できなかった。ロバチェフスキーが1829年に『幾何学の新原理並びに平行線の完全な理論』を発表して、彼が1826年に発見した新しい幾何学を提示して、上記の命題が証明不可能な公理であることが明らかになったのです。

ロバチェフスキーは、上記の命題の代わ...続きを読む

Q哲学とは何か?

哲学とは何か?この第一歩から考えてみたくなりました。

野矢茂樹氏の「ラジオ深夜便」出演の話はどなたかが紹介していましたが、
私も一度聞いたことがありました。
改めて聞いてみると、嬉しくなるほど分かりやすいと思いました。なんだか
分からない話を随分聞いてきたせいでしょうか?

どんな分野でも、言っていることが明快な人は、その中身をよく理解してい
る人で、逆に言っていることが何だかよくわからない人は、結局分かってい
ないのだという世間一般の定説は正しいものでしょう。

哲学とは何かということについて、野矢氏は、次のように述べています。

ごく簡単に哲学史を述べれば、アリストテレスは哲学を学問として捉えていた。
トマス・アクィナスにとっては、哲学は宗教であった。
デカルトは、哲学は学問の基礎であると考えていた。
現代においては、哲学者の数だけ定義が存在すると言って過言ではない。

私(野矢氏)にとって哲学とは、人間の言葉を使った複雑な思考の中の問題として
1.思考の全体を見通せていない、2.思考を支えている多くの暗黙のものを自覚し
ていない、3.全体の曖昧さ、矛盾を分からないでいる、これらの問題を解決する
ことである、と。

確かに、哲学というものの定義は、様々であることは実感していました。だから、
「さあ統一しましょう」といったところで、そううまくはゆかない。せめて、各々
の定義を理解し合えたら、もう少し意義のある対話ができるかも知れません。

さて、あなたの「哲学の定義」はというと、どういうことになりますでしょうか?

哲学とは何か?この第一歩から考えてみたくなりました。

野矢茂樹氏の「ラジオ深夜便」出演の話はどなたかが紹介していましたが、
私も一度聞いたことがありました。
改めて聞いてみると、嬉しくなるほど分かりやすいと思いました。なんだか
分からない話を随分聞いてきたせいでしょうか?

どんな分野でも、言っていることが明快な人は、その中身をよく理解してい
る人で、逆に言っていることが何だかよくわからない人は、結局分かってい
ないのだという世間一般の定説は正しいものでしょう。

哲学...続きを読む

Aベストアンサー

キリスト教が発達してからの西洋哲学は、キリスト教を隠れ蓑にしていた人間のインモラルな部分に、風を通して、本来の人間性を取り戻そう、という、初々しいものではなかったですか。

ルネサンス美術と同じで、西洋の精神世界の理想である、ギリシアの昔のように、キリスト教を離れて、自由に思考をしたかった。もう一度、自分の頭で考えてみたかった。

ギリシアで発達した哲学は、言葉遊びのきらいもありますが、(多分に、貴族の暇つぶしだったでしょう)、発想は、もっと自由で、はつらつとしたものでした。人間の尊厳の確認であったかのような印象があります。

その旗頭であるソクラテスが牢獄に繋がれ、毒をあおって死ななければならなかったため、何か、陰惨な印象を持っていましたが、何年か前、彼の牢獄であったと伝えられている岩屋を訪れる機会があり、その場所が、アクロポリスを見渡せる、風光明媚な場所であったため、何だか、足元のはしごを外された気分、というか、牢獄でさえ、知的でした。

おっしゃる通り、哲学は、対話によって、曖昧なものや無意識に受け入れていた事柄を、明確にしてゆく役割を担っているのだと思います。中世以降のヨーロッパでは、キリスト教が邪魔になりましたが、現代の日本では、いかがでしょうか。

キリスト教が発達してからの西洋哲学は、キリスト教を隠れ蓑にしていた人間のインモラルな部分に、風を通して、本来の人間性を取り戻そう、という、初々しいものではなかったですか。

ルネサンス美術と同じで、西洋の精神世界の理想である、ギリシアの昔のように、キリスト教を離れて、自由に思考をしたかった。もう一度、自分の頭で考えてみたかった。

ギリシアで発達した哲学は、言葉遊びのきらいもありますが、(多分に、貴族の暇つぶしだったでしょう)、発想は、もっと自由で、はつらつとしたものでした。人...続きを読む

Q存在理由=レゾンデートルの味

人は、それぞれ(仕事や近親者への情愛など)何かしらの具体的な存在理由を実感して生きているものだと思います。しかもそれは一つではなく数えれば限り無くあるでょう。言葉にはし尽くせない程に。

ところが、自分一つのシワの少ない頭を過信して、それだけであーだこーだ考え、しょぼい人生の言い訳作りをする事が哲学だと思っている様な人は、レゾンデートルをあまり実感出来ずに狭い思考空間の中に自己を幽閉してしまっている様です。

その様な人には何が起これば、自己の存在理由を味わう事ができるのでしょうか。
たとえばそれは喪失感でしょうか、失って初めて気付く様な大切なことなど。

Aベストアンサー

存在理由など考えないで生きている人が大半なのではないでしょうか。考える暇もないというか、時間に忙殺されてる人も多いし、逆に何も考えずに時間に流されている人も多い。ただ、その前提には個人的なゆるぎない背景というものがあるはずです。家族への愛情、仕事に対する情熱など。
存在理由、立ち止まって考えることができる時って、きっと出会いや別離、深い喜びや悲しみに遭遇したときなんでしょうね。そう思います。

Q気付かなかった真実

「男が女のすべてを学んだ時に初めて女の上にゆける」
こう言った人がいました。

これは真理でしょうか?

※今時ですから言いにくい部分もあるかと思いますが、哲人たちのご意見を乞う。

Aベストアンサー

#18です。お礼ありがとうございます。
>男が女から生まれたという、どうしようもない「引け目」とともに、母親に
躾られたという、一度女性に支配された経験を心に強く持つのだと思います。

ですから、男は女をよく知って、その精神的な支配を乗り越えないと、どうも
一人前にならないような気が、これは経験上ですが思ってきたのです。

また、男は女に認められることが大きな幸せであり、それにより男としての自
信がつくという生き物であると思います。

ここまで全く同意です。そもそも「男」というものの本質は「女性を得るために様々なことをする」動物と言うことに尽きるでしょう。

>男にとって、女の存在は不思議なことに極めて大きなものであることは間違い
ありません。

逆もまたしかりだと思いますが、女性はこういうことはまず語りません。女性は
男性よりはるかにガードが堅いものです。その固いガ―ドのスキを狙い、女性の
本心、ありのままの姿を知ることが、ひょっとしたら男にとって一番勉強になる
のかも知れないなどと思います。

私の女性に対する見解は少し違います。男が「女性を求める」本質をもっているなら、女性は「どれだけ自分を高く売れるか」という本質だと考えます。

だからやみくもに安売りはしませんし、ガードが堅いことこそが「売値をつり上げる」ことにつながると思います。手の内を見せずに掛け金を吊り上げるポーカーと同じです。
だから「女は目を見つめたまま嘘がつける」でしょう。


>戦争のことについては以前少しやり取りしましたね。これを語ると長くなるので
今は止めまして、「憎しみ」のことについて少々。

>戦場では武装しているから男性でなくてはならないということはないのではない
か?
危険な作業場であっても、基本的に機械化されているので、男性でなくてはなら
ないということもないのではないか、と。

戦争や憎しみを別としても、自然災害や火災・犯罪などの問題が残ります。男は常に「(戦争も含めて)女子供やその他家族さらに財産などを守る」存在であったといえますし、今でもそれは変わりません。現代は「機械化」されているのでそれが見えにくくなっているだけです。

>それにより女性の男性に対する信頼が崩れ、侮蔑が生まれる。男性というものは
先ほど申し上げたように、女性から認められず、信頼されず、まして侮辱されな
どしたならば、たちまち自信を失うものです。

女性が男性に対する信頼が薄れたのは皮肉なことに「機械化」が進んだからです。
目に見える形で「男性に護ってもらう」必要性を感じなくなっているからです。だから「なんでも自分でできる」と思い、自分の行動や権利を縛ろうとする男性を憎むのです。

>女性が女性の権利の主張をするほどに過去にいかに差別を受けてきたかを知ることになり、男性に対する憎しみが募るとは、エマが言っている通りでしょう。

逆に権利を主張しない(できない)、イスラム女性はむしろ「男性に守られていて安心」であると評価する人も多いです。権利を主張し平等であればあるほど「憎しみが増す」のは皮肉だと思います。

私は男性も含めてまずは「人間は自分一人では何もできない→社会が必要」と知ることが重要だと思います。男性だけでも社会は成り立ちませんし、女性だけでも成り立ちません。

それを踏まえたうえで「各々ができることをきちんと行い(男女の別なく)認め合う」事が必要だと思います。

#18です。お礼ありがとうございます。
>男が女から生まれたという、どうしようもない「引け目」とともに、母親に
躾られたという、一度女性に支配された経験を心に強く持つのだと思います。

ですから、男は女をよく知って、その精神的な支配を乗り越えないと、どうも
一人前にならないような気が、これは経験上ですが思ってきたのです。

また、男は女に認められることが大きな幸せであり、それにより男としての自
信がつくという生き物であると思います。

ここまで全く同意です。そもそも「男」というもの...続きを読む

Qアラシ投稿の阿呆さについて ご意見をどうそ。

1. ひとは あたかも《カカハリ(関係)の絶対性》なるさだめのもとに 他人
(ひと)とのマジハリ(交通)に入ることになる――と言ってもよいかも知れませ
社会性とは そういうものではないかと。

2. 馬の合う人とはもういい加減にしたらというほど長い時間を過ごすこともあ
れば あいつはイヤだと思っていて・しかも一緒になる機会が多く寛い心でツキア
ヒをつづけざるを得ないこともある。そして もう耐えられない・絶交だと言って 
マジハリを解き・互いに離れて社会的なカカハリを持つ場合もある。

3. これらの例は ふつうに自然に起こる人間どうしのヨコの関係です。そして
ここで問題としたいのは このヨコのではなく もしその互いの間に上か下かとい
うタテの関係が生じたなら どうするか? です。



4. 抽象的に規定しますと 《互いのマナザシがどちらか一方が他方よりも上か
ら差して来る》といった上下の関係です。(まだほっかほかの質問として マウン
ティングの問題が出ていましたね)。


5. まづ このタテの関係については ふたつの種類があると思います。
( a ) ふたり――といった単位体を例に採りますが――のあいだにそれこそ自生
的に生じたもの。気楽なマジハリ。
( b ) そして あとは 人為的に作為的につくられたタテ関係。

6. 大昔には 身分の世襲制によって 人びとそれぞれのマナザシは どのよう
にそそぐか(注がれるか)は 決まっていたとも言えます。

7. では 現代では このマナザシは 自由の精神をもって( b )の作為的な上
下関係を打ち破っているか? マナザシは 完全に自由になったか?

8. 家族の中での――遠慮の要らない――マナザシの錯綜関係もあるでしょうし
けっきょく果ては 国と国との関係における〔こちらは〕深謀遠慮なるアマアガリ
戦術としてのマナザシ照射も 起きるのかも知れません。

9. ここで問うのは こうです。アラシ回答は アマアガリ・シンドロームに落
ち入った阿呆なるマナザシ合戦である――という命題をめぐって 思うところを述
べてくださいと。

10. また広く人間のマナザシ関係について 見解を述べてくださっても結構で
す。制約はありません。

1. ひとは あたかも《カカハリ(関係)の絶対性》なるさだめのもとに 他人
(ひと)とのマジハリ(交通)に入ることになる――と言ってもよいかも知れませ
社会性とは そういうものではないかと。

2. 馬の合う人とはもういい加減にしたらというほど長い時間を過ごすこともあ
れば あいつはイヤだと思っていて・しかも一緒になる機会が多く寛い心でツキア
ヒをつづけざるを得ないこともある。そして もう耐えられない・絶交だと言って 
マジハリを解き・互いに離れて社会的なカカハリを持つ場合...続きを読む

Aベストアンサー

荒らし投稿するのは、真面に自分の意見を持たずきちんとした考慮も無く唯単に字面を追ってそれ
に対して本能だけ(に思える)反応をし、短絡的な回答を(恰も自分の意見は正当だと思いながら)
述べているに過ぎないとボクは考えます。
そうで無い思慮深い人がそういった回答を読むと何て浅はかなといった感想を持つでしょう。
このサイト内での回答はそういった浅はかな人だけでは無く人生相談的な質問には相手の立場に
立って考え的確な回答をする人も沢山居ますし、技術的な質問に対する回答は自分の技術やスキル、
問題解決の手段を検索出来る力を持った人達が矢張り的確な回答をしてベストアンサーを沢山獲得
しています。
自分が回答出来る様な人間では無いのにしゃしゃり出るのは短絡的且思慮の浅い(AHO--)と思うのは
ボクだけでしょうか?
貴方からの補足をお待ちしています。


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