出産前後の痔にはご注意!

戦国時代のドラマを見てると軍議の席で武将達がやたら声を張り上げて意見交換してる場面があります。
実際の軍議もあんな大きめの声を出してたと思いますか?
当時の武将達も声が小さめの人や、言葉を噛む人とかいたと思うのですが…
普通の声のトーンで話さなかったのですかね?

A 回答 (5件)

実際の軍議もあんな大きめの声を出してたと思いますか?


 ↑
そういう人が多かったと思います。
1,軍議は自己アピールの場でもあります。
 声が大きい方が目立つし、意見も通りやすいのは
 今も同じです。
2,戦国時代の武将の声はとてつもなく大きかった
 と言われています。
 広い戦場で自分の名前をCMするのですから
 大きいことが要求されたのです。



当時の武将達も声が小さめの人や、言葉を噛む人とかいたと思うのですが…
  ↑
そりゃいたでしょうね。



普通の声のトーンで話さなかったのですかね?
  ↑
徳川家康は、部下の自由なディスカッションに任せ
それろじっと聞いていて、最後は自分で決める、
そういう軍議をしていたという話があります。
声がでかくないと、主君の耳に入りません。
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この回答へのお礼

自由にディスカッションさせてたのは知りませんでした。
部下を信頼してたのですね!
ありがとうございました!

お礼日時:2019/02/18 07:22

ドラマだから分かりやすく放映して居るんだよ、何処か?エロアダルトビデオみたいに女性が凄い悶え声演技上で上げているのと同じだよ

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武将は、我こそは一番手柄を上げて、と意気込んでいます。


先陣を仰せつかる事が第一ですから、目だたないと、指名にあずかれません。
ともかく、相手を制して一番槍の功名を上げなければいけないのです。
誰もが必死なのです。小さな声など、出していないのと同じなのです。
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この回答へのお礼

ありがとうございました!

お礼日時:2019/02/18 07:20

出していたとすれば


・大きな声で言わないと広間の全員に声が届かない
くらいのものです。

なにしろどこに間諜が潜んでいるか分からない状況。
好んで敗北を招く愚かな行為です。

あと考えるのは演出の関係くらいのものです。
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この回答へのお礼

演出の可能性も否めませんね!ありがとうございました!

お礼日時:2019/02/18 07:20

荒々しくてなんぼだからね



穏やかでは、配下から軽く見られて統率取れないのでは?
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この回答へのお礼

ありがとうございました!

お礼日時:2019/02/18 07:19

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Aベストアンサー

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現地人を宣撫して、それから本国から軍隊を
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既に発達している地域で、新たな宗教を布教する
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このように、キリスト教布教に失敗した、という
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以上から、西郷隆盛が稀代まれな天賦の才能
を有していたのではないかと思うようになりました。
この考えは正しいのでしょうか?
 ↑
特別な才能を持っていたのではなく、私欲に乏しかった
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西郷隆盛が中央政府に戻った明治4年から明治6年に中央政府を去るまでの
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人間だったにも関わらず、
弟から海外視察の内容を聞いただけで世界的な動きを直感的に感じ、
日本の進むべき方向性を理解し、
今やるべきことをわかっていた人のように感じます。
  ↑
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このような辺境は直接統治より冊封による間接統治が
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多くは交易もできない状況でした。
冊封国は基本的に中国から内政・外交の干渉は受けませんが、
子分になって中国の強い影響下にあることを認めたものです。
詳しくは冊封(国)で調べてみてください。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%8A%E5%B0%81

朝鮮の始祖である太祖李成桂は高麗から王位を簒奪した時に
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朝鮮が清の冊封から脱したのは日清戦争の結果で、
下関条約の第1条は清からの独立を認めさせるもの。
一般の方にも読める「朝鮮紀行」(講談社学術文庫)には
この時に無理やり独立することで清の庇護下から解放させられて
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現在の韓国では、属国ではなく「兄弟国」という表現が多いのですが、
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「中朝商民水陸貿易章程」でも属国であることが確認されました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9C%9D%E5%95%86%E6%B0%91%E6%B0%B4%E9%99%B8%E8%B2%BF%E6%98%93%E7%AB%A0%E7%A8%8B

朝鮮が冊封国を維持できたのは、清による虎の威を借りたから。
現在の韓国の国旗である太極旗の原型(諸説あります)は、
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そこには日本になめられないように「大清国属」と書かれ、
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現在の中国がチベットなどを侵略するのは
現代において価値があるから。
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海底資源が指摘されるまで無関心どころか
国の機関紙に日本領と書いていたくらいです。
価値があって与しやすいと思われれば侵略されます。

朝鮮は中国の冊封体制に組み込まれた属国の一つで、
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Qあなたが関ヶ原の合戦である程度の身分を持つ落武者として逃亡するならどんな逃げ方をしますか? 石田さん

あなたが関ヶ原の合戦である程度の身分を持つ落武者として逃亡するならどんな逃げ方をしますか?
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Aベストアンサー

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上杉征伐の途中に石田三成の挙兵を知り、軍を西に向けた徳川家康の背後を上杉景勝は何故攻めなかったのですか?
最上を攻めている場合じゃないと思います。

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※直江書状参照

最上攻めでさえその前段にすぎません
が、この最上攻めの最中に既に西軍は関ヶ原の戦いで敗北しており、上杉勝家が兵を率いて関東に攻めいることは出来なくなりました

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上杉軍が反転の情報を掴んだのは家康が江戸に入ってからなので!

Q徳川家康や秀忠は明を征服しようと思わなかったのですか?

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秀吉の朝鮮出兵の頃は、明もまだ弱体化が進んでいない頃でしたが、その頃とは比較にならないほど弱体化が進んでいたので。

Aベストアンサー

そんなこと、これっぽっちも考えていないと思います。
理由は簡単です。秀吉の朝鮮侵略の悲惨な結果を知っているからです。

日本の戦国時代を代表する武将の中で秀吉だけは異質ですが、それは彼が商人、現代風に言えば経済人の感覚を持っていたからです。当時の日本の経済発展のためには領土の拡大が欠かせなかったと思います。
まあ、しかし、他国への侵略という点においては、身の程を知らないというか、世界を知らないというかバカですね。先進的な欧州の植民地化の手法と比較すると幼稚極まりないと思います。
そういえば、そんなバカが過去にもいました。それは、日出る国の聖徳太子です。この時に現地で中国側と交渉した人物は秀吉の時と全く同じことをしています。現地で先進的な大国の実状を知って、日本側のトップの顔をつぶさないようにして、二枚舌で収拾するという方法です。

徳川家康は、豊臣秀吉の朝鮮侵略の失敗を教訓として300年続く日本の平和な時代の仕組みを作ります。限られた領土で平和を維持するために、大名の取り潰しや、参勤交代などの仕組みをつくりますが、政治的なシステム以外に庶民が作り上げたシステムもあります。それは、徳川300年の間に人口が全く増加していない事実から導かれます。

家康と秀忠は秀吉と同時代に生きていたので、二度とアホなことはしませんでしたが、その教訓を忘れてしまった平和ボケの人々は、明治に入って中国侵略を開始しますが、秀吉の朝鮮侵略から得られた軍事的な反省をなにひとつしていなかったため、最後は悲惨な結果になっています。
日清日露戦争は短期間の戦争であり、当時の日本は、欧米の先進的な兵器に関する各種技術を導入していたため、時代遅れの兵器相手に勝てるのは当然ですが、先進的な欧米諸国ではすでに確立していた兵站システムが全く構築されていなかったことが、日本の決定的な弱点と言うか特性なのだろうと思います。

そんなこと、これっぽっちも考えていないと思います。
理由は簡単です。秀吉の朝鮮侵略の悲惨な結果を知っているからです。

日本の戦国時代を代表する武将の中で秀吉だけは異質ですが、それは彼が商人、現代風に言えば経済人の感覚を持っていたからです。当時の日本の経済発展のためには領土の拡大が欠かせなかったと思います。
まあ、しかし、他国への侵略という点においては、身の程を知らないというか、世界を知らないというかバカですね。先進的な欧州の植民地化の手法と比較すると幼稚極まりないと思います...続きを読む

Q豊臣秀吉の死から関ヶ原の戦いの間で、徳川家康に勝てる大名なんていませんよね?

豊臣秀吉の死から関ヶ原の戦いの間で、徳川家康に勝てる大名なんていませんよね?

Aベストアンサー

黒田如水が有名ですね。


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