プロが教えるわが家の防犯対策術!

1950年代の日本ってもうかなり普通の暮らししてましたか?

A 回答 (10件)

東日本大震災から8年、いまだにこの様です。


戦争が終わったのが1945年、日本中が震災に合ったようなものでしょう。「もはや戦後ではない」と言われたのが1956年、10年かかって戦争の後処理がようやく終わった感じだったのではないでしょうか。
    • good
    • 0

小学校に行くときは下駄をはいてました。

学校では素足、運動場では裸足で足洗い場がありました。給食はコッペパンと脱脂粉乳。停電(電気休みと言ってた)の日は給仕さんがベルの代わりに鐘を鳴らしてました。道路は国道以外は未舗装、雨が降ると大変でございますよ。楽しみは紙芝居屋さんが来ること。普通じゃないよ貧しかったよ、継ぎ接ぎだらけの服を着てた子供は沢山いたよ。
    • good
    • 0

1961年より一回り前の生まれです。

1961年生まれに加筆( )してみました。

・風呂は(木の桶で)マキ(や亜炭)で焚いて沸かしていました。
 料理はカマド(と七輪)で焚いて調理していました。
 (火を起こすのは子供の役でした。)
・電話は有線電話。(それも数軒に1台で、緊急時には隣さんを呼出したり。)
・照明器具は、丸い電球でした。蛍光灯は(照明スタンドがとても珍しく、
 まだ一端的では)無かったと思います。
・納屋に牛がいました。(鳥を裏に飼っている家も有り、卵は貴重品でした。)
・家の建具は全て木製で(合板性はまだ普及していませんで)した。
・蛇口をひねってもお湯は出ません。(手で動かすポンプ付きの井戸が
 まだ主流でした。田舎には)
・洗濯機は無かったと思います。(木製の盥と洗濯板の組合せで、粉石鹸が
 まだ貴重でした。)
・まだ汽車が走っていました。(ほぼ汽車しか走っていませんでした。)
・車なんて、殆ど走っていませんでした。農協の三輪トラックがカッコ
 良かったです。(車が珍しくて、走った後の甘いガソリン(?)の臭いに
 惹かれたものです。)
・夕飯にコロッケが並ぶと御馳走でした。(カレーもまだ珍しく、肉は鶏肉
 でした。)
・舗装した道路なんて無かったと思います。(中心街の舗装ですら道端は
 まだ砂利道のままでした。)
・週に何度かトラックに色々な商品を乗せて、売りに来るオジサンがいました。
 (行商の人が、背に荷物を負うか、リヤカーで売りに来ていました。)
・チューブに入ったチョコレートが好きでした。(正体不明の原色着色の
 様な駄菓子が徐々に出てきました。粉末ジュースは魔法の様でした。
 粉末コーヒー等も駄菓子の一種として出だしました。とても不味かった
 です。余談、インスタントコーヒーの発明者は日本人。そんな不味い物でも
 日本では消えずに残った為に、世界的に普及したと聞いています。)
・お茶は自宅で作っていました。(地方に依るでしょうが、大人にはまだ代用
 煙草(手作り)を吸っている人も居ました。)
・トイレの紙はありませんでした。(新聞紙を揉んで柔らかくして使って
 いました。トイレと言う用語も無く「便所」で、それは当然汲取り式で
 した。地方都市では、始めは肥料代が貰えたのに、直ぐ汲取り料を取られる
 様になりました。)

まだ戦後で、町の祭りには白衣の傷病兵らが立ち物悲しい曲を演奏して寄付を
募っていました。子供らは、腹を空かしていましたが、何でも食べ、数で
群れて元気で、今想うと何か妙に明るかった感じがします。
    • good
    • 2

戦後どうしても日本経済はうまくいきませんでしたが、やっと好転の兆しの見えてきたきっかけは


朝鮮戦争の特需景気です。朝鮮戦争は1950年からですが、その影響が顕著になったのは1951年あたりからで
数字的に戦前を超えたとされるのは1953年です。

このころになると、最低限度の衣食住は確保できるようになっていますが、今の水準で見たらまだまだです。
それを測る物差しに嗜好品であるコーヒーを使うと
巷のコーヒーなんて大豆が原料の偽物だし、麦茶で作ったコーヒー飲料もありました。
本物のコーヒーを飲めたのは一部の特権階級だけです。

まともなコーヒーの飲めるようになったのは50年代の末頃です。
50年代の日本の経済復興の速度は毎年10%以上でしたので、50年代前半と後半では大きく違うし
後半でもはじめと末では大きく違います。

子供のお菓子にしても50年代にはサッカリン入りのものが沢山あったので
不味いものが多かったですね。

「かなり普通」と言ってもその定義がわかりませんが
日本国民が自信を取り戻したのは東京オリンピックのあった1964年あたりで
それが一層強固となったのは大阪万博のあった1970年頃からでしょう。

それ以降はマクドナルドやセブンイレブンなどができたりで
現代人が違和感なく生活できるのは1970年代前半からでしょう。
    • good
    • 0

洗濯機は無いし、電気式冷蔵庫はないし、ラジオは無いし、車はツインキャブではなくSOHCであった。


機関車は有ったし、チンチン電車は有った。
    • good
    • 0

洗濯機テレビ冷蔵庫の三種の神器が買えたのはごく一部の家庭でした。


現代と比べればずいぶんと原始的な暮らしでしたよ。
上下水道の整備もまだ追いつかずトイレも多くの地域で汲み取り式でした。
衛生状態も悪く毛ジラミの発生を抑えるためにDDTという殺虫剤を子供の頭にかけたりしていました。
毒性が強くその後禁止になりましたが、現代では考えられないですね。
戦後の食糧難をやっと脱した時期で栄養状態も良いとは言えませんでした。
現代のスーパーやコンビニの品揃えなど夢のようですよ。
    • good
    • 0

1961年生まれですが、、、



風呂はマキで焚いて沸かしていました。
料理はカマドで焚いて調理していました。
電話は有線電話。
照明器具は、丸い電球でした。蛍光灯は無かったと思います。
納屋に牛がいました。
家の建具は全て木製でした。
蛇口をひねってもお湯は出ません。
洗濯機は無かったと思います。
まだ汽車が走っていました。
車なんて、殆ど走っていませんでした。農協の三輪トラックがカッコ良かったです。
夕飯にコロッケが並ぶと御馳走でした。
舗装した道路なんて無かったと思います。
週に何度かトラックに色々な商品を乗せて、売りに来るオジサンがいました。
チューブに入ったチョコレートが好きでした。
お茶は自宅で作っていました。
トイレの紙はありませんでした。

※記憶があるという事は、物心ついたくらいですから1966年くらいの事ですかね。
    • good
    • 1

何を持って「普通」と成すかですけどね・・・



1950年代と言っても前半と後半ではかなり暮らしぶりが違います。
冷蔵庫、洗濯機、トースターなど家事家電類が発売され始めたのは前半でしたが、普及し始めたのは後半(と言うか終盤)。
テレビは60年代に入ってからです。
道路の舗装が急速に進むのも1960年代です。
自動車の普及率が急速に伸びるのも1960年代です。

とは言え1960年代でも戦災孤児と呼ばれる人が全て成人した訳ではないので、1950年代では戦争の傷跡はまだまだ大きかった様です。
    • good
    • 1

昭和25年から35年ですが、この10年間は、まだまだ戦後の混乱を色濃く引きずっていた時代ですね。


やっと洗濯機が家庭に入りだした時代であり、テレビの普及はこの後の10年間です。
各家庭では、卓袱台でご飯を食べていました。テーブルなんて洒落たものはありません。
今を基準に考えると、とても普通の暮らしとは言えない、貧しい生活だと思います。
    • good
    • 0

1950年代の初頭は、食べ物にも不自由する、まだまだ貧しい生活だったと思います。

 電化製品なども普及して、生活が向上し始めたのは、今上天皇がご結婚された1959年くらいからでしょう。
    • good
    • 0

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!