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『教会の時計台が見える。』という文、主語は『時計台が』らしいのですが何故でしょうか。

『私は教会の時計台が見える』のように、『見える』のは『私』などの人?であって、時計台は見られる方なのでは?と思ってしまいます。

中学2年生レベルで解説お願いします。

質問者からの補足コメント

  • たくさんの回答ありがとうございます。
    テスト勉強があって皆様一人一人にお礼が出来ないことをお許しください…
    ここでお礼を伝えます皆様御丁寧にありがとうございました。

      補足日時:2019/02/20 18:00

A 回答 (10件)

学校の国文法では、


『教会の時計台が見える』の主語は『教会の時計台』
と教えられます。
ちなみに『私は教会の時計台が見える』は間違いで『私には教会の時計台が見える』が正しい文です。『私には』は『見える』の修飾語であり、主語ではありません。
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私が回答すると、意外にいろいろな説が出てきて混乱します。

「ハ~ガ文」まで登場してきました。しかし、ハ~ガ文の代表は
「象は鼻が長い」
ですが、「は」は主題化する係助詞、「が」は「長い」という形容詞の主格に当たる格助詞であり、「私は時計台が見える」の「が」は対格(=対象格)であって、全く違う文だと思います。「あなたは、背が高い」も「象鼻文」と同様です。
 いずれにしても、「見える」という動詞は、なかなか説明の難しい語であることは確かです。もとは古語で「見ゆ」の形で登場し、「ゆ」は「ゆ・らゆ」の「ゆ」と同根と辞書の説明にはあります。「見る」は上一段動詞であり、どうして「見らゆ」にならなかったか不思議であります。しかし、とにかく「見ゆ」→「見ゆる」→「見える」と現代に生き残っています。
 「やはらかに柳あをめる 北上の岸辺目に見ゆ 泣けとごとくに 」(啄木)のように、古語としては近代まで生き残っています。(岸辺が目に見える)
 それに比べると、「聞こえる」の方は、「聞く+ゆ」=聞かゆ→聞こゆ→聞こえる となったように変化は似ているけれど、「聞こゆ」が中古には「申し上げる」の意味で使われたり、数奇な運命をたどったようです。
(そのほか、「ゆ」は 思ほゆ→覚ゆ→覚える、いはゆる→いわゆる、あらゆる、に変化したものがあります。)
 いろいろ言いましたが、この種の動詞は、現代語の「覚える」を除いて他動詞と使われることはないと言うことが重要です。
 これを書いたのは、中学生に教えるためではさらさらなく、回答者の回答が別の方面に向かうのを抑える意図で申し上げています。
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『教会の時計台が見える。


には2通りの解釈があります。
大辞泉を確認すると以下のようになっている。
「見える」
1 目に映る。目で確認できる。「今夜は星も―・えない」
2 見ることができる。「猫は暗やみでも―・える」
https://dictionary.goo.ne.jp/jn/210883/meaning/m …
それぞれの場合に合わせてシチュエーションを再構築してみましょう。

1.『(この窓からは、)教会の時計台が見える。』
「見える(目に映る)状態にある」という意味なので、「教会の時計台」が「見える(目に映る)状態にある」の主語。

2.『(私は目が良いので夜でも、)教会の時計台が見える。』
「見ることができる」という能力可能の意味。
この場合、質問者さんが言うように、主語は「私」です。

ただ、単に、
『教会の時計台が見える。』
というだけの文の場合は、
「教会の時計台が見える(目に映る)状態にある」
という意味に捉えるのが自然かと思います。
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まずは、動詞「見える」の語義をハッキリさせましょう。

「見る」の場合は主語は人などでしょうが、「見える」はそうでもありません。「見える」を使うと、見られる対象を主語として「~が見える」と表現できます。
http://verbhandbook.ninjal.ac.jp/headwords/mieru/
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これは、単純に「~が~」という形式の「が」の前に来るのが主語という定義に基づく判断です。



しかし、この「が」は時枝誠記が対象格と呼んだもので、「水が飲みたい」と同じ構文で主格を表わすものではありません。

御指摘の通り、『私は教会の時計台が見える』という文の「私は」を省略したもので、「~は~が」構文の特殊性を表す「は」に対し「が」は個別性の認識を表すもので、「象は鼻が長い」と同じで、「私」は総主と呼ばれますが、屈折語の主語―述語文とは異なる構文で、この私を単純に主語とするのは誤りです。

「教会の」は時計台の修飾語です。■
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>私は教会の時計台が見える


この表現は、私は、教会の時計台を見ることが可能(の状態)、言い換えれば、私は見える(目に異常はない)、に不要な言葉を混ぜただけです。
私には教会の時計台が見える、ここからは・・・・・と置き換えも可能です、私の位置等の条件で・・または幻覚等で・・。
主語、述語は、時計台・見える
教会は時計台を修飾、私に、は見えるを修飾、ということになります。
中学2年レベル・・・
「が」がつくのがあれば、それが主語、なければ「は」が主語、どうした、どうだ、が述語、この場合はありませんが目的語がある場合もあります(何に、または何を)。
その他の言葉は、修飾語。
>教会の時計台が見える
教会→主語鵜を修飾
時計台→主語
見える→述語
ほかに、修飾語をつけて表現は自由です。
ここからは、はるか遠くにある教会の、大きな時計台が、非常に小さく見える。
主語、述語、目的語の次に、○○この言葉は、どの言葉を修飾するか・・・が問題になります、日本語の理解に欠かせません。
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それは『教会の時計台が見えている』なので、教会の時計台が主語なのです。

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「中学2年生レベル」だと


助詞の「が」が付いているから
かなぁ.

本当は
そもそも「主語」ってなぁに
から入るんだけど.
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「見える」と「見られる」とは違います。


「教会の時計台」主語(主格)、「見える」が述語です。(山が見える。星が見える。)「聞こえる」の場合も、(物音が聞こえる。音楽が聞こえる。) 眼が見える、耳が聞こえる、も同じです。
 確かに分かりにくいですが。
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私達は教会の時計台が見える。

この主体は私達。能動形。

時計台の側からすると、「時計台が私達から見られる」。受動形。

時計台が主体であるから、主語です。
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この回答へのお礼

『教会の時計台が見える』というだけの文でも、時計台が主体なのですか?

お礼日時:2019/02/19 20:03

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