痔になりやすい生活習慣とは?

『ブッダ最後の旅――大パリニッバーナ経――』(中村元訳 1980 )から次の
主題を取り上げ問います。

§ 1 ブッダが実際の死より長生きできなかったのは 弟子アーナンダの不明の
所為か?

▲ (アーナンダにおける悪魔憑き) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ――・・・アーナンダよ修行を完成した人(如来)は・・・もし望むならば 
 寿命のある限りこの世に留まるであろうし あるいはそれよりも長いあいだで
 も留まり得るであろう。
 
と〔ブッダが言った〕。こういうわけであったけれども 若き人アーナンダは 
尊師がこのようにあらわにほのめかされ あらわに明示されたのに 洞察するこ
とができなくて 尊師に対して

《・・・寿命のある限り この世に留まってください。――多くの人びとの利益
のために・・・幸福のために》といって尊師に懇請することをしなかった。

それは かれの心が悪魔にとりつかれていたからである。・・・

(中村訳 前掲書 第三章〔一〇、命を捨てる決意〕五)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

【Q‐1】 悪魔に取り憑かれていたゆえに アーナンダが悪いのか? 悪魔に取
り憑かれるという表現が 成り立つだろうか。哲学は どう見るか?


【Q‐2】 鍛冶工チュンダが差し出した毒キノコ(豚肉?)を食べて体調をくづ
したとき ブッダはチュンダを咎めなかった。そういう気遣いをしている。だが 
このアーナンダの《悪魔憑き》については どういう振る舞いと見ればよいのか? 
《おまえの罪 おまえの過失である》と言っている。何度も繰り返し言っている。

この《おまえの罪であり過失である》という咎めは 取り下げられなかった。ど
ういうわけがあるのか?

ゴータマが 弟子アーナンダを咎めるのは 筋がとおらない。阿呆である。



§ 2 人生の四苦説は 最後まで取り消されることはなかったのか?

▲ (苦か楽か。涅槃?) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
・・・尊師はこのように言われた。
  ――アーナンダよ。ヱ゛ーサーリーは楽しい。ウデーナ霊樹の地は楽しい。
  ゴータマカ霊樹の地は楽しい。七つのマンゴーの霊樹の地は楽しい。・・・
    修行を完成した人(如来)は 四つの不思議な霊力(四神足)を修し・
  ・・かれは もし望むならば 一つの劫のあいだでも留まるであろうし あ
  るいはそれよりも長いあいだでも留まることができるであろう。・・・

(中村訳 前掲書 第三章〔一〇、命を捨てる決意〕一)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

【Q‐3】 生老病死なる苦 とりわけ生なる苦――《根本的な生存欲》(?)な
る苦――を言い続けたのではなかったか? けれども 死を前にして 《楽しい》
と言っている。

つぎの【Q‐4】をも合わせて捉えるなら おかしいと考えられる。つまり 苦は
楽に変えることが出来ると明言しなければいけない。四苦を説くその初めそのも
のにおいてである。

あるいはむしろ 楽が地であって 苦は図であるのだと。苦説は とおらない。


【Q‐4】 輪廻からの解脱 つまり二度と再生しないことが ブッダなる存在の
あり方ではなかったか? けれども 《一つの劫のあいだでも留まるであろう》
と言っている。阿呆か。




§ 3 《われ》としてのアートマンを否定したのではなかったか?

▲(自灯明・法灯明) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  ――・・・この世で自らを島とし 自らをたよりとして 他人をたよりとせ
  ず 法を島とし 法をよりどころとして 他のものをよりどころとせずにあ
  れ。

(中村訳 前掲書 第二章〔九、旅に病む〕二六)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

【Q‐5】 《島》を 灯明として解する説を採らないにせよ ここで《たよりと
する自ら》とは 《アートマン》とは別なのであろうか? 《無我(アン‐アート
マン)》を説いているのだから その区別を明らかにすべきではないか?


【Q‐6】 けれども 今度は《自灯明・法灯明》説にもとづいて問うとすれば 
《自らを頼りとし〈灯明〉とする》ことは その《わたし》なる自己をただその
ときその場での《明かりあるいは光》とするだけではないのか?
 
つまり 医学などの科学としての光明や人間としての思いやり・愛情として暖か
みは 何も《さとり》を得なくとも 人間の能力と人生経験と心において得られ
るものである。
 
ゆえに 問題は 《みづからの心の 燈 心 を灯す》ことなのではないか? 
みづからを灯明とすることではなく。 

自灯明(あるいは 法灯明を意志する自灯明)であるなら 《自己のチカラ》は 
かなり発揮され得るであろうが やはり程度問題であるにとどまるのではないか。 

みづからが 泉のごとく水の湧き出るチカラとなるのが ブッダなのではないか? 
水をどこかから引っ張って来る。あるいは その時その場で明かりを灯すという
ことは出来ても 長続きする水や光は 《わが心の 灯心そのもの を灯す》こ
ととして問い求めなければいけないはずだ。

こういう主題ないし問題意識が 欠けているのではあるまいか?
 
《わが心の燈心をともす》ことと《人間の能力や愛情なる光によって一隅を照らす》
こととは 違うのではないか? 後者は 一時的・暫定的であり無常にしたがう。
前者は あたかもこの無常から自由である夢(まぼろし)に臨んでいる。



☆ これらの問いをくつがえし得ないとすれば ゴータマ・ブッダは やっぱ阿呆
である。

以上について よろしくご教授ください。

A 回答 (9件)

bragelloneさん お礼ありがとうございます。



>神とは何か? が分かっていなかった。

これこそ、ドーナンダですね。
分かっていたとは思いますけれども。
そうすると、どうしても輪廻転生や決定論から自由になることが不可能になります。
人間の能力だけで自由は得られるという経験をしたのだと思います。
確かに、人間の能力は神からもたらされたという考え方から切り離せないのですけれども。

だから、誰も理解できないとした。
でも、現実は自由になれるので、未来は非決定論なんだよと。
あるがままの認識=諸行無常→空→量子論
「現実は空想より奇妙である」と、私は思います。
私はハダカデバネズミは嫌ですね。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

次の図式を見てください。

  A. ブラフマニズム:梵我一如
   梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神
   我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我

  B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)
   無梵:空(シューニャター)・ゼロ
   無我:アン‐アートマン;ニルワーナ

  C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)
   仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)
      / マハーワイローチャナ(大日如来)
   仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)

  D. クリスチアニズム:霊霊一如
   霊:神・聖霊
   霊:《神の宮なるわれ》

  E. (プラトン?):霊霊一如
   霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)
   霊:《われ》

  F. 《もののあはれを知る》:霊霊一如
   霊:かみ(自然および超自然。普遍神がその分身として捉えられている)
   霊:われ(自然本性)

  G. ユダヤイズム:霊霊一如
   霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)
   霊:われ

  H. イスラーム:霊霊一如
   霊:アッラーフ(イラーハ=神)
   霊:われ

☆ 普遍神が 民族とその言語の違いに応じて いくつかの名前で呼ばれます。
その神(=霊性)に人間たるわれが呼応する心の庭は これもさまざまに呼ばれ
ています。

 A. ブラフマニズム:梵我一如(=有神論)
 C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)

これらふたつは まったく同じです。名前の違いを除けば。
ゴータマ氏の神論について最大限好意的に捉えるなら:

 B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)

となるであろうと踏んだ解釈です。けっきょく神を否定したとしても 神はビク
ともしない。変わりない。絶対性なのですから。

したがって 《無い神》も 《有る神》と同じひとつの普遍神の呼び名でありそ
の信仰であると帰結されます。

ということですが・そのようになるのですが ゴータマ氏は 知らなかった。な
ぜなら 知っていたら わざわざアートマンを否定することはなかった。

身分制をつくった宗教のブラフマニズムを否定することと 梵我一如を否定する
こととは別なんです。


ハダカデバネズミ?

お礼日時:2019/02/27 04:25

bragelloneさん こんばんは



ブッダが自分の意志で哲学の達人に成った人だとしたら、客観的な視点から弟子に助言はできるのでしょうね。
弟子が自分の意志で学び考えて行動することが前提になりますけれども。

例えば、学問やスポーツや職業には尊敬できる先生がいらっしゃると思いますよ。いわば菩薩では。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

☆☆(№7お礼欄) ① 《瞑想》は 人知を超えた場であり 
② それの認識としての表現は 経験的な思想であると。

もし:
★ ブッダが自分の意志で哲学の達人に成った人だとしたら
☆ それは とどのつまり・きわめて煮詰めた議論としては 《無い神》派
の神論でありそのような透き通った信仰のもとにあるのだと見ます。

つまり 上の①の段階については 人間としての自分においては かまうこ
とないかたちの行き方なのではないかと。

①の段階は 誰にもあることはある。のだと見ています。



ただし 端折った議論になりますが ゴータマ氏は けっきょくのところ神
論について 分かっていなかった。と見ざるを得ないと思います。

神とは何か? が分かっていなかった。

《有る神》派が出たのは・つまり梵我一如と同じ有神論が現われたのは ゴ
ータマ氏の死後に アミターバ・ブッダやあるいはマハーワイロ―チャナ・
タターガタ(大日如来)を神として掲げたブディストたちであった。

このブッダは けっきょくブラフマン神と同じ神でしょう。普遍神がそれぞ
れの名で呼ばれたというだけの違いでしょう。

ブッダター(仏性)は アートマン(霊我)のことなはずです。





★ 例えば、学問やスポーツや職業には尊敬できる先生がいらっしゃると思
いますよ。いわば菩薩では。
☆ こういう事例は 神論を抜きにして 思想や人生観を語る場合なのだと
見ます。



繰り返しになりますが ゴータマ氏は 《アン‐アートマン(無我)》を言い
ました。これが 神のことでしょう。つまり 普遍神をアナートマンと呼ん
だ。これが 《無い神》なる神です。

この《無い神》派なる信仰は ①の瞑想の段階を放っておくのですから い
ま上の《菩薩》と呼んだ場合のような・ごくふつうの一般生活に見られる努
力のことだと思われます。

お礼日時:2019/02/27 00:05

bragellone さん こんにちは



ヒラメキの問題ですね。
人間は自分が悩んでいる時や危険な時、突然何者かに助けられます。
それは、自分の意志で学び考え行動している時に訪れます。

このカテでも数名の方がおっしゃておられますけれども、どうしても、解決できない問題で悩んでいる時、何者かが降りてくる。突然ヒラメクのだと。
それは、夢うつつな時間が認識し易い、夢枕に何者かが立っている気配がする。

たぶん、自分自身が自分を観ている姿だと思います。
スポーツで言えばゾーン体験。
普段は、何者かが降りてくるヒラメキ。
危険な時は霊感。

これが、瞑想によって得られた、客観的な人間の認識能力なのかもしれません。
ミラーニューロンによる、他人からの認識を受信した自分の認識かもしれませんけれども。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ ヒラメキの問題ですね。
☆ はい。つまり:
☆☆ (№6お礼欄) 《燈心をともす》のは結果として 人間たるわれが
ですが その直接の作用は 《真理=仏性》のほうがだ
☆ 同じく:
▲ (道元) 万法すすみて〔――その恩恵にて――〕自己を修証するは
さとりなり。



★ 人間は自分が悩んでいる時や危険な時、突然何者かに助けられます。
それは、自分の意志で学び考え行動している時に訪れます。
☆ ――なんですが・そうなんですが その自分の努力(および能力)とは
よく考えてみて 直接の関係がないんですよ。どこかから来たヒラメキなの
だと思います。

すなわち:
★ このカテでも数名の方がおっしゃておられますけれども、どうしても、
解決できない問題で悩んでいる時、何者かが降りてくる。突然ヒラメクのだ
と。


☆ そして確かに 夢の中ででもヒラメキが来ますね。:
★ それは、夢うつつな時間が認識し易い、夢枕に何者かが立っている気配
がする。




★ ~~~~~
たぶん、自分自身が自分を観ている姿だと思います。
スポーツで言えばゾーン体験。
普段は、何者かが降りてくるヒラメキ。
危険な時は霊感。
~~~~~~
☆ ん? ここは 片や 人知を超えたヒラメキと 片や 人間の・自分の
能力としてのハタラキとが ごっちゃになっていませんか?

ごっちゃになっていたほうが いいのかなぁ?


★ これが、瞑想によって得られた、客観的な人間の認識能力なのかもしれ
ません。
ミラーニューロンによる、他人からの認識を受信した自分の認識かもしれま
せんけれども。
☆ あぁ。なるほど。① 《瞑想》は 人知を超えた場であり ② それの
認識としての表現は 経験的な思想であると。




だけど 人びとのブディズム観は まだまだひどいですよ! つまり あま
りにも きれいにととのった規範をかかげているだけに終わっています。

てふてふさんが 何とかしてください。(わたしは 口がわるいので)。

お礼日時:2019/02/24 10:22

bragelloneさん こんばんは



▲ (アハンカーラ論(?))~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 《わがもの》という観念を離れ 自我意識を離れたものなるものは
 存在しない。《わがもの》という観念を離れ 自我意識を離れたも
 のなるものを見る者は 〔実は〕見ないのである。
 (ナーガルジュナ:『中論』第十八章 アートマンの考察 第三詩)

という。これは驚異的な発言である。われわれは平生は我欲に悩まされ
ているから 我欲を離れた境地に到達したいと思う。ところが我欲を離
れた境地というものが別にあると思う人は 実は真理を見ていないので
ある。
   
     (中村元『龍樹』2002 pp.225-226)

>流石 bragelloneさん

これは、人間の事は人間にしか解決できないという文章ですね。
だから、ブッダは人間として人類のために世界で初めて、人間として生きるにはどうしたらいいのか実践したのでしょう。
そして、彼は菩提樹の下で遂に悟った。
《わが心の燈心をともす》事によってできると。
人間は社会的動物なので、人々が私を慕って助けてくれたおかげでできたのであって、私もこの上なく嬉しい。
でも、私の言うことは誰も理解できないであろう。

しかし待てよ、人間は社会的な動物だそれならば、私が対機説法をすれば、バタフライ効果、シンクロニシティによって、やがて理解できる人間が現れるだろう。
同じ人間だから、誰にでもできるはずだ。
そして、人々は自らの姿を神として救われるのだと。

>《わが心の燈心をともす》ことと《人間の能力や愛情なる光によって一隅を照らす》
こととは 違うのではないか? 後者は 一時的・暫定的であり無常にしたがう。
前者は あたかもこの無常から自由である夢(まぼろし)に臨んでいる。

前者と後者は違うけれども、前者は、自由は幻ではありません。確かに、生きるとは夢なのかもしれませんけれども。

bragelloneさん 自分で答えを書くとはずるいですね。
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この回答へのお礼

こんばんは。ご回答をありがとうございます。

☆☆ >《わが心の燈心をともす》ことと《人間の能力や愛情なる光によって
一隅を照らす》こととは 違うのではないか? 

★ 前者と後者は違うけれども、前者は、自由は幻ではありません。
☆ 《後者は 一時的・暫定的であり無常にしたがう》という見方には 賛成
してくれたのですか? 《空として現象しているけれど それはすべて空であ
る》となります。

前者は 経験的に実証できるものではないけれど この無常ないし空であるこ
とを超えている――人知を超えている――その場(ないしチカラ)を想定して
います。そういう開かれた現実性です。

要するに ブッダター(仏性)を想定した場合の世界観・人間論です。



龍樹=中村元の説は:
★ 人間の事は人間にしか解決できないという文章で
☆ は ないですよ。それは 《一隅を照らす》説です。

つまり:
▲ 真理〔を見る・見ない〕
☆ を問うているなら 《人知を超えた・超経験世界》のことを想定した人間
論です。《わが心の燈心をともす》ほうです。

そして この表現が舌足らずだったと思われることは 《燈心をともす》のは
結果として 人間たるわれがですが その直接の作用は 《真理=仏性》のほ
うがだということです。

《恩恵》というわけです。《空》をも超えたチカラのはたらきです。《空観》
を得させるその場の実現という――想定上の――現実です。


★ 私が対機説法をすれば、バタフライ効果、シンクロニシティによって、や
がて理解できる人間が現れるだろう。
☆ これは バタフライ効果が どれだけの現実性を持つのか分かりませんが
人間の光と意志とで《一隅を照らす》方式です。

さとりとは何かについて 説明できないのは 対機説法でもなければ説法でも
ないです。

あなたは・そして多くの人は ゴータマ氏を擁護しようと汲々になっているの
ではありませんか? 事実は事実 真実は真実。間違いは間違い。ダメなもの
はダメ――です。

▲ (道元:現成公案) ~~~~~~
自己をはこびて万法を修証するを迷とす、
万法すすみて〔――その恩恵にて――〕自己を修証するはさとりなり。
~~~~~~~~~~~~~~~~

お礼日時:2019/02/24 04:13

bragelloneさん お礼ありがとうございます。



>だが さとりとは何か? について終(つい)ぞあきらかにしなかった。

ブッダは人々の苦を除くために、対機説法をしました。
ここから導き出される答えは、「人間万事塞翁が馬」でしょうか。

この世界をあるがままに観れば諸行無常であって、有と無が同時に存在する空という考え方です。
物理学の相対性理論と量子論に繋がっていきます。
量子コンピューターの開発も始まっています。
ブッダの人間の視点からの思想は、神では解決できない問題を解決しそうな気がします。

>宗教も無くならないと思います。

神を信じることは人間に希望を与えてくれます。

また、人間が社会的動物であることは、ホモサピエンスが個体としては優れていたネアンデルタール人より繁栄したことで明らかです。

生き物が自分の遺伝子を残すには、子孫を残す方法と兄弟を残す方法があるそうです。
遺伝子的には、同じに観えます。
社会的動物として白アリやハダカデバネズミは、社会的な役割分担として体の作り自体も違うそうです。
社会的な分業は生き物のとっては必ずしも生存に不利ではないので、無くなりません。
むしろ、AIやゲノム編集によって、さらに加速するかもしれません。
現代の輪廻転生といえるのかもしれませんね。

>今こそ,AIやゲノム編集に対抗するために、ブッダの欲に捕らわれない思想(自由に生きる)が必要になっていませんか。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ ブッダは人々の苦を除くために、対機説法をしました。
☆ ところが 法華経・方便品で弟子のシャーリプトラらが ぜひさとりと
は何かをおしえて欲しいと懇願したところ これを拒否しました。
【Q:ゴータマ・《ブッダ》がペテン師だというのは何故か】


★ ここから導き出される答えは、「人間万事塞翁が馬」でしょうか。
☆ ブディズムとは関係ないですね。

★ この世界をあるがままに観れば諸行無常であって、有と無が同時に存在す
る空という考え方です。
☆ シューニャター(空)論は よろしいでしょうね。ただ ここで問題とし
ていることは 《わが心の燈心をともす》ことです。


★ ブッダの人間の視点からの思想は、神では解決できない問題を解決しそう
な気がします。
☆ いまごろそんなことを言われても。・・・



★ 神を信じることは人間に希望を与えてくれます。
☆ そう思います。

★ また、人間が社会的動物であることは、ホモサピエンスが個体としては優
れていたネアンデルタール人より繁栄したことで明らかです。
☆ 相対性――比較優劣――の問題ではなく 《わが心の燈心をともす》とい
う主題はどうか?



★ >今こそ,AIやゲノム編集に対抗するために、ブッダの欲に捕らわれない
思想(自由に生きる)が必要になっていませんか。
▲ (アハンカーラ論(?))~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 《わがもの》という観念を離れ 自我意識を離れたものなるものは
 存在しない。《わがもの》という観念を離れ 自我意識を離れたも
 のなるものを見る者は 〔実は〕見ないのである。
 (ナーガルジュナ:『中論』第十八章 アートマンの考察 第三詩)

という。これは驚異的な発言である。われわれは平生は我欲に悩まされ
ているから 我欲を離れた境地に到達したいと思う。ところが我欲を離
れた境地というものが別にあると思う人は 実は真理を見ていないので
ある。
   
     (中村元『龍樹』2002 pp.225-226)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

お礼日時:2019/02/23 19:43

bragelloneさん こんばんは



ブッダは、カースト制度という身分制度に捕らわれない自由な生き方を考えたのだと思いますよ。
そのためには、自分の意志で学んで行動する(法灯明)自分の意志で考えて行動する(自灯明)ということです。

ブッダが阿保なのではなくて、今の宗教の信徒が自分の意志を蔑ろにして教えだけを守っているとするならば、信徒は阿保です。
当時、アーナンダがどのような状態だったか正確には解らないので、答えは、bragelloneさんのおっしゃる通りドーナンダです。

自分の意志を無理に主張すれば、他人にも非難されかねません。
しかし、自分の意志を蔑ろにすれば、自分にも他人にも悪です。
ブッダが個人の幸福と人類の幸福を同時に考えていたとするならば、自然と答えはでるかもしれないのですけれども、人間には無理なのでしょうね。

鍛冶工チュンダを咎めなかったのは、彼が後悔しないようにみたいですよ。
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この回答へのお礼

tefu_tefuu さん お久しぶりのこんにちは。

★ ブッダは、カースト制度という身分制度に捕らわれない自由な
生き方を考えたのだと思いますよ。
☆ 志向性としておっしゃるとおりでしょう。ただ 自分はなに不
自由のない優雅な生活をしていたわけで その身分制を社会変革と
いったかたちで変えようと思っていたか?

下層身分の人びとの生活を知りこれをあわれみ けっきょくその悲
惨さから《すくわれる》には どうすることが考えられるか?

輪廻転生として前世からの因縁だ〔から あきらめなさい〕という
説明は ブラフマニズムからすでに打ち出されていたわけで それ
に対してゴータマは 《生まれではなく おこないによるのだ》と
いう説を推し出したとは言え けっきょく《大化城》という言い方
をしているように 世界におけるおのれの位置するそのままの姿と
しての真実を見て捉えその――まぼろしであろうとも――和解した
心に拠り所を問い求めた。

だが さとりとは何か? について終(つい)ぞあきらかにしなか
った。




★ そのためには、自分の意志で学んで行動する(法灯明)自分の
意志で考えて行動する(自灯明)ということです。
☆ そんなことは誰でも考えることでしょう。それだけなら ブラ
フマニズムで用が足りるのでは?

★ ブッダが阿保なのではなくて、今の宗教の信徒が自分の意志を
蔑ろにして教えだけを守っているとするならば、信徒は阿保です。
☆ この師にしてこの弟子あり この信徒あり。

★ 当時、アーナンダがどのような状態だったか正確には解らない
ので、答えは、bragelloneさんのおっしゃる通りドーナンダです。
☆ へええ。ここは ソーナンダ。

★ 自分の意志を無理に主張すれば、他人にも非難されかねません。
しかし、自分の意志を蔑ろにすれば、自分にも他人にも悪です。
ブッダが個人の幸福と人類の幸福を同時に考えていたとするならば、
自然と答えはでるかもしれないのですけれども、人間には無理なの
でしょうね。
☆ ですから 唯我独尊なる《さとり》を看板に書くことはなかっ
た。

★ 鍛冶工チュンダを咎めなかったのは、彼が後悔しないようにみ
たいですよ。
☆ 後悔はするでしょうが 自分を咎め過ぎないように。つまり
アーナンダにしても おんなじはずなのに。・・・

お礼日時:2019/02/23 03:52

ヘラクレス、兆層、ヘラクレイトス、へーラーの質問が削除されてしまい


イオニア方言とか全然判りませんが
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この回答へのお礼

または アッティカ方言(アテナイ)。そして コイネー。

ドーリア(ドリス)方言は あのスパルタを築き イタリア南部・
シチリアにまで勢力を伸ばしたが 文語として成らなかったらしい。

お礼日時:2019/02/21 04:33

それは、あなたの感想。

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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


あなたの見解をのぞむのは 無理として 感想や印象なら あるかも
知れない。№1=№2のほかには もうないですか?

あったら 聞かせてください。

お礼日時:2019/02/20 07:14

それは、あなたの感想。

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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


同類相憐れむ。

お礼日時:2019/02/20 07:12

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あるいは ケースバイケースの多様性があり過ぎますか?

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この二つの間の決定的な違いは、時計など前者の構造の出現には、まずそれが何故作られたかの目的が前もって与えられており、さらにその目的を追考するために、その機械の外部にある者が目的や設計図に沿って作り出された複雑な構造であるのに対して、後者には、そんな目的もそれを作る外部の者も、そして前もって与えられたシナリオもなく、外界のと成り行きに任せて、擦った揉んだしながら、すなわちケ・セラ・セラってな具合に自発的に発生した複雑な構造だ。この成り行き任せで自発的に創出された複雑な構造のことを物理学では「散逸構造」って呼んでいる。

前者と後者の際立った違いは、前者は外部からのいろいろな障害や状況の変化に大変脆いのに対して、後者はそれらに対して頑強な抵抗力があることだ。何故なら、後者は外部との予期せぬ(従って確率的に起こる制御不可能な)いろいろな状況との相互作用で、成り行きに任せながらケ・セラ・セラてな具合に収まるところに収まるようにして、自発的に出来上がってくる。ケ・セラ・セラとその状態に留まっているのが(少なくとも局所的に)一番安定していることが理由で出来上がってきた構造だから、その状態を外部の者が無理やりズラしてしまっても、再びその安定状態に自発的に戻ってしまう。すなわち、自己修復の機構を持っているんだ。さらに、元々その構造が何のためにそこにあったのかなんてな目的が始めから無いんで、なんとなくそんな目的でも有ったつもりでいたのに、状況が変わって、その目的がなんだかわからなくなってしまっても意に介せずに存在し続けられる。ところが、前者には自己修復の機構もなく、また状況が変わって目的がなくなったら存在している意味すらなくなってしまうから、外部からのいろいろな障害や状況の変化に対して大変脆いんだ。

んで、さらに制御不可能な環境から、どのような仕掛けでそんな複雑で無目的な構造が自発的に創出できるのか、その条件は何かってな問題が当然浮かび上がってくる。それには3つあって、1)開放系であること、2)非線形効果が無視できなくなってしまうぐらい熱平衡状態から十分離れている「非平衡状態」にいること、3)一旦偶然に出来上がった構造を破壊するように制御不可能な形で外部から飛び込んできた要素をいつまでも覚えているんじゃなくて、その要素を「散逸」させて忘れさせてしあう仕掛けがあること、この3つだ。

あたしゃ、この文脈で「非平衡」って言葉使っているんで、ブラブラさんのこの言葉の用法とは違っているいみたいだね。

この3つの条件の中で数学的に一番面白いのは2)の非線形性だ。でも、物理的にもっと面白いのは3)だ。情報の散逸が起こるということは時間の向きの対称性が破れているってことだ。さらにその現象を数学的な方程式で書く場合、決定論的な微分方程式ではなくて、確率変数の従う非決定論的確率論的微分方程式になってしまう。だから、この宇宙って決定論的にできているのか、それとも非決定論的にできているのかという、物理学の最も基本的な問題に絡むからだ。

要するにケ・セラ・セラってえのは、神様がいるのかいないのかってな問題に絡み出す。だから、ケ・セラ・セラで出来てくる複雑な構造という最も本質的な部分を強調して「散逸構造」って名付けられたんだ。ここでの会話の成り行きだったら、「ケ・セラ・セラ構造」って呼んでも良いね。

今回は、ブラブラさんが、あたしの得意なケ・セラ・セラってな言葉を的を射て使ってたんで、今回はあんたを揶揄うのをやめて、あたしからぬ真面目な反応をしたんだ。いつもと違って、気持ち悪かっただろう。

>ケ・セラ・セラと言っていてよい確率は ふつうの人間のけんかだとか社
会的対立の場合に 50%を超えるのですか? それとも もっと少ない
のですか?
あるいは ケースバイケースの多様性があり過ぎますか?

質問の意味が、もう一つしっくりと判らないんだけど、ケ・セラ・セラ(What will be, will be、なるようになる)から来る、私の反応を書いておきます。

我々が複雑な構造と言うときにその言葉で表されているものに、その出現の根拠が全く違った2種類のものがある。その一つは、精密で巨大な振り...続きを読む

Q哲学カテ界隈で話が噛み合わない現象が起きるのは何故だと思いますか?

タイトル通りです
自分で色々考えてますがたまには
他人の意見聞いてみたくなったので質問しました

私個人の現在の考えでは
「質問という体で問いかけしてるが
実際は(質問者にとって)優秀な弟子、賛同者が
欲しいだけなんとちゃうかな」
って考えが主流となってますね

「話が噛み合わない現象なんて起きてないよ!」
って思う人はこの質問スルーしてください
尚、この質問は哲学的な問答を求めていません
アンケートみたいなものです

Aベストアンサー

>私個人の現在の考えでは
「質問という体で問いかけしてるが
実際は(質問者にとって)優秀な弟子、賛同者が
欲しいだけなんとちゃうかな」
って考えが主流となってますね

顕著ですね。
基本的に素人の集まりにすぎないので、質疑を交わすこと自体が問題を次第に掘り下げていく形になる場合が多いと思います。
持論を述べるのはむしろたたき台として必要なわけですが、しかし、賛同者を求めるのが目的の人は、その過程を重視せずに、相手を持論に引きずり込むことだけを考えている。
最初から質問が目的じゃないので噛み合うはずがない。

そういった輩と、真摯に何かを探求しようとする人との違いは、論理的な根拠を示しつつ持論を展開しているかどうか、という点。
賛同を求める乞食の輩は、論理的な根拠が提示できなくなると、強引にかぶせてきますからすぐに判別できる。
どうでも良い箇所では物分かりの良い顔して猫なで声を出すのが得意ですが、いざ本丸に攻め込まれると見境も無く髪を振り乱してあたふた大声で怒鳴り散らす。
おだてられての木登りも大得意。

それでも論理を辿ることさえお互いできれば、そんなに大きな齟齬は生じないものです。
で、そういう輩に限って、自分の質問に回答がひとつもつかなかったりすると、自分の頭が良すぎて他人には理解できないのだ、などと妄想に浸りつつ、ひとり悦にいったりする。
ダダを捏ねる赤ん坊みたいなもので、誰か面倒を見てくれる人がいると世の中は平和で助かる。
見解の相違だね、とお互いに質疑を保留できる余裕があるうちは、可能性がまだある。

>私個人の現在の考えでは
「質問という体で問いかけしてるが
実際は(質問者にとって)優秀な弟子、賛同者が
欲しいだけなんとちゃうかな」
って考えが主流となってますね

顕著ですね。
基本的に素人の集まりにすぎないので、質疑を交わすこと自体が問題を次第に掘り下げていく形になる場合が多いと思います。
持論を述べるのはむしろたたき台として必要なわけですが、しかし、賛同者を求めるのが目的の人は、その過程を重視せずに、相手を持論に引きずり込むことだけを考えている。
最初から質問が目的じゃな...続きを読む

Qもし、日本にキリスト教がもっと普及していたら?

アメリカでは、人口の70%がキリスト教徒だそうです。
日本では、キリスト教徒は人口の1%です。その割には、クリスマス、バレンタイン、ハロウィンなどキリスト教の行事が盛んですが。
それはさておき、
もし、日本に、キリスト教が、もっと普及していたら、日本は変わっていたと思いますか?日本の社会や国民性は変わっていたと思いますか?もしそうなら、どのように変わっていたと思いますか?

Aベストアンサー

日本は「宣教師の墓場」といわれていたくらいで、西洋では知識階層の宣教師の論法が日本の農民に論破されるくらいですから、普及することはあり得ないと思いますよ。ザビエルが日本を撤退するとき、「ほとほと疲れた」と書いています。

インドが200年イギリスに支配されてもキリスト教が布教できなかったり、中国にも景教以外のキリスト教はほとんど入っていません。アブラハムの宗教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教など)に対抗できる精神的風土を持つ国にはキリスト教は進入できませんでした。持っていなかった韓国のキリスト教はカトリックやプロテスタントではなく、カルト教会が大部分で、代表が統一神霊協会です。

Q絶対善はあるのです。

私は絶対善はあると主張していますが、皆さんはそんなものなどないと否定されます。でも私が言いたい事は常識的なことなのです。

この群れ社会において最も大切なものは何か?それは群れ社会の安寧秩序です。これは社会が平穏でルールが守られ安心して暮らせることです。これを守る事が最も正しい事なのです。この群れ社会においてこれ以上大切なことはないのです。これに異論がありますか?

そしてその群れ社会の安寧秩序を守る為に最も優れた方法が「私より公を優先すること」なのです。でも「私より公を優先すること」と言われても何か分からないでしょう。ですから分かり易く言えば愛や思いやりや慈悲心などですと説明しています。これはキリストが説いた愛です、孔子が説いた仁、つまり思いやりです、そして釈迦が説いた慈悲の心です。そしてこれらに内包、共通しているのが「私より公を優先する心、行為」です。

「私より公を優先する」とは分かり易く言えば「私欲という自分の思いを少し抑えて公の為とみんなで考え行うこと」です。自分の私欲の心を少し抑えて、一人一人がみんなの為と考えることです。これは民主主義を示しています。そして「みんなの為」と考えるということは皆さん一人一人がリーダー、その群れのトップの立場に立って考えると言うことです。それは強い責任感をもって考えると言うことです。そのような心を一人一人みんながもって、みんなで考えれば最も正しい答えに辿り着ける確率が高くなるよ、ということです。これ以上に優れた方法が何かありますか? これが私の言う絶対善なのです。

その群れ社会にとって絶対的に正しいことは社会の安寧秩序であり、そのために最も優れた方法が「私より公を優先する事、つまり愛や思いやりや慈悲心」なのです。もちろんこれは最高の方法を示しているので一般的にはなかなかできないことです。しかしそれを目指す事こそが最もより良い社会が創れるのだ、と言う事なのです。

私は絶対善はあると主張していますが、皆さんはそんなものなどないと否定されます。でも私が言いたい事は常識的なことなのです。

この群れ社会において最も大切なものは何か?それは群れ社会の安寧秩序です。これは社会が平穏でルールが守られ安心して暮らせることです。これを守る事が最も正しい事なのです。この群れ社会においてこれ以上大切なことはないのです。これに異論がありますか?

そしてその群れ社会の安寧秩序を守る為に最も優れた方法が「私より公を優先すること」なのです。でも「私より公を...続きを読む

Aベストアンサー

いろいろな人がいっぱい書き込んでくれて、芯木(shinwood)さんは今回いろいろ学んだんじゃないでしょうか。芯木さんの今回の作戦の誤りは、世の中には、形式を重要視する人と実態を重要視する人の両方がいることを無視して、実態を重視する芯木さんの一方的な表現を使ってその主張がなされていることです。

「手術は成功した。しかし、患者は死んだ」

要するに、患者の生死の実態よりも、手術の手順と形式の正確さの方に興味を持つ方がこの世の中にはいくらでも居られるのです。そして、哲学好きな人にこの形式組の人がいっぱいいます。そうした方々は、言葉の使用法の形式の方に興味が優先してしまい、たとへそこで使われている言葉が不完全でもそこで言っていることの内容や実態をなんとか理解しようという方向に興味を向けない傾向にあります。

「あんたの言いたことはなんとなく判るんだが、そのような言葉の用法はその内容と矛盾しており、間違っている」

などと言って、言葉の使い方が間違っているから、あなたの言う内容も間違いだ、などと考えてしまう人もいくらでもいます。だから、芯木さんが言いたいことの本質を論じようとするのではなくて、絶対の意味などの言葉の使い方がこだわった回答が多くなっているのです。

そのような人たちは、左を指差しながら、「右、右」と言っている人の心を察することができず、その間違いを言いつのる傾向があります。この場合、常識的に見て、指を差している方向をその発信者が言いたいのは明らかですのに。

物事を論じるためには、その内容も、その言葉の使い方も、両方とも重要です。しかし、その両方を同時に論じることにどれだけの生産性があるか、自明ではありません。大論文でもない限り、それを意識せずに両方とも同時に論じてしまうと誤解を招き、混乱さえ起こしかねません。ですから、何かを論じる場合には、内容か、形式か、そのどちらにより重点を置いているのか、文面から明確にわかるように書いておく方が、生産的な議論のやり取りができます。

ここでの主題は「公に対する奉仕」なのだと思いますが、例えば、「公」という言葉一つとっても、人によってその意味がだいぶ違い、芯木さんが言いたい意味では受け取ってくれない場合が散見されます。いわんや、「絶対」などという、一神教の影響を受けた西洋文化大好連中が好んで使う言葉は、哲学好みの人たちには刺激的すぎて芯木さんの言いたい内容よりも、その刺激的な言葉に拘ってしまう人がいくらでもいます。

出来るだけ刺激的な言葉を避けてご自分で言いたいことを表現することを工夫すると、芯木さんのご主張に賛同する方も増えるのではないでしょうか。また、どうしても「絶対」と言う言葉を使いたいならば、論述を始める前に、ここでのこの言葉は、、、、を意味するものとして特殊な使い方をしている、などと一言を入れておくと、読者もそのつもりで読んでくださると思います。

いろいろな人がいっぱい書き込んでくれて、芯木(shinwood)さんは今回いろいろ学んだんじゃないでしょうか。芯木さんの今回の作戦の誤りは、世の中には、形式を重要視する人と実態を重要視する人の両方がいることを無視して、実態を重視する芯木さんの一方的な表現を使ってその主張がなされていることです。

「手術は成功した。しかし、患者は死んだ」

要するに、患者の生死の実態よりも、手術の手順と形式の正確さの方に興味を持つ方がこの世の中にはいくらでも居られるのです。そして、哲学好きな人にこの形式...続きを読む

Q科学

超初歩的な質問です。

「サイエンスする」とはどういうことでしょうか?

哲学は科学の範疇には入らない、という考え方が多いようですが、そうだとすると
それは、何故ですか?

Aベストアンサー

基本的には、科学が形而上学でないと言う事が違いなんだと思います。(これに関しては、量子力学の「解釈」は、その実体を観察できない以上「形而上学」に過ぎないと言う批判はあるでしょう)
あらゆる形而上的な概念を排除しようとした、マッハなどは、その立場としては、科学的でしょうが、それを思想的な衝動とした時点では、哲学的と言えるでしょう。
20世紀初頭は、現代の科学的な方法論は、ほぼ確立していましたが、現象の解釈と言う点では、まだ自然哲学から抜け出ていなかったと言えるでしょう。
実際問題としては、「科学」、狭義には「自然科学」の厳密性を担保するのは、「現象」そのものです。(現象以外は、基本的に検証の対象にならないと言えるでしょう)
「哲学」は、その性質上、形而上の存在も対象としなければいけません。 したがって、その厳密性の担保は、哲学が方法そのものから、生み出す必要があります。(これが、「哲学」が一筋縄では行かない所以です)
厳密性が一定の範囲で、確実に担保できるのは、形式科学としての「数学」ですね。(むしろ、厳密性が担保できる「形式」を見つけるのが、「数学」なのかもしれません)
宗教もある意味、「数学」に似ています。 それは、宗教の信仰者からは、そのようなものでは無いと言われるかもしれませんが、何らかの信仰対象に対して、信仰者がある形式で、その信仰を行う活動と言えなくも無いわけです。(その形式の分析は、宗教では無く、「宗教学」と呼ばれるでしょう)
古代ギリシャにおいては、これらは、全て「哲学」の領域にあったと言えるでしょう。(「数学」、「自然学」、「形而上学」は、「哲学」の中で混然一体として議論されていたわけです)
ヨーロッパにおいては、ローマ帝国によるキリスト教の国教化に伴い、しばらくは、(キリスト教)「神学」は、自然哲学や「形而上学」としての、プラトニズムと混然一体として、「哲学」としても、蜜月を迎えましたが、16世紀以降は、暗黒時代を経て、「哲学」からは、それぞれ「神学」、「自然科学」として、分科していきました。
分科した理由はさまざまでしょうが、基本的に「哲学的」な厳密性では、上手くゆかなくなったのが、一番の理由でしょう。
(キリスト教)「神学」は、その宗教的理由から、教義にかかわるような議論を嫌ったわけでしょうし、「自然科学」は、原因を追究するより、現象の法則の科学的解明の方が重要だったと言う事です。
「数学」も、論理実証主義により、その厳密性を確立する事を目指しましたが、ヘーゲルなどにより、その基盤が確実で無い事が証明されてしまいました。(したがって、一定の形式における論理的整合性の検証に特化したわけです)
これらは、「Why(何故)」から、「How(どのように?)」への転換と言えます。
「哲学」が追求するのは、「Why」でしょう。
「科学」は、「How」であり、一部の解釈は、「Why」となります。(ただし、解釈は、あくまで解釈であり、実証は成されていないでしょう)
これが、「哲学」と「科学」を分ける境界なんでしょう。

基本的には、科学が形而上学でないと言う事が違いなんだと思います。(これに関しては、量子力学の「解釈」は、その実体を観察できない以上「形而上学」に過ぎないと言う批判はあるでしょう)
あらゆる形而上的な概念を排除しようとした、マッハなどは、その立場としては、科学的でしょうが、それを思想的な衝動とした時点では、哲学的と言えるでしょう。
20世紀初頭は、現代の科学的な方法論は、ほぼ確立していましたが、現象の解釈と言う点では、まだ自然哲学から抜け出ていなかったと言えるでしょう。
実際問題...続きを読む

Q《情けは人の為ならず》再考

1. まづ 《ただしい》解釈は何か? 文化庁の解説がありました。

▲ (文化部国語課:「情けは人のためならず」の意味) ~~~~~~~~~
http://www.bunka.go.jp/pr/publish/bunkachou_geppou/2012_03/series_08/series_08.html

「人のためならず」の「ならず」は,〔断定の「なり」〕+〔打ち消しの「ず」〕
ですから,「である+ない=~でない」という意味になり,「人のためでない
(=自分のためである)」と読み取る必要があります。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

☆ つまり 《「情けは人のため ≫に≪ ならず」ではない》のだと。


2. ただしアンケート(H.22)では ふたつの――まったく正反対の――解
釈が同じ割り合いを占めたそうです。

▲ (同上) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
(ア)
人に情けを掛けておくと,巡り巡って結局は自分のためになる・・・・・・・・・・・45.8%
(イ)
人に情けを掛けて助けてやることは,結局はその人のためにならない・・・・・45.7%
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

3. あらためて 文化庁の《答え》は 次のごとくです。

▲ 答: 「情けは人のためならず」とは,人に対して情けを掛けておけば,巡
り巡って自分に良い報いが返ってくるという意味の言葉です。

4. ほんまかいな? と思いました。おそらく表現では そのとおりの意味な
のでしょう。


5. けれども あまりにも打算的ではないですかね? 日本人は――たしかに
因果応報説には靡くようですが その――善因善果(楽果)にしても まさかそ
ろばんをはじいているというわけではないでしょう。

6. しっくりしません。


7. たとえば:
○ (ウ) 情けは人のためならず おのれのためならず。

☆ というのなら まだすくわれます。《もしあとでよい報いを享けるようなこ
とがあるなら それは やほよろづの神々からのめぐみである》というのならま
だわかります。

8. どうでしょう? 何かもっとしゃれた解釈あるいは哲学にふさわしい料理
の仕方がありませんか?



9. 質問者としてはいまほかにも同じ趣きの質問をかかげていて 《情け》は
《同情というナサケ》ぢゃだめなんだという考えを問うています。

10. つまりそれによれば (2)の(イ)については: 
○ (イ)  人に《同情という情けを掛けて助けてやること》は,結局はその人
のためにならない

☆ という解釈が出て来ます。そのようにしてなら この(イ)も 成り立つの
ではないかと。



11. 焦点が発散したかも知れません。ですが 考えるところをいろいろおし
えてください。

1. まづ 《ただしい》解釈は何か? 文化庁の解説がありました。

▲ (文化部国語課:「情けは人のためならず」の意味) ~~~~~~~~~
http://www.bunka.go.jp/pr/publish/bunkachou_geppou/2012_03/series_08/series_08.html

「人のためならず」の「ならず」は,〔断定の「なり」〕+〔打ち消しの「ず」〕
ですから,「である+ない=~でない」という意味になり,「人のためでない
(=自分のためである)」と読み取る必要があります。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~...続きを読む

Aベストアンサー

この諺は江戸時代からあって、江戸落語の”佃祭り”でその諺をざいざいにしています。佃祭りを読んでみて下さい、文化庁の解釈が正しいのですよ。

Qキリスト教や仏教やイスラム教やヒンドゥー教等は 何とか統一できないものか?

宗教が統一できれば世界的に平和にも近づくのではないでしょうか

どうやるのかは分かりませんが 統一教会はキリスト教の神霊を統一しようとして失敗した

キリスト教に拘らず 全ての人に 無宗教の人にも納得の行く教えを練り出せないものか?

まずはそれらの宗教の代表が会議してる様なので もっと危機感を持って

自分から変わる意識を持って 緊張感を持って月に一度でも2週に一度でも会議を2,3日

かけても何とかして宗教が協力して進化する様な宗教哲学を活性化出来ないものでしょうか?

Aベストアンサー

宗教間対話は、共通の目的を、確認し合う事からだと思います
その第一が
「生存の権利は、誰人と言えども、いかなる理由であっても
これを犯してはならない」
と言う事です

ダライラマ等が参加する、宗教間の対話など
ただのパフォーマンスに過ぎず、下心がミエミエで
何の問題の解決にもなりません

宗教間対話」のあり方として
「積極的寛容」を提示しなければなりません
①それぞれの宗教が「原点の心」に基づく、
②「独自性」と「共通性」を自覚する、
③自己の宗教の「創造的発展」、
④人類的課題の克服に協調することを目的とする
等が挙げられます、

柳沼正広氏による第2章「キリスト教と諸宗教 宗教の神学」では、
キリスト教が他の諸宗教をどのように考えてきたかが述べられています。
諸宗教に対する考え方として、
排他主義、包括主義、多元主義、多元主義への批判を取り上げています。
他宗教を理解する努力のなかで、
自身の宗教への理解や反省が深められていく
宗教間対話の持つ重要性について論じています。

中国における中心的な思想である儒教に対して、
外来宗教である仏教と、儒教より後に成立した道教が
、自らの立場を主張しつつ、互いに交流と対話を
行ってきた歴史を辿っています

統合、に必要なものは「信」です
「不信」が統合を不可能にしています
宗教間の争いを無くすには
信頼関係を結び、友好、交流活動の継続しかありません

信は  結合 善 勇気 幸福 平和 不可能を可能にします
不信は 分断 悪 臆病 不幸 戦争 可能を不可能にします

宗教間対話は、共通の目的を、確認し合う事からだと思います
その第一が
「生存の権利は、誰人と言えども、いかなる理由であっても
これを犯してはならない」
と言う事です

ダライラマ等が参加する、宗教間の対話など
ただのパフォーマンスに過ぎず、下心がミエミエで
何の問題の解決にもなりません

宗教間対話」のあり方として
「積極的寛容」を提示しなければなりません
①それぞれの宗教が「原点の心」に基づく、
②「独自性」と「共通性」を自覚する、
③自己の宗教の「創造的発展」、
④人類的課題の克服に協調...続きを読む

Qアラシ投稿の阿呆さについて ご意見をどうそ。

1. ひとは あたかも《カカハリ(関係)の絶対性》なるさだめのもとに 他人
(ひと)とのマジハリ(交通)に入ることになる――と言ってもよいかも知れませ
社会性とは そういうものではないかと。

2. 馬の合う人とはもういい加減にしたらというほど長い時間を過ごすこともあ
れば あいつはイヤだと思っていて・しかも一緒になる機会が多く寛い心でツキア
ヒをつづけざるを得ないこともある。そして もう耐えられない・絶交だと言って 
マジハリを解き・互いに離れて社会的なカカハリを持つ場合もある。

3. これらの例は ふつうに自然に起こる人間どうしのヨコの関係です。そして
ここで問題としたいのは このヨコのではなく もしその互いの間に上か下かとい
うタテの関係が生じたなら どうするか? です。



4. 抽象的に規定しますと 《互いのマナザシがどちらか一方が他方よりも上か
ら差して来る》といった上下の関係です。(まだほっかほかの質問として マウン
ティングの問題が出ていましたね)。


5. まづ このタテの関係については ふたつの種類があると思います。
( a ) ふたり――といった単位体を例に採りますが――のあいだにそれこそ自生
的に生じたもの。気楽なマジハリ。
( b ) そして あとは 人為的に作為的につくられたタテ関係。

6. 大昔には 身分の世襲制によって 人びとそれぞれのマナザシは どのよう
にそそぐか(注がれるか)は 決まっていたとも言えます。

7. では 現代では このマナザシは 自由の精神をもって( b )の作為的な上
下関係を打ち破っているか? マナザシは 完全に自由になったか?

8. 家族の中での――遠慮の要らない――マナザシの錯綜関係もあるでしょうし
けっきょく果ては 国と国との関係における〔こちらは〕深謀遠慮なるアマアガリ
戦術としてのマナザシ照射も 起きるのかも知れません。

9. ここで問うのは こうです。アラシ回答は アマアガリ・シンドロームに落
ち入った阿呆なるマナザシ合戦である――という命題をめぐって 思うところを述
べてくださいと。

10. また広く人間のマナザシ関係について 見解を述べてくださっても結構で
す。制約はありません。

1. ひとは あたかも《カカハリ(関係)の絶対性》なるさだめのもとに 他人
(ひと)とのマジハリ(交通)に入ることになる――と言ってもよいかも知れませ
社会性とは そういうものではないかと。

2. 馬の合う人とはもういい加減にしたらというほど長い時間を過ごすこともあ
れば あいつはイヤだと思っていて・しかも一緒になる機会が多く寛い心でツキア
ヒをつづけざるを得ないこともある。そして もう耐えられない・絶交だと言って 
マジハリを解き・互いに離れて社会的なカカハリを持つ場合...続きを読む

Aベストアンサー

荒らし投稿するのは、真面に自分の意見を持たずきちんとした考慮も無く唯単に字面を追ってそれ
に対して本能だけ(に思える)反応をし、短絡的な回答を(恰も自分の意見は正当だと思いながら)
述べているに過ぎないとボクは考えます。
そうで無い思慮深い人がそういった回答を読むと何て浅はかなといった感想を持つでしょう。
このサイト内での回答はそういった浅はかな人だけでは無く人生相談的な質問には相手の立場に
立って考え的確な回答をする人も沢山居ますし、技術的な質問に対する回答は自分の技術やスキル、
問題解決の手段を検索出来る力を持った人達が矢張り的確な回答をしてベストアンサーを沢山獲得
しています。
自分が回答出来る様な人間では無いのにしゃしゃり出るのは短絡的且思慮の浅い(AHO--)と思うのは
ボクだけでしょうか?
貴方からの補足をお待ちしています。

Q量子論は哲学の問いにファイナルアンサーを与えるか?

哲学の歴史は、大雑把に言っちまえば、ヘレニズム以来の存在論と、カントによるコペルニクス的転回以降の認識論とのせめぎ合いだったと言ってもよかろ?

つまり、存在(Ding an sich)が先にあって、我ら観察者は、その存在から発せられる情報を入手して、後付けで存在を知る、と言うOntologieの考えに対し、

存在(Ding an sich)は、我々の観察に対して独立に有るわけではなくて、我々観察者が観察することによって対象(Gegenstand)のあり方が決定し(状態のContraction)、恰も存在があったかのごとき認識が可能だ、というEpistemorogieの考え方の対峙でござんす。

愚拙は、量子論のコペンハーゲン解釈など、言語的制約(数学という人工言語がわからん)から理解不能なのでござるが、数学という言語を使いこなす哲学愛好家の諸先輩方は、もはやMetaphysicalなOntologieなど眼中になく、存在は確率的にしか我々の前に姿を現さないと確信してるのでございますか?

TexasのCyototu先生がご存命と分かった歓びを記念して、哲学の根本的な問いに関して哲学愛好家の諸先輩のご意見賜りたく、久しぶりに愚拙からの質問を投稿させていただきます。

哲学愛好家と物理学愛好家の諸先輩がたの忌憚の無いご意見、ご主張賜りたく!

哲学の歴史は、大雑把に言っちまえば、ヘレニズム以来の存在論と、カントによるコペルニクス的転回以降の認識論とのせめぎ合いだったと言ってもよかろ?

つまり、存在(Ding an sich)が先にあって、我ら観察者は、その存在から発せられる情報を入手して、後付けで存在を知る、と言うOntologieの考えに対し、

存在(Ding an sich)は、我々の観察に対して独立に有るわけではなくて、我々観察者が観察することによって対象(Gegenstand)のあり方が決定し(状態のContraction)、恰も存在があったかのごとき...続きを読む

Aベストアンサー

いやー、でーく。あんたの簡潔な応答を眺めて楽しんでいたけど、でーくのくどくどした文章を久しぶりに見た。簡潔すぎて一寸物足りなかったんで、こうじゃなくっちゃって思ったね。

まず結論から端折って言うと、量子論は哲学の問いにファイナルアンサーを与えていないってえのが、あたしの見立てだ。もちろん、でーくのいう哲学の問いを、「存在」に限って言えば、量子力学は自然言語(普通の言語)を使っての認識では表現不可能だった側面を暴き出したんで、「存在」に関してその言葉で意味する事で、それまで知られていなかった部分が見えるようにはなって来ている。でも、量子力学の枠組みの外にある全く独立した「観測の理論」を援用しなくては、未だに量子力学の結果を実験の観測事実と比べられないでいる。この宇宙で生起する全ての物事を統一的に説明する第一原理なるものがあるとの大教義を信仰している物理教の信者たちは、その信仰を揺らぎさせかねないんで、これをなんとかしなくちゃって未だに足掻いている。

存在って言うけど、この世界を認識する最も重要な概念が「存在」なのか「変化」なのかどっちなんだてな問いは、西洋でもギリシャ時代から延々と続いている。ギリシャじゃあ、プラトンが存在派でパルメニデスが変化派の雄だね。要するに、「永遠」か「諸行無常」かどっちなんだって議論だ。その後の切支丹の影響も相まって、西洋じゃ永遠派、すなわち存在派がずっと幅を利かしてきた。存在は純粋で汚れのない世界だが、変化は人間の不完全性が生み出した幻想に基づいた不純で虚構の世界のことだってな見方がまかり通ってきた。その代表が、デカルトとアインシュタインだ。

「存在」と「変化」を物理屋の数学を使った固有言語で表現すると、この世界を記述する根源的な基本方程式は初期条件とその後の事象が一対一に対応している決定論的な微分方程式か、それとも、初期条件が確定していても、その後の事象が一対一に定まらない非決定論的、すなわち確率論的微分方程式か、どっちなんだと言う表現になる。確率論的微分方程式はストカスチック方程式とも呼ばれている。

今んところ、物理学で基本方程式と呼ばれる方程式は量子論も含めて、全て決定論的な方程式だ。シュレーディンガー方程式の波動関数という状態を表す関数を実験値と比べるために「確率」なる言葉を援用しているので、皆さん混乱しているが、シュレーディンガー方程式は状態関数の初期条件を与えると、その後の状態関数は一意に決まってしまうので、これは上記でいう決定論的微分方程式であり、確率論的な微分方程式とは全く違うものだ。

また、ハイゼンベルグの「不確定性原理」と名付けられている「定理」も、その定理の名付け方が拙かったので、これも素人さんたちに大混乱を起こさせている。この定理は、決してこの世界が非決定論的にできているといっているのではない。この定理は、今まで物理量なるものは「数」で表されるものだと思われていたのが、実は「数」ではなくて、一つの関数を他の関数に対応させる「演算子」だったっていうことを表している定理なんだ。「演算子」を「数」であらわすと、一つの数では表すことができないで、数の集合が必要になる。そうすると、その数の集合の平均値が意味を持つようになる。でも一般に各数の2乗の平均値は平均値の2乗とはならない。だからその間の差はゼロにならない。この差の平方根のことを分散とかゆらぎっていう。そして、量子力学ではこのゆらぎの間に固有な関係式があるってえのが、この定理だ。要するに、物理量は「数」ではなくて「演算子」だということを前提として書き下されている決定論的なシュレーディンガー方程式から演繹される定理なんだ。「不確定性原理」は決定論的方程式からの帰結なんで、どこにも確率的要素がないのだ。

また、状態関数なるものは決して量子力学に固有な概念ではなくて、皆さんが決定論的であると同意しているニュートンの古典力学にも状態関数がある。しかしそれを見るには、物質の運動の軌跡を追うニュートン方程式じゃなくて、その系の位置や運動量全体の情報を一気に見るリウビル方程式なるものに書き換える必要がある。そこまで行くと、決定論的なリウビル方程式に付随した状態関数が、ちょうどシュレーディンガー方程式と同じように出てくるんだ。

ところで、決定論的な方程式では初期条件を与えると、その物理系の状態の全未来も全過去も完全に一意に決まってしまう。要するに全未来も全過去もお見通しの神の目から見た世界だね。だから、神の目から見ると時間なるものに意味がない。まっ、無時間の世界だ。そして、その世界では前もって決まっていることだけが起こり、想定外な事象は起こりえない。そう、無時間の世界には「在る」すなわち「存在」だけが意味がある。

一方、非決定論的な方程式では、神ですら想定できなかったことが起こる世界だ。そしてその想定外なことが起こった時、その世界に「変化」が起こり、新しい世界になる。だから「成る」世界、これが「変化」の世界だ。そして、その新しい世界になる毎に、我々は「時間」が流れ、前に進んだと認識する。だから「変化」とは「時間」のことでもある。ここで言う「時間」とは次々に何か新しいことが起こる物語的な動的時間のことだ。

それに対して、一神教の神の洗礼を受けて育ったユダヤ人のアインシュタインは、変化を否定し時空の幾何学という静的な幾何学の中に時間を押し込める努力をしてきた。この動的時間と、静的時間は決して同じものじゃない。一神教の影響を多大に受けた西洋人は、この世に永遠不変な「存在」なる概念があり、それを具体的に表しているのが永遠不変にその周期が変わらない周期運動であると考える。そしてその永遠不変な周期運動で、何回同じところに戻ってきたかの数を数えることで「時間」が計られるとしている。これがアインシュタインのいう時空の幾何学に現れる静的時間だ。そして、その裏には決定論的方程式がある。

しかし、人間て全く違った方法でも時の流れを感じている。「俺にも胸躍らせた青春があった、でも時が流れ、今では年老いて、胸の高まりも萎えてきた」なんてな捉え方で時の流れを感じている。これによって計られている「時間」は変化の大きさという、周期運動とは全く相容れない事象によって計られる時間だ。要するに、永遠の否定、すなわち存在の否定に基づいた諸行無常によって計られる時間だ。

事実、日本語の「トキ」なる語源は「トク」すなわち「トケル」の派生から来ていると言語学者の大野晋が主張している。日本人は山の雪が融けるのを見て、時が経ち春になったと時間の経過を感じていた。これが、変化を語る動的時間だ。そして、その裏には非決定論的確率論方程式がある。

この、変化に基軸を置いた動的時間の認識は物理学では比較的新しい認識だ。そのことの重要性に気がついたのはオーストリアの物理学者のボルツマンからで、19世紀末からだ。それに引き換え、静的な時間の概念は西洋でははるかに早くから語られている。ニュートンとライプニッツによるニュートン方程式の決定論的な性格に関する論争を経て、全未来を予言してみせるラプラスの魔者や、アインシュタインの時空の幾何学まで、存在に基軸を置いた静的な時間のみが時間であると思われていた時代がずっと続いてきたんだ。

この問題は、20世紀中庸になって、すなわち量子力学の発見から数十年後になってイリヤ・プリゴジンの「散逸構造の理論」の提示とその実験的な確証を得て、物理学が「変化」を語れる学問に昇華したんだ。日本では源平の合戦以降営々と認識されてきた哲学の大テーマ「諸行無常」を、そして西洋ではパルメニデスに始まったがプラトンによって裏に押しやられてしまった「変化」する世界に関する哲学の大テーマが、やっと物理学によっても語られ始めたのが現在だ。

量子力学と観測の問題も、観測とは観測器具が観測対象となる物質との相互作用で、観測器の針が不可逆的に変化したことによってなされる問題だ。ところが量子力学は決定論的な理論だから、存在は語れても変化が語れない。だから未だに観測の問題は訳がわかんないんだ。だから量子論風情で哲学の問いにファイナルアンサーを与えることなんかできるもんか。

いやー、でーく。あんたの簡潔な応答を眺めて楽しんでいたけど、でーくのくどくどした文章を久しぶりに見た。簡潔すぎて一寸物足りなかったんで、こうじゃなくっちゃって思ったね。

まず結論から端折って言うと、量子論は哲学の問いにファイナルアンサーを与えていないってえのが、あたしの見立てだ。もちろん、でーくのいう哲学の問いを、「存在」に限って言えば、量子力学は自然言語(普通の言語)を使っての認識では表現不可能だった側面を暴き出したんで、「存在」に関してその言葉で意味する事で、それまで...続きを読む

Qなぜ、<大学の学部の哲学科は、6割以上が女子です(東大を除く)>なのでしょうか?

mokuzo100nen様が、このカテに、次のことを書いておられます。
<大学の学部の哲学科は、6割以上が女子です(東大を除く)>。
私は、理屈をこね回す哲学のようなものは、男子が多い、と思っていました。
哲学とは、むくつけき男が浸るもの(失礼)で、うら若い女性がふけっているものではない、と思っていました。
また、このカテの参加者は男性が多い、と感じています。
なぜ、<大学の学部の哲学科は、6割以上が女子です(東大を除く)>なのでしょうか?

Aベストアンサー

そこまでエビデンスのあるものではないようです。

そもそも哲学科のある文学部が、女性の割合が6〜7割あるのが通例なので、
そこから同じ比率で考えると6割以上という表現になるのかもしれません。

しかし哲学科の場合、男女比が半々程度だ(文学部の中では男性比率が高い)というケースが多いように感じました。

この意味では、むくつけき男が浸るもの、という想像は間違っていないのかもしれません。

文学部に女性が多いのはなぜか、という疑問も湧くかもしれませんが、
これは就職に弱いという理由が大きいのではないかと思います。


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