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大公は王族の王以外のものや分家の長などを指すと読んだのですが、そうなると〜大公国というのは建国者が上に述べたような王以外の王族や分家の長といった身分の人だということになるんでしょうか?

A 回答 (1件)

>大公は王族の王以外のものや分家の長などを指す



Wikipedia日本語版の「大公」のうち「grand duke」の説明文でしょうかね。
ちなみに英語版だと以下のように書いてあります。
https://en.wikipedia.org/wiki/Grand_duke
>Grand duke (feminine: grand duchess) is a European hereditary title for either certain monarchs or members of certain monarchs' families. It is traditionally ranked in order of precedence below the title of emperor or king and above that of sovereign prince or sovereign duke.

英語版だと、「君主や君主の一族」の世襲称号とあります。
「~大公国」の初代君主が、どこかの王国の王族出身だったかといえば、そうではありません。どこかの王国の「大公」だった人が独立して国を作ったから「大公国」…ということではありません。その国の君主に「大公」という称号が(教皇や皇帝から)与えられたから「大公国」なのです。
例えばトスカーナ大公国は、元々は「フィレンツェ共和国」で、その実質的な君主の座にあったメディチ家が、16世紀になって、神聖ローマ皇帝から「フィレンツェ公」の称号を与えられてフィレンツェ公国となり、その後、教皇から「トスカーナ大公」の称号を与えられて「トスカーナ大公国」と国名を変えました。メディチ家はどこかの王族や分家の長ということではなく、フィレンツェとその周囲を実質支配しており、それに皇帝や教皇が君主としての称号を与えた、という形です。

「王族の王以外のものや分家の長」である「大公」は、むしろオーストリアのErzherzog(大公)の説明に近いような気がします。
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この回答へのお礼

とても丁寧な回答、感服いたしました。ありがとうございます。ローマ教皇が爵位を与えたというのは初めて知りました。ルドルフ4世のオーストリア大公が僭称扱いなのもローマ教皇から受け取った称号でないから、という感じなのでしょうかね。

お礼日時:2019/02/24 23:59

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わかりにくい質問ですいません

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しかし、秀吉の進撃がすすむにつれ宇喜多氏は織田が優勢と判断して織田(秀吉)にすり寄ることになります。
このときの宇喜多家当主が直家
その子が秀家です。
秀吉にとって、このようにすり寄ってきた宇喜多氏は毛利攻略の大切な駒となりました。
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このように、2人は秀吉の直属で働いていたか否か、と言う違いがあるのです。
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秀吉は天下統一しましたが、それは日本中の大名を含む武家が秀吉に従ったということです。
これは、日本中の武家が秀吉に対して「臣下の礼をとった」ということを意味し つまり日本中が秀吉の家来(家臣)となったという事になります。

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Aベストアンサー

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