【最大10000ポイント】当たる!!質問投稿キャンペーン!

最近歴史小説をチョロチョロ読んで、ふと不思議に思ったのですが、中国でも日本でも戦の時「●●山を取れ」とかよく聞きます。
けど、山なんて登るだけでヘロヘロに疲れませんか?食料運ぶのも大変だろうし、山に火をつけられたら嫌だなとか…どうも納得いかないんです。
何のために戦で山を取るんでしょうか。

そもそも「陣形」ってもの自体あんまり役に立ってるような気がしないんです。数が決め手じゃないのかなとしか思えなくて。
武田信玄の「鶴翼の陣」とかって名前は格好いいけど、具体的にはどういう効果があるのかもよくわかりません。ただ横に広がってるだけにしか…;
こういう兵法に全く疎い私にどなたかやんわり教えてください。

このQ&Aに関連する最新のQ&A

A 回答 (9件)

 いえ、あんまりあんなところで戦なんかしたくなかったんだけど、やぶれかぶれになった敵が立てこもって出てこないなら仕方なく攻めにいってるんですよ。

そういうとき、立てこもるには山城というのは便利です。相手が攻めにくい=立てこもるほうが有利、ですから。攻めるほうとしては、たいがい平地の戦争でいちど勝って、逃げた相手を追いつめて山を囲んでいるわけです。相手を殲滅するのが目的だから途中で帰るわけにはゆかない。立てこもるほうは、むだに体力を使わず、できるだけ相手の滞陣を引伸ばして千載一遇のチャンスを待つ。基本的には人質立てこもり事件といっしょです。持久戦ですから、攻めてる=勝ってるほうが、それにもかかわらず不利な条件におかれているわけです。賢いやつなら、城に立てこもりながら、攻めてきた大将のお留守になっている国許を別働隊に襲わせる、なんて策を弄したりする。
 山なんてそう簡単に焼けるものではありません。全部生木ですから冬場に風の具合を見計らって火をつけてもなかなかうまくゆかない。山城にかぎらず籠城でいちばんの弱点は食料ですが(食料がなくなるまでに相手が出て行ってくれないとかならず籠城側が負ける)、これはあらかじめの準備さえしっかりしていればある程度は持ちこたえられます。また、不倶戴天の敵に最後に追いつめられて籠城している場合は、食料があろうがなかろうが、城を枕に全員討ち死にするまで戦争するわけですから、あまり関係ないといえば関係ないともいえます。
 山を取る、というのは、特にそれが急峻な山である場合、戦争の最終局面で相手を殲滅するための行動です(平野の会戦で丘くらいのを取れ、というのとはちょっと意味が違う)。ですから相手もこっちも疲れようがなにしようが、必死になって戦っているわけです。賢い武将ならそんなことせずに、相手を平地で一撃したあと和平交渉に持ってゆくのですがね。
 ちなみに朝鮮の山城はたいへん大規模で堅固であり、域内がひろいので食料の保管や生産にも弱点がなく、朝鮮が外敵の侵入に百戦百敗といわれつつも、最後に粘り勝ちするのは、こうした山城があるからだといわれています。寡少な兵力で大軍の攻撃を防ぐにはこれほど優れたものはないわけです。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

おお!とても納得しました!
城のある山は最後の籠城戦で有利なんですねー。
で、最初の戦の時は平地なんですか。そうですねえ、言われてみれば大きな合戦は平地が古戦場になってますもんね。

>山を取る、というのは、特にそれが急峻な山である場合、戦争の最終局面で相手を殲滅するための行動です
これちょっとわからないんですけど、なぜ急峻な山だと最終局面で殲滅できるのですか?山から一気に駆け下りて突撃するのでしょうか?

朝鮮の山城の話は大変興味深かったです。
ちょっと疑問だったのですよ、何であんな小さな国なのにずっと保っていたのか。

ありがとうございましたv

お礼日時:2004/11/26 12:36

 山については、出尽くしているようですので、私は、数と陣形について答えさせてもらいます。



 『軍隊の数』が決め手というのは、質問者さんのおっしゃる通りで日本では織田信長、ヨーロッパではフリードリッヒ大王、モルトケ、ナポレオン等戦いの天才と言われた人達が用いた王道です。
 信長など少数で大軍と戦ったのは桶狭間ただ1度だけで、2度と少数で大軍にあたったことがなく、数で優位になるまで待って戦ってますね。ただ戦いは相手あってのことですから少数でも戦いを挑まなければいけない時はあります。そこで少しでも優位に戦いを進めるためにできたのが兵法であり、陣形です。

 武田信玄が用いた鶴翼の陣は、中国の孫武が書いた『孫子』からきている戦い方で、信玄は『孫子』を愛読していましたから用いたのでしょう。
 ヨーロッパではナポレオンが孫武を尊敬してやまなかったといいます。ナポレオンも同じような戦い方をしていますね。

 ちなみに『孫子』には、戦いの原則として、『10倍の兵力がある時は、敵を包囲して壊滅させる』、『5倍の兵力がある時は攻めて攻めて攻めまくる』、『2倍の兵力の時は、正面と背後の2方向から攻撃する』、『互角の兵力の時は、敵の不意をついて攻撃する』、『劣った兵力も時は、守りを固め。決戦を避ける』と書いてあります。

 日本は、ヨーロッパに比べて平和な時代が長かったためもあり、数による戦いの王道を忘れ、作戦により戦いに勝つことがいい(格好がいい?)という風潮が生まれ、太平洋戦争の精神論に繋がったようです。(日清・日露両戦争の軍人は数と武器の優劣が戦争を決するとメッケル少佐に徹底的に教え込まれ、こんな精神論はなかったようですが)
    • good
    • 0
この回答へのお礼

そういえば「孫子」ってよく聞きます。
でもみんなが読んでる兵法書ならどういう作戦で来るかとか想像つきそうですが。そのあたりの駆け引きが軍師の役割だったりするんでしょうねえ。(軍師って人達の必要性も今まであまり感じてなかったんですけど)面白いです。
でもそもそも少ない兵で立ち向かうのはどんな天才でも無理があるのですね。
やはり大軍を持っていても「なんとかの陣」みたいな兵法を知ってるのと知らないのとでは効率が違ってくるわけですね。

へー!日清・日露の軍人さんと太平洋戦争の軍人さんとじゃ考え方が違っていたのですか!
色々勉強になりました、ありがとうございましたv

お礼日時:2004/11/26 13:08

6番の方ですが、少々勘違いがあるようです。



>劉備から国を任された諸葛孔明の国はこの戦いで戦力の殆どを失い、滅びます。
>その後、中国は始皇帝が統一します。

始皇帝---BC259~BC210 王位:BC246~BC221 帝位:BC221~BC210
諸葛孔明----AD181年~234年
 つまり始皇帝の方がかなり先の時代の方です。
 諸葛孔明の時代の後、中国を統一したのは、魏の曹操になります。

また諸葛孔明は蜀という国の丞相(馬謖の事件で右将軍に降格)ですから、皇帝(劉禅)から王に封ぜられてはいないので、諸葛孔明の国というものは無いと考えます。

>家康本陣にのみ目標を定め
 これは「直江状」のことと思います。
ただ小山評定を持ち出すと、ここで家康は反転し、3男の秀忠を上杉の押さえに置きます。
伊達政宗に宛てた書状にも「中納言(秀忠)、宇都宮に差し置き」とあることから、小山評定で秀忠は上杉を意識して宇都宮の押さえに当てられたことが分かリます。
そしてこの任は秀忠出陣後は、兄の結城秀康に交代しますから、家康不在では正確には「徳川本陣」とすべきかと思います。
また実際に上杉が戦ったのは関が原の決着後に襲来した最上義光の軍勢です。

>包囲戦法自体が、紀元前のギリシアで考えられた古い戦法でもあります。

装甲歩兵の事と思いますが、包囲戦というよりも密集戦になり、これの発展型のファランクスになると、縦型の方陣(2m間隔の8列または16列)になります。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

詳しい説明ありがとうございます。
も、私にはついてゆけない博識ぶりに圧倒されました。(「小山評定」って意味すらわからない)
そこまで詳しくなったら歴史がもっと楽しくなるんでしょうね。(ぎ、ギリシアまで…)
もうちょっと勉強します…

お礼日時:2004/11/26 12:28

>結局山の周り囲まれたらおしまいじゃないか!とか思ってしまって。



確かにおっしゃる通りです。
囲まれては兵糧攻めに遭い、馬謖のようになってしまいます。
彼は、若くから諸葛孔明に目を掛けられました。そして終に、諸葛孔明より上の人間と思い込んだのです。

劉備から国を任された諸葛孔明の国はこの戦いで戦力の殆どを失い、滅びます。
その後、中国は始皇帝が統一します。

かつて、大友氏が尼子氏の兵数千の立て篭もる山城を攻略した時、険しい山道を数万の大軍で進軍中、巨大な石や丸太の奇襲に遭い、城にたどり着く前に1/3
の兵力を失っています。
その後、没落の道を歩んでいます。

家康が上杉討伐に向かっていた時、家康本陣にのみ目標を定め、街道の横の山に騎馬1万で待ち伏せしていました。
「ただ一点になだれ込むべし」
と何も考えてはいなかったようです。
家康は小山評定で引き返し、そのまま関が原に向かい天下を取ります。

鶴翼の陣の補足ですが、一気になだれ込まれると、おしくらまんじゅうの状態では立っているのが関の山です。
将棋倒しになる場合もあります。
包囲された将兵は、何も見えない状態です。

少なくとも、外の方が広いので太刀回りは楽です。考える必要無く、目標は内側1点です。

内側の兵は臨機応変に指揮者の思い通りに迅速に動かねば押しつぶされてしまいます。

包囲戦法自体が、紀元前のギリシアで考えられた古い戦法でもあります。

馬謖にしろ日本が弥生時代の人間です。

お互い、原始人には負けない知恵を身につけましょう。^^
    • good
    • 0
この回答へのお礼

す、すいませんまだ歴史に疎いものですから、erika77さんの話の半分くらい意味がわかりませんでした;

要するに馬謖って人はおバカだったから勝てるはずの戦(山頂に陣を取った)に負けたってことでしょうか…?
上手く奇襲すれば山にいれば敵兵力の1/3を削れるってことですものね。

確かに外から中へ攻撃する方が目標がわかりやすいですね。

とりあえず今の私は石器人レベルですので、それでもこうして何とか理解しようと思ってはいるんですよ。

どうもありがとうございました。

お礼日時:2004/11/26 11:55

現在我々が目にする大坂城とか名古屋城(尾張)というのは平城といわれ、防御機能に加え、政庁としての役割も持っていました。


その為、市町村長(殿様)や公務員(侍)にとって通勤に易く、一般の市民(民衆)も出入りしやすいように、交通至便な平野や港の近くに築かれました。
一方戦国時代は山城といって小高い山の上に築かれる事が多く、春日山城(越後)や岐阜城(美濃)などは山頂にあり、数年前に岐阜城のある金華山ロープウェーが張り替え工事で止まった時は、山頂のリス村の管理員など、山道を徒歩で30分以上かけて登り、通勤に大変でした。
友人と「昔の侍は体力が衰え、通勤できない時が定年かな」などと話しながら、私も上ってみました。
当時の彼女(警察官)の話では、警察学校の訓練で雨の中、徒歩で岐阜城に上らされたらしいですが、山道で滑って転んで死ぬかと思った程きつかったようです。
これは攻める側にとっても同様で、楠木正成の千早城など幕府軍数万と戦っても持ちこたえたと言われております。
その為、戦いの常道としてまず敵の山城を落とし、それからとなります。
「鶴翼の陣」ですが、徳川家康が三方ヶ原の合戦で武田信玄に挑んで大敗した事で有名ですが、本来は敵より多勢の時に押し包んで攻める陣形になります。
この時家康は下りにかかった武田軍25,000を8,000の軍勢で攻め落とすつもりが、坂にかかる寸前で反転され命からがら浜松城に逃げ帰ります。
家康の盟友織田信長は「大軍をもって寡兵(少ない敵)を破る」のを真骨頂とした武将で、戦いはパワーゲームですから十分な情報を得て、采配を間違わなければ数の多い方が勝ちます。
信長の合戦の場合、一部を除き大抵は大軍を集中的に投入して敵を破りますから、陣形はその数を生かすためにあるようです。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

そうですか、やはりキツいですよねえ(笑)
私もいつも「昔のエライ人も体力あったんだな」とか思ってました。武士の通勤ってしんどいなあと。
戦国時代は戦重視の山城が多かったんですね。

あ、やっぱり武田信玄の軍の方が多かったのですか!大軍でも陣がまえによって効率的になるんですね。
運動会の組み体操でもなかなか動きが揃わないもんですが、昔の人は闘いながらちゃんと指揮通りに動かすんだから凄いですねえ。

ありがとうございましたv

お礼日時:2004/11/26 11:45

こんな話もあります。


http://akn.to/yourei/naite.html
    • good
    • 0
この回答へのお礼

下の二つは見なかったことにして、上の泣いてどうのこうのって話は全くうなずけます。
この馬謖って人みたいになるんじゃないかって思うんですよ!

お礼日時:2004/11/25 20:26

見晴らしが良く、相手の出方が分かる事。

(情報)
山に登って来て戦うのは疲労が多い事。(地の利)
敵陣になだれ込む事が出来る事。(機動力)
石や岩、丸太などで敵に大打撃を与えられる事。(作戦)

不用意に攻撃して石や丸太で半分の将兵を喪失、その後、国自体を取られた例も少なくありますせん。

鶴翼の陣に同じ兵力を与えますので突撃し、撃破して下さい。

敵の中央(武田本陣)はすぐに後退を始めます。
(ここで勝ち戦間違いなしですね。家臣は勢い付き、全力で攻撃を開始します。)

武田本陣の左右の軍も後退を始めました。
(武田信玄の首は近く、歴史に名を残せますね。^^)

気が付くと、鶴の翼で包囲されてしまいました。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

最初の(情報)は納得。確かにまあ木のないとこなら遠くまで見渡せますね。
(地の利)もまあわかります…。
(機動力)山から一気に駆け下りて敵陣まで走っていくのは規模にもよるけどまあわかる。
(作戦)石や丸太なんてすぐに無くなるような気がします。
なんというか…そう、籠城戦みたいでいやなんですよ。結局山の周り囲まれたらおしまいじゃないか!とか思ってしまって。私が大将だったら山なんてわざわざ欲しくないなあと…。
でも納得しました。

あー鶴翼の陣ってそういうものなんですか。
たとえばその…同じ勢力でも囲まれたら負けるものなんですか?囲まれようが一カ所に集まってる方が突破できそうな気がするんですけれども…。(すいません、無知なくせに意見ばかりしてますが、素朴な疑問です)
なんとなくまだ腑に落ちなくて…;
でもわかりやすい説明ありがたかったですv

お礼日時:2004/11/25 20:21

こんにちは。


回答ではなく意見という感じになってしまいますが、
おそらく、自分の陣地が山にあれば、眼下の敵の様子が良くわかるのではないでしょうか?
城も同様に城下町の様子を見るためにあるのでしょうし・・・。
それから、敵が攻めてきても、
やはり山は登ると疲れるので、敵の体力を消耗させる意図もあったのではないかと思います。

あとは山自体が金山だったり、鉱物を含んでいたら、それがお金になったりするのかもしれないですね。
もちろん山の木も当時は幅広く利用されていた資源なんでしょうけど・・・。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

こんにちわ~。
いえ浅はかにも自分が山に登ったとき風景どころか「木で何も見えない」というのがありまして、最初眼下の敵の様子がわかるというのは嘘だと思ってました。思い切り遠くの景色なら見えますが、サンコンさんなみの視力が必要じゃないかとか。
逆に自分の兵も木や薮で見えなくなるから混乱するのじゃないかとか。(でもそんなヤワな統率では戦自体無理ですもんね)
やはり山は取っておいたほうがいいのですね!

あと金山とか、資金面で山を取りたがることもあるんですね。なるほど!!!
すっきりしました。ありがとうございましたv

お礼日時:2004/11/25 20:09

先に山なんかの高台に陣を張っておくと、


的は後から攻め上らなければならないし、
弓や石(古代中国では弩(いしゆみ)といってボウガンのような弓で石を飛ばす武器があったし、日本でも石礫は重要な武器でした)を打つ場合でも上から下に向けて打った方が威力も射程も上がります、

山に火を放つにはそれなりの準備が要るから(枯草や乾いた落ち葉とかがなきゃそう簡単に火はつかない)、
その間に見つかっちゃうし(高いとこからだと相手の動きも良く判る)、

「鶴翼の陣」って相手を包囲してしまうための下準備の陣形じゃなかったかな?
    • good
    • 0
この回答へのお礼

なるほど!そういえばそうですねー!最初山に登るのは面倒だけど、敵も攻め込むにはもっと面倒なわけですねえ。
あーだからみんな高いところへ陣を張りたがるわけですね。
ありがとうございましたv

お礼日時:2004/11/25 20:02

このQ&Aに関連する人気のQ&A

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人が検索しているワード


人気Q&Aランキング