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あなたが関ヶ原の合戦である程度の身分を持つ落武者として逃亡するならどんな逃げ方をしますか?
石田さんみたいに洞窟に潜むとか、雨風をしのげると言っても逆に見つかりやすいと思ったので…
僕なら草木がおおる木の上によじ登って数日間隠れます。

A 回答 (5件)

影武者立てて何とか生き延びるということですよね。

捕まればおしまい。義経の場合は藤原氏が衣川合戦をでっちあげて偽首鎌倉に送って死んだことにしたという説あり。本物は国外逃亡かな。石田三成に限らず、豊臣秀頼の大阪城脱出とかね。そういう伝説の真偽。
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この回答へのお礼

秀頼さんの遺体は大阪城と供に燃えたのでしょうか(TT)

お礼日時:2019/03/03 18:04

島津の殿様みたいな逃げ方が出来れば、理想ですが、、


実際は、三成さんのように普通の領民に扮装して、一人で山へ。
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この回答へのお礼

ありがとうございました!

お礼日時:2019/03/03 18:04

>草木がおおる木の上によじ登って数日間隠れます


文字どおり「草の根かき分けても」捜索されるので、あっという間に見つかります。
居場所を転々としても難しいです。
生活の痕跡を見つけられたらアウトだから。

やはり私も下々の格好に身をやつし、遠国への逃亡を図ります。
・偉い格好のままでは「私は落ち武者です」という名札をつけて逃げているようなもの
・近国に潜んだところで地元民に「最近見慣れない奴がいるな」となったら通報されて終わり
・遠国の、かくまってくれそうな有力者のところに落ちのびていくのが確率的にいちばん可能性がある。(義経方式)
・ただし、義経の時と違ってもはや国内は統一された。となれば、日本からも脱出するしかない。生きたければ。

これだけ手を尽くしても逃げきれる確率は10%以下でしょうね。
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この回答へのお礼

ありがとうございました!

お礼日時:2019/03/03 18:05

あなたが関ヶ原の合戦である程度の身分を持つ落武者として


逃亡するならどんな逃げ方をしますか?
 ↑
逃亡するなら、徹底して逃亡します。
鎧兜を脱ぎ捨て、土民の姿になって
逃亡します。



石田さんみたいに洞窟に潜むとか、雨風をしのげる
と言っても逆に見つかりやすいと思ったので…
僕なら草木がおおる木の上によじ登って数日間隠れます。
  ↑
木の上は、発見されたら逃げようが無いです。
それに雨風に打たれます。
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この回答へのお礼

ありがとうございました!

お礼日時:2019/03/03 18:05

農民の服に着替えて、薄汚れたかっこで歩きます。



だいたい、あの当時誰が誰なのか知らないわけですし(顔を見ても判らない)
役職同士なら顔を見れば判りますが

実際に追う人間は、下っ端なので追われる人間の顔を知りません
身なりが高級そうなものを着てるから、という判断をするしかないわけですから

兵士と言ってもある程度の徳が無い限りは武具などつけていませんから、ただの農民のかっこです
その他大勢の農民のかっこにしてしまえば、敵も味方も区別できなくなりますので

歩いていても、誰も気が付きません
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この回答へのお礼

ありがとうございました!

お礼日時:2019/03/03 18:05

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実際の軍議もあんな大きめの声を出してたと思いますか?
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2,戦国時代の武将の声はとてつもなく大きかった
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当時の武将達も声が小さめの人や、言葉を噛む人とかいたと思うのですが…
  ↑
そりゃいたでしょうね。



普通の声のトーンで話さなかったのですかね?
  ↑
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朝鮮は中国の冊封体制に組み込まれた属国の一つで、
独立国のように見えますが、冊封国と言われるものです。
つまり、すっかり取り込まれていたのです。



華夷思想において、中央は高貴なものとされたのに対し、
周辺の地域は東夷・西戎・南蛮・北狄といわれ、
辺境の蛮族扱いされていました。
このような辺境は直接統治より冊封による間接統治が
効率的と考えられていました。
辺境の国家は冊封されないと国として認められないので
多くは交易もできない状況でした。
冊封国は基本的に中国から内政・外交の干渉は受けませんが、
子分になって中国の強い影響下にあることを認めたものです。
詳しくは冊封(国)で調べてみてください。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%8A%E5%B0%81

朝鮮の始祖である太祖李成桂は高麗から王位を簒奪した時に
明に報告すると「王朝が交代したなら国号を改めよ」といわれ、
「朝鮮」と「和寧」のどちらが良いかを洪武帝(明の皇帝)に
選んでもらいました。
朝鮮の国号からしてこのような状況です。
また、朝鮮は国王の交代があっても中国の事前承認を重視しました。
拒否した実例はありませんが、中国の許可なく王になれなかったのです。
これは朝鮮だけで、冊封国には越南(ベトナム)や琉球も含まれますが、
他の冊封国は自分たちで国王を決めてからの事後承諾でした。
近年では朝鮮最後の皇帝(注:独立後大韓帝国を名乗りました)である
純宗が立太子の時(皇太子への就任)認めてもらうために
清との交渉が行われました。

冊封国にも序列があり、王の服の色や描かれた竜の数などで表され、
朝鮮の序列は低くはありませんでした。
しかし、東北の金(後金)を下位にみていたため
明が衰え金の勢力が強くなっても明の庇護を頼りに
強気で臨んだため丁卯胡乱と丙子胡乱で完敗し、
三田渡の盟約で清の属国であると認めさせられ、
皇帝ではない清からの勅使に対しても
(朝鮮)王が三跪九叩頭の礼により迎えました。
ちなみに、三跪九叩頭は1度ひざまずいて3回土下座を3セット
都合9回土下座をするもので、清の皇帝が臣下にさせた儀礼です。
余談ですが台湾出兵の後始末で日本の使者が皇帝に対するとき
皇帝への儀礼として要求されましたが拒否しています。

朝鮮が清の冊封から脱したのは日清戦争の結果で、
下関条約の第1条は清からの独立を認めさせるもの。
一般の方にも読める「朝鮮紀行」(講談社学術文庫)には
この時に無理やり独立することで清の庇護下から解放させられて
ガクブルの高宗の様子が書かれています。(P319~P341 )

現在の韓国では、属国ではなく「兄弟国」という表現が多いのですが、
実際には壬午軍乱(1882年)の後始末で真に結ばされた
「中朝商民水陸貿易章程」でも属国であることが確認されました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9C%9D%E5%95%86%E6%B0%91%E6%B0%B4%E9%99%B8%E8%B2%BF%E6%98%93%E7%AB%A0%E7%A8%8B

朝鮮が冊封国を維持できたのは、清による虎の威を借りたから。
現在の韓国の国旗である太極旗の原型(諸説あります)は、
1882年に訪日使節団が使ったものです。
そこには日本になめられないように「大清国属」と書かれ、
清の支配下にあることを自称していたことがわかります。



現在の中国がチベットなどを侵略するのは
現代において価値があるから。
紛争で注目される尖閣諸島も、1970年代に国連の調査で
海底資源が指摘されるまで無関心どころか
国の機関紙に日本領と書いていたくらいです。
価値があって与しやすいと思われれば侵略されます。

朝鮮は中国の冊封体制に組み込まれた属国の一つで、
独立国のように見えますが、冊封国と言われるものです。
つまり、すっかり取り込まれていたのです。



華夷思想において、中央は高貴なものとされたのに対し、
周辺の地域は東夷・西戎・南蛮・北狄といわれ、
辺境の蛮族扱いされていました。
このような辺境は直接統治より冊封による間接統治が
効率的と考えられていました。
辺境の国家は冊封されないと国として認められないので
多くは交易もできない状況でした。
冊封国は基本的に中国から内政・外交の干渉...続きを読む

Q明治時代と一世一元の制について

明治時代は厳密には一世一元の制には入らないのですか。
理由も含めて答えていただけると幸いです。

Aベストアンサー

慶応の時に即位してますが、改元はその時でなく、少しずれて、新政府の発足をきっかけにしてますから。

Q上杉征伐の途中に石田三成の挙兵を知り、軍を西に向けた徳川家康の背後を上杉景勝は何故攻めなかったのです

上杉征伐の途中に石田三成の挙兵を知り、軍を西に向けた徳川家康の背後を上杉景勝は何故攻めなかったのですか?
最上を攻めている場合じゃないと思います。

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関ヶ原の戦いで西軍が挙兵してから敗北まで、上杉家が目指すのは関東侵攻これ一本だったのです
※直江書状参照

最上攻めでさえその前段にすぎません
が、この最上攻めの最中に既に西軍は関ヶ原の戦いで敗北しており、上杉勝家が兵を率いて関東に攻めいることは出来なくなりました

ちなみに会津征伐軍が反転する際に追撃するべきだったというのも否です
上杉軍が反転の情報を掴んだのは家康が江戸に入ってからなので!


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