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1. 《絶対》とは いかなる座標によっても規定することのできないナゾ
の何ものかである。人知が及ばない。じっさいに:
 
 (あ) 経験事象としての有る無しを超えている

 (い) 因果関係から自由である

といったところの場ないしチカラである。
そのように想定しこれを 《非経験の場》とよぶ。

2. 非経験の場は それを認識するときのあり方として 《非知》である。

 (う) 《非知》とは何か?

   経験事象(感性および理性によって知り得るか知り得ないかが知り
        得る対象)
     可知(人間の能力の十全におよぶところ)
       既知(ただし 間違っていたとあとで知る場合もある)
       未知(やがて既知となるであろうと捉えたものごと)
     不可知(知り得ないと証明し得たものごと)

   非経験の場(絶対性・無限)
     非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ)

3. 非知なる非経験の場 これが 《神》である。ひとは そう呼んでい
る。普遍神である。

4. 普遍神が 一般絶対性のことだ。





5. この普遍神は: 

 (え) 具体的にはいくつか個別には分かれていてそれぞれ特定の名がつ
    けられている。オホモノヌシとかヤハヱ―とかアッラーフとか。

 (お) また 名がついていて《有る神》である場合のほかに 《無い神》
    として捉えられ受け容れられている場合もある。

6. つまり 有神論(そしてその中には ブラフマン神もブッダもヤハヱ
ーもいる)および無神論があり これらがそれぞれ 個別絶対性を成し そ
れとして個別の神である。すべてそれぞれは 普遍神のことである。

7. ふつうには 名のついた個別の神を――普遍神として――無条件で無
根拠にて心に受け容れたとき(つまり 信じたとき) わが心には《非思考
の庭》が成る。これは 信仰という動態を言いかえたものである。

8. 信仰はつまり非思考の庭は 身と心とから成るヒトの自然本性に ぷ
らす α としてやどる。と表現されるようになった。

 (か) 《信じる》と《考える》とは 別である

   【 +α(霊我)】:信じる:非思考の庭:ヒラメキ直観・良心
   ---------------------------
   【心(精神)】:考える:思考の緑野:コギト 
   【身(身体)】:感じる:感性の原野:センスス・コムニス





9. 非思考の庭――信仰なる動態――は 霊なる神を受け容れる人間たる
器(ミクロコスモス)とその霊という対象(マクロコスモス)との一体性と
して示される。

 (き) 信仰の形態は 《梵我一如》なる類型として一般化し得る。

  A. ブラフマニズム:梵我一如
   梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神
   我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我

  B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)
   無梵:空(シューニャター)・ゼロ
   無我:アン‐アートマン;ニルワーナ

  C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)
   仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀仏)
      / マハーワイローチャナ・タターガタ(大日如来)
   仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)

  D. クリスチアニズム:霊霊一如
   霊:神・聖霊
   霊:《神の宮なるわれ》

  E. (プラトン?):霊霊一如
   霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)
   霊:《われ》

  F. 《もののあはれを知る》:霊霊一如
   霊:かみ(超自然および 自然。普遍神の分身として捉えられている)
   霊:われ(自然本性)

  G. ユダヤイズム:霊霊一如
   霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)
   霊:われ

  H. イスラーム:霊霊一如
   霊:アッラーフ(イラーハ=神)
   霊:われ




 10. 以上の仮説で 取りあえずじゅうぶん世界の人びとのモヤモヤと
したあたまは 富士山の日本晴れのように一斉に晴れ上がると思うんですが 
どうでしょう。

A 回答 (1件)

この世の全ては、人間が意味付けた意味に依って出来上がった世界です。

宗教然り、神然り。自分たちが信じる神、宗教こそ正しいと考える余り
人間は、戦争を起こしさえします。各々が自分の心を大切にしながら、本来なら意味の付いていない事に対して悪く意味付けている心の動きに気がついたなら、そして、その意味付けに惑わされなくなったなら、皆んな互いのことを思い遣りながら、気分良く生きられるのになあと思っています。人を愛するのに、理屈は不要かと思いますが、違うのでしょうか。

貴方様の知恵に救われる人も居ると思います。貴方のおっしゃる通り、世界の人々のモヤモヤした頭が一斉に晴れ上がる事を切に願う者です。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ この世の全ては、人間が意味付けた意味に依って出来上がった
世界です。
☆ それ〔だけで〕は おかしい。その意味付けには なるほど人
間や世界のあり方としてその事実認識にもとづいた・無理のない解
釈や改善である場合もありましょうが その基本としてはみな 人
間の意志や気分による自由勝手な思わくによっている。――こう考
えられます。



★ 宗教然り、神然り。
☆ 神を――なぜならすでに《絶対性》が 絶対性という人間の言
葉で仮りに表現され それは《操作しうる概念》になってしまって
いるゆえ―― その観念としてこしらえることもあり得るわけです。

その観念の神あるいはそれを人間の思考力でいぢくった倫理規範た
るオシヘをかかげて 宗教が出しゃばって来ます。

ただし 絶対性なる神――普遍神――は 相対性なる世界を超えて
おり 言わばそれに先行しています。

そして その神とわれとの関係としての信仰が 思考の対象として
のオシヘをかかげ――それを考えるのではなく あやまって――そ
れを信じなさいと説く宗教よりも先立って成り立ったものです。


あとは お考えのような現象が世界に起きていると思います。:
★ 自分たちが信じる神、宗教こそ正しいと考える余り
人間は、戦争を起こしさえします。各々が自分の心を大切にしなが
ら、本来なら意味の付いていない事に対して悪く意味付けている心
の動きに気がついたなら、そして、その意味付けに惑わされなくな
ったなら、皆んな互いのことを思い遣りながら、気分良く生きられ
るのになあと思っています。



★ 人を愛するのに、理屈は不要かと思いますが、違うのでしょう
か。
☆ 基本として その中身が必ずしも明らかに認識し思考すること
のむつかしい信仰――非思考の庭なる動態――から ヒラメキや良
心(恥ぢ意識や誇り)がほとばしるように 情感や愛情はあふれ出
て来るのでしょう。



★ 貴方様の知恵に救われる人も居ると思います。貴方のおっしゃ
る通り、世界の人々のモヤモヤした頭が一斉に晴れ上がる事を切に
願う者です。
☆ これはこれは 過ぎたお褒めの言葉をいただきました。精進す
ることを祈りつつ ご回答に感謝申し上げ そのように世界があゆ
んで行くことを願っています。 Many Thanks.

お礼日時:2019/02/28 03:00

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そしてその群れ社会の安寧秩序を守る為に最も優れた方法が「私より公を優先すること」なのです。でも「私より公を優先すること」と言われても何か分からないでしょう。ですから分かり易く言えば愛や思いやりや慈悲心などですと説明しています。これはキリストが説いた愛です、孔子が説いた仁、つまり思いやりです、そして釈迦が説いた慈悲の心です。そしてこれらに内包、共通しているのが「私より公を優先する心、行為」です。

「私より公を優先する」とは分かり易く言えば「私欲という自分の思いを少し抑えて公の為とみんなで考え行うこと」です。自分の私欲の心を少し抑えて、一人一人がみんなの為と考えることです。これは民主主義を示しています。そして「みんなの為」と考えるということは皆さん一人一人がリーダー、その群れのトップの立場に立って考えると言うことです。それは強い責任感をもって考えると言うことです。そのような心を一人一人みんながもって、みんなで考えれば最も正しい答えに辿り着ける確率が高くなるよ、ということです。これ以上に優れた方法が何かありますか? これが私の言う絶対善なのです。

その群れ社会にとって絶対的に正しいことは社会の安寧秩序であり、そのために最も優れた方法が「私より公を優先する事、つまり愛や思いやりや慈悲心」なのです。もちろんこれは最高の方法を示しているので一般的にはなかなかできないことです。しかしそれを目指す事こそが最もより良い社会が創れるのだ、と言う事なのです。

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いろいろな人がいっぱい書き込んでくれて、芯木(shinwood)さんは今回いろいろ学んだんじゃないでしょうか。芯木さんの今回の作戦の誤りは、世の中には、形式を重要視する人と実態を重要視する人の両方がいることを無視して、実態を重視する芯木さんの一方的な表現を使ってその主張がなされていることです。

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Q心から信じていれば命さえも懸けられる

私が「本当に心から信じていれば命だって懸けられるだろう」と言えば、皆さん「命を懸けるなど軽々しく言うものではありません、時代錯誤です」などと反論されます。また「あなたはそう言うけれども本当に信じているの? いのちを懸けてもそう言えるの?」と言えば「言論の自由だろう、お前は言論の自由を否定するのか!」と言われます。

しかしですよ、例えばバンジージャンプは命綱が絶対に切れないだろうと心から信じているから、あんな高いところから皆さん命を賭けて飛び降りているのでしょ? 皆さん命綱が切れないと心から信じているから命を懸けているではありませんか。この事実があるのに何故、皆さんこの事実を否定されるのか。事実判断を皆さんの価値判断で否定することなどできませんよ。事実そうなのですから。

「本当に信じていれば、全財産や命さえも懸けられる」というフレーズは色んな難しい社会的問題を解決できる魔法の言葉なのです。
例えば 従軍慰安婦問題も「本当に韓国政府が従軍慰安婦問題(少女二十万人拉致、性奴隷)があったと心から信じているなら、もし間違っていたら竹島を無条件で返してもらうぞ」と言えばそれで片が付くのです。何故なら韓国政府は本当は慰安婦の証言など信じていないのですからです。

このようにこのフレーズで多くの難問は解決できるのです。皆さんも「本当に、心から信じていれば命さえ懸けられるだろう」という言葉に嫌悪感を示さずにどんどん使いましよう。あらゆる難しい問題もすぐに解決できるのですから。

「本当に、心から信じていると言うことは、命さえも懸けられると言うことなのだ」というこの言葉は普通に使っても何らおかしくはないと思いますが皆さんどう思いますか? 私間違っていますか?

私が「本当に心から信じていれば命だって懸けられるだろう」と言えば、皆さん「命を懸けるなど軽々しく言うものではありません、時代錯誤です」などと反論されます。また「あなたはそう言うけれども本当に信じているの? いのちを懸けてもそう言えるの?」と言えば「言論の自由だろう、お前は言論の自由を否定するのか!」と言われます。

しかしですよ、例えばバンジージャンプは命綱が絶対に切れないだろうと心から信じているから、あんな高いところから皆さん命を賭けて飛び降りているのでしょ? 皆さん命...続きを読む

Aベストアンサー

>「本当に、心から信じていると言うことは、命さえも懸けられると言うことなのだ」というこの言葉は普通に使っても何らおかしくはないと思いますが皆さんどう思いますか? 私間違っていますか?

真木さんの今回の論旨の流れにいろいろ突込みどころがあるのですが、外国人を相手にする時には日本人とは違った価値観を彼らが持っていることを理解する必要があると思います。文化が違うのです。文化とは価値観の総称のことです。だから文化が違うとは、価値観が違うということです。

日本は日本海という越すに越されね荒海のおかげで、他の文化とは遮断され、縄文時代から現在に至るまで数千年かけて世界的にも類を見ない特異で独特な文化、すなわち価値観を築き上げてきました。外国で生活してみるとへーって思うことばかり。日本人の考え方ってこの国の人とそんなに違うのかって思い知らされることばかりです。例えば、日本人てこの地球上で性善説を信じている唯一の文化を持った国民なんですよ。そして、話し合えば解ってもらえると信じている人が態勢を占めている。

でも、日本以外の国では陸続きだったために互いに侵略しあい、戦に負ければ男どもは殺され、女どもとその子供は奴隷にされてきた。長い歴史の中でそんなことを繰り返してきた人々に性善説を信じよといっても無理です。

もちろん、日本人の作り上げてきた価値観の中には、外国の一部の世界で作り上げてきた価値観と共通した部分がないわけではなく、その共通項の部分のために、日本人が尊敬されている部分もあります。例えば正直であるとか、約束を守るとか、名誉を重んじ恥づべきことをするなという価値観です。このような価値観は、昔のギリシャや中世の西欧や日本のように、常態が群雄割拠で、いつも小国同士が小競り合いの戦さをしていた歴史を持った国に共通した価値観です。そしてこれは、基本的に武人たちが国を支配してきた世界に生じた価値観です。武人は基本的に理系人間で、技術と合理性を重んじる文化を作り上げてきた。しかしこのような小国による群雄割拠が常態であった地域は世界史的には例外に属しています。

世界史的には、圧倒的に大多数の民族は常態が群雄割拠ではなくて、強大な力を持つ政府による中央集権でした。中央集権国家では、小国同士ような小競り合いもほとんどなく長期にわたって安定して平和が保たれていました。そしてこの安定した中央集権国家の支配者は官僚と呼ばれる文系人間でした。戦さもなく社会が安定しているゆえに官僚が世襲化されるようになる。この世襲化された官僚のことを貴族とも呼んでいました。このような安定した社会の支配層を維持するために必要なのは、技術でも合理性でもなく、前例という伝統を重んじる固定化された価値観です。そのように合理的な根拠もなく支配されている一般民衆の中に、性善説など生じる余地がない。

しかし、安定した社会の内部の発展による富の蓄積や外部の予期せぬ環境の変化によって、この伝統による支配の説得力は徐々に失われて行きます。だから、歴史的に見て腐敗しなかった官僚は存在していません。時代と共に官僚は必ず腐敗します。その腐敗に我慢ができなくなった時に短期間の大混乱が起こって、新たな連中によってまた新しい長期の中央集権の安定期に移行して、そのうちにまた腐敗して短期の混乱が起こって、、、とこれを繰り返してきたのが、上記の古代のギリシャ、西欧、日本という群雄割拠地域を除いた地球上の圧倒的に大多数の民族の歴史です。

上に述べたように、このような文民支配による中央集権制度では、合理性よりも前例に基づいた伝統が重んじられる。もちろん、その伝統は偶然の成り行きで出来てきたために、各民族で全然違っています。そのようなそれぞれ違った根拠で出来上がってきた彼らのそれぞれ違った価値観を、合理的な論拠に基づいて話し合えば解り合えて一つの価値観に統一できるはずがありません。唯一できることは、互いに価値観の違いがあることを認識し、それを認め合って、一方の価値観を相手に押し付けずに、それぞれのやり方に任せることです。

真木さんの言う、死の覚悟を持って、とか、名誉を重んじ恥じた行為をしない、とか、公に尽くす、と言う価値観は古代のギリシャ人や群雄割拠で戦争に明け暮れた西洋人や源平以降戦国時代を経験した日本人には理解できるでしょう。しかし、このような武人支配を長年続けてこず、文系の官僚支配を続けてきたにこの地球上のほとんどの国の人には理解できない価値観だと思います。そのような国とうまくやってゆくためには、日本人独特な価値観を相手に強要するのではなくて、某元防衛省大臣がおっしゃったように「丁寧に無視」しながらお付き合いが最善の方法だと思いあますが、どうでしょうか。

>「本当に、心から信じていると言うことは、命さえも懸けられると言うことなのだ」というこの言葉は普通に使っても何らおかしくはないと思いますが皆さんどう思いますか? 私間違っていますか?

真木さんの今回の論旨の流れにいろいろ突込みどころがあるのですが、外国人を相手にする時には日本人とは違った価値観を彼らが持っていることを理解する必要があると思います。文化が違うのです。文化とは価値観の総称のことです。だから文化が違うとは、価値観が違うということです。

日本は日本海という越すに越...続きを読む

Q《情けは人の為ならず》再考

1. まづ 《ただしい》解釈は何か? 文化庁の解説がありました。

▲ (文化部国語課:「情けは人のためならず」の意味) ~~~~~~~~~
http://www.bunka.go.jp/pr/publish/bunkachou_geppou/2012_03/series_08/series_08.html

「人のためならず」の「ならず」は,〔断定の「なり」〕+〔打ち消しの「ず」〕
ですから,「である+ない=~でない」という意味になり,「人のためでない
(=自分のためである)」と読み取る必要があります。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

☆ つまり 《「情けは人のため ≫に≪ ならず」ではない》のだと。


2. ただしアンケート(H.22)では ふたつの――まったく正反対の――解
釈が同じ割り合いを占めたそうです。

▲ (同上) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
(ア)
人に情けを掛けておくと,巡り巡って結局は自分のためになる・・・・・・・・・・・45.8%
(イ)
人に情けを掛けて助けてやることは,結局はその人のためにならない・・・・・45.7%
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

3. あらためて 文化庁の《答え》は 次のごとくです。

▲ 答: 「情けは人のためならず」とは,人に対して情けを掛けておけば,巡
り巡って自分に良い報いが返ってくるという意味の言葉です。

4. ほんまかいな? と思いました。おそらく表現では そのとおりの意味な
のでしょう。


5. けれども あまりにも打算的ではないですかね? 日本人は――たしかに
因果応報説には靡くようですが その――善因善果(楽果)にしても まさかそ
ろばんをはじいているというわけではないでしょう。

6. しっくりしません。


7. たとえば:
○ (ウ) 情けは人のためならず おのれのためならず。

☆ というのなら まだすくわれます。《もしあとでよい報いを享けるようなこ
とがあるなら それは やほよろづの神々からのめぐみである》というのならま
だわかります。

8. どうでしょう? 何かもっとしゃれた解釈あるいは哲学にふさわしい料理
の仕方がありませんか?



9. 質問者としてはいまほかにも同じ趣きの質問をかかげていて 《情け》は
《同情というナサケ》ぢゃだめなんだという考えを問うています。

10. つまりそれによれば (2)の(イ)については: 
○ (イ)  人に《同情という情けを掛けて助けてやること》は,結局はその人
のためにならない

☆ という解釈が出て来ます。そのようにしてなら この(イ)も 成り立つの
ではないかと。



11. 焦点が発散したかも知れません。ですが 考えるところをいろいろおし
えてください。

1. まづ 《ただしい》解釈は何か? 文化庁の解説がありました。

▲ (文化部国語課:「情けは人のためならず」の意味) ~~~~~~~~~
http://www.bunka.go.jp/pr/publish/bunkachou_geppou/2012_03/series_08/series_08.html

「人のためならず」の「ならず」は,〔断定の「なり」〕+〔打ち消しの「ず」〕
ですから,「である+ない=~でない」という意味になり,「人のためでない
(=自分のためである)」と読み取る必要があります。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~...続きを読む

Aベストアンサー

この諺は江戸時代からあって、江戸落語の”佃祭り”でその諺をざいざいにしています。佃祭りを読んでみて下さい、文化庁の解釈が正しいのですよ。

Q科学

超初歩的な質問です。

「サイエンスする」とはどういうことでしょうか?

哲学は科学の範疇には入らない、という考え方が多いようですが、そうだとすると
それは、何故ですか?

Aベストアンサー

基本的には、科学が形而上学でないと言う事が違いなんだと思います。(これに関しては、量子力学の「解釈」は、その実体を観察できない以上「形而上学」に過ぎないと言う批判はあるでしょう)
あらゆる形而上的な概念を排除しようとした、マッハなどは、その立場としては、科学的でしょうが、それを思想的な衝動とした時点では、哲学的と言えるでしょう。
20世紀初頭は、現代の科学的な方法論は、ほぼ確立していましたが、現象の解釈と言う点では、まだ自然哲学から抜け出ていなかったと言えるでしょう。
実際問題としては、「科学」、狭義には「自然科学」の厳密性を担保するのは、「現象」そのものです。(現象以外は、基本的に検証の対象にならないと言えるでしょう)
「哲学」は、その性質上、形而上の存在も対象としなければいけません。 したがって、その厳密性の担保は、哲学が方法そのものから、生み出す必要があります。(これが、「哲学」が一筋縄では行かない所以です)
厳密性が一定の範囲で、確実に担保できるのは、形式科学としての「数学」ですね。(むしろ、厳密性が担保できる「形式」を見つけるのが、「数学」なのかもしれません)
宗教もある意味、「数学」に似ています。 それは、宗教の信仰者からは、そのようなものでは無いと言われるかもしれませんが、何らかの信仰対象に対して、信仰者がある形式で、その信仰を行う活動と言えなくも無いわけです。(その形式の分析は、宗教では無く、「宗教学」と呼ばれるでしょう)
古代ギリシャにおいては、これらは、全て「哲学」の領域にあったと言えるでしょう。(「数学」、「自然学」、「形而上学」は、「哲学」の中で混然一体として議論されていたわけです)
ヨーロッパにおいては、ローマ帝国によるキリスト教の国教化に伴い、しばらくは、(キリスト教)「神学」は、自然哲学や「形而上学」としての、プラトニズムと混然一体として、「哲学」としても、蜜月を迎えましたが、16世紀以降は、暗黒時代を経て、「哲学」からは、それぞれ「神学」、「自然科学」として、分科していきました。
分科した理由はさまざまでしょうが、基本的に「哲学的」な厳密性では、上手くゆかなくなったのが、一番の理由でしょう。
(キリスト教)「神学」は、その宗教的理由から、教義にかかわるような議論を嫌ったわけでしょうし、「自然科学」は、原因を追究するより、現象の法則の科学的解明の方が重要だったと言う事です。
「数学」も、論理実証主義により、その厳密性を確立する事を目指しましたが、ヘーゲルなどにより、その基盤が確実で無い事が証明されてしまいました。(したがって、一定の形式における論理的整合性の検証に特化したわけです)
これらは、「Why(何故)」から、「How(どのように?)」への転換と言えます。
「哲学」が追求するのは、「Why」でしょう。
「科学」は、「How」であり、一部の解釈は、「Why」となります。(ただし、解釈は、あくまで解釈であり、実証は成されていないでしょう)
これが、「哲学」と「科学」を分ける境界なんでしょう。

基本的には、科学が形而上学でないと言う事が違いなんだと思います。(これに関しては、量子力学の「解釈」は、その実体を観察できない以上「形而上学」に過ぎないと言う批判はあるでしょう)
あらゆる形而上的な概念を排除しようとした、マッハなどは、その立場としては、科学的でしょうが、それを思想的な衝動とした時点では、哲学的と言えるでしょう。
20世紀初頭は、現代の科学的な方法論は、ほぼ確立していましたが、現象の解釈と言う点では、まだ自然哲学から抜け出ていなかったと言えるでしょう。
実際問題...続きを読む

Q公理って何?

再び初歩的質問です。

「公理」を辞典で調べますと、

・数学で、論証がなくても自明の真理として承認され、他の命題の前提となる根本命題。

・論理学で、演繹的理論の出発点として、証明なしに採用される命題。

・現代においては、自明な命題ではなく、理論の前提となる仮定。

等の記述があります。

1.学問がないので、いまいちピンとこないのですが、具体的にはどのようなものがあるの
でしょうか?そして、どう理解したらいいのでしょうか?

2.「理論の前提となる仮定」から組み立てられた理論というものが、自然科学においても
検証されるとはいえ、何故、事実・真実と言えるのでしょうか?

Aベストアンサー

公理で一番有名なのは、平行線公理(平行線公準とも呼ばれる)でしょう。

「一つの直線上にない一点を通ってその直線は一つしかない」

この命題を証明することはできません。以前はこれを証明しようと多くの数学の天才たちが試みました。しかし誰にも証明できなかった。ロバチェフスキーが1829年に『幾何学の新原理並びに平行線の完全な理論』を発表して、彼が1826年に発見した新しい幾何学を提示して、上記の命題が証明不可能な公理であることが明らかになったのです。

ロバチェフスキーは、上記の命題の代わりに

(1)「一つの直線上にない一点を通ってその直線は何本でも引ける」

としても、数学的に無矛盾で閉じた論理体系を構築できることを明らかにしました。それがいわゆる非ユークリッド幾何学の始まりでした。この幾何学で表現されている空間は曲がった空間なのです。

その後に、リーマンが

(2)「一つの直線上にない一点を通ってその直線は一本も引けない」

としても、数学的に無矛盾で閉じた論理体系を構築できることを明らかにしました。この公理(2)が成り立つものとして構築された幾何学をリーマン幾何学と呼びます。一方、上記の公理(1)が成り立つものとして構築された幾何学をロバチェフスキー幾何学と呼びます。

さらに、リーマン幾何学の一つの具体的な例が球面状の幾何学であることもわかるようになりました。その場合この非ユークリッド幾何学を球面幾何学と呼ぶこともあります。

上記の事実の発見は、人類に多大な知的進展をもたらしました。なぜなら、自分の主張の論理的矛盾性をいかに証明しても、それでこの世界が解ったわけではないことが明らかになったからです。例えば、我々が埋め込まれている宇宙が上記のどの幾何学によって記述されている世界なのかは、論述の無矛盾性や整合性をいくら明らかにしても、判定できないことが明らかになったからです。

その判定には必ず実験や観測が必要である。すなわち論理的な理念の整合性に加え、事実はどうなのかを実験や観測で判定しなくてはならない。その判定をするのが自然科学なのです。そして数学は、命題の間の無矛盾性を論じる言語学であり、すなわち人文科学の一つであり、事実を論じる自然科学ではないことが明らかになったのです。

公理で一番有名なのは、平行線公理(平行線公準とも呼ばれる)でしょう。

「一つの直線上にない一点を通ってその直線は一つしかない」

この命題を証明することはできません。以前はこれを証明しようと多くの数学の天才たちが試みました。しかし誰にも証明できなかった。ロバチェフスキーが1829年に『幾何学の新原理並びに平行線の完全な理論』を発表して、彼が1826年に発見した新しい幾何学を提示して、上記の命題が証明不可能な公理であることが明らかになったのです。

ロバチェフスキーは、上記の命題の代わ...続きを読む

Q哲学カテ界隈で話が噛み合わない現象が起きるのは何故だと思いますか?

タイトル通りです
自分で色々考えてますがたまには
他人の意見聞いてみたくなったので質問しました

私個人の現在の考えでは
「質問という体で問いかけしてるが
実際は(質問者にとって)優秀な弟子、賛同者が
欲しいだけなんとちゃうかな」
って考えが主流となってますね

「話が噛み合わない現象なんて起きてないよ!」
って思う人はこの質問スルーしてください
尚、この質問は哲学的な問答を求めていません
アンケートみたいなものです

Aベストアンサー

>私個人の現在の考えでは
「質問という体で問いかけしてるが
実際は(質問者にとって)優秀な弟子、賛同者が
欲しいだけなんとちゃうかな」
って考えが主流となってますね

顕著ですね。
基本的に素人の集まりにすぎないので、質疑を交わすこと自体が問題を次第に掘り下げていく形になる場合が多いと思います。
持論を述べるのはむしろたたき台として必要なわけですが、しかし、賛同者を求めるのが目的の人は、その過程を重視せずに、相手を持論に引きずり込むことだけを考えている。
最初から質問が目的じゃないので噛み合うはずがない。

そういった輩と、真摯に何かを探求しようとする人との違いは、論理的な根拠を示しつつ持論を展開しているかどうか、という点。
賛同を求める乞食の輩は、論理的な根拠が提示できなくなると、強引にかぶせてきますからすぐに判別できる。
どうでも良い箇所では物分かりの良い顔して猫なで声を出すのが得意ですが、いざ本丸に攻め込まれると見境も無く髪を振り乱してあたふた大声で怒鳴り散らす。
おだてられての木登りも大得意。

それでも論理を辿ることさえお互いできれば、そんなに大きな齟齬は生じないものです。
で、そういう輩に限って、自分の質問に回答がひとつもつかなかったりすると、自分の頭が良すぎて他人には理解できないのだ、などと妄想に浸りつつ、ひとり悦にいったりする。
ダダを捏ねる赤ん坊みたいなもので、誰か面倒を見てくれる人がいると世の中は平和で助かる。
見解の相違だね、とお互いに質疑を保留できる余裕があるうちは、可能性がまだある。

>私個人の現在の考えでは
「質問という体で問いかけしてるが
実際は(質問者にとって)優秀な弟子、賛同者が
欲しいだけなんとちゃうかな」
って考えが主流となってますね

顕著ですね。
基本的に素人の集まりにすぎないので、質疑を交わすこと自体が問題を次第に掘り下げていく形になる場合が多いと思います。
持論を述べるのはむしろたたき台として必要なわけですが、しかし、賛同者を求めるのが目的の人は、その過程を重視せずに、相手を持論に引きずり込むことだけを考えている。
最初から質問が目的じゃな...続きを読む

Q<大衆は 絶対的に愚かか?>などの投稿をされた常連さんは、今後、この愚かな大衆を相手にして投稿をされ

先日、このカテである常連さんが<大衆は 絶対的に愚かか?>などの投稿をされていらしゃいました。そのことについては、私にはわかりません。
ところで、この常連さんは、今後、このような愚かな大衆を相手にして投稿をされることはない、と思われますか?

Aベストアンサー

ありますよ。
釣り堀りの住人が一生懸命撒き餌していると思えば良いです。

<大衆は 絶対的に愚かか?>
こういう質問の仕方が撒き餌効果アリと考えている。
で、エサを撒いている限り自分のほうが魚より賢いのは確かだと悦に入っているわけです。
他人を貶めることでしか自分の価値を確認できない憐れな輩です。
ま、逆切れして実社会に迷惑かけても困りますし、暇な人が相手してやれば良いかと。
無駄・無意味・不毛につき、賢人は寄り付きません。

Q言葉について

言葉とは人間そのもの、人間と表裏一体だということ、理解できました。

そうすると、人工知能AIの使う言葉は、どのように捉えられるでしょう。プログラミングされた言葉が人を感動させることはあるのか。いわゆる言霊というのは失われてしまうと思うのですが。

それともそういうことがあるのだとすれば、それはプログラミングした人間自身の言葉の反映なのか。
それともAIは自身で言葉を獲得して、詩や短歌、俳句の領域に至るまで凌駕していくのか。

どのように思われますか?

Aベストアンサー

ことばを《ロゴス》として広く捉えた場合 次のように分類できるのではないか
と考えます。

☆☆ ひどっち=ぶらじゅろんぬの定理 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
【Q:ヒラメキとは 人に起きるいかなる現象か】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/10598115.html

〇 ヒラメキの成り立ち (ひどっち=ぶらじゅろんぬの定理)
(または ロゴスの階層 
つまり 《非思考の庭》と《思考の緑野》とのあいだに何が起きるのか) 


 [非思考の庭]
  スピリトゥス=ロゴス(α):クレド(非経験のナゾなる非思考の庭):神
                   ↓
 ----【天使(α’):ロゴス(α)の使い】--------------
                   ↓
 [思考の緑野]            ↓
  インスピレーション=ロゴス(β):異言
       :中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ
                   ↓
  インスピレーション=ロゴス(γ):預言
       :本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間による言葉化
       :概念? 象徴(シンボル)? 世界観じたい?
                   ↓
  ラチオ=ロゴス(δ):コギト=思考〔の緑野〕
       :経験合理性にもとづこうとする論理


   *(註) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

   ・ロゴス:ことば

   ・スピリトゥス:霊。聖霊

   ・クレド( credo = I believe. 我れは信じる)

   ・異言(シャリバリ):意味の分からないことば

   ・預言:解釈。経験思考で分かるように表現する。

    〔もともとは 予言= pro-phetia(予‐言)として成ったことば〕

   ・ラチオ( ratio ):理性

    〔 = reason 。《 re-or =思う・考える・数える》から〕

   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

☆ ロボットや人工知能は インスピレーション=ロゴスつまり ヒラメキとし
ての言葉を受け取ることがあるのか? といったことが気に成ります。

ことばを《ロゴス》として広く捉えた場合 次のように分類できるのではないか
と考えます。

☆☆ ひどっち=ぶらじゅろんぬの定理 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
【Q:ヒラメキとは 人に起きるいかなる現象か】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/10598115.html

〇 ヒラメキの成り立ち (ひどっち=ぶらじゅろんぬの定理)
(または ロゴスの階層 
つまり 《非思考の庭》と《思考の緑野》とのあいだに何が起きるのか) 


 [非思考の庭]
  スピリトゥス=ロゴス(α):クレド(非経験のナゾなる非思考...続きを読む

Q何故私は「反・知性主義」なのか?

こんばんは。

例によって、「ヘン」な質問ですので、お暇で、何か感想を持たれた方の書き込みを希望します。

むかしから、「読書家」と言われる人、更には「利口者」「賢い人」「博識」「才気煥発」といった人たちに、ほとんど「憎悪」と言っていいほどの生理的嫌悪感を抱いています。

それが単に「持たざる者」の「持てる者」への羨望、嫉妬、やっかみに過ぎないというのならそれはそれで構わないのです。

わたしは精神障害者ですが、知的障害者でもある可能性も高いと感じています。

さて、わたしがこのような「反知性主義者」である理由は何に起因すると考えられますか?

上に述べたように、出来ない者が出来る者へ感じる至極単純な劣等感、情けない妬み・嫉みであるというお答えでももちろん結構です。
ただ、そのようにお答えになられた場合、何故あなたはそのような結論を出されたのか?
その理由を教えてください。

このような質問をするくらいですので、精神状態はあまりよくありません。お礼が遅れることもあると思いますがご理解ください。

Aベストアンサー

質問者さん自身が、「お礼」で「『自信ありげな態度』というのはどうしても好きになれません」などと書かれてますので。
それがそのまま「理由」じゃないですかね?

すなわち、知性が嫌いなのではなくて、「知性をひけらかす」などの行為や態度が、嫌いなのでは?
もしそうなら、質問者さんに限らず、そんなのが好きな人は、少数派ですよ。(^^;)

私も、哲学やその精神や本質(知を愛す)は好きなのですが・・。
言葉遊びとか、知(智)を弄ぶ様な、一部の「哲学ゴッコ」などには反吐が出ます。
他人を論破して喜んでいる様な哲学者気取りは、哲学を語る資格さえ無いと思います。

逆に哲学の原点は、「無知の知」であって。
「知」に対しては、常に謙虚であるべきですから、謙虚さのない知性に嫌悪する質問者さんは、真に哲学的なんでしょう。

Q《科学する》なる主題について なぜ価値自由性を言わないのか?

1. 価値ないし価値観ないし主観〔の片寄り〕からなるべく自由に対象を
・世界を認識する。

2. そうして おのれの思想や個性をも含む人間たる自己そのものの表現
として その世界観を明らかにする。


3. つまり ① 価値判断をできるだけつつしむ事実認識の段階と その
あと ② 自由に――表現の自由なる公理にもとづき まったく自由に――
価値判断をおこないこれを述べる。

4. 《哲学する》が ふたつの段階に分かれているだけである。


5. 初めの段階をひとまづ切り離しておこなうようになれば これを 《狭
義の哲学する》こととして 《科学する》と呼ぶだけのことではないか?

6. 形而上のことは 価値判断に――間接的・隠然としてにしろ――ふく
まれるものだ。人間が つねに超自然なるものと接しているとするならば。

Aベストアンサー

> ☆ ということは 哲学の話にはおさまる――ということなのでは?
言うまでもないと思いますが、科学は哲学の一分野です。「個人の判断はいかになされるか」ということを対象として取り上げて研究するのであれば、それは「哲学の話」です。しかしながら、ある個別事例において「その判断がその人の形而上学的信念に左右されたかどうか、あるいはその人がたまたま当の科学者だったのかどうか」をいくら論じてもせいぜい文学であって、哲学にはならんでしょう。

> 自然科学者が《科学者》に徹しようとする場合がありますが それは人間
> として広くはふつうに自然に哲学者であることを――その人の信念からか
> 趣味からか――禁欲しているだけだと考えられます。

 いわゆる専門家が、自分の専攻分野以外の大抵のこと(哲学や科学を含めて)に何の興味も持っていない、という状況はごく普通に見られることでしょう。禁欲とは関係なく、単にアホであり教養がないということです。これは科学とは無関係だと思いますよ。
 一方、科学において新分野を開拓する人はしばしば哲学的考察を行う。科学の方法論が非常に厳しく限定されているためにほんの足元しか見えないという制約のもとで、見通しを得ようすれば、自由な発想を温めつつそれを(科学の方法論を逸脱してはいるが)できるだけ論理的に構造化しようとするのは、必然じゃないでしょうかね。


> ②の価値判断に
> は――早い話が 《有る神》派か《無い神》派か 二つに一つの――おのれ
> の形而上学を踏まえた上で 経験的な思考と意思決定をおこなっているは
> ずです。
 そうは思えません。その価値判断が拠るところは神秘的な話などではなく、むしろ、哲学の中でも倫理学と呼ばれる分野でしょう。(現実の社会とその動力学的仕組みを如何に的確に認識しているかによって、企図した通りに物事が進むかどうかは違ってくるわけですが、少なくともその価値判断の動機は倫理に導かれている、という意味です。)
 倫理をあたかも数学のように体系化しようとすれば、ユークリッドの方法に倣って「原理」からすべてを演繹することになり、(怪しい新興宗教やスピノザのように)ズッコケるのは目に見えています。一方で「大多数の人がどう感じるか」を調査して倫理に代えようとするのはその場しのぎであり、人々の想像力の限界の先にどんな矛盾を孕んでいるかもしれない危険で安易な倫理学です。しかしながら、えーい、どうせ分からんのなら超自然のせいにしちゃえ、というほど無責任な人は、重要な価値判断に関わるほどの研究ができる人の中では、かなりの少数派でしょう。

> ☆ ということは 哲学の話にはおさまる――ということなのでは?
言うまでもないと思いますが、科学は哲学の一分野です。「個人の判断はいかになされるか」ということを対象として取り上げて研究するのであれば、それは「哲学の話」です。しかしながら、ある個別事例において「その判断がその人の形而上学的信念に左右されたかどうか、あるいはその人がたまたま当の科学者だったのかどうか」をいくら論じてもせいぜい文学であって、哲学にはならんでしょう。

> 自然科学者が《科学者》に徹しようとする場合があ...続きを読む


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