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1. ここで《絶対的に》というのは 修辞学の問題です。いわゆる文芸部
の好んで用いる無定義による用法です。(ただの強調用法)。

2. つまりまさに無定義にもとづくことの・むしろ普遍性を《信じている》
場合の言葉です。

3. この場合の《信じる》というのも 無定義で一般に用いられているそ
れです。(強調法)。


4. 《ながながし夜を ひとり かも寝む》の《ひとり》が あんがいわ
れわれ日本人の《大衆》的思想の土台であるのかも知れない。――その意味
で〔のみ〕 個人主義的である。

5. 要するに《ひとり》で個人たる《われ》のいだく思いは それこそが
《絶対》なのだ。ということになっている。のだろうか?

6. 隕石が降って来ても その《こころ》は びくともしない。不動明王。



7. ところが 一般に人びとは 《神とは この人がこう言ったりあの人
がああ言ったりしていても どの神も同じひとつだ。そうに決まっている》
というふうに《信じている》。つまり その場合には 普遍性に信頼してい
る。

8. ひとりたるわれが バラバラではない。




9. さて 人びとは 普遍性を知らない愚か者か? 

10. 《〈ひとり〉教なる〈われ〉教》に染まった侏儒なる不動明王でし
かないか? つまり 哲学とは無縁か?

A 回答 (2件)

神道の普遍と云う事に付いてならば、森羅万象に神を見る、と云う事になるのではないでしょうか。



森羅万象に神宿る、と云う捉え方自体が“同じ一つの普遍神”と云う事になるかと思います。

その“一つ”を殊更に表出しようとしない、と云うところが“神道”たる所以でしょう。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

○ 一切衆生 悉有仏性。
☆ では 《衆生》が《有情》とも言うように 生物〔だけ〕を指すようです。

というので 中国あるいは日本では:
○ 山川草木(または 草木国土) 悉皆成仏
☆ というふうに 《非情》の無生物をふくめ 自然界をもひっくるめてしま
った。らしい。



★ その“一つ”を殊更に表出しようとしない
☆ つまり 個々のものは 神の・霊性の《依り代》だというようです。
お稲荷さんのキツネが 神そのものなのではない。



そうなんですけれど・そのとおりなんですけれど。・・・
つまり そういう割りには:
◆ アルケーの神とか 絶対善だとか 存在性だとか
☆ のように 何か《ひとつの依り代》に――不動明王のごとく――こだわり 
もうそのものが神そのものであると言わんばかりの状態が しばしば見られま
す。

これは 汽笛さんや弁栄師の所為ではないですか? 柔軟性をじゅうぶんに・
必要以上に発揮していないと どうもあたかも《唯我独尊》のごとき片寄りが
次から次へと現われて来ます。

どうにかしてください。

お礼日時:2019/03/07 03:33

相変わらず独特の表現を用いているので、分かりずらいというのが正直なところですが、敢えて云ってみれば、日本人の“心情”に付いての事であるように思いました。



大衆と云うからには、平均的なという事でしょう。ピンやキリは例外として外して考えるのですよね。

日本人の大衆の普遍性の根っこは、神道である様に思います。

これを取り上げる“哲学”は、後付けに過ぎないのでは無いでしょうか?
どんなに哲学的に考察されようとも、神道的心情は消えないと思うからです。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 日本人の大衆の普遍性の根っこは、神道である様に思います。
☆ ぜひこの《神道的心情》について どう捉えているかを述べて欲しい
ところです。

参考:【Q:神道ってなんですか?】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/8759759.html



☆ この質問でわたしの知りたいところとしては 《普遍性》の問題です。


もし神道が次のように思っているとしたら 普遍性問題は だいじょうぶ
なのだと思います。

○ 神っていうなら ふたつも三つもそこらにいるってんぢゃ 道理に合
わない。たとえ名が違っていて別にいたとしても みな同じひとつの普遍
神に決まってるぢゃん。

お礼日時:2019/03/06 17:56

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