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哲学者カントは、良心の呵責についてこのように述べています。

「人間が良心の呵責によって感じる苦痛は、たといその根源が道徳的であるにしても、結果からいえば、
哀傷とか恐怖とか其他種の病的状態と同じく、自然的である。」
参考:カント 道徳哲学 岩波文庫 p.41

つまり、良心の呵責は、たとえ道徳的であったにしても、自然な感情から来ている。恐怖とか、哀愁とかいったように。

あなたは、良心の呵責を感じることはありますか?
それはどんなことですか?

A 回答 (8件)

私も感じますよ。

それも取り返しのつかない子供の頃の自分の行動とかにね。
歳を重ねていくうちにいろいろ経験していく中で、まだ自分の感情が未熟だった頃の失態とかを思い出して、何であんなひどい事をしてしまったんだと感じます。
たとえば犬を飼ったのに遊んだのはちょっとの間だけで、あとはほおっておいて散歩もしないでフィラリアで死んでしまったときとか、思うようにならない事で腹を立ててヤツ当たりに弟を叩いて泣かせてしまったことや、子供の時の事なんで誰でもやってしまう仕方がない事とはいえ、とても辛く思い出すときがあります。ほかにもいろいろと自分の失態を思い出しては良心の呵責に胸がつまります。不思議なことにそういう想い出だけは心に残ってるんですよね。
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この回答へのお礼

子供時代の失態は、無知から来るものでもありますよね。
どれくらいいけないか、どれだけ相手を傷つけるかわからずにやっているのでしょう。わかっていて故意に意図的に相手にダメージを与えていたわけではないので、ご自分を許してあげましょう。二度とやらなければ失敗から学ぶ成功になりますね。
回答ありがとうございました。

お礼日時:2019/03/10 02:57

1. 《良心》とは ひとが考えたりその考えをオコナヒに移すときに その


中身によってはヤマシサや恥ぢを感じさせるように胸をドキドキさせ顔を赤ら
めさせるそのハタラキです。


1-1. 生まれつきそなわった自然本性としてのチカラです。

1-2. ヤマシサや恥ぢの上にさらにおのれの考えとして良し悪しを思い成
すという判断やその判定した内容をも言う場合があります。 



2. 《良心の呵責》という場合には すでに思わず知らずに成したオコナヒ
について 恥ぢつつ悔いる――悔いつつ恥ぢる――ときの思いや〔その確認と
しての〕意識です。


2-1. ▲ 良心の呵責によって感じる苦痛
☆ というこの《苦痛》という言葉は 必ずしもふさわしいとは思えません。


2-2. 悔いるそして恥ぢるなら 《思わず知らずオコナヒを起こす》よ
うなことをしないようにしようと心に言い聞かすはずです。苦痛の問題とは 
別です。


2-3. もし苦痛を伴なうような咎めを良心なるハタラキが 起こしてい
るとしたら それは すでにオコナヒに当たって恥ぢやヤマシサ反応を感じ
ながら・しかもこれらにさからって冒すことになったという場合です。

2-4. すなわち もしおのれのオコナヒについて良心が咎めそれによっ
て悔いる恥ぢが 心の苦しみや痛みにまで成るとすればそれは みづからが
その答責性を果たすという問題です。

2-5. つまり 焦点・力点としては苦痛の問題ではなく 冒したオコナ
ヒがもたらした損害をつぐなう問題です。原状復帰という責任のそれです。




3. ▲ 道徳
☆ というのは 良心のハタラキや良し悪しの判断あるいはツグナヒをめぐ
ることがらについて そのナラハシをしらべ一般性のある内容を取り出しこ
れを規範としオシヘとしてまとめたものです。


3-1. つまり 良心にかかわる人間の意志行為とそれらの錯綜する社会
的関係 つまり倫理の問題――この倫理をめぐる規範というのは すでに二
番煎じであって 極端に言えば どうでもよいものです。屁の河童です。


3-2. すなわち:
▲ 良心の呵責によって感じる苦痛・・・の根源が道徳的であるにしても
☆ というくだりは 表現だけではなく 人間の自然本性にそぐわない人間
性の認識にもとづいています。


3-3. 人間性の《根源》としてたとえば《良心》を持ち出すばあい そ
れは ふつうに人間関係という意味の倫理の問題であっても 道徳といった
倫理規範の問題ではあり得ません。

3-4. また 《苦痛》は 主役ではありません。責任を果たすことが主
役です。( 2-3 ~ 2-5 )。




4. いや だから 苦痛は《自然的だ》と言っているではないか? つま
り:
▲ ・・・結果からいえば、哀傷とか恐怖とか其他種の病的状態と同じく、
自然的である。
☆ と。


4-1. いやいや いやいや。道徳は二番煎じであって《根源的》ではな
く 答責性が主たる事柄であって《苦痛》は主役ではないということが明ら
かになったとすれば いちいちこのように 恥ぢや咎めが《自然的である》
と――何かの問い求めの結論として――言っているのは おかしい。話の順
序が ぎゃくなのだ。すべて良心――恥ぢやヤマシサ反応――に始まる。

4-2. おかしいのは 況や:
▲ 病的状態
☆ たる規定においてをやである。良心は・その恥ぢ意識は・そして時には
その咎めは すぐれて人間的であり すこやかな人間性そのものなのだ。


5. イマヌエルくん あやまてり。
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この回答へのお礼

>良心は・その恥ぢ意識は・そして時には
>その咎めは すぐれて人間的であり すこやかな人間性そのものなのだ。

健全な良心の呵責を、全人類が持てるようになれば、犯罪は減りますね。
サイコパスは、良心の呵責や罪悪感が無いのだと思います。

回答ありがとうございました。

お礼日時:2019/03/10 07:22

なるほどね。



「人間の妄想の中での姦淫によって感じる快感は、たといその根源が非道徳的であるにしても、結果からいえば、哀傷とか恐怖とか其他種の病的状態と同じく、自然的である。」

ていうのと比べると、良心による呵責も妄想の中での姦淫も同じレベルだってカントは言ってたのか。

あたしゃ良心による呵責も妄想の中での姦淫も両方経験したことがあるけど、「そっかぁ、カントがそんなこと言っててくれたんか。道徳なんて関係ないんだ。だったら、今様の何でもありでもいいじゃん」て、あの悪党のマスメディアの論理武装ができた気になって、そこの連中もホッとするだろうね。
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この回答へのお礼

自然体でいることが、肯定されているという解釈ですかね。
回答ありがとうございました。

お礼日時:2019/03/10 07:18

過去の行動や考え方が現在の自分を形成しているわけで、現在の自分を愛して、未来に直面してゆくためには、過去と仲直りしてゆく、すなわち、良心の呵責を感じる負の記憶を持たないのが望ましいです。

ですから、可能な限り、ひとを傷つけたり、苦しめたときには、”誠意ある謝罪”をして、そこで、過去とさよならをするやり方をとってきました。

それでも、私が死んでゆくとき、振り返って、あの人には、申し訳なかった、と思うこともあるかもしれませんが、現在は、良心の呵責なしで生きています。

他人ごとですが、例えば、いじめられた生徒が自殺をした場合、いじめた側の学生は、どうやって、その、”ひとごろし”の過去と向き合ってゆくのか、その過程に非常に興味があります。テレビドラマにするには、重すぎる課題でしょうか。
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この回答へのお礼

言われてみれば、私も申し訳ないと思って謝罪することがあります。
それは良心の呵責を払拭したいという思いから来るのだと気づきました。
死ぬときは、もやもやした心残りが無いように私もしたいものです。

>いじめた側の学生は、どうやって、その、”ひとごろし”の過去と向き合ってゆくのか

多分ですが。。いじめた側は、たいして良心の呵責など持たない人間なのだと思います。
そういう人間には、それなりの別の形の罰があるでしょう。(人望人徳が無いなど)
良心の呵責を持った人の場合は、一生その苦しみを背負うということ自体が罰となるのでしょう。その場合、苦しめば苦しむほど、自分で自分を罰することができるということになりますね。

回答ありがとうございました。

お礼日時:2019/03/10 07:15

良心の呵責が「自然」なんじゃなくて、それによる「苦痛」が「自然」だと言っているんだと思います。


カント的には、そのような「苦痛」を生じる場合が、「良心の呵責」だと定義したと言う事でしょう。
個人的な行動原理としては、当然ながら、自分の意志に反した行為の場合は、「苦痛」を感じますよね?
そのような事は、いくらでもあります。
ただ、「良心の呵責」と表現した場合は、倫理的、道徳的な内容に限定されると言う事でしょう。
一般的には、そのような、自分の倫理的、道徳的な行動規範は、通常は守る事が出来ますが、意図せず、結果的にそのような状況になる場合は、ありえます。
良かれと思って、行った行動が、結果的に、相手に不利益を与えてしまった場合などは、「良心の呵責」を感じますね。
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この回答へのお礼

>良かれと思って、行った行動が、結果的に、相手に不利益を与えてしまった場合などは、「良心の呵責」を感じますね。

余計なお世話、お節介をしてしまったということですね。
私はそのようなことの被害者側であることがあります。
相手が良心の呵責を感じていれば良いのですが。
回答ありがとうございました。

お礼日時:2019/03/10 07:06

>たといその根源が道徳的であるにしても<



道徳的とはどんな意味なのでしょうか?分かりません。


>哀傷とか恐怖とか其他種の病的状態と同じく、自然的である。<

哀傷とか恐怖とかが何故病的なのですか、何故それが自然的なのでしょうか。


また良心とはいかなるものですか?呵責とは本能的ですか、理性的ですか。
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この回答へのお礼

カントによると、本能的みたいですね。

お礼日時:2019/03/10 07:03

ないです。



過去の、それも他人に与えた影響など考えても、それは自己満足でしかなく、意味がない行為だからです。
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この回答へのお礼

>ないです。

すっきりしていますね。

>過去の、それも他人に与えた影響など考えても、それは自己満足でしかなく、意味がない行為だからです。

過去は取り戻せませんからね。

回答ありがとうございました。

お礼日時:2019/03/10 06:59

人間の脳にはミラーニューロンというのが


ありますので、他者のことを思いやる心は
先天的に備わっています。

しかし、それが具体的な道徳規範に昇華するかは
人工的な教育によるものであって、
恐怖のような自然感情から来ているものでは
ありません。

具体的な道徳感情は、繰り返しの教育により
すり込まれ、内面化されます。

罪悪感は、この内面化された道徳規範に
抵触するゆえ、発生するものです。



あなたは、良心の呵責を感じることはありますか?
 ↑
ありますよ。



それはどんなことですか?
 ↑
色々あります。

困っているひとを助けなかったとき。
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この回答へのお礼

>道徳感情は、繰り返しの教育により
>すり込まれ、内面化されます

これは興味深いと思いました。
まるで、洗脳される過程みたいですね。
そうやって人は、プログラミングされて行くんですね。
だから、例えば、礼儀正しくなければならない、皆と仲良くしなくてはならない、
という思い込みに支配されている人が多いのだと思います。

>困っているひとを助けなかったとき。

私も、急いでいる時は、誰かが近寄って来るのを知りながら、
エレベーターの扉を閉めてしまったりします。
でも、それで感じる良心の呵責はほんのわずかですが(^^)

回答ありがとうございました。

お礼日時:2019/03/10 06:58

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実際は(質問者にとって)優秀な弟子、賛同者が
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って考えが主流となってますね

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宗教間対話は、共通の目的を、確認し合う事からだと思います
その第一が
「生存の権利は、誰人と言えども、いかなる理由であっても
これを犯してはならない」
と言う事です

ダライラマ等が参加する、宗教間の対話など
ただのパフォーマンスに過ぎず、下心がミエミエで
何の問題の解決にもなりません

宗教間対話」のあり方として
「積極的寛容」を提示しなければなりません
①それぞれの宗教が「原点の心」に基づく、
②「独自性」と「共通性」を自覚する、
③自己の宗教の「創造的発展」、
④人類的課題の克服に協調することを目的とする
等が挙げられます、

柳沼正広氏による第2章「キリスト教と諸宗教 宗教の神学」では、
キリスト教が他の諸宗教をどのように考えてきたかが述べられています。
諸宗教に対する考え方として、
排他主義、包括主義、多元主義、多元主義への批判を取り上げています。
他宗教を理解する努力のなかで、
自身の宗教への理解や反省が深められていく
宗教間対話の持つ重要性について論じています。

中国における中心的な思想である儒教に対して、
外来宗教である仏教と、儒教より後に成立した道教が
、自らの立場を主張しつつ、互いに交流と対話を
行ってきた歴史を辿っています

統合、に必要なものは「信」です
「不信」が統合を不可能にしています
宗教間の争いを無くすには
信頼関係を結び、友好、交流活動の継続しかありません

信は  結合 善 勇気 幸福 平和 不可能を可能にします
不信は 分断 悪 臆病 不幸 戦争 可能を不可能にします

宗教間対話は、共通の目的を、確認し合う事からだと思います
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「生存の権利は、誰人と言えども、いかなる理由であっても
これを犯してはならない」
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ダライラマ等が参加する、宗教間の対話など
ただのパフォーマンスに過ぎず、下心がミエミエで
何の問題の解決にもなりません

宗教間対話」のあり方として
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あらゆる形而上的な概念を排除しようとした、マッハなどは、その立場としては、科学的でしょうが、それを思想的な衝動とした時点では、哲学的と言えるでしょう。
20世紀初頭は、現代の科学的な方法論は、ほぼ確立していましたが、現象の解釈と言う点では、まだ自然哲学から抜け出ていなかったと言えるでしょう。
実際問題としては、「科学」、狭義には「自然科学」の厳密性を担保するのは、「現象」そのものです。(現象以外は、基本的に検証の対象にならないと言えるでしょう)
「哲学」は、その性質上、形而上の存在も対象としなければいけません。 したがって、その厳密性の担保は、哲学が方法そのものから、生み出す必要があります。(これが、「哲学」が一筋縄では行かない所以です)
厳密性が一定の範囲で、確実に担保できるのは、形式科学としての「数学」ですね。(むしろ、厳密性が担保できる「形式」を見つけるのが、「数学」なのかもしれません)
宗教もある意味、「数学」に似ています。 それは、宗教の信仰者からは、そのようなものでは無いと言われるかもしれませんが、何らかの信仰対象に対して、信仰者がある形式で、その信仰を行う活動と言えなくも無いわけです。(その形式の分析は、宗教では無く、「宗教学」と呼ばれるでしょう)
古代ギリシャにおいては、これらは、全て「哲学」の領域にあったと言えるでしょう。(「数学」、「自然学」、「形而上学」は、「哲学」の中で混然一体として議論されていたわけです)
ヨーロッパにおいては、ローマ帝国によるキリスト教の国教化に伴い、しばらくは、(キリスト教)「神学」は、自然哲学や「形而上学」としての、プラトニズムと混然一体として、「哲学」としても、蜜月を迎えましたが、16世紀以降は、暗黒時代を経て、「哲学」からは、それぞれ「神学」、「自然科学」として、分科していきました。
分科した理由はさまざまでしょうが、基本的に「哲学的」な厳密性では、上手くゆかなくなったのが、一番の理由でしょう。
(キリスト教)「神学」は、その宗教的理由から、教義にかかわるような議論を嫌ったわけでしょうし、「自然科学」は、原因を追究するより、現象の法則の科学的解明の方が重要だったと言う事です。
「数学」も、論理実証主義により、その厳密性を確立する事を目指しましたが、ヘーゲルなどにより、その基盤が確実で無い事が証明されてしまいました。(したがって、一定の形式における論理的整合性の検証に特化したわけです)
これらは、「Why(何故)」から、「How(どのように?)」への転換と言えます。
「哲学」が追求するのは、「Why」でしょう。
「科学」は、「How」であり、一部の解釈は、「Why」となります。(ただし、解釈は、あくまで解釈であり、実証は成されていないでしょう)
これが、「哲学」と「科学」を分ける境界なんでしょう。

基本的には、科学が形而上学でないと言う事が違いなんだと思います。(これに関しては、量子力学の「解釈」は、その実体を観察できない以上「形而上学」に過ぎないと言う批判はあるでしょう)
あらゆる形而上的な概念を排除しようとした、マッハなどは、その立場としては、科学的でしょうが、それを思想的な衝動とした時点では、哲学的と言えるでしょう。
20世紀初頭は、現代の科学的な方法論は、ほぼ確立していましたが、現象の解釈と言う点では、まだ自然哲学から抜け出ていなかったと言えるでしょう。
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「一つの直線上にない一点を通ってその直線は一つしかない」

この命題を証明することはできません。以前はこれを証明しようと多くの数学の天才たちが試みました。しかし誰にも証明できなかった。ロバチェフスキーが1829年に『幾何学の新原理並びに平行線の完全な理論』を発表して、彼が1826年に発見した新しい幾何学を提示して、上記の命題が証明不可能な公理であることが明らかになったのです。

ロバチェフスキーは、上記の命題の代わりに

(1)「一つの直線上にない一点を通ってその直線は何本でも引ける」

としても、数学的に無矛盾で閉じた論理体系を構築できることを明らかにしました。それがいわゆる非ユークリッド幾何学の始まりでした。この幾何学で表現されている空間は曲がった空間なのです。

その後に、リーマンが

(2)「一つの直線上にない一点を通ってその直線は一本も引けない」

としても、数学的に無矛盾で閉じた論理体系を構築できることを明らかにしました。この公理(2)が成り立つものとして構築された幾何学をリーマン幾何学と呼びます。一方、上記の公理(1)が成り立つものとして構築された幾何学をロバチェフスキー幾何学と呼びます。

さらに、リーマン幾何学の一つの具体的な例が球面状の幾何学であることもわかるようになりました。その場合この非ユークリッド幾何学を球面幾何学と呼ぶこともあります。

上記の事実の発見は、人類に多大な知的進展をもたらしました。なぜなら、自分の主張の論理的矛盾性をいかに証明しても、それでこの世界が解ったわけではないことが明らかになったからです。例えば、我々が埋め込まれている宇宙が上記のどの幾何学によって記述されている世界なのかは、論述の無矛盾性や整合性をいくら明らかにしても、判定できないことが明らかになったからです。

その判定には必ず実験や観測が必要である。すなわち論理的な理念の整合性に加え、事実はどうなのかを実験や観測で判定しなくてはならない。その判定をするのが自然科学なのです。そして数学は、命題の間の無矛盾性を論じる言語学であり、すなわち人文科学の一つであり、事実を論じる自然科学ではないことが明らかになったのです。

公理で一番有名なのは、平行線公理(平行線公準とも呼ばれる)でしょう。

「一つの直線上にない一点を通ってその直線は一つしかない」

この命題を証明することはできません。以前はこれを証明しようと多くの数学の天才たちが試みました。しかし誰にも証明できなかった。ロバチェフスキーが1829年に『幾何学の新原理並びに平行線の完全な理論』を発表して、彼が1826年に発見した新しい幾何学を提示して、上記の命題が証明不可能な公理であることが明らかになったのです。

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趣味と実益を兼ねるとは、具体的にどんなことですか。
 ↑
趣味でグーをやり、ポイントをもらって
アマゾンのギフト券と交換する。




世の中ではプラスの面で見られることが多いですが、
デメリット的な側面はないのでしょうか。
 ↑
実益が無いから面白い、ということが
あるのです。
実益と兼ねたら面白さが失せるかも知れません。

ボランテアをやっていて、充実して面白い。
でも報奨金が出るようになったら、義務みたいに
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Qあなたが人生を生きる意味を教えて下さい。 あなたが人生を生きる必要を教えて下さい お願いします。。

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お願いします。。

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美味しいものを食べて、
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哲学とは何か?この第一歩から考えてみたくなりました。

野矢茂樹氏の「ラジオ深夜便」出演の話はどなたかが紹介していましたが、
私も一度聞いたことがありました。
改めて聞いてみると、嬉しくなるほど分かりやすいと思いました。なんだか
分からない話を随分聞いてきたせいでしょうか?

どんな分野でも、言っていることが明快な人は、その中身をよく理解してい
る人で、逆に言っていることが何だかよくわからない人は、結局分かってい
ないのだという世間一般の定説は正しいものでしょう。

哲学とは何かということについて、野矢氏は、次のように述べています。

ごく簡単に哲学史を述べれば、アリストテレスは哲学を学問として捉えていた。
トマス・アクィナスにとっては、哲学は宗教であった。
デカルトは、哲学は学問の基礎であると考えていた。
現代においては、哲学者の数だけ定義が存在すると言って過言ではない。

私(野矢氏)にとって哲学とは、人間の言葉を使った複雑な思考の中の問題として
1.思考の全体を見通せていない、2.思考を支えている多くの暗黙のものを自覚し
ていない、3.全体の曖昧さ、矛盾を分からないでいる、これらの問題を解決する
ことである、と。

確かに、哲学というものの定義は、様々であることは実感していました。だから、
「さあ統一しましょう」といったところで、そううまくはゆかない。せめて、各々
の定義を理解し合えたら、もう少し意義のある対話ができるかも知れません。

さて、あなたの「哲学の定義」はというと、どういうことになりますでしょうか?

哲学とは何か?この第一歩から考えてみたくなりました。

野矢茂樹氏の「ラジオ深夜便」出演の話はどなたかが紹介していましたが、
私も一度聞いたことがありました。
改めて聞いてみると、嬉しくなるほど分かりやすいと思いました。なんだか
分からない話を随分聞いてきたせいでしょうか?

どんな分野でも、言っていることが明快な人は、その中身をよく理解してい
る人で、逆に言っていることが何だかよくわからない人は、結局分かってい
ないのだという世間一般の定説は正しいものでしょう。

哲学...続きを読む

Aベストアンサー

キリスト教が発達してからの西洋哲学は、キリスト教を隠れ蓑にしていた人間のインモラルな部分に、風を通して、本来の人間性を取り戻そう、という、初々しいものではなかったですか。

ルネサンス美術と同じで、西洋の精神世界の理想である、ギリシアの昔のように、キリスト教を離れて、自由に思考をしたかった。もう一度、自分の頭で考えてみたかった。

ギリシアで発達した哲学は、言葉遊びのきらいもありますが、(多分に、貴族の暇つぶしだったでしょう)、発想は、もっと自由で、はつらつとしたものでした。人間の尊厳の確認であったかのような印象があります。

その旗頭であるソクラテスが牢獄に繋がれ、毒をあおって死ななければならなかったため、何か、陰惨な印象を持っていましたが、何年か前、彼の牢獄であったと伝えられている岩屋を訪れる機会があり、その場所が、アクロポリスを見渡せる、風光明媚な場所であったため、何だか、足元のはしごを外された気分、というか、牢獄でさえ、知的でした。

おっしゃる通り、哲学は、対話によって、曖昧なものや無意識に受け入れていた事柄を、明確にしてゆく役割を担っているのだと思います。中世以降のヨーロッパでは、キリスト教が邪魔になりましたが、現代の日本では、いかがでしょうか。

キリスト教が発達してからの西洋哲学は、キリスト教を隠れ蓑にしていた人間のインモラルな部分に、風を通して、本来の人間性を取り戻そう、という、初々しいものではなかったですか。

ルネサンス美術と同じで、西洋の精神世界の理想である、ギリシアの昔のように、キリスト教を離れて、自由に思考をしたかった。もう一度、自分の頭で考えてみたかった。

ギリシアで発達した哲学は、言葉遊びのきらいもありますが、(多分に、貴族の暇つぶしだったでしょう)、発想は、もっと自由で、はつらつとしたものでした。人...続きを読む

Q「マウンティング」をする人は「自信家」ではないか。

先の質問で、最後の回答をくださった方が、記事中のいくつかのキーワードを添えて以下のリンクを教えてくれました。

その時の回答をそのまま引用します


<またまたズレているかもしれませんが、おもしろい記事を見つけたので貼っておきます。
https://president.jp/articles/-/26637#cxrecs_s

マウンティング サル 優位に立ちたい 自信が無いから 
デジタル人間 感情の欠落 生きづらい
悪いのはあいつだ わたしには関係ない>

わたしはTVを視ませんし、新聞を読まない、インターネットでは、主にわたし同様、心の病を持った人のブログを読む。それ以外は専ら海外のアート・サイトを渉猟するだけで、WEBニュースもまとめサイトも覗くことはありません。ですから、最近の言葉はほとんど知りません。
「マウンティング」という言葉も初めて知りました。

以下リンクの記事より

「そもそもマウンティングをする人は、自分に自信がありません。そのため、自分よりも格下の人間をつくりだすことで、集団内での序列を少しでも高めて、上位にいるという安心感を得ようとします。」

わたしはブログを通して、自分同様に自己肯定感の極めて低い人たちを知っています。
けれども、わたしの知っている「自信のない人たち」は決して、決して「自分より格下の人間を作り出し」たり「人より優位に立ちたい」などとは露ほども思っていません。ただひたすら自己の無価値を嘆くだけです。わたしもまた同様です。

「マウンティング」とやらいう行動をとる人は、寧ろ、自己顕示欲の強い自信家であり野心家ではないのでしょうか?

「そもそもマウンティングをする人は、自分に自信がありません。」
この記事を書いた人は、如何なる根拠を持ってこのように断言するのでしょうか?

先の質問で、最後の回答をくださった方が、記事中のいくつかのキーワードを添えて以下のリンクを教えてくれました。

その時の回答をそのまま引用します


<またまたズレているかもしれませんが、おもしろい記事を見つけたので貼っておきます。
https://president.jp/articles/-/26637#cxrecs_s

マウンティング サル 優位に立ちたい 自信が無いから 
デジタル人間 感情の欠落 生きづらい
悪いのはあいつだ わたしには関係ない>

わたしはTVを視ませんし、新聞を読まない、インターネット...続きを読む

Aベストアンサー

そうなんですよ!

私も自信のない人、好きです
自信がない、って謙虚であることでもありますもんね
また、丁寧に物事を考えていけば
自信満々にはならないですもん

質問者さまが無力無能とは思いませんが、まあそれは置いておくとして
ある精神科医が
「自分はうつ病の患者さんが好きだし
精神科医は、みんなそうだと思う
うつ病の患者さんは優しいし礼儀正しい人が多い
元気になってくると医者にお礼を言ってくれる」

この言葉を知り
何かあった時に他人のせいにはしないで
自分が悪かったと自分を責めるような人が
うつ病になるのではと思いました

おそらく
「下をつくって、でも上に怯える」ような人が
自慢話で武装するのではないでしょうか?

「上とか下とかでなく
私は私でしかない」
と思える人が「本当の自信」がある人なのかもしれないですよ


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