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清の最盛期は長く、康熙・雍正・乾隆帝の全盛期は130年以上に及び、モンゴル帝国に次ぐ広大な領土を支配しました。
日本ではちょうど江戸時代にあたりますが、その当時の日本が清を恐れていたような記録はなく、清も日本を侵攻しようとは考えなかったようです。

意図していたわけではないと思いますが、相互不可侵の紳士協定が結ばれていたような感じです。
あれだけ領土拡大意欲の強かった清が、日本に対しては一切手を出さず、朝貢を求めるような素振りもなかったのはなぜでしょうか?

質問者からの補足コメント

  • 江戸時代の日本は貧しくはないです。
    その頃の日本がどれだけ金銀を産出していたのか知らないのですか?

    江戸や京の豊かさに驚いたという外国人の記録もあります。

    No.1の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/03/08 22:46
  • 食料が質素というだけでしょ。肉や乳を食べる習慣がないと背が伸びないけど、だからといって貧しいことにはならない。食習慣の問題なので。

    都市は瓦屋根の家が建ち並び、清潔で、これで貧しかったとは言えない。

    No.2の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/03/08 23:35
  • >江戸時代の日本人の身長を、同時代の欧米人と比較しているのでは、ないのです。
    → 貧しさの根拠に身長を挙げていますが、そもそも身長と裕福さには相関関係があるのでしょうか?
      過去と比べて身長が低いから江戸時代は貧しかったと言う珍説は、貴方しか言ってません。

    >日本を肯定する結論が先にあって、その結論に結びつけるために、あれこれ強引に理屈を並べているような印象を受けます。
    → 江戸時代の日本が世界の中でも貧しかったという、誰も同意していない結論を強引に並べているのは貴方ですし、貧しかったから中国が日本を攻めなかったという理屈も変です。ツッコミどころ満載なのです。

    No.4の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/03/09 07:48
  • フィリピンはスペインの植民地であったため、簡単に攻め込めなかったからです。
    豊臣秀吉が日本を統一した時には既にスペイン領であり、そうでなければ侵攻した可能性も高いです。

    まあ、フィリピンを攻めるなら、その前に琉球と台湾でしょうし、家康は実際に台湾を侵攻しています。

    No.7の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/03/11 20:38
  • >平均身長や、女性の平均的な初潮開始年齢、女性の平均的な胸の大きさなど、栄養事情と相関があります。
    → 近代以前は、栄養状態はその土地が生み出せる食料の量とその土地に住む人口の比率で決まりました。飢饉に関して見れば、中国も日本に劣らず発生しており、日本が貧しかったとは言えません。

    >日本は侵略する費用対効果の無い、貧しい国だったと言っているのです。
    → 清が征服したジュンガル、チベット、ウイグルは不毛の乾燥地帯で、肥沃な日本より豊かではありません。

    人口も多く、文化が花開いていた江戸時代の日本があなたの言われるように貧しい国のはずありません。

    No.6の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/03/11 20:51
  • >飢饉が発生したから貧しかったと言ってるんじゃないのよ。
    そんな single issue を言ってるわけじゃないんだけど、理解できてますか?
    → そんなに偉そうなことを言いながら、キミは理由を説明できていないんだよね。

    >モンゴルに端を発する元の文化や文明が、どれだけ高度であったか知ってますか?
    → 質問者に聞く前に、どれだけ高度だったかをまずキミが説明しないとね。

    >あなたの願望を押し付けているだけ。
    → 理由を説明しないのはキミだから、そちらの方が願望だね。

    No.9の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/03/11 23:27

A 回答 (10件)

小規模な貿易は行われていたようですが、秀吉や倭寇影響か、あまり良い国交関係とは言い難かったようですね。



前王朝の時、倭寇対策が大変だった。
江戸時代になって、おとなしくなったので、あえてちょっかいを出す必要はなかったのでは?

さらに言うと、そのためもあって、清王朝でも海上交通に制限をかけていた。
そして朝貢貿易以外、むしろ鎖国に近い政策だったことも要因の一つではないでしょうか。
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質問のタイトルをじっくり読むと、何か変だなと思えてきます。



「日本侵略を考えなかったのはなぜですか?」と書いていらっしゃいますが、清の皇帝が「侵略を考えなかった」というのは本当でしょうか? 何か信憑性のある資料に基づいた表現ですか? 清の皇帝が侵略を考えたか考えなかったかを断言できる根拠は何なのでしょうか?

私が思うに、清の皇帝は(その立場上)一応侵略も考えたが、利害得失や諸般の条件をあわせ考えた末に実行に移さなかったという可能性もあるのではと思っています。

わずかな言葉尻を巡って、質問者さんと回答者さんの間で何やら感情的にエスカレートしているように見受けられますが、どちらの味方でもなく第三者的な立場から言わせて頂くならば、回答者さんの論旨の方が首肯できる要素が多いかなと感じています。

私は違う立場から回答させて頂きます。

康熙帝と雍正帝に関しては、もしかすると日本への侵略を考えたかもしれませんが、乾隆帝に関しては、世間で言われる「三代目」のお坊ちゃんにありがちな、野心よりも祖父から受け継いだものを堅実に残すことに腐心する生き方のようなものを感じるのです。

では先二代の皇帝の時はどうだったんだと突っ込まれそうですが、多分忙しくてそれどころではなかったのでしょうね。そして、三代目は受け継いだものを守る事に汲々としていたのだと考えます。
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> 飢饉に関して見れば、中国も日本に劣らず発生しており、日本が貧しかったとは言えません。



飢饉が発生したから貧しかったと言ってるんじゃないのよ。
そんな single issue を言ってるわけじゃないんだけど、理解できてますか?


> 清が征服したジュンガル、チベット、ウイグルは不毛の乾燥地帯で、肥沃な日本より豊かではありません。

本気で言ってますか?
モンゴルに端を発する元の文化や文明が、どれだけ高度であったか知ってますか?
あなたが言う不毛の乾燥地帯で、どれだけ多くの家畜が養われ、また交易が行われたか知っていますか?


> 貧しい国のはずありません。

あなたの願望を押し付けているだけ。

上記のあなたのコメントを読んで、あぁ、この人は大して歴史を勉強していない人なんだなという事が、非常に良く分かりました。
あなたは、御自分が歴史を勉強不足である事を、もっと自覚された方が良いと思います。
この回答への補足あり
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日本に生まれたから日本が素晴らしい国のように思い込んでいるのでしょうが、中国からみた日本というのは、日本からみたフィリピンのようなもの、と言えば分かるでしょうか。



日本の戦国時代あるいは江戸時代に、フィリピン侵攻を考えなかったのは何故ですか?という質問のようなものです。
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> 貧しさの根拠に身長を挙げていますが、そもそも身長と裕福さには相関関係があるのでしょうか?



あります。
平均身長や、女性の平均的な初潮開始年齢、女性の平均的な胸の大きさなど、栄養事情と相関があります。
https://www.nhk.or.jp/ohayou/digest/2017/04/0401 …

またハワイなどの部族では、太っているイコールそれだけの食べ物を確保できる裕福さの証という文化があります。日本でも和歌山県では、太っている子供を見ると『よー肥えてらいしょー』と褒める習慣があり、十分な食料を子供に食べさせているのだねという親に対する褒め言葉です。


> 過去と比べて身長が低いから江戸時代は貧しかったと言う珍説は、貴方しか言ってません。

身長が低いから貧しいと言っているのではなく
 1. 平均身長の低さ
 2. 文献に記載されている食料事情の悪さ(個人の日記や、何度も続いた飢饉)
 3. 俵物三品くらいしか輸出できなかった事。明治になって殖産興業と励まなければならないほど、輸出品目が無かった事。
そういった観点で、日本は侵略する費用対効果の無い、貧しい国だったと言っているのです。



> 貧しかったから中国が日本を攻めなかったという理屈も変です。

どこが変なのか全く理解できません。侵略と言うのは昔から
  1. 相手国の資産を奪う
  2. 攻撃される前に、攻撃してしまう
どちらかの目的でしか、発生しません。攻撃される恐れもない弱小国家で、奪うほどの資産もない貧しい日本を、侵略する費用対効果など、ありません。
この回答への補足あり
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そもそもですが、中国大陸の人間は


島国にすぎない日本にはあまり興味や
関心が無かったのです。

海を隔てた日本など侵略する余力があれば、隣接する
地続きの国を侵略する方が、効率が良いしメリットが
大きいわけです。

モンゴルが侵略したのは例外です。
時の朝鮮王「忠烈王」が、宋を攻撃したかった
モンゴルを、懸命に説得して、日本を侵略
させたのです。
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> 肉や乳を食べる習慣がないと背が伸びないけど、だからといって貧しいことにはならない。

食習慣の問題なので。

これは違います。

江戸時代の日本人の身長を、同時代の欧米人と比較しているのでは、ないのです。
そうではなくて、江戸時代の日本人の身長が、縄文や弥生を含めたどの時代の日本人の身長よりも低いのです。
肉や乳を食べる習慣が無かったのは、江戸時代の前からです。


> 都市は瓦屋根の家が建ち並び、清潔で、これで貧しかったとは言えない。

日本を肯定する結論が先にあって、その結論に結びつけるために、あれこれ強引に理屈を並べているような印象を受けます。

現代の日本において、北海道の夕張町というのは、冷暖房の整った家屋が並び、清潔で、立派な町並みが広がっていますが、しかし財政が破綻するような貧しい町です。東京の中央区と、北海道の夕張町を比べたら、夕張町は貧しいのです。

中国から見て、日本というのは、侵略する価値も無い貧しい国でした。元寇ですら、大陸を平定して、もてあました、ならず者たちを、送り込んだ程度のものでした。

ただし21世紀において、中国はシーレーンを確保する為に実効支配地域を拡張しようとしており、日本の沖縄は侵略する価値のある地域になりました。
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清国は領土的野心が無い、あるいは国内の統制だけで手一杯だからですね。


隣国でも朝貢さえして危害を加えてこなければそれで良し。
自国の文明の及ばない地はどうでも良いところだったのです。
オランダに台湾を占領されても気にしない、アヘン戦争で香港島を取られても、日清戦争で台湾を取られてもそれで王朝が安泰ならオーライだったほどです。
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> その頃の日本がどれだけ金銀を産出していたのか知らないのですか?



かつては世界の銀産出の 1/3 を誇った日本の銀ですが、1700 年を超える頃には産出量が激細りします。


> 江戸や京の豊かさに驚いたという外国人の記録もあります。

これは違います。
当時の江戸は、確かに人口100万人を誇る巨大都市でしたが、生活は貧しかった。

日本人の骨を研究すると、江戸時代が最も平均身長が低く、食料事情が悪かった事が知られています。
また食糧事情が悪かった事は、武士が書いた日記などの文献からも裏付けられます。

明治維新の時代になって『殖産興業』が旗印に掲げられるのも、言い換えると、目立って輸出できるような品物が何も無かったからです。
この回答への補足あり
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費用対効果が無いからですよ。



古来、日本は貧しい国だったんです。
俵物三品という言葉があります。
江戸時代、中華料理の高級食材として知られた食品を、日本は中国に輸出していました。
言い換えると、それくらいしか輸出するものが無かった。

そんな貧しい国、放っておいても中国に敵対する国力などない国を、大軍を組織して平定したところで、費用対効果が無いのです。
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文禄慶長の役は征明嚮導とか仮道入明と言われたように、
朝鮮は通り道で秀吉は朝鮮を支配する意志がほぼ無いので
秀吉が朝鮮南部だけ統治するということはまずありません。
ただし、思考実験としての可能性を述べてみます。



文禄・慶長の役で、日本が明の参戦で苦戦に陥って
不利になったのは事実と言えなくはないですが、
文禄の役では碧蹄館の戦いをはじめ、第一次・二次平壌城の戦い
慶長の役では第二次蔚山城の戦い、泗川の戦い、順天の戦い等々
ほとんどの戦いで明(と朝鮮連合軍)には戦術的に勝っています。
ちなみに、文禄の役の時に碧蹄館の戦いで大損害を出した明は、
以後は朝鮮の意向を無視して講和に方針転換しています。
さらに慶長の役が終わった後、明史では

  (前略)喪師數十萬,糜餉數百萬,
  中朝與屬國迄無勝算,至關白死而禍始息
 (明史 朝鮮伝(320巻)26年11月)

  10万の兵を失い、100万の糧食を浪費したけど
  中朝(中国)と属国(朝鮮)には勝算が無かった。
  関白(秀吉)が死んだから終わってくれた。

と書かれていたくらいです。
このように、明とはそれなりの勝負はできているので、
本格的に準備をすればいい勝負はしたと思います。

余談ですが、南原城の戦いで見ても判るように
明は朝鮮南部まで軍を進めています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E5%8E%9F%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
講和がうまくいった場合など、状況にもよりますが、
朝鮮南部だから明が来ないというわけではありません。


日本が勝てなかった理由は兵站が続かなかったから。
(慶長の役を含めるなら秀吉が死んだから)
当時、兵糧はある程度を現地調達するのが常でしたが、
朝鮮はそもそも春窮という言葉があるくらい貧しく、
耕作に適する土地が少ないので収穫は期待できません。
戦時には日本・朝鮮・明がそれぞれ徴発したから
ますます何もなくなりました。
たとえ朝鮮南部に限定して支配しても、
長大な国境線を長期にわたって維持するのは
(明側が意図しなくても)焦土戦術となって
かなりの負担で益は無いと思われます。


ちなみに、今の韓国の歴史認識に惑わされて
朝鮮人は果敢に抵抗した事を憂慮する方が多いようです。
確かに住民の反乱はそれなりにてこずりましたが、
日本が漢城に到着した時、国王は逃走し、町は既に焼かれていて
王子二名を捕虜にしたのは朝鮮人の働きなのは有名な話。
碧蹄館の戦いに先立つ第三次平壌城の戦いで
「日本側の戦死者を調べるとほとんど朝鮮人でした」
というオチが朝鮮王朝実録に書いてあるくらい。
  是日天兵當陣斬獲一千二百八十五級、生擒二名、
  竝擄浙江人張大膳、奪馬二千九百八十五匹、
  救出本國被擄男婦一千二百二十五名。
  (中略)
  李如松 平壤之役、所斬首級、半皆朝鮮之民、
  焚溺萬餘、盡皆朝鮮之民
政策さえ誤らなければ統治できなくはないと思います。

文禄慶長の役は征明嚮導とか仮道入明と言われたように、
朝鮮は通り道で秀吉は朝鮮を支配する意志がほぼ無いので
秀吉が朝鮮南部だけ統治するということはまずありません。
ただし、思考実験としての可能性を述べてみます。



文禄・慶長の役で、日本が明の参戦で苦戦に陥って
不利になったのは事実と言えなくはないですが、
文禄の役では碧蹄館の戦いをはじめ、第一次・二次平壌城の戦い
慶長の役では第二次蔚山城の戦い、泗川の戦い、順天の戦い等々
ほとんどの戦いで明(と朝鮮連合軍)には戦術的に勝っていま...続きを読む

Q「1945年」←これのこと、なんて言いますか?西暦ではなく。

語呂合わせで「年」を覚えるのを、「年号を覚える」という表現をしているものが多々あるのですが、
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1945を語呂合わせで覚えるとしたら
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>「年号」は「平成」とかのことで年そのもののことではないですよね?
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>「1945」のことはなんと言えばいいのでしょうか?
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どうしてもと言うなら、暦年でも使ったら?

Q上杉征伐の途中に石田三成の挙兵を知り、軍を西に向けた徳川家康の背後を上杉景勝は何故攻めなかったのです

上杉征伐の途中に石田三成の挙兵を知り、軍を西に向けた徳川家康の背後を上杉景勝は何故攻めなかったのですか?
最上を攻めている場合じゃないと思います。

Aベストアンサー

関ヶ原の戦いで西軍が挙兵してから敗北まで、上杉家が目指すのは関東侵攻これ一本だったのです
※直江書状参照

最上攻めでさえその前段にすぎません
が、この最上攻めの最中に既に西軍は関ヶ原の戦いで敗北しており、上杉勝家が兵を率いて関東に攻めいることは出来なくなりました

ちなみに会津征伐軍が反転する際に追撃するべきだったというのも否です
上杉軍が反転の情報を掴んだのは家康が江戸に入ってからなので!

Q4~6世紀は大阪府南部に日本(倭)の首都があったのは確実ですか?

4~6世紀というと古墳時代の真っ只中ですが、大阪府南部の堺市から羽曳野市にかけて巨大な古墳が集中しています。

古墳は日本全国に散在していますが、大阪府南部の古墳は特に大きく、巨大な権力を持つ者によって建造されたのは確実だと思われます。おそらく全国レベルで影響力を持った者でしょう。

当時は陸上の移動方法が徒歩か馬しかなく、宮殿からそこまで離れた場所に古墳を造らなかったと思われるので、大阪府南部(おそらく大阪市南部か堺市のどこかの場所)に全国規模、狭くても中国地方から東海地方までを勢力範囲とする政権(大和か倭)の首都が存在したと考えてよいでしょうか。

巨大古墳という、これ以上ないほどのその存在を示す証拠があるわけですから。

Aベストアンサー

大阪南部に、その古墳を作る程度に力を持った権力者がいた、というところまでは正しいでしょう。

しかし、それが「日本(倭)の首都」であったという根拠は明確でありません。
「全国レベル」ということも、「全国」の定義も不明確で、「全国レベルで影響力を持った者でしょう。」ということもあなたの推測です。

4~6世紀ほぼ同時期には、大阪府南部だけでなく岡山県吉備地区、奈良県奈良市・天理市・桜井市にも巨大古墳は多数あります。
また日本書紀には、5世紀の岡山吉備地区の有力集団の記載がありますが、彼らが大阪南部勢力に従属していた根拠はありません。(敵対していたという記載もあるようです。)
これらの複数地区が全て単一権力の支配下にあったという証拠は無く、ゆるいつながりをもった地方権力の並列性であった可能性もあります。
であれば、単一権力による中央集権制では無く、首都という言葉とはややずれます。

また、「大阪府南部に日本(倭)の首都があった」根拠として、あなたが示されているのは「大阪府南部の堺市から羽曳野市にかけて巨大な古墳が集中」という事実と、「宮殿からそこまで離れた場所に古墳を造らなかったと思われる」という推測ですが、後者を裏付ける根拠が必要です。(あえて宮殿から離れた場所に古墳を作った可能性も排除できません。)
上述のような古墳の大阪南部・奈良・岡山と広がる広範な分布は、単一権力大阪南部存在説では説明困難です。

もちろん、「4~6世紀は大阪府南部に日本(倭)の首都があった」可能性はあります。
4~6世紀大型建造物であれば、土台構造物(穴や柱石など)などの遺構が残ります。
それによって、古代都市そのものを確定し、さらには政治形態を確定、首都と定義なども必要で、お示しされた根拠だけを理由に「4~6世紀は大阪府南部に日本(倭)の首都があった」と確定するのはやや無理があるでしょう。

参考までに巨大古墳を20位までお示しします。
5位までに大阪南部が多いことは事実ですが、同時期に岡山にもあり、20位までで考えれば奈良にけっこう後半に分布しています。
この分布をみると初期大和朝廷は天皇ごとに宮殿を変えていた説、有力豪族並列説(吉備勢力など)などに説得力があり、現在我々が想定するような首都というもの存在に疑問が生じます。

1 大仙陵古墳 大阪府堺市大仙町 中期 486m 仁徳天皇陵
2 誉田御廟山古墳 大阪府羽曳野市誉田 中期 425m 応神天皇陵
3 石津ヶ丘古墳 大阪府堺市石津ケ丘 中期 360m 履中天皇陵
4 造山古墳 岡山県岡山市新庄下 中期 360m
5 河内大塚古墳 大阪府松原市西大塚・羽曳野市南恵我之荘 330m
6 見瀬丸山古墳 奈良県橿原市見瀬町・五条野町・大軽町 後期 310m
7 渋谷向山古墳 奈良県天理市渋谷町 前期 300m 景行天皇陵
8 土師ニサンザイ古墳 大阪府堺市百舌鳥西之町 中期 290m
9 作山古墳 岡山県総社市三須 中期 286m
10 仲ツ山古墳 大阪府藤井寺市沢田 中期 286m 仲津媛皇后陵
11 箸墓古墳 奈良県桜井市箸中 前期 278m 倭迩連日百襲姫大市墓
12 五社神古墳 奈良県奈良市山陵町 前期 275m 神功皇后陵
13 ウワナベ古墳 奈良県奈良市法華寺町 中期 255m
14 市庭古墳 奈良県奈良市佐紀町 中期 250m 平城天皇陵
15 メスリ山古墳 奈良県桜井市高田・上之宮 前期 250m
16 行燈山古墳 奈良県天理市柳本町 前期 242m 崇神天皇陵
17 岡ミサンザイ古墳 大阪府藤井寺市藤井寺 後期 242m 仲哀天皇陵
18 室宮山古墳 奈良県御所市室 中期 238m
19 市野山古墳 大阪府藤井寺市国府 中期 230m 允恭天皇陵
20 宝来山古墳 奈良県奈良市尼ケ辻町 前期 227m 垂仁天皇陵

大阪南部に、その古墳を作る程度に力を持った権力者がいた、というところまでは正しいでしょう。

しかし、それが「日本(倭)の首都」であったという根拠は明確でありません。
「全国レベル」ということも、「全国」の定義も不明確で、「全国レベルで影響力を持った者でしょう。」ということもあなたの推測です。

4~6世紀ほぼ同時期には、大阪府南部だけでなく岡山県吉備地区、奈良県奈良市・天理市・桜井市にも巨大古墳は多数あります。
また日本書紀には、5世紀の岡山吉備地区の有力集団の記載がありますが...続きを読む

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あなたが関ヶ原の合戦である程度の身分を持つ落武者として逃亡するならどんな逃げ方をしますか?
石田さんみたいに洞窟に潜むとか、雨風をしのげると言っても逆に見つかりやすいと思ったので…
僕なら草木がおおる木の上によじ登って数日間隠れます。

Aベストアンサー

影武者立てて何とか生き延びるということですよね。捕まればおしまい。義経の場合は藤原氏が衣川合戦をでっちあげて偽首鎌倉に送って死んだことにしたという説あり。本物は国外逃亡かな。石田三成に限らず、豊臣秀頼の大阪城脱出とかね。そういう伝説の真偽。

Q豊臣秀吉が人身売買を許せないとしたことについて

織田信長はキリスト教の布教を認め日本各地にキリスト教が広まりました。その後を継いだ豊臣秀吉は、キリスト教布教に対し見せしめのためにバテレンを始め幼いキリスト教信者まで死罪にするなど強い弾圧を行いました。その理由のひとつに、秀吉は婦女の人身売買に宣教師が関わっていたことを知りキリスト教に怒りを持ったという説を何かで知りました。
この説は真実なのでしょうか。

Aベストアンサー

真実です。ほとんどの人が知りませんが、戦国時代には日本人の考える「人身売買」と西洋の「人身売買」は全く異なるものだったからです。

西洋の人身売買、奴隷制度、というものは「人間の形をした家畜」「元々死んでいてもいいものを拾って使う」というところから来ています。
 それは古代の民族戦争で勝った方が「勝者の権利」で、負けた民族を皆殺しにしていたところを、奴隷商人などがお金で買い取って「人間の姿をした家畜」として方々に売ったところから始まっているからです。古代では「民族が違い、宗教がちがうなら人間ではない」のが普通だったからです。

日本も大和朝廷が成立する以前の「生口」などは同じ考えでした。豪族ごとに「自分のたちのコミュニティ」があり、それ以外の人は「同じ人間ではない」状態だったからです。これを変えたのが大和朝廷の成立でこれにより「朝廷に参加する豪族とその身内はすべて同じ人間」になったのです。

そのため奈良から平安期にかけて、人間を家畜として扱う奴隷制度は消えて行きました。鎌倉時代や室町時代など大きな騒乱があると奴隷制が復活するのですが、幕府は何度もそれを違法として取り締まっていきます。残ったのは「年季奉公」という概念だけ、つまり「人生の20年ぐらいを買い、その分の働きをしたら解放される」というものだけだったのです。(実際には女郎屋などは、化粧代や部屋代などを取って、なかなか年季が明けないようにしていました)

ですから、当時の日本人としては「家畜のように人が売買されて、一生奴隷として暮らす」と言うこと自体に拒否感があり、非常に野蛮なことだと考えられていたのです。当然、秀吉にもそういう感覚はあったでしょう。

宣教師は日本に来て非常に喜んだのは「日本では他の国の相場の1/3で奴隷が買える」ということです。当たり前でしょう。日本は20年(人生の1/3ぐらい)分の報酬で人身売買されていて、奴隷は一生なのですから値段が同じなわけないのです。

そのため宣教師は多数の日本人を口入屋から買い入れて外国に連れて行っていました。ところが何年経っても年季が明けず「お前は一生奴隷として買い入れた」と知った日本人が「騙された」と思って逃げてきたのを秀吉が知ったので激怒したのです。
 
 ちょうどその頃秀吉は関白職になり、関白は「天皇に変わって日本の運営に責任を持つ」役割だったため「大和民族が融和して奴隷制を廃止したのになんて野蛮なことをするのか!」と怒ったわけです。

結局それが原因になって、宣教師と軍事力の関係性などがだんだん明るみになり、南蛮の侵略方法が明らかになったので、のちの鎖国につながっていく、ということになるわけです。

真実です。ほとんどの人が知りませんが、戦国時代には日本人の考える「人身売買」と西洋の「人身売買」は全く異なるものだったからです。

西洋の人身売買、奴隷制度、というものは「人間の形をした家畜」「元々死んでいてもいいものを拾って使う」というところから来ています。
 それは古代の民族戦争で勝った方が「勝者の権利」で、負けた民族を皆殺しにしていたところを、奴隷商人などがお金で買い取って「人間の姿をした家畜」として方々に売ったところから始まっているからです。古代では「民族が違い、宗教...続きを読む


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