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魏忠賢などの悪臣の専横によって乱れきった明朝の末期は徳川家康・秀忠が将軍だった頃であり、鎖国も行っていませんでした。
結果的に明は女真族という辺境の弱小民族によって征服されてしまうわけですが、徳川幕府がその気になれば明を征服するのは容易だったはずなのに、家康や秀忠は明を征服しようと思わなかったのでしょうか?

秀吉の朝鮮出兵の頃は、明もまだ弱体化が進んでいない頃でしたが、その頃とは比較にならないほど弱体化が進んでいたので。

質問者からの補足コメント

  • 明の末期はほぼ自滅でしたから。
    李自成や呉三桂らによる内乱により、戦争以前の状態です。

    No.1の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/03/11 23:54
  • 豊臣家とその家臣に攻めさせても良かったとも思います。
    彼らはどうせ滅びる運命にありましたから。

    毛利家・島津家には朝鮮半島を与え、豊臣家とその家臣には明を与えるとか言って攻めさせるとか。

    No.2の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/03/12 00:10
  • 清の末期はそれなりに国民意識が生まれていましたが(多くの勢力が「中華」を旗印に上げて戦っていた)、明の末期は将軍が国を売ってしまう有様でした。
    歴史上、ここまであっさりと中国が異民族の手に落ちたのはこの時だけです。モンゴルは、圧倒的な武力で攻め滅ぼしたものですから。

    No.5の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/03/12 06:51
  • 日中戦争のような300年後のことを持ち出してきても、理由にならないのわかってますか?
    家康も秀忠も、未来を知る予知能力などないのですよ。

    それとも、あなたは2300年のことを予知できるのでしょうか。

    No.7の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/03/12 12:48
  • そういえば、日中戦争には負けましたが日清戦争には勝ちましたね。
    しかも、圧倒的な差による完勝。

      補足日時:2019/03/12 21:59
  • >日清戦争の実態は、日本国と、李鴻章の軍閥との局地戦ですよ。
    → 知ってますよ。でも、だから何でしょうか?
      あと、日中戦争ですが、日本は中国に負けたというより、アメリカとソ連に負けたのです。
      何十倍も勉強している人がゴロゴロいるというなら、もっと知性溢れる回答をくださいよ。
      それにしても、ここのサイトは質が落ちましたね。少しでも反論するとあなたのように逆切れしてくるんですから。

    No.9の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/03/13 22:50
  • 欧州が先進的な手法と考えている時点でもうね・・・

    欧州は、自国より極端に文化水準・技術水準が低い地域しか植民地化できていません。
    東アジアのような世界屈指の文明水準を持つ地域は、結局最後まで植民地にできませんでした。
    日本も、中国や朝鮮半島のような文明水準の高い地域を狙わなかったら(例えばフィリピンや千島列島など)、欧米のように植民地化できたはずです。

    No.10の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/03/15 07:26

A 回答 (10件)

そんなこと、これっぽっちも考えていないと思います。


理由は簡単です。秀吉の朝鮮侵略の悲惨な結果を知っているからです。

日本の戦国時代を代表する武将の中で秀吉だけは異質ですが、それは彼が商人、現代風に言えば経済人の感覚を持っていたからです。当時の日本の経済発展のためには領土の拡大が欠かせなかったと思います。
まあ、しかし、他国への侵略という点においては、身の程を知らないというか、世界を知らないというかバカですね。先進的な欧州の植民地化の手法と比較すると幼稚極まりないと思います。
そういえば、そんなバカが過去にもいました。それは、日出る国の聖徳太子です。この時に現地で中国側と交渉した人物は秀吉の時と全く同じことをしています。現地で先進的な大国の実状を知って、日本側のトップの顔をつぶさないようにして、二枚舌で収拾するという方法です。

徳川家康は、豊臣秀吉の朝鮮侵略の失敗を教訓として300年続く日本の平和な時代の仕組みを作ります。限られた領土で平和を維持するために、大名の取り潰しや、参勤交代などの仕組みをつくりますが、政治的なシステム以外に庶民が作り上げたシステムもあります。それは、徳川300年の間に人口が全く増加していない事実から導かれます。

家康と秀忠は秀吉と同時代に生きていたので、二度とアホなことはしませんでしたが、その教訓を忘れてしまった平和ボケの人々は、明治に入って中国侵略を開始しますが、秀吉の朝鮮侵略から得られた軍事的な反省をなにひとつしていなかったため、最後は悲惨な結果になっています。
日清日露戦争は短期間の戦争であり、当時の日本は、欧米の先進的な兵器に関する各種技術を導入していたため、時代遅れの兵器相手に勝てるのは当然ですが、先進的な欧米諸国ではすでに確立していた兵站システムが全く構築されていなかったことが、日本の決定的な弱点と言うか特性なのだろうと思います。
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> そういえば、日中戦争には負けましたが日清戦争には勝ちましたね。


> しかも、圧倒的な差による完勝。

あなた、本当に歴史の勉強不足ですね。
日清戦争の実態は、日本国と、李鴻章の軍閥との局地戦ですよ。国家 vs 国家の戦闘ではない。
戦地だって朝鮮半島と満州でしかない。
南京を占領しても講和できず、ズルズルと疲弊していった日中戦争とは、戦争の質が違います。


しかし、貴方は全く他人の意見に耳を貸す気が無いでしょう?
大して勉強もしてない癖に、持論に固執して、回答者に反論してばかり。
言っておきますが、このサイトには、あなたの何十倍も勉強している人が、ゴロゴロしていますよ。

あなたの持論を凄いね凄いねと褒めてもらいたいなら、こんな質問サイトで質問してないで、キャバクラにでも行ってくれば良い。
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厭離穢土


欣求浄土
だよ
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> 清の末期はそれなりに国民意識が生まれていましたが(多くの勢力が「中華」を旗印に上げて戦っていた)、明の末期は将軍が国を売ってしまう有様でした。



結論が先にあって、理由を後付けしている印象しか持たないですね。
質問というのは他人の意見を聞く行為だと思いますが、他人の意見を聞く耳を持たず持論に固執するのであれば、最初から質問なんてしなければ良いのに。
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白村江の戦いやら、秀吉の朝鮮出兵やら


日本の大陸攻略は成功した試しがありません。

それに加えて、内政に忙しく、外征どころでは
無かったのではないですか。


しかし、御指摘の通りで、やってみても良かったかも
しれませんね。

当時の日本の火器は世界一だった、という説も
あるぐらいです。
女真族が出来て、日本が出来ない、ということは
ないでしょう。

元寇再びの可能性だって否定出来ないのですから。
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> 明の末期はほぼ自滅でしたから。


> 李自成や呉三桂らによる内乱により、戦争以前の状態です。

ちなみに清の末期も内乱で、国共は対立しているは軍閥は割拠しているは、メチャクチャでしたけれど、
そこに侵攻して、勝てない戦を終わらせる事もできず、ずるずると泥沼に引きずり込まれて疲弊して、
最後に敗戦したのって、どこの大東亜帝国でしたっけ?
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豊臣が息を吹き返すと、徳川を滅ぼす可能性がありましたので、豊臣を残すと言うつもりは徳川にはありませんでした。


わざわざ因縁をつけて戦をおこし大阪の陣で豊臣を滅亡させたのが何よりの証拠
だから、豊臣をつかうという選択肢はあり得ない。
もっとも、秀吉の朝鮮出兵を見ていた家康、秀忠ですから、明を攻略するのがいかに困難な事か知っていたはずです
そのようなことをして、家来の力が落ち、結束が乱れて豊臣は天下の覇権を失ったのです。
懸命な家康が同じ過ちを繰り返し、明を攻めようなどとは考えなかったのは自然なことです
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家康は元北条領の関東統治を理由に秀吉の朝鮮出兵には参加しませんでしたが、そもそも家康本人や重臣の本多正信らは朝鮮出兵には消極的だったと


秀忠は徳川に逆らう可能性のある家を徹底的に潰しつつ、内政に全力を尽くした

つまり新しい領地を奪うよりも、今ある領地を発展させる事に力を入れたのでしょう

実に日本人らしい考えだと思いませんか?
現代日本人の価値観は江戸幕府時代の徳川家統治と未だに共通するものが多々あり、じつに徳川政権が素晴らしかったか(当時)をものがたってます!!





私個人の認識&歴史解釈の上での書き込みです、異論は認める!しかしココは議論する場ではないので反論はしないよ(もちろん読ませてもらうよ!)
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国内の基盤を固めることもできていないうちに、新たに勢力拡大を計るのは危険と考えたのでしょう!


家康が生きていたころは、豊臣家も残っていたのでそちらを片付けるまでは海外侵略など無理
秀忠のころも、本当に諸侯が徳川に忠誠を誓っているか、まだ疑念があったようです。
3代家光のころになって、諸侯が家光に逆らう気配もなかったということになってようやく徳川の世が盤石になったのです。
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戦争ってのは、兵站がしっかりしてないと、できないんですよ。


太平洋戦争でボロ敗けした日本は、兵站を疎かにしすぎでした。
秀吉の得意戦術は、圧倒的な経済力と兵站力による兵糧攻めで、それによって高松も小田原も落とした。
イスラム国家が、イスタンブールを長年、落とせなかったのも、途中で兵站が尽きてしまったから。
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Aベストアンサー

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明との衝突を避け、目的を朝鮮半島南部の支配に限定すれば、目的が達成できた可能性が高いと思いますが、どうでしょうか。
そして、毛利や島津、徳川といった、後で逆らってきそうな大大名を朝鮮南部に配置すれば、邪魔者を追い出せますし、一挙両得のように思います。

Aベストアンサー

文禄慶長の役は征明嚮導とか仮道入明と言われたように、
朝鮮は通り道で秀吉は朝鮮を支配する意志がほぼ無いので
秀吉が朝鮮南部だけ統治するということはまずありません。
ただし、思考実験としての可能性を述べてみます。



文禄・慶長の役で、日本が明の参戦で苦戦に陥って
不利になったのは事実と言えなくはないですが、
文禄の役では碧蹄館の戦いをはじめ、第一次・二次平壌城の戦い
慶長の役では第二次蔚山城の戦い、泗川の戦い、順天の戦い等々
ほとんどの戦いで明(と朝鮮連合軍)には戦術的に勝っています。
ちなみに、文禄の役の時に碧蹄館の戦いで大損害を出した明は、
以後は朝鮮の意向を無視して講和に方針転換しています。
さらに慶長の役が終わった後、明史では

  (前略)喪師數十萬,糜餉數百萬,
  中朝與屬國迄無勝算,至關白死而禍始息
 (明史 朝鮮伝(320巻)26年11月)

  10万の兵を失い、100万の糧食を浪費したけど
  中朝(中国)と属国(朝鮮)には勝算が無かった。
  関白(秀吉)が死んだから終わってくれた。

と書かれていたくらいです。
このように、明とはそれなりの勝負はできているので、
本格的に準備をすればいい勝負はしたと思います。

余談ですが、南原城の戦いで見ても判るように
明は朝鮮南部まで軍を進めています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E5%8E%9F%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
講和がうまくいった場合など、状況にもよりますが、
朝鮮南部だから明が来ないというわけではありません。


日本が勝てなかった理由は兵站が続かなかったから。
(慶長の役を含めるなら秀吉が死んだから)
当時、兵糧はある程度を現地調達するのが常でしたが、
朝鮮はそもそも春窮という言葉があるくらい貧しく、
耕作に適する土地が少ないので収穫は期待できません。
戦時には日本・朝鮮・明がそれぞれ徴発したから
ますます何もなくなりました。
たとえ朝鮮南部に限定して支配しても、
長大な国境線を長期にわたって維持するのは
(明側が意図しなくても)焦土戦術となって
かなりの負担で益は無いと思われます。


ちなみに、今の韓国の歴史認識に惑わされて
朝鮮人は果敢に抵抗した事を憂慮する方が多いようです。
確かに住民の反乱はそれなりにてこずりましたが、
日本が漢城に到着した時、国王は逃走し、町は既に焼かれていて
王子二名を捕虜にしたのは朝鮮人の働きなのは有名な話。
碧蹄館の戦いに先立つ第三次平壌城の戦いで
「日本側の戦死者を調べるとほとんど朝鮮人でした」
というオチが朝鮮王朝実録に書いてあるくらい。
  是日天兵當陣斬獲一千二百八十五級、生擒二名、
  竝擄浙江人張大膳、奪馬二千九百八十五匹、
  救出本國被擄男婦一千二百二十五名。
  (中略)
  李如松 平壤之役、所斬首級、半皆朝鮮之民、
  焚溺萬餘、盡皆朝鮮之民
政策さえ誤らなければ統治できなくはないと思います。

文禄慶長の役は征明嚮導とか仮道入明と言われたように、
朝鮮は通り道で秀吉は朝鮮を支配する意志がほぼ無いので
秀吉が朝鮮南部だけ統治するということはまずありません。
ただし、思考実験としての可能性を述べてみます。



文禄・慶長の役で、日本が明の参戦で苦戦に陥って
不利になったのは事実と言えなくはないですが、
文禄の役では碧蹄館の戦いをはじめ、第一次・二次平壌城の戦い
慶長の役では第二次蔚山城の戦い、泗川の戦い、順天の戦い等々
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皆さん書いていらっしゃる通り、秀吉に命じられたようです。
  
正月に「家康江戸を建てる」というドラマがありました。それを見て思ったこと。
当時は一面湿地のような、飲み水にも事欠く土地をあそこまで整備した家康という人物は(ブレーンの助言もあったとは思いますが)単に戦に強い武将だけではない、優れた政治力の持ち主だったと改めて感心しました。
彼だったからこそ、徳川300年の礎を築くことが出来たのだと思いました。

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日本ではちょうど江戸時代にあたりますが、その当時の日本が清を恐れていたような記録はなく、清も日本を侵攻しようとは考えなかったようです。

意図していたわけではないと思いますが、相互不可侵の紳士協定が結ばれていたような感じです。
あれだけ領土拡大意欲の強かった清が、日本に対しては一切手を出さず、朝貢を求めるような素振りもなかったのはなぜでしょうか?

Aベストアンサー

小規模な貿易は行われていたようですが、秀吉や倭寇影響か、あまり良い国交関係とは言い難かったようですね。

前王朝の時、倭寇対策が大変だった。
江戸時代になって、おとなしくなったので、あえてちょっかいを出す必要はなかったのでは?

さらに言うと、そのためもあって、清王朝でも海上交通に制限をかけていた。
そして朝貢貿易以外、むしろ鎖国に近い政策だったことも要因の一つではないでしょうか。

Q豊臣秀吉はフィリピンを征服できる力はありましたか?

豊臣秀吉は日本を統一した後の全盛期に朝鮮半島に出兵し、衰退前の明・李氏朝鮮連合軍と戦って最終的に敗退しますが、中国も朝鮮もそれなりの武力を保有した統一国家だったので当然だと思います。

それでは、秀吉が南方に目を向け、例えばスペインの植民地であったフィリピンに出兵したとしたら、征服できるくらいの武力はあったのでしょうか?

60年後には、清に破れて敗退中の鄭成功がオランダに勝って台湾を征服していますが、秀吉は鄭成功より遥かに強大な武力を保有していました。

Aベストアンサー

日本から見て間にある琉球や台湾などに一切手を出さず、いきなりフィリピンに侵攻するのは非常に難しい。
(途中で襲われて人、物、情報の移動が困難になることが予想されるので、普通はそんな遠隔地へ侵攻はしない)
それなのに秀吉がいきなりフィリピンに侵攻すると言い出したら、側近がまず琉球や台湾などを占領してフィリピン侵攻の拠点にすることを進言するだろう。
(それでも秀吉が最初にフィリピンを攻めると言い出したら正気を失ったものとして軟禁される可能性が高い)
で、琉球や台湾などへ侵攻したりしている間に秀吉の寿命が来る。
ゆえに『秀吉は』フィリピンを征服できないと考えられる。

朝鮮や明は日本と比較的共通の文化圏の文明国だから、占領することで豊かになれるという希望が見いだせて諸大名に命令をきく動機づけが可能だっただろう。
しかしフィリピンみたいなよく判らん土地へ侵攻して征服する動機づけが諸大名に対して可能なのか、そこからして疑問。

Q大坂夏の陣で真田・毛利隊が家康を討ち取ったところで、あの戦いは豊臣家の勝利にはならないと思うですけど

大坂夏の陣で真田・毛利隊が家康を討ち取ったところで、あの戦いは豊臣家の勝利にはならないと思うですけど、何故次期将軍秀忠を狙わなかったんですか?

Aベストアンサー

そうかなぁ・・・・

徳川軍が諸大名の信頼を集め求心力を保っていたのは、家康という人物がいたからでは?

たまたま徳川家は、次世代への継承が成功しましたが
織田家の場合も、豊臣家の場合も、カリスマ創業者の打ち立てた業績を次代に継承する過程で失敗しています

伊達政宗であれ、旧豊臣武断派大名であれ、家康には恩顧を感じ臣従を誓っていても
その子秀忠に関してはその能力も未知数で、必ずしも無条件に従うとは限らない

秀頼と家康との比較なら、家康の方に靡くだろうけど
秀頼と秀忠だったら、悩む武将も少なくないのでは?

まぁ夏の陣自体が、戦いの趨勢は開戦前から見えていたので
意地の見せ所、一矢報いるという心情もあって、一点突破を狙ったのでしょうけど

Q豊臣秀吉が人身売買を許せないとしたことについて

織田信長はキリスト教の布教を認め日本各地にキリスト教が広まりました。その後を継いだ豊臣秀吉は、キリスト教布教に対し見せしめのためにバテレンを始め幼いキリスト教信者まで死罪にするなど強い弾圧を行いました。その理由のひとつに、秀吉は婦女の人身売買に宣教師が関わっていたことを知りキリスト教に怒りを持ったという説を何かで知りました。
この説は真実なのでしょうか。

Aベストアンサー

真実です。ほとんどの人が知りませんが、戦国時代には日本人の考える「人身売買」と西洋の「人身売買」は全く異なるものだったからです。

西洋の人身売買、奴隷制度、というものは「人間の形をした家畜」「元々死んでいてもいいものを拾って使う」というところから来ています。
 それは古代の民族戦争で勝った方が「勝者の権利」で、負けた民族を皆殺しにしていたところを、奴隷商人などがお金で買い取って「人間の姿をした家畜」として方々に売ったところから始まっているからです。古代では「民族が違い、宗教がちがうなら人間ではない」のが普通だったからです。

日本も大和朝廷が成立する以前の「生口」などは同じ考えでした。豪族ごとに「自分のたちのコミュニティ」があり、それ以外の人は「同じ人間ではない」状態だったからです。これを変えたのが大和朝廷の成立でこれにより「朝廷に参加する豪族とその身内はすべて同じ人間」になったのです。

そのため奈良から平安期にかけて、人間を家畜として扱う奴隷制度は消えて行きました。鎌倉時代や室町時代など大きな騒乱があると奴隷制が復活するのですが、幕府は何度もそれを違法として取り締まっていきます。残ったのは「年季奉公」という概念だけ、つまり「人生の20年ぐらいを買い、その分の働きをしたら解放される」というものだけだったのです。(実際には女郎屋などは、化粧代や部屋代などを取って、なかなか年季が明けないようにしていました)

ですから、当時の日本人としては「家畜のように人が売買されて、一生奴隷として暮らす」と言うこと自体に拒否感があり、非常に野蛮なことだと考えられていたのです。当然、秀吉にもそういう感覚はあったでしょう。

宣教師は日本に来て非常に喜んだのは「日本では他の国の相場の1/3で奴隷が買える」ということです。当たり前でしょう。日本は20年(人生の1/3ぐらい)分の報酬で人身売買されていて、奴隷は一生なのですから値段が同じなわけないのです。

そのため宣教師は多数の日本人を口入屋から買い入れて外国に連れて行っていました。ところが何年経っても年季が明けず「お前は一生奴隷として買い入れた」と知った日本人が「騙された」と思って逃げてきたのを秀吉が知ったので激怒したのです。
 
 ちょうどその頃秀吉は関白職になり、関白は「天皇に変わって日本の運営に責任を持つ」役割だったため「大和民族が融和して奴隷制を廃止したのになんて野蛮なことをするのか!」と怒ったわけです。

結局それが原因になって、宣教師と軍事力の関係性などがだんだん明るみになり、南蛮の侵略方法が明らかになったので、のちの鎖国につながっていく、ということになるわけです。

真実です。ほとんどの人が知りませんが、戦国時代には日本人の考える「人身売買」と西洋の「人身売買」は全く異なるものだったからです。

西洋の人身売買、奴隷制度、というものは「人間の形をした家畜」「元々死んでいてもいいものを拾って使う」というところから来ています。
 それは古代の民族戦争で勝った方が「勝者の権利」で、負けた民族を皆殺しにしていたところを、奴隷商人などがお金で買い取って「人間の姿をした家畜」として方々に売ったところから始まっているからです。古代では「民族が違い、宗教...続きを読む

Q戦国時代の負けた側の家臣について

戦国時代末期に小田氏治は佐竹氏に負け、お城をとられましたが、その時、小田家の家臣が佐竹家の家臣になり、そのまま屋敷を移動することなく小田城下に住み、所有してる田んぼも、とられることなかった人がいたみたいですが、負けた側の家臣は普通は、土地も没収で切腹ですよね?
お城をとられたら、負けた側の家臣は相手側の家臣になることは出来ず、また城下には住めないと思いますし

Aベストアンサー

お邪魔します。

伊達政宗の家臣である大内定綱は、初めは伊達の敵の蘆名氏の家臣であったのですが、伊達家の家臣となり多くのはたらきをした事が認められ、仙台藩の一族に取り立てられています。

この大内定綱の例の様に、もともと負けた側の家臣でも、勝った側の家臣となって功績が認められれば、重臣に取り立てられるという事も、戦国時代にはみられた様です。

以上、何かのお役になれれば幸いです。

Q世の中って時が経つほど当たり前のように技術が進歩するのでしょうか?

世の中って時が経つほど当たり前のように技術が進歩するのでしょうか?

ㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤ

反例を挙げてみたいと思います。


古代ローマ帝国は上下水道を完備してましたが、近代ヨーロッパになると、し尿を直接川に流したりして伝染病を蔓延させていました。


また2000年以上前の、ギリシャの賢人たちは地球が丸い事も地球が太陽の周りを回ってる事も知っていましたが、17世紀頃のヨーロッパでは聖書が幅を利かせて天動説がまかり通っていました。

Aベストアンサー

世の中って時が経つほど当たり前のように技術が進歩するのでしょうか?
 ↑
そんなことはありません。
石器時代の何万年の間は、技術など
ほとんど進歩しませんでした。
技術が急速に進歩し始めたのは、ここ数百年の
間です。

ㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤ

古代ローマ帝国は上下水道を完備してましたが、近代ヨーロッパになると、
し尿を直接川に流したりして伝染病を蔓延させていました。
また2000年以上前の、ギリシャの賢人たちは地球が丸い事も地球が太陽の周りを
回ってる事も知っていましたが、
17世紀頃のヨーロッパでは聖書が幅を利かせて天動説がまかり通っていました。
  ↑
技術の進歩は直線的でないこともありますよ。
ジグザグで進むこともあります。
しかし、長期的にみれば進歩しています。


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