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こんにちは。いつもお世話になってます。

今日、臓器移植法改正が叫ばれていますよね。その論点の一つは、「15歳未満からの臓器提供を認めるか否か」ということだと聞きました。

今までは民法の関係などから、15歳未満は意思決定能力(?)がないという理由で、認められていなかったようです。そこで、
(1)みなさんは、15歳未満でも認めていいと思いますか?
(2)もし、これに関するいいサイトをご存知の方がいたら教えてください。

私は個人的に賛成です。移植のために外国へ行く子どもたちにとって、長旅は精神的・肉体的にもつらいことだと思いますし、費用も馬鹿にならないと思います。そのほかにもありますが、皆さんのいろいろな視点からの意見を聞きたいです。お願いします。

A 回答 (2件)

「皆さんのいろいろな視点からの意見を聞きたいです」 とあるので私見を述べます。



「ヒトの死」 って何だ、と思いますか。例えば、片腕なくなった状態で 「死んだ」 と思いますか。悪性腫瘍で臓器摘出受けた段階で 「死んだ」 と思いますか。神経疾患で心臓すら動かなくなり人工心臓をつけたが意思表示ができ思考も可能な状態を 「死んだ」 と言いますか。

「死」 をどう定義づけるか、またどのように 「死」 に向かい合うか、これは最早個人の価値観で、絶対的なものはありません。

今回の中越、以前の阪神、大地震の際義捐金が集まるのは何故でしょう。もちろんすべての人が寄付する訳ではなく、中には見返りを期待している人もいるかもしれませんが、多くはそうではないでしょう。自分ができる範囲で、困っている他人に渡せるものを少しでも渡せれば、と思っているだけでしょう。

つまり、臓器移植のドナーとなるヒトが考えていることは、この二つの整合性が取れている、と言うことです。

「ヒトの死」 を、昔は 「心臓死」 で捕らえていましたが、科学の進歩により 「脳死」 の概念がでてきました。殆どの場合 「心臓死」 に引き続き速やかに 「脳死」 に至りますが、「心臓死」 をしてもその代替が効く以上 「脳死」 にはなりえないことがあることは承知しています。ところが 「脳死」 に至った場合は、回復はしません。ときに、「植物状態」 と 「脳死」 を混同して、「脳死」 も回復するなどと妄言を吐いている人もいるようですが、科学的には 「脳死」 は回復しません。ただ、その判定基準 (現在の竹内基準は大方認められていますが、完全と言えるか、と問われれば、まだ問題は残っているでしょう) が難しいだけです。個人的には 「脳死」 こそ 「ヒトの死」 である、と断言します。

一方、「死体」 をどう捕らえるか、これがまた厄介で、日本人特有の執着があります。少し古い話になりますが、飯塚 訓 (著) 「墜落遺体―御巣鷹山の日航機123便」 の中に、日本人はばらばら遺体を全て捜そうとし 「足がないと三途の川を渡れないから」 と言う反面、外国人は 「神に召されたのであるから、死体なぞどうでもいい」 に類する話をする、という場面が出てきます。つまり、「死体」 に何らかの意味を持たせるのか、最早それは故人と関係のない 「単なる物体」 と考えるか、の違いです。

一方、溺れかかっている子供を助けようとすることを、貴方は否定しますか、肯定しますか。

治療手段があるにも係らず、その手段を講じず患者を死なせた医師を、貴方は賛美しますか、非難しますか。

そこに、移植可能な臓器があり、移植を受ければ助かる患者がいるときに、手をこまねくだけで患者の死を待つ医師、何とか移植をし患者を助けようとする医師、貴方はどちらを選びますか。

この三質問、できたら回答して欲しいんですが。

科学の進歩に伴って、「死」 の概念が変わりつつあり、一方で移植医療が可能になってきました。そこで生じてきた問題です。「死体」 をものと捉えれば、年齢に係らず、臓器提供を行なうことは、妥当だと思います。死んでしまえば、故人の意思は無視されます、例え本人が生前に臓器提供の意思を示していても、遺族がそれを拒む例は、結構あります。臓器提供どころか病理解剖でも同じです。

最終的には、個人の価値観による判断としか言いようがありません。個人的には制度開始時点で 「臓器提供カード」 に提供意思を示していますし、U.S. では自動車運転免許証の裏に個人の意思 (遺族の了解は必要としません、これは日本との大きな違いで) での提供を明示してあります。「脳死」 こそ 「ヒトの死」 であって、「死体」 はは 「脳死」 段階で自分とは関係がない物体に変わっているものですから、使えるのであれば使ってもらって一向に構わない、と考えているからです。

質問者が考える際の参考になれば幸いです。ただ、「脳死は臓器移植のために生まれた」 という解釈は間違いです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
>溺れかかっている子供を助けようとすることを、貴方は否定しますか、肯定しますか。
私は、肯定です。しかし、単純に自分が飛び込むことで、その子が本当に助かるのか、また、自分も助かるのか…と考えると、もし、自分がその立場になったら考えてしまうかもしれません。

>治療手段があるにも係らず、その手段を講じず患者を死なせた医師を、貴方は賛美しますか、非難しますか。
非難します。「死なせた」ならなおさらです。できる限りの手段を講じてほしいと思います。

>そこに、移植可能な臓器があり、移植を受ければ助かる患者がいるときに、手をこまねくだけで患者の死を待つ医師、何とか移植をし患者を助けようとする医師、貴方はどちらを選びますか。
移植をしようとしてくれる医師を選びます。2番目と同じような感じですが、移植が患者のための最善の方法ならば、してほしいです。

私も意思表示カードを持っていますが、少しでも多くの人たちを(特に子どもたち)助けるため、(機会を与えるため)にも、15歳以下も認めてほしいと思います。
ありがとうございました。

お礼日時:2004/11/28 14:10

むしろ自己決定能力がないから本人の意思に関係なく行うという主張でしたら筋が通っていると思います。



決定能力があるかどうかというのは客観的に決めるべきもののはずなのに、目的によって使い分けるロジックが納得できない部分があります。
以前女子高生援助交際問題で議論が過熱していたころ、彼女らは自己決定能力がないから性交を条例で禁止すべきという主張がよくありました。

また死の定義も目的に応じて定義しようとする姿勢が個人的に納得できません。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。
私も、死の定義については都合のいいように解釈してしまっている気もしなくはありません。脳死は臓器移植のために生まれたとまで言われていますしね。

>むしろ自己決定能力がないから本人の意思に関係なく行うという主張でしたら筋が通っていると思います。
確かにそうですね。それならば、現行の臓器移植法に問題がありそうな気もしてきました。
ありがとうございました。

お礼日時:2004/11/28 00:48

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