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日本よりもシナのほうが進んでいますか?日本の戦国時代は応仁の乱以降ですよね。でも、シナの戦国時代はわけもわからないくらい古い時代ですよね。
シナのほうが先ということは、シナのほうが進んでいるということですか?日清戦争で日本が清に圧倒するまでは、「眠れる獅子」と呼ばれるアジア有数の大国だったそうですし。日露戦争は無謀な戦争で、世界の誰もがロシアの圧勝と予想していたそうです。戦費の調達のために海外を回った高橋是清は苦労したそうです。誰も相手にしてもらえなかったそうです。例外的にロシアと敵対していたユダヤ人が協力してくれたそうですが。日露戦争があったためあまり注目されませんが、日清戦争も割と無謀な戦争だったと思います。繰り返しますが、当時の清は「眠れる獅子」と呼ばれるほどの大国だったのですから。

A 回答 (5件)

中国の文化文明のピークは、春秋戦国時代です。

それ以降、清朝が滅びるまで、中国の文化文明はほとんど進歩しませんでした。これを「中国的文化文明の停頓」と呼んでいます。原因としては、統一国家ができるのが早すぎたからでしょうね。欧州は、小さな国家がお互いにせめぎ合って紛争などのたびに科学技術が躍進するという公式ができました。「眠れる獅子」というのは、欧米の中国に対する買いかぶりですね。不思議なことに、現在でも欧米は中国をずいぶんと買いかぶってましたが、この数年は化けの皮がハゲてきましたね。日本人は中国人の言動を不快に感ずることがシバシバあって、中国人を信用してませんでしたから、欧米が「眠れる獅子」と言ってもチャンチャラ可笑しかっただけでした。ちなみに、中国人や韓国人の言動を不快だと思うことが多いのは、日本人の精神面の底流には、やはり武士道が根付いているからでしょうな。
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日本よりもシナのほうが進んでいますか?


 ↑
先行している、という意味ですか。
それなら、中国の方が歴史は古いですから
進んでいる、という言い方は可能です。
進んでいた、ですね。
中国で殷とか周の時代、日本はまだ弥生時代です。




日本の戦国時代は応仁の乱以降ですよね。
でも、シナの戦国時代はわけもわからないくらい古い時代ですよね。
 ↑
中国の戦国時代は紀元前ですからね。
日本は10年ぐらい続きましたが、中国では
500年以上も続きました。




シナのほうが先ということは、シナのほうが進んでいるということですか?
  ↑
進んでいた、ですね。




日清戦争も割と無謀な戦争だったと思います。
 ↑
そうですよ。
当時の清は、世界一のGDPを誇っていました。
日本が圧倒的に不利で、世界も日本の完敗を
予想していました。

しかし戦争には弱かったのです。
その理由。

 日本は国民がこぞって戦争に協力しました。
 国を挙げて一丸となりました。

 これに対し、中国でまともに戦ったのは
 李鴻章の私兵だけでした。
 つまり、全日本と埼玉県が戦争したようなものです。

 他の兵隊は、例えば賄賂を出さなければ銃をとらない
 なんてことが行われていました。
 これではいくら大国でも、勝てる道理がありません。

 中国側の資料にもあります。
 日本は中国の井戸の位置数まで正確に調査して
 いたのに、中国側は舐めていて、日本のことなど
 調べもしなかった。
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「眠れる獅子」というのは正直「昔すごかったけど今はよく分からない。

でも昔凄かったから今も実は凄い…?」という幻想でしかありません。

どちらかといえば旅順のように「地形的に厄介」という要所や土地の広大さの方が脅威でした。
当時は「ランドパワー」「シーパワー」というのがまだ大事な時代でしたし、土地の広さが脅威でもあったのです。
軍事力だけ見ると、実は英国も日本並みに根性論だったりと「坂の上の雲」とは違った寂しい現実が各国にありまして…。
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日本にはウォシュレットがあるさ。

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そりゃそうです。



古今東西の歴史を見て、国家規模の世界第1位がインド、第2位が中華という時代が、長く長く続いていました。
中華が没落したのは、産業革命で欧米が台東した直近 150 年程度の事です。
今は、中華の勢力が、かつての勢いを回復しつつあります。
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Q徳川家康や秀忠は明を征服しようと思わなかったのですか?

魏忠賢などの悪臣の専横によって乱れきった明朝の末期は徳川家康・秀忠が将軍だった頃であり、鎖国も行っていませんでした。
結果的に明は女真族という辺境の弱小民族によって征服されてしまうわけですが、徳川幕府がその気になれば明を征服するのは容易だったはずなのに、家康や秀忠は明を征服しようと思わなかったのでしょうか?

秀吉の朝鮮出兵の頃は、明もまだ弱体化が進んでいない頃でしたが、その頃とは比較にならないほど弱体化が進んでいたので。

Aベストアンサー

そんなこと、これっぽっちも考えていないと思います。
理由は簡単です。秀吉の朝鮮侵略の悲惨な結果を知っているからです。

日本の戦国時代を代表する武将の中で秀吉だけは異質ですが、それは彼が商人、現代風に言えば経済人の感覚を持っていたからです。当時の日本の経済発展のためには領土の拡大が欠かせなかったと思います。
まあ、しかし、他国への侵略という点においては、身の程を知らないというか、世界を知らないというかバカですね。先進的な欧州の植民地化の手法と比較すると幼稚極まりないと思います。
そういえば、そんなバカが過去にもいました。それは、日出る国の聖徳太子です。この時に現地で中国側と交渉した人物は秀吉の時と全く同じことをしています。現地で先進的な大国の実状を知って、日本側のトップの顔をつぶさないようにして、二枚舌で収拾するという方法です。

徳川家康は、豊臣秀吉の朝鮮侵略の失敗を教訓として300年続く日本の平和な時代の仕組みを作ります。限られた領土で平和を維持するために、大名の取り潰しや、参勤交代などの仕組みをつくりますが、政治的なシステム以外に庶民が作り上げたシステムもあります。それは、徳川300年の間に人口が全く増加していない事実から導かれます。

家康と秀忠は秀吉と同時代に生きていたので、二度とアホなことはしませんでしたが、その教訓を忘れてしまった平和ボケの人々は、明治に入って中国侵略を開始しますが、秀吉の朝鮮侵略から得られた軍事的な反省をなにひとつしていなかったため、最後は悲惨な結果になっています。
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そんなこと、これっぽっちも考えていないと思います。
理由は簡単です。秀吉の朝鮮侵略の悲惨な結果を知っているからです。

日本の戦国時代を代表する武将の中で秀吉だけは異質ですが、それは彼が商人、現代風に言えば経済人の感覚を持っていたからです。当時の日本の経済発展のためには領土の拡大が欠かせなかったと思います。
まあ、しかし、他国への侵略という点においては、身の程を知らないというか、世界を知らないというかバカですね。先進的な欧州の植民地化の手法と比較すると幼稚極まりないと思います...続きを読む

Q日本の国旗って韓国の国旗を真似したんでしょうか?

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太極旗は、李氏朝鮮(高宗)時代の1883年が最初
日の丸は、1870年制定

Q江戸時代にスペインやオランダが、日本に対して低姿勢だったのはなぜですか?

江戸時代前期というとスペインやオランダが強かった頃であり、スペインはフィリピンを、オランダはインドネシアを植民地とし、原住民に対して過酷な収奪をやっていました。
しかしながら、日本に対しては一切手を出さず、徳川幕府がキリスト教を迫害しても文句を言わず、オランダに至っては貿易は出島のみ、それもキリスト教を布教しないという条件でようやく認めてもらっている有様です。

このように、江戸時代の世界の覇権国とも言えるスペインとオランダが、なぜか日本に対しては強いことを言えず、低姿勢に徹したのはなぜでしょうか?

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彼らは、まずキリスト教神父が乗り込み
現地人を宣撫して、それから本国から軍隊を
送り込み、占領してしまう、
という方法をとっています。

日本は、そうした戦法をいち早く察知し
キリスト教が広がるのを阻止しました。
そもそもですが、一定レベル以上の文化、文明が
既に発達している地域で、新たな宗教を布教する
のは困難なのです。

このように、キリスト教布教に失敗した、という
のがまず上げられます。


次は武力です。

スペインの神父が、本国に当てた書見が残って
いますが、それには
「他のアジア諸国と異なり、日本の武力は強力
 である」
旨の記載がうかがえます。

幸いというか、戦国時代の余韻が残っていた
時代です。
鉄砲の数も世界一、と言われたほどです。

植民地にするのはいじめるためではありません。
儲けるためです。

武力で植民地化するよりも、貿易で儲けた方が、
という判断が働いたのでしょう。

Q1950年代の日本ってもうかなり普通の暮らししてましたか?

1950年代の日本ってもうかなり普通の暮らししてましたか?

Aベストアンサー

東日本大震災から8年、いまだにこの様です。
戦争が終わったのが1945年、日本中が震災に合ったようなものでしょう。「もはや戦後ではない」と言われたのが1956年、10年かかって戦争の後処理がようやく終わった感じだったのではないでしょうか。

Q元号は昔天皇が決めていた、一代で五回元号を変えたり、天皇自身の名前を4回変えたりしていた。 それで、

元号は昔天皇が決めていた、一代で五回元号を変えたり、天皇自身の名前を4回変えたりしていた。
それで、今上天皇皇后陛下が、相談して、新天皇に引き継げば良いのでは?

Aベストアンサー

その草案を出すのは、側近たち。天皇はあくまでも最後の決定権のみ。

今の天皇陛下にも、せめて、気に入らない案だったら拒否権発動できる権限与えたいです。

Q豊臣秀吉が人身売買を許せないとしたことについて

織田信長はキリスト教の布教を認め日本各地にキリスト教が広まりました。その後を継いだ豊臣秀吉は、キリスト教布教に対し見せしめのためにバテレンを始め幼いキリスト教信者まで死罪にするなど強い弾圧を行いました。その理由のひとつに、秀吉は婦女の人身売買に宣教師が関わっていたことを知りキリスト教に怒りを持ったという説を何かで知りました。
この説は真実なのでしょうか。

Aベストアンサー

真実です。ほとんどの人が知りませんが、戦国時代には日本人の考える「人身売買」と西洋の「人身売買」は全く異なるものだったからです。

西洋の人身売買、奴隷制度、というものは「人間の形をした家畜」「元々死んでいてもいいものを拾って使う」というところから来ています。
 それは古代の民族戦争で勝った方が「勝者の権利」で、負けた民族を皆殺しにしていたところを、奴隷商人などがお金で買い取って「人間の姿をした家畜」として方々に売ったところから始まっているからです。古代では「民族が違い、宗教がちがうなら人間ではない」のが普通だったからです。

日本も大和朝廷が成立する以前の「生口」などは同じ考えでした。豪族ごとに「自分のたちのコミュニティ」があり、それ以外の人は「同じ人間ではない」状態だったからです。これを変えたのが大和朝廷の成立でこれにより「朝廷に参加する豪族とその身内はすべて同じ人間」になったのです。

そのため奈良から平安期にかけて、人間を家畜として扱う奴隷制度は消えて行きました。鎌倉時代や室町時代など大きな騒乱があると奴隷制が復活するのですが、幕府は何度もそれを違法として取り締まっていきます。残ったのは「年季奉公」という概念だけ、つまり「人生の20年ぐらいを買い、その分の働きをしたら解放される」というものだけだったのです。(実際には女郎屋などは、化粧代や部屋代などを取って、なかなか年季が明けないようにしていました)

ですから、当時の日本人としては「家畜のように人が売買されて、一生奴隷として暮らす」と言うこと自体に拒否感があり、非常に野蛮なことだと考えられていたのです。当然、秀吉にもそういう感覚はあったでしょう。

宣教師は日本に来て非常に喜んだのは「日本では他の国の相場の1/3で奴隷が買える」ということです。当たり前でしょう。日本は20年(人生の1/3ぐらい)分の報酬で人身売買されていて、奴隷は一生なのですから値段が同じなわけないのです。

そのため宣教師は多数の日本人を口入屋から買い入れて外国に連れて行っていました。ところが何年経っても年季が明けず「お前は一生奴隷として買い入れた」と知った日本人が「騙された」と思って逃げてきたのを秀吉が知ったので激怒したのです。
 
 ちょうどその頃秀吉は関白職になり、関白は「天皇に変わって日本の運営に責任を持つ」役割だったため「大和民族が融和して奴隷制を廃止したのになんて野蛮なことをするのか!」と怒ったわけです。

結局それが原因になって、宣教師と軍事力の関係性などがだんだん明るみになり、南蛮の侵略方法が明らかになったので、のちの鎖国につながっていく、ということになるわけです。

真実です。ほとんどの人が知りませんが、戦国時代には日本人の考える「人身売買」と西洋の「人身売買」は全く異なるものだったからです。

西洋の人身売買、奴隷制度、というものは「人間の形をした家畜」「元々死んでいてもいいものを拾って使う」というところから来ています。
 それは古代の民族戦争で勝った方が「勝者の権利」で、負けた民族を皆殺しにしていたところを、奴隷商人などがお金で買い取って「人間の姿をした家畜」として方々に売ったところから始まっているからです。古代では「民族が違い、宗教...続きを読む

Q豊臣秀吉は朝鮮半島南部くらいなら支配できたのではないですか?

豊臣秀吉の朝鮮出兵ですが、朝鮮の首都(漢城)はすぐに陥落し、次に明軍との戦争になり、明・朝鮮連合軍との戦争になって最終的に撤退することになります。

でも、いくら秀吉軍が強いといっても、さすがに明を征服できる力があったようには思えません。

明との衝突を避け、目的を朝鮮半島南部の支配に限定すれば、目的が達成できた可能性が高いと思いますが、どうでしょうか。
そして、毛利や島津、徳川といった、後で逆らってきそうな大大名を朝鮮南部に配置すれば、邪魔者を追い出せますし、一挙両得のように思います。

Aベストアンサー

文禄慶長の役は征明嚮導とか仮道入明と言われたように、
朝鮮は通り道で秀吉は朝鮮を支配する意志がほぼ無いので
秀吉が朝鮮南部だけ統治するということはまずありません。
ただし、思考実験としての可能性を述べてみます。



文禄・慶長の役で、日本が明の参戦で苦戦に陥って
不利になったのは事実と言えなくはないですが、
文禄の役では碧蹄館の戦いをはじめ、第一次・二次平壌城の戦い
慶長の役では第二次蔚山城の戦い、泗川の戦い、順天の戦い等々
ほとんどの戦いで明(と朝鮮連合軍)には戦術的に勝っています。
ちなみに、文禄の役の時に碧蹄館の戦いで大損害を出した明は、
以後は朝鮮の意向を無視して講和に方針転換しています。
さらに慶長の役が終わった後、明史では

  (前略)喪師數十萬,糜餉數百萬,
  中朝與屬國迄無勝算,至關白死而禍始息
 (明史 朝鮮伝(320巻)26年11月)

  10万の兵を失い、100万の糧食を浪費したけど
  中朝(中国)と属国(朝鮮)には勝算が無かった。
  関白(秀吉)が死んだから終わってくれた。

と書かれていたくらいです。
このように、明とはそれなりの勝負はできているので、
本格的に準備をすればいい勝負はしたと思います。

余談ですが、南原城の戦いで見ても判るように
明は朝鮮南部まで軍を進めています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E5%8E%9F%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
講和がうまくいった場合など、状況にもよりますが、
朝鮮南部だから明が来ないというわけではありません。


日本が勝てなかった理由は兵站が続かなかったから。
(慶長の役を含めるなら秀吉が死んだから)
当時、兵糧はある程度を現地調達するのが常でしたが、
朝鮮はそもそも春窮という言葉があるくらい貧しく、
耕作に適する土地が少ないので収穫は期待できません。
戦時には日本・朝鮮・明がそれぞれ徴発したから
ますます何もなくなりました。
たとえ朝鮮南部に限定して支配しても、
長大な国境線を長期にわたって維持するのは
(明側が意図しなくても)焦土戦術となって
かなりの負担で益は無いと思われます。


ちなみに、今の韓国の歴史認識に惑わされて
朝鮮人は果敢に抵抗した事を憂慮する方が多いようです。
確かに住民の反乱はそれなりにてこずりましたが、
日本が漢城に到着した時、国王は逃走し、町は既に焼かれていて
王子二名を捕虜にしたのは朝鮮人の働きなのは有名な話。
碧蹄館の戦いに先立つ第三次平壌城の戦いで
「日本側の戦死者を調べるとほとんど朝鮮人でした」
というオチが朝鮮王朝実録に書いてあるくらい。
  是日天兵當陣斬獲一千二百八十五級、生擒二名、
  竝擄浙江人張大膳、奪馬二千九百八十五匹、
  救出本國被擄男婦一千二百二十五名。
  (中略)
  李如松 平壤之役、所斬首級、半皆朝鮮之民、
  焚溺萬餘、盡皆朝鮮之民
政策さえ誤らなければ統治できなくはないと思います。

文禄慶長の役は征明嚮導とか仮道入明と言われたように、
朝鮮は通り道で秀吉は朝鮮を支配する意志がほぼ無いので
秀吉が朝鮮南部だけ統治するということはまずありません。
ただし、思考実験としての可能性を述べてみます。



文禄・慶長の役で、日本が明の参戦で苦戦に陥って
不利になったのは事実と言えなくはないですが、
文禄の役では碧蹄館の戦いをはじめ、第一次・二次平壌城の戦い
慶長の役では第二次蔚山城の戦い、泗川の戦い、順天の戦い等々
ほとんどの戦いで明(と朝鮮連合軍)には戦術的に勝っていま...続きを読む

Q1192(イイクニ)作ろう鎌倉幕府が1185(イイハコ)と覚えさせるようになった理由は何ですか?

1192(イイクニ)作ろう鎌倉幕府が1185(イイハコ)と覚えさせるようになった理由は何ですか?

Aベストアンサー

征夷大将軍が指揮する場所を幕府というのだから、「1192(イイクニ)作ろう鎌倉幕府」が正解だと思うわ。
源賴朝が征夷大将軍になったのは1192年だからな。
1185を使うなら
「1185(イイハコ)作ろう鎌倉政権」というべきだな。
最近の歴史教育は不正確でええ加減だわ。
歴史学者が、単に教育現場を引っかき回そうとしているとしか思えんわ。

Q日本が一番のんびりしてた時代って60年代か70年代ですか?

日本が一番のんびりしてた時代って60年代か70年代ですか?

Aベストアンサー

No.5 回答者: Mocojima_Z さんが、回答日時:2019/03/05 16:42 に
「むしろ、一番のんびりしてるのは今では?」と回答しています。
私もそう思います。
理由は、❶ のんびり = 身心がゆったりと落ち着き、内外の制約を気にせずに自分の満足するように行動しているさま ❷ 社会保障厚生施策が厚くなり、収入や職の有無を強く気にせずに済む社会になっている、性差、個体差、人種差、能力差、年齢差、長幼上下先輩後輩血族同族勤務先などの人間関係のしがらみや制約を気にしない発言行動スタイルがとがめられない、❸ テレビの番組内容でも何でもありでとがめらることが少なくなっている、❹ 犯罪事例でも今までは想像しにくい行動が公然となることが多くなっている = 昔ならばもっと別の理由や背景をセットで報じないとおかしいと思われてしまう = 現在はどんなこともあり得る、制約を内的にも持たない人物が出現することさえも納得する時代になっている と思うからです。

まあ、今は子供たちが塾やお習い事で大変で、スマホも離せない時代になっていて、子どもは子どもで勝手に遊び回るというような時代とは違いますが、その子どもは、異年齢子供たちだけで勝手に集団遊びをするのをきついと感じるようですから、現代の子どもにとっては昔の子どもはのんびりとはしてられないというように感じると思うでしょう。
おそらく、人類の歴史では、20歳過ぎまで就労せず家事労働せずというような人が多くなったのは、世界でみても、1970年代以降ではないでしょうか。
http://www.garbagenews.com/img17/gn-20170613-01.gif
「"食うため、生きるために!"を、自分自身の指針として頑張る」のは《のんびりとも言える》と考えるのであれば別ですが、《温泉に浸かってのんびりと》《一日景色を楽しみ海岸でのんびりと》《ビールを飲みながらテレビでものんびりと》のようなのんびりの時間帯を人生の多くの時間で過ごせるのは、多分、現代が一番でしょう。
https://www8.cao.go.jp/youth/whitepaper/h26honpen/img/z1_4_13.gif
職場になじめない、学校になじめない、就活が希望のように進まないという理由で無職で親元にいられるのであれば、それをのんびりした時代の証とも考えられらるでしょう。
未婚者の増加も、江戸の未婚者とは状況が違って、現代のはのんびりした時代だからでしょう。

No.5 回答者: Mocojima_Z さんが、回答日時:2019/03/05 16:42 に
「むしろ、一番のんびりしてるのは今では?」と回答しています。
私もそう思います。
理由は、❶ のんびり = 身心がゆったりと落ち着き、内外の制約を気にせずに自分の満足するように行動しているさま ❷ 社会保障厚生施策が厚くなり、収入や職の有無を強く気にせずに済む社会になっている、性差、個体差、人種差、能力差、年齢差、長幼上下先輩後輩血族同族勤務先などの人間関係のしがらみや制約を気にしない発言行動スタイルがとがめられない、...続きを読む

Q天皇制は将来的になくなるのですか?

未だに歴史系の定番で平積みもみかける網野義彦による「日本の歴史をよみなおす」を久しぶりに読み返したら序盤でタイトルのような事が書いてありました。

この本自体は何年も売れている「歴史好きな人の入り口」の一つみたいな存在で、お世話になった人も多いかと思います。
その分色んな方の眼にもとまってると思いますが、この文章が批判されているところは今のところ私にはありません。
これも不思議です。

そこで質問ですが、タイトルについていかがでしょうか?

Aベストアンサー

この文章が批判されているところは今のところ私にはありません。
これも不思議です。
 ↑
保守的な人からは批判されていますが。




そこで質問ですが、タイトルについていかがでしょうか?
  ↑
氏はマルクス史観に基づいて、天皇制がなくなる
と主張している節があります。
そして、マルクス史観は過去のモノでしょう。

マルクス史観ではなく、他の理由でなくなる
可能性はあると思います。

例えば皇族男子がいなくなるとかですね。
共産党が与党になったとか、
中国辺りに征服されるとか。

天皇というのは必要があって維持されてきた
制度です。
簡単にいえば、数千万、億もいる人民を統治する
ツールとして有用だから、現在も残っているわけです。

従って、その必要性、有用性が無くなれば、天皇制も
なくなるかもしれません。


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