出産前後の痔にはご注意!

歴史についての質問なのですが、三国協商の加盟国を答える問題でロシア帝国と答えたらバツにされました。それで、何故かと質問したらロシア帝国は存在しないみたいな事を言われました。どういう意味ですか?

A 回答 (2件)

おかしいですね。



三国協商とはドイツ帝国の勃興に対抗して。イギリス・フランス・ロシア帝国の各国の間で締結された、
露仏同盟・英露協商・英仏協商によって作られた三国の協調関係を指した言葉とされていますよ。

ロシアは第一次世界大戦中にロシア革命がおこりますが、それまでは帝国です。

三国協商(ウィキ)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%9B%BD …
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単に採点者がアホなだけです。

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Q世界史!

こんにちは。 私は世界史が好きな高校生なのですが、中世や古代のヨーロッパ、アジア アフリカ地図を無料で閲覧できるサイトを探しています。『~世紀のヨーロッパ地図』等と言う風に検索してみると、さまざまなサイトが出てくると思うのですが、どれもこれもそこまで詳しくありません。例えば(神聖ローマ帝国)は厳密には一つの国家ではなく、~公国とか~司教領、~王国など、多くの領邦からなる国なのに上記のように*神聖ローマ帝国*と一くくりに表されているものがほとんどです。うまく伝わるかわかりませんが、とにかく"詳しく"かかれた世界地図(特に古代末期:西ローマ帝国滅亡前後と十字軍の時代)が閲覧できるサイトをおしえてください。

Aベストアンサー

1年単位で表示できます。
 http://geacron.com/home-en/?sid=GeaCron921126


ご存知かもしれませんが、
紙媒体なら
「世界史地図」吉川弘文館
568年のヨーロッパ
ランゴバルド族の移動
アヴァール人の移動
などを矢印で表示したりしてます。
十字軍あたりなら1097年があります。
フランドル公ロベールなどの
進軍経路を記している。
アルモラヴィド帝国とかは載ってます。
 
 https://www.amazon.co.jp/標準世界史地図-亀井-高孝/dp/4642095438/ref=mp_s_a_1_1?keywords=世界史地図&qid=1553555134&s=books&sr=1-1

Q「1945年」←これのこと、なんて言いますか?西暦ではなく。

語呂合わせで「年」を覚えるのを、「年号を覚える」という表現をしているものが多々あるのですが、
「年号」は「平成」とかのことで年そのもののことではないですよね?
「1945」を「年号」とは言いませんよね?
言いますか?
「1945」のことはなんと言えばいいのでしょうか?
「年数」ですか?
1945を語呂合わせで覚えるとしたら
「語呂合わせで”年数”を覚える」であって
「語呂合わせで”年号”を覚える」ではないと思うのですが、
どうでしょうか?
ネット上で「語呂合わせで年号を覚える」って表現が多くて困惑しています。
といって「年数」というのも、なんだか「歴史上重要な出来事があった年」を表現する言葉として
弱い気がします。
「紀年数」というのもあるにはありましたが…なじみがなくてぴんときません。
「1945」や「645」のような、重要な出来事があった年のことを
なんと言うのが適切でしょうか。
ご教示いただけましたら幸いです。

Aベストアンサー

>「年号」は「平成」とかのことで年そのもののことではないですよね?
それ年号ではなく、元号(げんごう)ですけど

>「1945」のことはなんと言えばいいのでしょうか?
年号ですけど

どうしてもと言うなら、暦年でも使ったら?

Q豊臣秀吉が人身売買を許せないとしたことについて

織田信長はキリスト教の布教を認め日本各地にキリスト教が広まりました。その後を継いだ豊臣秀吉は、キリスト教布教に対し見せしめのためにバテレンを始め幼いキリスト教信者まで死罪にするなど強い弾圧を行いました。その理由のひとつに、秀吉は婦女の人身売買に宣教師が関わっていたことを知りキリスト教に怒りを持ったという説を何かで知りました。
この説は真実なのでしょうか。

Aベストアンサー

真実です。ほとんどの人が知りませんが、戦国時代には日本人の考える「人身売買」と西洋の「人身売買」は全く異なるものだったからです。

西洋の人身売買、奴隷制度、というものは「人間の形をした家畜」「元々死んでいてもいいものを拾って使う」というところから来ています。
 それは古代の民族戦争で勝った方が「勝者の権利」で、負けた民族を皆殺しにしていたところを、奴隷商人などがお金で買い取って「人間の姿をした家畜」として方々に売ったところから始まっているからです。古代では「民族が違い、宗教がちがうなら人間ではない」のが普通だったからです。

日本も大和朝廷が成立する以前の「生口」などは同じ考えでした。豪族ごとに「自分のたちのコミュニティ」があり、それ以外の人は「同じ人間ではない」状態だったからです。これを変えたのが大和朝廷の成立でこれにより「朝廷に参加する豪族とその身内はすべて同じ人間」になったのです。

そのため奈良から平安期にかけて、人間を家畜として扱う奴隷制度は消えて行きました。鎌倉時代や室町時代など大きな騒乱があると奴隷制が復活するのですが、幕府は何度もそれを違法として取り締まっていきます。残ったのは「年季奉公」という概念だけ、つまり「人生の20年ぐらいを買い、その分の働きをしたら解放される」というものだけだったのです。(実際には女郎屋などは、化粧代や部屋代などを取って、なかなか年季が明けないようにしていました)

ですから、当時の日本人としては「家畜のように人が売買されて、一生奴隷として暮らす」と言うこと自体に拒否感があり、非常に野蛮なことだと考えられていたのです。当然、秀吉にもそういう感覚はあったでしょう。

宣教師は日本に来て非常に喜んだのは「日本では他の国の相場の1/3で奴隷が買える」ということです。当たり前でしょう。日本は20年(人生の1/3ぐらい)分の報酬で人身売買されていて、奴隷は一生なのですから値段が同じなわけないのです。

そのため宣教師は多数の日本人を口入屋から買い入れて外国に連れて行っていました。ところが何年経っても年季が明けず「お前は一生奴隷として買い入れた」と知った日本人が「騙された」と思って逃げてきたのを秀吉が知ったので激怒したのです。
 
 ちょうどその頃秀吉は関白職になり、関白は「天皇に変わって日本の運営に責任を持つ」役割だったため「大和民族が融和して奴隷制を廃止したのになんて野蛮なことをするのか!」と怒ったわけです。

結局それが原因になって、宣教師と軍事力の関係性などがだんだん明るみになり、南蛮の侵略方法が明らかになったので、のちの鎖国につながっていく、ということになるわけです。

真実です。ほとんどの人が知りませんが、戦国時代には日本人の考える「人身売買」と西洋の「人身売買」は全く異なるものだったからです。

西洋の人身売買、奴隷制度、というものは「人間の形をした家畜」「元々死んでいてもいいものを拾って使う」というところから来ています。
 それは古代の民族戦争で勝った方が「勝者の権利」で、負けた民族を皆殺しにしていたところを、奴隷商人などがお金で買い取って「人間の姿をした家畜」として方々に売ったところから始まっているからです。古代では「民族が違い、宗教...続きを読む

Q江戸時代にスペインやオランダが、日本に対して低姿勢だったのはなぜですか?

江戸時代前期というとスペインやオランダが強かった頃であり、スペインはフィリピンを、オランダはインドネシアを植民地とし、原住民に対して過酷な収奪をやっていました。
しかしながら、日本に対しては一切手を出さず、徳川幕府がキリスト教を迫害しても文句を言わず、オランダに至っては貿易は出島のみ、それもキリスト教を布教しないという条件でようやく認めてもらっている有様です。

このように、江戸時代の世界の覇権国とも言えるスペインとオランダが、なぜか日本に対しては強いことを言えず、低姿勢に徹したのはなぜでしょうか?

Aベストアンサー

彼らは、まずキリスト教神父が乗り込み
現地人を宣撫して、それから本国から軍隊を
送り込み、占領してしまう、
という方法をとっています。

日本は、そうした戦法をいち早く察知し
キリスト教が広がるのを阻止しました。
そもそもですが、一定レベル以上の文化、文明が
既に発達している地域で、新たな宗教を布教する
のは困難なのです。

このように、キリスト教布教に失敗した、という
のがまず上げられます。


次は武力です。

スペインの神父が、本国に当てた書見が残って
いますが、それには
「他のアジア諸国と異なり、日本の武力は強力
 である」
旨の記載がうかがえます。

幸いというか、戦国時代の余韻が残っていた
時代です。
鉄砲の数も世界一、と言われたほどです。

植民地にするのはいじめるためではありません。
儲けるためです。

武力で植民地化するよりも、貿易で儲けた方が、
という判断が働いたのでしょう。

Q日本の国旗って韓国の国旗を真似したんでしょうか?

日本の国旗って韓国の国旗を真似したんでしょうか?

Aベストアンサー

太極旗は、李氏朝鮮(高宗)時代の1883年が最初
日の丸は、1870年制定

Q清の康熙帝・雍正帝・乾隆帝が日本侵略を考えなかったのはなぜですか?

清の最盛期は長く、康熙・雍正・乾隆帝の全盛期は130年以上に及び、モンゴル帝国に次ぐ広大な領土を支配しました。
日本ではちょうど江戸時代にあたりますが、その当時の日本が清を恐れていたような記録はなく、清も日本を侵攻しようとは考えなかったようです。

意図していたわけではないと思いますが、相互不可侵の紳士協定が結ばれていたような感じです。
あれだけ領土拡大意欲の強かった清が、日本に対しては一切手を出さず、朝貢を求めるような素振りもなかったのはなぜでしょうか?

Aベストアンサー

小規模な貿易は行われていたようですが、秀吉や倭寇影響か、あまり良い国交関係とは言い難かったようですね。

前王朝の時、倭寇対策が大変だった。
江戸時代になって、おとなしくなったので、あえてちょっかいを出す必要はなかったのでは?

さらに言うと、そのためもあって、清王朝でも海上交通に制限をかけていた。
そして朝貢貿易以外、むしろ鎖国に近い政策だったことも要因の一つではないでしょうか。

Q最近お城巡りをしていて備中松山城の城下町(?)にある武家屋敷跡に行きました。 そこで疑問に思ったので

最近お城巡りをしていて備中松山城の城下町(?)にある武家屋敷跡に行きました。
そこで疑問に思ったのですが、武家屋敷には一般的には誰が住んでいたのですか??
城主の家臣の方の住まいということでしょうか?

Aベストアンサー

家臣団の住まいです。
上は家老から下は足軽まで。
城主・国主は本丸や彼用の居館に住んでいました。

もちろんそれらさまざまな身分の者が混然と住んでいるということではなく、
身分によって住むところが分けられていました。

身分を意識させることにより家臣団の秩序を保つということもあったでしょうし、
いざというときに迅速に有機的に軍事行動を起こすためという目的もあったでしょう。

Q明治天皇以前に軍装をした最後の天皇は、どなたでしょうか?

今上天皇は軍装(軍服をまとう)をしませんでしたが、先代の明治・大正・昭和天皇は軍装をしましたね。
天皇家の草創期では、天皇は武人であるから、軍装したのはずですね。
ところで、明治天皇以前に軍装をした最後の天皇は、どなたでしょうか?

Aベストアンサー

太平記によると、南北朝時代の後村上天皇は鎧を着てました。
北朝の軍から逃れるときに鎧姿で馬に乗っていたそうです。

Q日本の三大神社、仏閣と言えばどこですか? 伊勢神宮、出雲大社、あと1つはなに? 日光東照宮?

日本の三大神社、仏閣と言えばどこですか?


伊勢神宮、出雲大社、あと1つはなに?

日光東照宮?

Aベストアンサー

「三大神社」なんてありません。
ま、こんなページもあります。
https://ameblo.jp/masac2/entry-10185641170.html

Q豊臣秀吉は朝鮮半島南部くらいなら支配できたのではないですか?

豊臣秀吉の朝鮮出兵ですが、朝鮮の首都(漢城)はすぐに陥落し、次に明軍との戦争になり、明・朝鮮連合軍との戦争になって最終的に撤退することになります。

でも、いくら秀吉軍が強いといっても、さすがに明を征服できる力があったようには思えません。

明との衝突を避け、目的を朝鮮半島南部の支配に限定すれば、目的が達成できた可能性が高いと思いますが、どうでしょうか。
そして、毛利や島津、徳川といった、後で逆らってきそうな大大名を朝鮮南部に配置すれば、邪魔者を追い出せますし、一挙両得のように思います。

Aベストアンサー

文禄慶長の役は征明嚮導とか仮道入明と言われたように、
朝鮮は通り道で秀吉は朝鮮を支配する意志がほぼ無いので
秀吉が朝鮮南部だけ統治するということはまずありません。
ただし、思考実験としての可能性を述べてみます。



文禄・慶長の役で、日本が明の参戦で苦戦に陥って
不利になったのは事実と言えなくはないですが、
文禄の役では碧蹄館の戦いをはじめ、第一次・二次平壌城の戦い
慶長の役では第二次蔚山城の戦い、泗川の戦い、順天の戦い等々
ほとんどの戦いで明(と朝鮮連合軍)には戦術的に勝っています。
ちなみに、文禄の役の時に碧蹄館の戦いで大損害を出した明は、
以後は朝鮮の意向を無視して講和に方針転換しています。
さらに慶長の役が終わった後、明史では

  (前略)喪師數十萬,糜餉數百萬,
  中朝與屬國迄無勝算,至關白死而禍始息
 (明史 朝鮮伝(320巻)26年11月)

  10万の兵を失い、100万の糧食を浪費したけど
  中朝(中国)と属国(朝鮮)には勝算が無かった。
  関白(秀吉)が死んだから終わってくれた。

と書かれていたくらいです。
このように、明とはそれなりの勝負はできているので、
本格的に準備をすればいい勝負はしたと思います。

余談ですが、南原城の戦いで見ても判るように
明は朝鮮南部まで軍を進めています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E5%8E%9F%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
講和がうまくいった場合など、状況にもよりますが、
朝鮮南部だから明が来ないというわけではありません。


日本が勝てなかった理由は兵站が続かなかったから。
(慶長の役を含めるなら秀吉が死んだから)
当時、兵糧はある程度を現地調達するのが常でしたが、
朝鮮はそもそも春窮という言葉があるくらい貧しく、
耕作に適する土地が少ないので収穫は期待できません。
戦時には日本・朝鮮・明がそれぞれ徴発したから
ますます何もなくなりました。
たとえ朝鮮南部に限定して支配しても、
長大な国境線を長期にわたって維持するのは
(明側が意図しなくても)焦土戦術となって
かなりの負担で益は無いと思われます。


ちなみに、今の韓国の歴史認識に惑わされて
朝鮮人は果敢に抵抗した事を憂慮する方が多いようです。
確かに住民の反乱はそれなりにてこずりましたが、
日本が漢城に到着した時、国王は逃走し、町は既に焼かれていて
王子二名を捕虜にしたのは朝鮮人の働きなのは有名な話。
碧蹄館の戦いに先立つ第三次平壌城の戦いで
「日本側の戦死者を調べるとほとんど朝鮮人でした」
というオチが朝鮮王朝実録に書いてあるくらい。
  是日天兵當陣斬獲一千二百八十五級、生擒二名、
  竝擄浙江人張大膳、奪馬二千九百八十五匹、
  救出本國被擄男婦一千二百二十五名。
  (中略)
  李如松 平壤之役、所斬首級、半皆朝鮮之民、
  焚溺萬餘、盡皆朝鮮之民
政策さえ誤らなければ統治できなくはないと思います。

文禄慶長の役は征明嚮導とか仮道入明と言われたように、
朝鮮は通り道で秀吉は朝鮮を支配する意志がほぼ無いので
秀吉が朝鮮南部だけ統治するということはまずありません。
ただし、思考実験としての可能性を述べてみます。



文禄・慶長の役で、日本が明の参戦で苦戦に陥って
不利になったのは事実と言えなくはないですが、
文禄の役では碧蹄館の戦いをはじめ、第一次・二次平壌城の戦い
慶長の役では第二次蔚山城の戦い、泗川の戦い、順天の戦い等々
ほとんどの戦いで明(と朝鮮連合軍)には戦術的に勝っていま...続きを読む


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