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EUに おいて
ナチスドイツのヒトラーは残念な歴史で、ありながらも ヒトラー程の インパクトのある
カリスマはいないですよね?

A 回答 (6件)

ナポレオンの方が、インパクト強いかな。


フランスの精神病院に、自称ナポレオンは大勢いるが、ドイツの精神病院に自称ヒットラーは一人も居ない。
ナポレオンは本人一人だけのカリスマですが、ヒットラーはナチスというグループあってのものです。
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暴君ネロ

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ヒトラーは虐殺者ですからな。

まあ、人類共通の敵だったということになりました。真のカリスマ(予言者)なら人類共通の宿敵にはならんでしょう。
ちなみに、EUは、独善的な価値観を加盟国に強要していると思いますわ。イギリスの離脱にあたっては、EU幹部の発言はイギリスに対する強迫とも思えてしかたがないですね。
どんなに素晴らしい価値観や人道主義でも、それを加盟国に強制するのは、全体主義だと思いますね。
イギリス人のEU離脱願望も理解できます。
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この回答へのお礼

ヨーロッパ仲良く 行き来しましょう。
そんな中 イギリスに税金納めても 有能なEU加盟国から 移民が来て仕事を無くすイギリス市民。
ここは 敗戦国 ドイツの国みたいな 情勢。

お礼日時:2019/03/18 10:08

「EUにおいて」という言い方は、ヒトラーという独裁者を語る場合には不適切な表現なので、その点には気を付けて下さい。



ご質問の内容に関して言うならば、ヒトラーのようなカリスマ指導者は、我々が生きている時代が続く間は再び現れる事は無いでしょう。

そもそも、アドルフ・ヒトラーという人物があれ程強大な権力を行使して人類の歴史に(善悪の評価はともかく)巨大なインパクトを残すことができたのは、ヒトラー本人の才能や能力だけで出来た訳ではないということを知ってもらいたいと思います。

細かく解説すると分厚い本の何冊ぶんもの量になってしまうので、超簡単にまとめます。

ヒトラーという人物に固有の能力だけではあれ程の大きな事は出来ませんでした。実際、若い頃から武装闘争や権力奪取へのチャレンジを何度もやりながら、そのつど失敗して刑務所に入れられたりもしています。

ヒトラーが権力の座につくことができたのは、その時代のドイツが経済も社会状況もどん底の状態にあったので、ドイツ国民のあいだにかつてない不満と鬱憤がたまっていたからです。

その不満と鬱憤の根本原因は、第一次世界大戦の停戦交渉の時に、連合国(アメリカとイギリスとフランス)がドイツの名誉も重んじながら停戦の交渉をしようと口では言いながら、結果的にはドイツにとって極めて不利な条件を押し付けて停戦を強行したために、その後のドイツは深刻な不況と社会の混乱に苦しむことになりました。ドイツの国民にしてみれば、連合国にだまされたという不満が渦巻いていたのです。

そのような時代に登場して、ドイツ国民の不満に理解を示しつつ、選挙での支持を訴えたのがアドルフ・ヒトラーだったのです。

1939年の9月にドイツ軍がポーランドに侵攻して第二次世界大戦が勃発しました。この時ヒトラーは、かつて連合国にだまされて奪われた元の領地を取り戻したのだとドイツ国民に演説をして、大喝采を受けました。

このように、カリスマが出現するにあたっては、「天の時、地の利」と古くから言い伝えられた特有の条件がはたらくものです。

現在のヨーロッパをはじめとする世界の政治・経済・社会の状況では、アドルフ・ヒトラーの再来を実現できるような条件は見出せません。平和は、経済的な安定という土台の上に築かれるものなのです。

しかしながら、将来の世界において政治・経済・社会の状況が危うくなるような事が起こったならば、その時には危険なカリスマが再び出現する事態もあり得ると思っておいた方が良いでしょう。
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EUはみんなで仲良しこよしという連合国なので、一国だけ吐出してカリスマ性を持つと歩調が乱れるので、その様な人物は当分出て来ないでしょう。

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良いことであれ悪いことであれ、でっかいことを何かやらかさないと印象に残りませんからね。

ナポレオン一世とかどうでしょう。
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真実です。ほとんどの人が知りませんが、戦国時代には日本人の考える「人身売買」と西洋の「人身売買」は全く異なるものだったからです。

西洋の人身売買、奴隷制度、というものは「人間の形をした家畜」「元々死んでいてもいいものを拾って使う」というところから来ています。
 それは古代の民族戦争で勝った方が「勝者の権利」で、負けた民族を皆殺しにしていたところを、奴隷商人などがお金で買い取って「人間の姿をした家畜」として方々に売ったところから始まっているからです。古代では「民族が違い、宗教がちがうなら人間ではない」のが普通だったからです。

日本も大和朝廷が成立する以前の「生口」などは同じ考えでした。豪族ごとに「自分のたちのコミュニティ」があり、それ以外の人は「同じ人間ではない」状態だったからです。これを変えたのが大和朝廷の成立でこれにより「朝廷に参加する豪族とその身内はすべて同じ人間」になったのです。

そのため奈良から平安期にかけて、人間を家畜として扱う奴隷制度は消えて行きました。鎌倉時代や室町時代など大きな騒乱があると奴隷制が復活するのですが、幕府は何度もそれを違法として取り締まっていきます。残ったのは「年季奉公」という概念だけ、つまり「人生の20年ぐらいを買い、その分の働きをしたら解放される」というものだけだったのです。(実際には女郎屋などは、化粧代や部屋代などを取って、なかなか年季が明けないようにしていました)

ですから、当時の日本人としては「家畜のように人が売買されて、一生奴隷として暮らす」と言うこと自体に拒否感があり、非常に野蛮なことだと考えられていたのです。当然、秀吉にもそういう感覚はあったでしょう。

宣教師は日本に来て非常に喜んだのは「日本では他の国の相場の1/3で奴隷が買える」ということです。当たり前でしょう。日本は20年(人生の1/3ぐらい)分の報酬で人身売買されていて、奴隷は一生なのですから値段が同じなわけないのです。

そのため宣教師は多数の日本人を口入屋から買い入れて外国に連れて行っていました。ところが何年経っても年季が明けず「お前は一生奴隷として買い入れた」と知った日本人が「騙された」と思って逃げてきたのを秀吉が知ったので激怒したのです。
 
 ちょうどその頃秀吉は関白職になり、関白は「天皇に変わって日本の運営に責任を持つ」役割だったため「大和民族が融和して奴隷制を廃止したのになんて野蛮なことをするのか!」と怒ったわけです。

結局それが原因になって、宣教師と軍事力の関係性などがだんだん明るみになり、南蛮の侵略方法が明らかになったので、のちの鎖国につながっていく、ということになるわけです。

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Aベストアンサー

そんなこと、これっぽっちも考えていないと思います。
理由は簡単です。秀吉の朝鮮侵略の悲惨な結果を知っているからです。

日本の戦国時代を代表する武将の中で秀吉だけは異質ですが、それは彼が商人、現代風に言えば経済人の感覚を持っていたからです。当時の日本の経済発展のためには領土の拡大が欠かせなかったと思います。
まあ、しかし、他国への侵略という点においては、身の程を知らないというか、世界を知らないというかバカですね。先進的な欧州の植民地化の手法と比較すると幼稚極まりないと思います。
そういえば、そんなバカが過去にもいました。それは、日出る国の聖徳太子です。この時に現地で中国側と交渉した人物は秀吉の時と全く同じことをしています。現地で先進的な大国の実状を知って、日本側のトップの顔をつぶさないようにして、二枚舌で収拾するという方法です。

徳川家康は、豊臣秀吉の朝鮮侵略の失敗を教訓として300年続く日本の平和な時代の仕組みを作ります。限られた領土で平和を維持するために、大名の取り潰しや、参勤交代などの仕組みをつくりますが、政治的なシステム以外に庶民が作り上げたシステムもあります。それは、徳川300年の間に人口が全く増加していない事実から導かれます。

家康と秀忠は秀吉と同時代に生きていたので、二度とアホなことはしませんでしたが、その教訓を忘れてしまった平和ボケの人々は、明治に入って中国侵略を開始しますが、秀吉の朝鮮侵略から得られた軍事的な反省をなにひとつしていなかったため、最後は悲惨な結果になっています。
日清日露戦争は短期間の戦争であり、当時の日本は、欧米の先進的な兵器に関する各種技術を導入していたため、時代遅れの兵器相手に勝てるのは当然ですが、先進的な欧米諸国ではすでに確立していた兵站システムが全く構築されていなかったことが、日本の決定的な弱点と言うか特性なのだろうと思います。

そんなこと、これっぽっちも考えていないと思います。
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Q豊臣秀吉はフィリピンを征服できる力はありましたか?

豊臣秀吉は日本を統一した後の全盛期に朝鮮半島に出兵し、衰退前の明・李氏朝鮮連合軍と戦って最終的に敗退しますが、中国も朝鮮もそれなりの武力を保有した統一国家だったので当然だと思います。

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60年後には、清に破れて敗退中の鄭成功がオランダに勝って台湾を征服していますが、秀吉は鄭成功より遥かに強大な武力を保有していました。

Aベストアンサー

日本から見て間にある琉球や台湾などに一切手を出さず、いきなりフィリピンに侵攻するのは非常に難しい。
(途中で襲われて人、物、情報の移動が困難になることが予想されるので、普通はそんな遠隔地へ侵攻はしない)
それなのに秀吉がいきなりフィリピンに侵攻すると言い出したら、側近がまず琉球や台湾などを占領してフィリピン侵攻の拠点にすることを進言するだろう。
(それでも秀吉が最初にフィリピンを攻めると言い出したら正気を失ったものとして軟禁される可能性が高い)
で、琉球や台湾などへ侵攻したりしている間に秀吉の寿命が来る。
ゆえに『秀吉は』フィリピンを征服できないと考えられる。

朝鮮や明は日本と比較的共通の文化圏の文明国だから、占領することで豊かになれるという希望が見いだせて諸大名に命令をきく動機づけが可能だっただろう。
しかしフィリピンみたいなよく判らん土地へ侵攻して征服する動機づけが諸大名に対して可能なのか、そこからして疑問。


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