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1. 哲学の普遍性なる太陽は沈んだと勝手に決め込み ぼくちゃんだけの
私的な――すてきなすてきな――夜の灯火を求めて蛾のごとく群れているの
は 誰だ?

2.(あ) ルサンチマンに手を焼いているなら 復讐をやればよいではな
いか。敵を虫けらと思えば ポアしてもかまわない。その衝動をこそ失って
はいけない――とのお告げをのりたまう畏くも畏き神ディオニュソスのもと
に なんぢら 悩める人間たちよ ひれ伏したまえ。・・・

3.(い) アポロンの理性と感性と明るい日の光こそ糞くらえだ! なん
ぢらは 超人になりたまえ。・・・

4. ・・・という毒舌が一隅を照らす光だと思い その灯火のもとに群が
るのは いったいどこのどいつだ?

5. いやいやいや。その毒舌をあたかも推進するエンジンとしてのように
それぞれ自分に見合った不動明王なる像を彫り刻む超人気取りは いったい
何をしているのか?

A 回答 (8件)

だいたい、いったいぜんたい、



哲学に縛られているんじゃないかな。
もしくは、それをのぞんでいるんじゃないかな。

あるがままに観るのに、そんなに理屈要るかな。

真理に近づけば近づくほど、驚くほど単純なものなんじゃないかな。

それがある→見ている僕がいるから では視点が主観的。

見ていながら見られているという、見られているというと見ているんだという。
これ自然。
相対でなく、同一。
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この回答へのお礼

★ 真理
☆ は 《絶対性・その普遍性》を言う場合が ふつうです。つまり
じっさいには 人知を超えています。

ちなみに 超自然や超経験といったように《人知を超えているナゾ》
については 未知でもなく不可知でもなく 非知と呼んで区別して示
します。


経験事象についてその事象を知覚し認識するとき その内容が妥当で
あり みながその内容をみとめているなら その知解内容は《真実》
であると言います。

真実は そのように共同の主観となったもの(コモン・センス)を言
うのですが その基礎となっている任意のひとりの人の主観について
も その人が確信している場合――あいまいな状態であることを許容
しつつ―― 主観真実として捉えることもあります。


★ 真理に近づく
☆ という表現は 根拠――論理的な認識であること――のないもの
です。言葉の綾として使われているものです。

真実を広げたり深めたりすることはあり得ます。


こういった交通整理をするのも 哲学です。

お礼日時:2019/03/25 22:28

>ずれてなどいませんよ



そうかなぁ。
あなたは根拠を求め、絶対を求め、普遍を求める。
それを哲学であるという。
学問であるから、科学的であり根拠に基づかなければいけない、という。

で、はない。

僕は、
根拠なきことこそ根拠と言い、絶対がないことこそ絶対かもしれないけれど認識できた途端それはまがいもんだと言い、普遍であることの中に矛盾が在ってこそ普遍で有るという。

リンクするところもあるけれど、
どちらかというと、貴殿は前者でしょう。

という、感想。
ちがうかなぁ。

どうでもいいけど。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ あなたは根拠を求め、絶対を求め、普遍を求める。
それを哲学であるという。
☆ 《根拠》については ものごとの因果関係なる過程をめぐってどういう
チカラがはたらいているかを問い求めるときの説明内容を言います。
(説明内容の論理性といったものを指す場合もありますが)。

《絶対性》は この経験事象としての因果関係を超えたナゾの場ないしチカ
ラを言います。

《普遍性》は すでに超経験たる絶対性のことを言いかえた場合を言うこと
もあれば そうではなく 経験事象における因果関係についての法則性・そ
の――なお相対的な―― 一般性のことを言うに過ぎない場合もあります。



★ ~~~~~~~~~~
学問であるから、科学的であり根拠に基づかなければいけない、という。

で、はない。
~~~~~~
☆ 次につづく議論のようです。

★ ~~~~~~
僕は、
根拠なきことこそ根拠と言い、絶対がないことこそ絶対かもしれないけれど
認識できた途端それはまがいもんだと言い、普遍であることの中に矛盾が在
ってこそ普遍で有るという。
~~~~~~
☆ 《絶対性》は 人間の知性等にとって無根拠ですよ。

絶対性をチカラと呼ぶ場合 それが《根拠》という意味合いを持つ場合があ
ります。が いづれにしても 人知を超えています。

経験事象の中に捉えた普遍性は なお例外があり得ます。そういう一般性を
言うに過ぎない場合です。




★ どうでもいい
☆ なら 投稿するな。

お礼日時:2019/03/25 22:13

なんか違う。


常にずれる。

だから、次元が違う、んだと思う。
「あなたはAの事象ことを論じている。僕はAの成り立ちを話している」
そんなずれ。
「あなたは事象を探求する。僕は成り立ちからして自然であり自明ではないか」と話している。

いや、この問答においてだけでなく、今までの他のスレも含めた経緯からの感想です。
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この回答へのお礼

いまこの場合に:
★ 感想
☆ と言われても 応答に窮します。どう違うかを説明するのに 感想と
して述べましたと言われても 困ります。


ご回答をありがとうございます。


それでも推測を交えてお応えするとすれば:
わたしは Aなる事象を捉えて それは これこれこういう心(意志)の
事情から出て来ていると考えられると述べています。


もし仮りにあなたの視点としての《Aという事象の成り立ち》が じつは
別にあるとしたら――そしておそらくは この成り立ちの問題こそが 事
象 A の解明には 必要不可欠なのだといううったえだと思われますが そ
うだとしたら―― とうぜんのごとく その《成り立ち》と《事象(つま
り外に現われたものごと)》とのつながりについても 説明が必要である。
――と考えます。


そのとき じつはそれについても説明があります。:
★ 「あなたは事象を探求する。僕は成り立ちからして自然であり自明で
はないか」と。
☆ ですが この《自然であり自明である内部事情》についてなら すで
にわたしも――《成り立ち》については何も触れずに(!?)――例示と
して明らかにしているところです。つまり その例証としてのかぎりで
自然でだいたい自明のことであると言ったことにもなります。



このように考えています。

ご回答をありがとうございます。



★ ずれて
☆ などいませんよ。

お礼日時:2019/03/25 03:10

自分の存在に確信がなく、


自分のうちに根拠を持つでなく、自分以外の思考体に存在の意義を委ねる個性は、
絶対普遍的な思想を唱えるモノに帰依する。

ほかを認められないという窮屈さは、世界を観ているのではなくって自分を見ている。
対立的に自分と他を見れば、そうなる。

超人・気取りっていう人は、存在意義を求めてしまう人の性に倣って、
感情を表出しなければならないことに歯止めが効かないのでしょう。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 自分の存在に確信がなく、
自分のうちに根拠を持つでなく、自分以外の思考体に存在の意義を委ねる個性は、
絶対普遍的な思想を唱えるモノに帰依する。
☆ ううーん。ちょっと人間の性格(あるいは思考形式つまりは思想)を規定す
るのに 抽象的すぎるようにわたしには映ります。

★ 自分の存在に確信がある・ない
☆ というところから 分かりづらいです。つまり みづからの意志がはっきり
しないといったようなかたちで 自己というものが確立されていないとした場合
それでも人は 何を欲するかというとき これこれは欲しないというかたちで
かろうじてでも意志を明らかにすることでしょう。

ですから・その限りで:
★ 自分以外の思考体に存在の意義を委ねる
☆ という事例は やはりあいまいです。両義的です。すなわち ひとつに嫌な
ものは嫌だと言うでしょうし もうひとつに もし仮りに誰かに心酔しその他人
(ひと)に従うという生き方をする場合 それならそれで・それなりに 自分の
意志でそうしているということだと考えられるのです。

そういう場合というのは:
★ 自分のうちに根拠を持つ
☆ かどうかとは 関係ないと思うのです。というより この《自分のうちに根
拠を持つ》という規定が よく分かりません。何故かと言えば たとえ無根拠で
あっても ひとは自分がこうと決めた方向へとおもむくものだと考えられるから
です。

少なくとも イヤだと思った方向へは行かないという判断とその行動を持つから
です。



★ 絶対普遍的な思想
☆ これが 理解を超えています。無理です。《絶対》とは 人知を超えており
《思想》とは 人知の成果を言うのですから。



次は分かると言えば分かります。:
★ ~~~~~~~~~~
ほかを認められないという窮屈さは、世界を観ているのではなくって自分を見て
いる。
対立的に自分と他を見れば、そうなる。

超人・気取りっていう人は、存在意義を求めてしまう人の性に倣って、
感情を表出しなければならないことに歯止めが効かないのでしょう。
~~~~~~~
☆ このあたりは 気持ちとして分かります。自分を人びとに対して・世界に対
して何故か閉ざすという〔ことから発して誰か心酔する人に従う〕行き方をする
場合に そういった事態が見られるように思います。

お礼日時:2019/03/24 20:52

雑談風に哲学したいのですね。



しかし特に固有名詞知らないと答えようがないです。

文学作品の発表なら場所が違うし。

でも好きです。

文章ではなくマインドが。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

気に入ってくれても ありがとうございます。



☆☆(趣旨説明欄) 5.・・・不動明王・・・
☆ 今回は ここに焦点があります。(もちろん 回答者の方がそれぞれに
受け取ってもらえればよいのですが)。


もっとも:
☆☆ 5. ・・・超人気取り
☆ は 超人・気取りではなく 超・人気・取りに読み間違えられてしまう
かも知れなくなっているのに あとで気がつきました。



そうですね。《さとり》とは 不動明王のごとくゆるぎない知恵と知性であ
ると見られているとしたら それは 間違いの部類に入るのだと思います。

もっと柔軟性に富んだ知性をのぞみたいものです。と思っています。

お礼日時:2019/03/24 13:03

文学駅名者


また液化

まあ話題も無いし電車とか鉄道とかなのだ折るか
上半分ということなのですか。

岩特化売れ特化しろと云う子tなののんでしょうか。

今日はよく和からにですね。太陽
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ブラジュさんは自費出版に向いていると思います。

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この回答へのお礼

ひとつに絞らないほうがいいと思います。




ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2019/03/23 12:55

哲学って進歩しない勉強なのか?



そろそろ 他人に聞かずとも 自分で解決し 他人に教える立場に なってもイイ筈なのに 自分の酔狂に捕らわれ 他人には理解出来ない言葉が 質問の節々に混ざってて あなたが 何を告げたいのかさえも 他人には理解出来兼ねないのが分かっていない
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Q哲学カテ界隈で話が噛み合わない現象が起きるのは何故だと思いますか?

タイトル通りです
自分で色々考えてますがたまには
他人の意見聞いてみたくなったので質問しました

私個人の現在の考えでは
「質問という体で問いかけしてるが
実際は(質問者にとって)優秀な弟子、賛同者が
欲しいだけなんとちゃうかな」
って考えが主流となってますね

「話が噛み合わない現象なんて起きてないよ!」
って思う人はこの質問スルーしてください
尚、この質問は哲学的な問答を求めていません
アンケートみたいなものです

Aベストアンサー

>私個人の現在の考えでは
「質問という体で問いかけしてるが
実際は(質問者にとって)優秀な弟子、賛同者が
欲しいだけなんとちゃうかな」
って考えが主流となってますね

顕著ですね。
基本的に素人の集まりにすぎないので、質疑を交わすこと自体が問題を次第に掘り下げていく形になる場合が多いと思います。
持論を述べるのはむしろたたき台として必要なわけですが、しかし、賛同者を求めるのが目的の人は、その過程を重視せずに、相手を持論に引きずり込むことだけを考えている。
最初から質問が目的じゃないので噛み合うはずがない。

そういった輩と、真摯に何かを探求しようとする人との違いは、論理的な根拠を示しつつ持論を展開しているかどうか、という点。
賛同を求める乞食の輩は、論理的な根拠が提示できなくなると、強引にかぶせてきますからすぐに判別できる。
どうでも良い箇所では物分かりの良い顔して猫なで声を出すのが得意ですが、いざ本丸に攻め込まれると見境も無く髪を振り乱してあたふた大声で怒鳴り散らす。
おだてられての木登りも大得意。

それでも論理を辿ることさえお互いできれば、そんなに大きな齟齬は生じないものです。
で、そういう輩に限って、自分の質問に回答がひとつもつかなかったりすると、自分の頭が良すぎて他人には理解できないのだ、などと妄想に浸りつつ、ひとり悦にいったりする。
ダダを捏ねる赤ん坊みたいなもので、誰か面倒を見てくれる人がいると世の中は平和で助かる。
見解の相違だね、とお互いに質疑を保留できる余裕があるうちは、可能性がまだある。

>私個人の現在の考えでは
「質問という体で問いかけしてるが
実際は(質問者にとって)優秀な弟子、賛同者が
欲しいだけなんとちゃうかな」
って考えが主流となってますね

顕著ですね。
基本的に素人の集まりにすぎないので、質疑を交わすこと自体が問題を次第に掘り下げていく形になる場合が多いと思います。
持論を述べるのはむしろたたき台として必要なわけですが、しかし、賛同者を求めるのが目的の人は、その過程を重視せずに、相手を持論に引きずり込むことだけを考えている。
最初から質問が目的じゃな...続きを読む

Q哲学とは何か?

哲学とは何か?この第一歩から考えてみたくなりました。

野矢茂樹氏の「ラジオ深夜便」出演の話はどなたかが紹介していましたが、
私も一度聞いたことがありました。
改めて聞いてみると、嬉しくなるほど分かりやすいと思いました。なんだか
分からない話を随分聞いてきたせいでしょうか?

どんな分野でも、言っていることが明快な人は、その中身をよく理解してい
る人で、逆に言っていることが何だかよくわからない人は、結局分かってい
ないのだという世間一般の定説は正しいものでしょう。

哲学とは何かということについて、野矢氏は、次のように述べています。

ごく簡単に哲学史を述べれば、アリストテレスは哲学を学問として捉えていた。
トマス・アクィナスにとっては、哲学は宗教であった。
デカルトは、哲学は学問の基礎であると考えていた。
現代においては、哲学者の数だけ定義が存在すると言って過言ではない。

私(野矢氏)にとって哲学とは、人間の言葉を使った複雑な思考の中の問題として
1.思考の全体を見通せていない、2.思考を支えている多くの暗黙のものを自覚し
ていない、3.全体の曖昧さ、矛盾を分からないでいる、これらの問題を解決する
ことである、と。

確かに、哲学というものの定義は、様々であることは実感していました。だから、
「さあ統一しましょう」といったところで、そううまくはゆかない。せめて、各々
の定義を理解し合えたら、もう少し意義のある対話ができるかも知れません。

さて、あなたの「哲学の定義」はというと、どういうことになりますでしょうか?

哲学とは何か?この第一歩から考えてみたくなりました。

野矢茂樹氏の「ラジオ深夜便」出演の話はどなたかが紹介していましたが、
私も一度聞いたことがありました。
改めて聞いてみると、嬉しくなるほど分かりやすいと思いました。なんだか
分からない話を随分聞いてきたせいでしょうか?

どんな分野でも、言っていることが明快な人は、その中身をよく理解してい
る人で、逆に言っていることが何だかよくわからない人は、結局分かってい
ないのだという世間一般の定説は正しいものでしょう。

哲学...続きを読む

Aベストアンサー

キリスト教が発達してからの西洋哲学は、キリスト教を隠れ蓑にしていた人間のインモラルな部分に、風を通して、本来の人間性を取り戻そう、という、初々しいものではなかったですか。

ルネサンス美術と同じで、西洋の精神世界の理想である、ギリシアの昔のように、キリスト教を離れて、自由に思考をしたかった。もう一度、自分の頭で考えてみたかった。

ギリシアで発達した哲学は、言葉遊びのきらいもありますが、(多分に、貴族の暇つぶしだったでしょう)、発想は、もっと自由で、はつらつとしたものでした。人間の尊厳の確認であったかのような印象があります。

その旗頭であるソクラテスが牢獄に繋がれ、毒をあおって死ななければならなかったため、何か、陰惨な印象を持っていましたが、何年か前、彼の牢獄であったと伝えられている岩屋を訪れる機会があり、その場所が、アクロポリスを見渡せる、風光明媚な場所であったため、何だか、足元のはしごを外された気分、というか、牢獄でさえ、知的でした。

おっしゃる通り、哲学は、対話によって、曖昧なものや無意識に受け入れていた事柄を、明確にしてゆく役割を担っているのだと思います。中世以降のヨーロッパでは、キリスト教が邪魔になりましたが、現代の日本では、いかがでしょうか。

キリスト教が発達してからの西洋哲学は、キリスト教を隠れ蓑にしていた人間のインモラルな部分に、風を通して、本来の人間性を取り戻そう、という、初々しいものではなかったですか。

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Aベストアンサー

>ケ・セラ・セラと言っていてよい確率は ふつうの人間のけんかだとか社
会的対立の場合に 50%を超えるのですか? それとも もっと少ない
のですか?
あるいは ケースバイケースの多様性があり過ぎますか?

質問の意味が、もう一つしっくりと判らないんだけど、ケ・セラ・セラ(What will be, will be、なるようになる)から来る、私の反応を書いておきます。

我々が複雑な構造と言うときにその言葉で表されているものに、その出現の根拠が全く違った2種類のものがある。その一つは、精密で巨大な振り子時計や昔のゼンマイ仕掛けの腕時計(ルビーの石が入っていて、何ルビーの腕時計なんて言ってたあの懐かしい腕時計)の内部や、からくり人形の内部のような複雑な機械の構造。もう一つは、生物の体の内部の複雑な構造だ。

この二つの間の決定的な違いは、時計など前者の構造の出現には、まずそれが何故作られたかの目的が前もって与えられており、さらにその目的を追考するために、その機械の外部にある者が目的や設計図に沿って作り出された複雑な構造であるのに対して、後者には、そんな目的もそれを作る外部の者も、そして前もって与えられたシナリオもなく、外界のと成り行きに任せて、擦った揉んだしながら、すなわちケ・セラ・セラってな具合に自発的に発生した複雑な構造だ。この成り行き任せで自発的に創出された複雑な構造のことを物理学では「散逸構造」って呼んでいる。

前者と後者の際立った違いは、前者は外部からのいろいろな障害や状況の変化に大変脆いのに対して、後者はそれらに対して頑強な抵抗力があることだ。何故なら、後者は外部との予期せぬ(従って確率的に起こる制御不可能な)いろいろな状況との相互作用で、成り行きに任せながらケ・セラ・セラてな具合に収まるところに収まるようにして、自発的に出来上がってくる。ケ・セラ・セラとその状態に留まっているのが(少なくとも局所的に)一番安定していることが理由で出来上がってきた構造だから、その状態を外部の者が無理やりズラしてしまっても、再びその安定状態に自発的に戻ってしまう。すなわち、自己修復の機構を持っているんだ。さらに、元々その構造が何のためにそこにあったのかなんてな目的が始めから無いんで、なんとなくそんな目的でも有ったつもりでいたのに、状況が変わって、その目的がなんだかわからなくなってしまっても意に介せずに存在し続けられる。ところが、前者には自己修復の機構もなく、また状況が変わって目的がなくなったら存在している意味すらなくなってしまうから、外部からのいろいろな障害や状況の変化に対して大変脆いんだ。

んで、さらに制御不可能な環境から、どのような仕掛けでそんな複雑で無目的な構造が自発的に創出できるのか、その条件は何かってな問題が当然浮かび上がってくる。それには3つあって、1)開放系であること、2)非線形効果が無視できなくなってしまうぐらい熱平衡状態から十分離れている「非平衡状態」にいること、3)一旦偶然に出来上がった構造を破壊するように制御不可能な形で外部から飛び込んできた要素をいつまでも覚えているんじゃなくて、その要素を「散逸」させて忘れさせてしあう仕掛けがあること、この3つだ。

あたしゃ、この文脈で「非平衡」って言葉使っているんで、ブラブラさんのこの言葉の用法とは違っているいみたいだね。

この3つの条件の中で数学的に一番面白いのは2)の非線形性だ。でも、物理的にもっと面白いのは3)だ。情報の散逸が起こるということは時間の向きの対称性が破れているってことだ。さらにその現象を数学的な方程式で書く場合、決定論的な微分方程式ではなくて、確率変数の従う非決定論的確率論的微分方程式になってしまう。だから、この宇宙って決定論的にできているのか、それとも非決定論的にできているのかという、物理学の最も基本的な問題に絡むからだ。

要するにケ・セラ・セラってえのは、神様がいるのかいないのかってな問題に絡み出す。だから、ケ・セラ・セラで出来てくる複雑な構造という最も本質的な部分を強調して「散逸構造」って名付けられたんだ。ここでの会話の成り行きだったら、「ケ・セラ・セラ構造」って呼んでも良いね。

今回は、ブラブラさんが、あたしの得意なケ・セラ・セラってな言葉を的を射て使ってたんで、今回はあんたを揶揄うのをやめて、あたしからぬ真面目な反応をしたんだ。いつもと違って、気持ち悪かっただろう。

>ケ・セラ・セラと言っていてよい確率は ふつうの人間のけんかだとか社
会的対立の場合に 50%を超えるのですか? それとも もっと少ない
のですか?
あるいは ケースバイケースの多様性があり過ぎますか?

質問の意味が、もう一つしっくりと判らないんだけど、ケ・セラ・セラ(What will be, will be、なるようになる)から来る、私の反応を書いておきます。

我々が複雑な構造と言うときにその言葉で表されているものに、その出現の根拠が全く違った2種類のものがある。その一つは、精密で巨大な振り...続きを読む

Q公理って何?

再び初歩的質問です。

「公理」を辞典で調べますと、

・数学で、論証がなくても自明の真理として承認され、他の命題の前提となる根本命題。

・論理学で、演繹的理論の出発点として、証明なしに採用される命題。

・現代においては、自明な命題ではなく、理論の前提となる仮定。

等の記述があります。

1.学問がないので、いまいちピンとこないのですが、具体的にはどのようなものがあるの
でしょうか?そして、どう理解したらいいのでしょうか?

2.「理論の前提となる仮定」から組み立てられた理論というものが、自然科学においても
検証されるとはいえ、何故、事実・真実と言えるのでしょうか?

Aベストアンサー

公理で一番有名なのは、平行線公理(平行線公準とも呼ばれる)でしょう。

「一つの直線上にない一点を通ってその直線は一つしかない」

この命題を証明することはできません。以前はこれを証明しようと多くの数学の天才たちが試みました。しかし誰にも証明できなかった。ロバチェフスキーが1829年に『幾何学の新原理並びに平行線の完全な理論』を発表して、彼が1826年に発見した新しい幾何学を提示して、上記の命題が証明不可能な公理であることが明らかになったのです。

ロバチェフスキーは、上記の命題の代わりに

(1)「一つの直線上にない一点を通ってその直線は何本でも引ける」

としても、数学的に無矛盾で閉じた論理体系を構築できることを明らかにしました。それがいわゆる非ユークリッド幾何学の始まりでした。この幾何学で表現されている空間は曲がった空間なのです。

その後に、リーマンが

(2)「一つの直線上にない一点を通ってその直線は一本も引けない」

としても、数学的に無矛盾で閉じた論理体系を構築できることを明らかにしました。この公理(2)が成り立つものとして構築された幾何学をリーマン幾何学と呼びます。一方、上記の公理(1)が成り立つものとして構築された幾何学をロバチェフスキー幾何学と呼びます。

さらに、リーマン幾何学の一つの具体的な例が球面状の幾何学であることもわかるようになりました。その場合この非ユークリッド幾何学を球面幾何学と呼ぶこともあります。

上記の事実の発見は、人類に多大な知的進展をもたらしました。なぜなら、自分の主張の論理的矛盾性をいかに証明しても、それでこの世界が解ったわけではないことが明らかになったからです。例えば、我々が埋め込まれている宇宙が上記のどの幾何学によって記述されている世界なのかは、論述の無矛盾性や整合性をいくら明らかにしても、判定できないことが明らかになったからです。

その判定には必ず実験や観測が必要である。すなわち論理的な理念の整合性に加え、事実はどうなのかを実験や観測で判定しなくてはならない。その判定をするのが自然科学なのです。そして数学は、命題の間の無矛盾性を論じる言語学であり、すなわち人文科学の一つであり、事実を論じる自然科学ではないことが明らかになったのです。

公理で一番有名なのは、平行線公理(平行線公準とも呼ばれる)でしょう。

「一つの直線上にない一点を通ってその直線は一つしかない」

この命題を証明することはできません。以前はこれを証明しようと多くの数学の天才たちが試みました。しかし誰にも証明できなかった。ロバチェフスキーが1829年に『幾何学の新原理並びに平行線の完全な理論』を発表して、彼が1826年に発見した新しい幾何学を提示して、上記の命題が証明不可能な公理であることが明らかになったのです。

ロバチェフスキーは、上記の命題の代わ...続きを読む

Q日本のムラ(市町村)をまるごと輸出すればよい。住みよくなる。

▲ 日本に来て人格を変える中国人が急増中 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190319-00055791-jbpressz-cn&p=1

■ 3. 日本に行くと人格が変わる中国人

・・・
 多くの中国人が幼い頃から日本のアニメを夢中になって見ているうちに、その日本
の伝統精神文化が無意識のうちに心の中で共有され、深く浸透していく。

 一つひとつ心を込めた丁寧なおもてなし、相手の心情を察した細やかな思いやり、
不都合な結果に関して他者を責めず自らの努力不足を問う自責の念、外面的な一律の
基準で定められたルールに反すること以上に自分の内面の良心に反することを恥じる
恥の文化・・・。

 もちろん日本人でもこれらの精神文化を徹底して生きている人間はほとんどいない。

 ただ、そういう姿を見れば素晴らしいと思うし、完璧ではないが、自らもある程度
は実践している人が多い。

 一方、現在の中国における日常生活では、それらを中国人が実践する機会は少ない。

 そんな日本の伝統精神文化への共感を心の中に抱く中国人が、10代、20代で旅行や
出張で1~2週間日本へ行くと、その精神文化の中で生きている日本人の世界に初めて
出会う。・・・
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

☆ なら 日本のムラ(市町村)を一つひとつまるごと 輸出すればいい。特に中国
と韓国には 必要ではないか? どうでしょう。

▲ 日本に来て人格を変える中国人が急増中 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190319-00055791-jbpressz-cn&p=1

■ 3. 日本に行くと人格が変わる中国人

・・・
 多くの中国人が幼い頃から日本のアニメを夢中になって見ているうちに、その日本
の伝統精神文化が無意識のうちに心の中で共有され、深く浸透していく。

 一つひとつ心を込めた丁寧なおもてなし、相手の心情を察した細やかな思いやり、
不都合な結果に関して他者を責めず自らの努力不足を...続きを読む

Aベストアンサー

日本のムラ(市町村)を一つひとつまるごと 輸出すればいい。特に中国
と韓国には 必要ではないか? どうでしょう。
 ↑
1,多勢に無勢で、日本のムラが中韓化すると
 思います。

2,中韓が全員しかも同時に変わらないと悲惨な
 結果になるでしょう。

 中韓がああなったのは、そうでないと生き残れなかった
 からです。

 一部が日本化したら、日本化した人間が食い物に
 されるだけです。


 中国のTVですが、識者3人が議論する、という
 番組があります。
「日本人は誠実だな」
「そうだな」
「君たち、そんなに日本人を褒めるなら、君たちも 
 日本人のように誠実になったらどうだ」
「バカいうな。中国で誠実になったら身ぐるみ剥がされて
 しまうわ」
「それもそうだな」

Qあなたにとって正義とは何ですか?

あなたにとって正義とは何ですか?

Aベストアンサー

胡散臭いもの。

典型が戦争です。

勝った方が正義になります。
強いモノが正義です。

ワシントンは米国では正義の人ですが、
英国では反逆者で悪い人です。

現代の価値観で評価すれば、歴史の
英雄のほとんどは侵略者、独裁者、殺人鬼です。

かようにして、正義は胡散臭いものなのです。

Q真理を知ってる人は居ますか。居るとすれば誰でしょうか?

あなたは真理を知ってる人を見たり聞いたりしたことがありますか?

お釈迦様でしょうか? イエス様でしょうか? 神様でしょうか?文豪でしょうか?

詩人でしょうか?

それともあなたの知ってる人に真理を幾らかでも知ってる人が居ましたか?

Aベストアンサー

器の小さい人、足元しか見えない人、先入観を抱いている人、
色眼鏡を掛けている人、自分を知らない人に真理は分かりません、
無智無学無能偏見な人は、邪説を心理と勘違いします

暗い洞窟で、生まれてから今日まで過ごしてきた人に
青い空と緑の大地の話をする人を迫害します
(プラトンの喩えから)

ガンジーは
「無関心 嘲笑 非難 抑圧 を突き抜けて 尊敬の段階に入る」
と言いました

その人は、最も、無関心 嘲笑 非難 抑圧された人かもしれません
高い山ほど、風当たりが強いからです

Q私は悟りました 随分前に悟りました つもりです。分かる事があれば答えます。

何か分からない事があったら素朴な疑問でもお聞かせ下さい

専門的な問題は知らない事が多いので知らない言葉は分かりませんが

何か分からない事はありませんか?

Aベストアンサー

1,悟りとは何ですか。

2,ハルさんが悟ったことが、悟りと言える
 客観的な根拠は何でしょう。
 自分でそう信じるだけなら、宗教と同じです。
 客観的な根拠が必要だと思います。

3,悟ることにより、何がどう変わりますか。

Q新知見や新理論が提出されたなら 問い求める自由な人間は 寄ってたかって批判するものである。

学問というのは 誰でもよい ひとりがみづからの研究の成果を得たなら 
ただちにその新知見を発表するものです。

そして 寄ってたかってその新理論を批判する。これが ふつうのナラハ
シです。


自然科学ではおこなわれているはずです。おそらく研究の途中の過程です
でに意見交換がなされていましょう。

ところが 人文・社会科学の方面では――日本人だけの陋習かも知れない
のですが―― なあなあで進めて シャンシャンで済ませる。学者らのヒ
エラルキアをまもることが第一だというナラハシのもとに 一日一日が過
ぎて行きます。



人間の自由と学問の精神は どこに行ったのか?

日本人の《奥ゆかしさ》は 杭の出ることを好まず望まないというのか?



その代わり 学問のエピゴーネンらのあいだでは――親分一統の中でをむ
ろん別として―― 足の引っ張り合いだらけである。それ以外にやること
はないのか? と言いたくなるのが この哲学カテである。きみよ どう
なのか? どうなんだ?

Aベストアンサー

>新知見や新理論が提出されたなら 問い求める自由な人間は 寄ってたかって批判するものである。
それに類することを、
・科学と非科学の違い
のようなこととを科学技術カテで回答したことがあり、確かに、
・新理論に対し寄ってたかって批判する。
と書きました。

でも、
・新知見に対し、とは書いていない。(新理論に対して、であるため。知見の実験条件に対する批判はアリとする。)
・問い求める自由な人間は批判 とは書いていない。(新知見や新理論の意味を解っているヒト限定であるため。)

以下なら解るけど。
・新知見に対し、論文通りに誰かが再試験して、論文と違った結果が出たから再試験に関わった者が、反論記事書いた
・論文の計算式(あるいは前提条件)に間違いがある、という指摘。問い求める自由な人間ではなくて、それなりの素養があるヒトが反論する。

よって、「問い求める自由な人間の批判」なぞ、あっても無くても学術的な意味は無いのだけどね。

>人文・社会科学の方面では――なあなあで進めて シャンシャンで済ませる。
とうの昔に、中核部分に爆撃を受けていて、今さら爆撃する意味がない、それだけ。
爆撃内容だけど、ポパーの「反証可能性」。いわゆる、(自然)科学と似非科学の判別ルールとして有名。
なので、人文・社会科学の新理論とは、「反証可能性が無い新理論」なので、(自然)科学のかたは静観。
人文・社会科学のかたは、自分の理論が、「反証可能性」のブーメラン受けたくないので、やっぱり静観。
このあたりは、(自然)科学系に人間にとっては明らかもいいところ。今更、「反証可能性」も何も無いので、
いちいち、2番煎じの反論をしない、というだけ。


>日本人だけの陋習かも知れない
そういう思想誘導(質問に形を変えた誘導)はやめてください。世界共通に決まってるじゃん。
せめて、日本特有の思考形態という、統計か文献を明示してください。

>新知見や新理論が提出されたなら 問い求める自由な人間は 寄ってたかって批判するものである。
それに類することを、
・科学と非科学の違い
のようなこととを科学技術カテで回答したことがあり、確かに、
・新理論に対し寄ってたかって批判する。
と書きました。

でも、
・新知見に対し、とは書いていない。(新理論に対して、であるため。知見の実験条件に対する批判はアリとする。)
・問い求める自由な人間は批判 とは書いていない。(新知見や新理論の意味を解っているヒト限定であるため。)

以下なら解...続きを読む

Q絶対善はあるのです。

私は絶対善はあると主張していますが、皆さんはそんなものなどないと否定されます。でも私が言いたい事は常識的なことなのです。

この群れ社会において最も大切なものは何か?それは群れ社会の安寧秩序です。これは社会が平穏でルールが守られ安心して暮らせることです。これを守る事が最も正しい事なのです。この群れ社会においてこれ以上大切なことはないのです。これに異論がありますか?

そしてその群れ社会の安寧秩序を守る為に最も優れた方法が「私より公を優先すること」なのです。でも「私より公を優先すること」と言われても何か分からないでしょう。ですから分かり易く言えば愛や思いやりや慈悲心などですと説明しています。これはキリストが説いた愛です、孔子が説いた仁、つまり思いやりです、そして釈迦が説いた慈悲の心です。そしてこれらに内包、共通しているのが「私より公を優先する心、行為」です。

「私より公を優先する」とは分かり易く言えば「私欲という自分の思いを少し抑えて公の為とみんなで考え行うこと」です。自分の私欲の心を少し抑えて、一人一人がみんなの為と考えることです。これは民主主義を示しています。そして「みんなの為」と考えるということは皆さん一人一人がリーダー、その群れのトップの立場に立って考えると言うことです。それは強い責任感をもって考えると言うことです。そのような心を一人一人みんながもって、みんなで考えれば最も正しい答えに辿り着ける確率が高くなるよ、ということです。これ以上に優れた方法が何かありますか? これが私の言う絶対善なのです。

その群れ社会にとって絶対的に正しいことは社会の安寧秩序であり、そのために最も優れた方法が「私より公を優先する事、つまり愛や思いやりや慈悲心」なのです。もちろんこれは最高の方法を示しているので一般的にはなかなかできないことです。しかしそれを目指す事こそが最もより良い社会が創れるのだ、と言う事なのです。

私は絶対善はあると主張していますが、皆さんはそんなものなどないと否定されます。でも私が言いたい事は常識的なことなのです。

この群れ社会において最も大切なものは何か?それは群れ社会の安寧秩序です。これは社会が平穏でルールが守られ安心して暮らせることです。これを守る事が最も正しい事なのです。この群れ社会においてこれ以上大切なことはないのです。これに異論がありますか?

そしてその群れ社会の安寧秩序を守る為に最も優れた方法が「私より公を優先すること」なのです。でも「私より公を...続きを読む

Aベストアンサー

いろいろな人がいっぱい書き込んでくれて、芯木(shinwood)さんは今回いろいろ学んだんじゃないでしょうか。芯木さんの今回の作戦の誤りは、世の中には、形式を重要視する人と実態を重要視する人の両方がいることを無視して、実態を重視する芯木さんの一方的な表現を使ってその主張がなされていることです。

「手術は成功した。しかし、患者は死んだ」

要するに、患者の生死の実態よりも、手術の手順と形式の正確さの方に興味を持つ方がこの世の中にはいくらでも居られるのです。そして、哲学好きな人にこの形式組の人がいっぱいいます。そうした方々は、言葉の使用法の形式の方に興味が優先してしまい、たとへそこで使われている言葉が不完全でもそこで言っていることの内容や実態をなんとか理解しようという方向に興味を向けない傾向にあります。

「あんたの言いたことはなんとなく判るんだが、そのような言葉の用法はその内容と矛盾しており、間違っている」

などと言って、言葉の使い方が間違っているから、あなたの言う内容も間違いだ、などと考えてしまう人もいくらでもいます。だから、芯木さんが言いたいことの本質を論じようとするのではなくて、絶対の意味などの言葉の使い方がこだわった回答が多くなっているのです。

そのような人たちは、左を指差しながら、「右、右」と言っている人の心を察することができず、その間違いを言いつのる傾向があります。この場合、常識的に見て、指を差している方向をその発信者が言いたいのは明らかですのに。

物事を論じるためには、その内容も、その言葉の使い方も、両方とも重要です。しかし、その両方を同時に論じることにどれだけの生産性があるか、自明ではありません。大論文でもない限り、それを意識せずに両方とも同時に論じてしまうと誤解を招き、混乱さえ起こしかねません。ですから、何かを論じる場合には、内容か、形式か、そのどちらにより重点を置いているのか、文面から明確にわかるように書いておく方が、生産的な議論のやり取りができます。

ここでの主題は「公に対する奉仕」なのだと思いますが、例えば、「公」という言葉一つとっても、人によってその意味がだいぶ違い、芯木さんが言いたい意味では受け取ってくれない場合が散見されます。いわんや、「絶対」などという、一神教の影響を受けた西洋文化大好連中が好んで使う言葉は、哲学好みの人たちには刺激的すぎて芯木さんの言いたい内容よりも、その刺激的な言葉に拘ってしまう人がいくらでもいます。

出来るだけ刺激的な言葉を避けてご自分で言いたいことを表現することを工夫すると、芯木さんのご主張に賛同する方も増えるのではないでしょうか。また、どうしても「絶対」と言う言葉を使いたいならば、論述を始める前に、ここでのこの言葉は、、、、を意味するものとして特殊な使い方をしている、などと一言を入れておくと、読者もそのつもりで読んでくださると思います。

いろいろな人がいっぱい書き込んでくれて、芯木(shinwood)さんは今回いろいろ学んだんじゃないでしょうか。芯木さんの今回の作戦の誤りは、世の中には、形式を重要視する人と実態を重要視する人の両方がいることを無視して、実態を重視する芯木さんの一方的な表現を使ってその主張がなされていることです。

「手術は成功した。しかし、患者は死んだ」

要するに、患者の生死の実態よりも、手術の手順と形式の正確さの方に興味を持つ方がこの世の中にはいくらでも居られるのです。そして、哲学好きな人にこの形式...続きを読む


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