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哲学とは何か?この第一歩から考えてみたくなりました。

野矢茂樹氏の「ラジオ深夜便」出演の話はどなたかが紹介していましたが、
私も一度聞いたことがありました。
改めて聞いてみると、嬉しくなるほど分かりやすいと思いました。なんだか
分からない話を随分聞いてきたせいでしょうか?

どんな分野でも、言っていることが明快な人は、その中身をよく理解してい
る人で、逆に言っていることが何だかよくわからない人は、結局分かってい
ないのだという世間一般の定説は正しいものでしょう。

哲学とは何かということについて、野矢氏は、次のように述べています。

ごく簡単に哲学史を述べれば、アリストテレスは哲学を学問として捉えていた。
トマス・アクィナスにとっては、哲学は宗教であった。
デカルトは、哲学は学問の基礎であると考えていた。
現代においては、哲学者の数だけ定義が存在すると言って過言ではない。

私(野矢氏)にとって哲学とは、人間の言葉を使った複雑な思考の中の問題として
1.思考の全体を見通せていない、2.思考を支えている多くの暗黙のものを自覚し
ていない、3.全体の曖昧さ、矛盾を分からないでいる、これらの問題を解決する
ことである、と。

確かに、哲学というものの定義は、様々であることは実感していました。だから、
「さあ統一しましょう」といったところで、そううまくはゆかない。せめて、各々
の定義を理解し合えたら、もう少し意義のある対話ができるかも知れません。

さて、あなたの「哲学の定義」はというと、どういうことになりますでしょうか?

A 回答 (16件中1~10件)

キリスト教が発達してからの西洋哲学は、キリスト教を隠れ蓑にしていた人間のインモラルな部分に、風を通して、本来の人間性を取り戻そう、という、初々しいものではなかったですか。



ルネサンス美術と同じで、西洋の精神世界の理想である、ギリシアの昔のように、キリスト教を離れて、自由に思考をしたかった。もう一度、自分の頭で考えてみたかった。

ギリシアで発達した哲学は、言葉遊びのきらいもありますが、(多分に、貴族の暇つぶしだったでしょう)、発想は、もっと自由で、はつらつとしたものでした。人間の尊厳の確認であったかのような印象があります。

その旗頭であるソクラテスが牢獄に繋がれ、毒をあおって死ななければならなかったため、何か、陰惨な印象を持っていましたが、何年か前、彼の牢獄であったと伝えられている岩屋を訪れる機会があり、その場所が、アクロポリスを見渡せる、風光明媚な場所であったため、何だか、足元のはしごを外された気分、というか、牢獄でさえ、知的でした。

おっしゃる通り、哲学は、対話によって、曖昧なものや無意識に受け入れていた事柄を、明確にしてゆく役割を担っているのだと思います。中世以降のヨーロッパでは、キリスト教が邪魔になりましたが、現代の日本では、いかがでしょうか。
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この回答へのお礼

西洋哲学は、中世の一部の時期を除いて、ヒューマニズムの精神に貫かれていた、
ということでしょうか?

そうですね、そもそもはそういう精神で始まったのが哲学であったと思えてきまし
た。

現代の日本では、ヒューマニズムの皮をかぶっているけれども、実に非人間的な哲
学が支配的になっていると思います。

コンピュータ信仰です。「才能」というものを肥大化させて、信仰していると思い
ます。さらに言えば、貴族的です。
つまり、西洋の哲人達の精神とは、真逆であると憂いています。

しかしです、私たちがここであれこれ言っているからではないでしょうが(笑)、中
高年を中心としたヒューマニズムの流れの勢いが少し出てきた気がしています。

お礼日時:2019/03/27 03:24

価値というものも研究している学問じゃなく、価値を定めるために行う学問だと思っていました。

狭いとは知らず、本当にそれだけを思っていました。教えて下さりありがとうございます。
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この回答へのお礼

あまり詳しくはありませんが。

お礼日時:2019/04/02 21:54

哲学とは損得勘定の極みです。

よりよく損得勘定を行うための方法。それが哲学。得したい人が得するために哲学する。私はそう思ってます。浅いですか?
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この回答へのお礼

哲学では、価値というものも研究していますが、それは一分野です。

浅いと言うより、狭いと思う。

お礼日時:2019/04/01 22:19

哲学対話は最高に楽しいものの一つだ。

それは欲楽ではなくて、自分の望み、したかったことが叶っているから楽しいのだと思う。
そもそも対話は哲学にとって本当に重要な要素であると思う。音楽におけるセッションみたいなものかもしれない。ソクラテスは対話によって真実知に近づこうとした。それは現代に生きる僕らも同じことだと思う。
哲学は二次的なもの、目的のための手段であるような代替が効くものではなく、それ自体に知の輝きが含有されているゆえに人を喜ばせる。何故対話中にこのような知が生ずるのかはよく分からないが、言葉が人の間に存在するからかもしれない。

ニャンポコさんがラジオに流れる哲学談をうれしくなるほど分かりやすいと思ったのは、ニャンポコさんが難しいことを考えてきたからだと思います。また、仕事の先輩がうやむやなことを言うようになったのは、仕事の力量がその先輩に追い付いていたり、追い越してしまっていたりしたために、ニャンポコさんの質問に対して、先輩が明確な答えを持っていなかったのかもしれないと思いました(事実はどうだったか私には分かりませんが)。

答えにフォーカスが当たりやすい。人は答えを求める。しかしながら実は重要なのは問いの方かもしれない。いや、きっとそうだろう。何故ならば、その人だから持ち得た、真実無二の言葉である故に。哲学的問いとはそのようなものである故に、しばし答えよりもはるかな重要性を持つ。むしろそのような問いを持つこと自体がその人の存在の証であるとさえ言える。
例えば、人間が、何故生きるのかとか、善とは何か、真実とは何か、哀しみとは何か、等々の問いを興すように、哲学的問いは常にその人にユニークなものになる。これらの問いが人間に特有であるように。いや、これらの問いを持つ故に人間であると言われるように。

哲学的問いを失うことはすなわち自分を失う事でもある。哲学的問いを見出せないうちは自分が何者かがやはり分からないだろう。こうなるともう哲学と言う領域を超えた話をしているのかもしれないが、僕は哲学をその様な位置づけに考えている。

そして、その哲学的問いを明文化できるか、出来ないかは副次的な話であると思う。それはそれに名前を付けられるかどうかか否かであり、たとえば見たこともないような輝きを秘めた原石について、いかな名前を付けるのが妥当かなかなか答えは見つからない。でも、そこにある原石は実なるものであり、虚ではない。むしろ、名前を付けてしまう事によってかえって、その表記に囚われてしまう場合もあるだろう。明文化しない事、それは曖昧ではなく、むしろ真実を顕しているのだとも思う。金剛石を目の前にして、名前からその性質はうかがい知ることができるが、その真実は名前ではなくその実体に宿っている。たとえ哲学的問いを形ある言葉に出来なくても、それを持つ人はユニークな生き方をしているのではないだろうか。金剛石と言う名が無くても、その石が無類の輝きと硬度を実際に持っているように。

哲学とは何か。ここで改めて応えるならば、”そのひとらしさ”ということになるだろうか。
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この回答へのお礼

https://www.youtube.com/watch?v=blp7hPFaIfU

音楽のセッションは、単に技術だけでなく、互いに相手を「敬愛」する気持ちがあるから
素晴らしいのだと思う。
技術とかセンスを比較してどうのではなく、ただ彼(女)を認め、信ずる、ことによって通
じ合うから、新しいものが出てくる、ということになると思う。

それは、言ってみれば、共通の「場」ができるということなのだろうと思う。

哲学的対話(哲学の文字を取ってもいいと思うけど)の楽しさも、これと全く同じだと思いま
す。
信頼感なんていらないって言った人が以前いたけれど、私にはそうは思えないです。

自分がやるべきことが目の前にあって、そのものの本質をどこまで見ることができるかが、
才能でありセンスであると思います。このことをあまり考えないとか、考えることを後回し
にする人は、成長が遅く、気が付いた疑問を早く解決しようとする人は成長が早いと思いま
す。
また、ある程度成長しても、パタッと止まってしまう人がいると思っていて、そういう人は
セッション、つまり人間関係に対するセンスがないのだと思います。

>哲学的問いを失うことはすなわち自分を失う事でもある

そうですね、人間生きようとすれば必ず疑問が出てくるはずだと思いますね。何故なら、物
事の根源が分からないからであり、それを求めている状態が、活き活きと生きている状態と言
えると思います。
「人生なんてこんなもんだよ」と考えることをやめてしまえば、活きの悪い半分死んだような
金魚みたいになってしまうのではないでしょうか?

とすると「悟り」というものはどういう状態のことなのか?これを理解するにはまだまだいく
つもの段階を経なければならないのでしょう。

お礼日時:2019/03/31 04:06

人間は等しく平等 下書き 2019-03-29



娘が通う学区で児童殺傷事件が起きた。
仕事中にニュース速報でそれを知り居ても立ってもいられなくなった。
・・・
娘の無事を確認できた時、心の底からほっとした。
人間は平等に尊い「世界に一つだけの花」。
・・・
よかったε-(´∀`*)ホッ
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この回答へのお礼

子供が犠牲になる事件が目立ちますね。

根源からの思索と対策が望まれます。

お礼日時:2019/03/31 03:03

付け足し回答はしてもいいですか?



自分に疑問を持つことも「それ」だと思います。

文章が短いのは回答として不適切ですか?
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この回答へのお礼

>自分に疑問を持つことも「それ」だと思います

なるほど。

>文章が短いのは回答として不適切ですか?

そんなことはないですね。

お礼日時:2019/03/29 03:45

「哲学とは何か」



様々な意見がありますが、
「考えること」
「何かを探求すること」
「誰しもが持っているもの」

である事は確かだと思っています。

自称「哲学を知らない、興味が無い」人でも、それを哲学だと認識していないだけで、自分だけの哲学を持っているのだと思います。

それは幼稚園児でも、中学生でも、犯罪者でも、政治家でも、裁判官でも、トイレの清掃員でも、スポーツ選手でも…です。
そして、誰の哲学にも優劣など有りません。

自分が初めて哲学に興味を持ったとき、真っ先に「哲学とは」で検索しましました。
しかし、小難しいことばかり書いてあって、結局理解できずにイライラしていました。

しかし今では、

「うまく説明できないもの」

これだけで、哲学の説明には十分だと思うようになりました。
この言葉だけで、勘のいい人は「ああ、アレのことか」と気づくかもしれません。
誰だって、自分だけの哲学を持っているのですから。


というのが現在17歳の僕の回答です。
自分でも、自分がどれほど哲学を理解しているのか見当が付きません。
もしかしたら、全く理解していないのかもしれません。

年をとれば、この質問に対する答えは変わるのかもしれません。
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この回答へのお礼

私も、哲学の重要性など全く感じないで生きてきました。しかし、30代の
後半くらいから物事をより深く考えるようになってゆきました。
それは何故かと言えば、世間で一般的になっている考え方は、物事を正確に
表現できていないし、重要な問題を何も解決できないじゃないか、と思った
ことが大きかったですね。

まだ17歳であれば、どんどん変わってゆきますよ。

>「ああ、アレのことか」

って、何のこと?

それから、これだけは言っておきたいのですけど、

>誰の哲学にも優劣など有りません

これは、絶対に違うと思う。人間は平等に尊い「世界に一つだけの花」だけ
れど、その人が所持する哲学には高低浅深があります。
低い浅い哲学を、高く深いものだと思ってしまったら、まずいと思いますよ。

お礼日時:2019/03/29 03:43

「哲学とは何か?」というのは哲学の本質は何かということだろう?その本質を言葉で表したのが定義だよ。

これは哲学のイデアは何かってことだ。
この人が言っているのは「何が哲学か?」という事じゃないの。皆さんが言うこれが哲学だろうと言うもの、たくさんあるよね。それは哲学の要素だね。
その哲学の要素すべてに内包しているものが哲学の本質じゃないの? だから絶対的なものだよ。絶対的な哲学の定義とは何か?

哲学とは何か?それは正しいってことだ、正しいってなんだ、公の為になることだ、公の為ってなんだ、まあ、一番みんなの為になるのはみんなが安心して暮らせるってことじゃないの、つまり社会の安寧秩序が守られているってことだ。
すべては公の為にあるならば、哲学も公の為でなければならない。世界が本当に平和になれる思想が哲学で分かれば何千兆円の価値があるよ。哲学って本当は大切なものなのだよw
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この回答へのお礼

野矢氏は、「人間の言葉を使った複雑な思考の中の問題として1.思考の全体
を見通せていない、2.思考を支えている多くの暗黙のものを自覚していない、
3.全体の曖昧さ、矛盾を分からないでいる、ここに哲学の問題が発生し、そ
れらを解決してゆくものが哲学である」と言っているわけで、少し言葉を端
折りましたが、そういうわけですので、特に問題はないと思います。

>「哲学とは何か?」というのは哲学の本質は何かということだろう?

それだけじゃないでしょう?もう少し広義に構えないと逆に分かりにくくなる
のではないかと思いますよ、一般的には。

お礼日時:2019/03/29 03:25

ここまで皆さんの回答を読んで。


つまり、
ひとりひとり答えが違うもの。
それが哲学。
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この回答へのお礼

さよか。

お礼日時:2019/03/27 04:06

僕は音痴だったんだけど、好きで音楽やってたら、そのうち音痴も無くなった。


難しいことをはじめにやると、あとで簡単な事に出会った時に、めちゃ分かる様になってるって事があった。たとえばギターを覚えて間もなくに、見たことも聞いたこともない様な美しいコードの連なる曲をやっとこさ書いた後、カノン進行の曲なんかを見聞きすると、簡単に弾けるし歌えるようになってる。
哲学もおんなじで、難しいことを考えた後だと、簡単な事、平凡な事がとてもわかりやすく感じることがある。簡単が簡単になる。初心者じゃなくなるってことなのかな。上手く理解の手順を示すことと、難しいものを簡略化することとは違う。難しいものは難しいのだから。

あと、喩えば空手家に空手の定義を問えば、その習熟度によって答えも変わるだろう。
哲学も、その深浅によって定義は変わる。
ただ、空手をやった事がない人に空手の定義を聞いても中身のないものになるし、空手をやった事がない人が定義を聞いても真意は分からない。

言葉には真意というものがあって、それを察するのもまた習熟度とか深浅による。

だから、僕風に言えば哲学とは、朝のはじめになったら差し込んでくる光みたいなもんで、目覚めを促すもの、予見するものってことで、そんな難しいものじゃない。

僕にとっての初めての哲学は、もう思い出すこともできないけれど、10代の頃聞いた""善く生きろ"という言葉には激しく同意したし、そこに光を見たのは記憶してる。もしかしたら、小学生の時、椅子取りゲームで、敢えて椅子を譲ることで降りた友達を見た時に、何か重大な意味を察していたのかも知れない。

そんな一筋の光を見た時に、世の大半を覆う闇に目も向いた。なぜ暗いのか、暗闇の中はどうなっているのか、などと考えて哲学が生まれたが、もう答えは持っていて、自分が闇に呑まれているわけではない。ただ闇を理解するために、そこに光の無い理由を知るために、哲学をしたのかも知れない。闇に紛れて、同化し、光を敢えて忘れ、闇の気持ちを知ろうとしたのかも知れない。そうしてると稀に、またわずかの光に出くわす事がある。次第に、世には幾らか善人がいる事も分かってくる。
それで真っ当な道を志向するようになる。←イマココ

僕も難しいことを言ったりするけれど、それは暗闇でものを触って、これはなんだろう?当てをしているようなものかも。
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この回答へのお礼

仰っていることは、これは一つの才能だと思います。

何事においても同じだと思うのですが、知識というものには次元というものがあって、
学生のうちは二次元のペラペラなものであっても、経験を積むことによって、三次元の
奥行きのあるものになってゆく。

しかし、タマにいきなり三次元の「形」を理解してしまう人がいる、と思っています。
その先には、いくつかの次元があると思いますが、今は明確に理解しておりません。


私の言う「何だか分からない話」ということについて少し。

大学を出たばかりのサラリーマン時代のことです。私は頭の回転が速いわけでなく、才能
が豊かであるわけでもないと自覚していて、しかし、社会人となって給料をもらうからに
は、一日でも早く仕事を覚えることが義務であり責任であると、真面目に思っていました。

ですから、仕事においては甚だ積極的で、先輩たちをよく見て、質問を繰り返し一生懸命
やっていました。当然、結果は出ました。

すると、先輩達の態度が変わってきました。質問をしても返ってくる言葉が「何だかよく
わからなく」なってきたのです。

つまり、「出る杭」が打たれたということです。たいした杭でもないのにねえ。
まあ、立証はできませんが、このような嫉妬からくる攪乱的言動って世の中多いと思います。
唾棄すべきことだと思います。

また、嫉妬だけでなく、利害によっても、様々な攪乱的言動があるもので、これらによって
も世の中の人々の考え方に曖昧さや矛盾が生じているのではないかと考えています。

従って、一般大衆における哲学的対話は重要であると訴えたいのです。

お礼日時:2019/03/27 04:05

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自分で色々考えてますがたまには
他人の意見聞いてみたくなったので質問しました

私個人の現在の考えでは
「質問という体で問いかけしてるが
実際は(質問者にとって)優秀な弟子、賛同者が
欲しいだけなんとちゃうかな」
って考えが主流となってますね

「話が噛み合わない現象なんて起きてないよ!」
って思う人はこの質問スルーしてください
尚、この質問は哲学的な問答を求めていません
アンケートみたいなものです

Aベストアンサー

>私個人の現在の考えでは
「質問という体で問いかけしてるが
実際は(質問者にとって)優秀な弟子、賛同者が
欲しいだけなんとちゃうかな」
って考えが主流となってますね

顕著ですね。
基本的に素人の集まりにすぎないので、質疑を交わすこと自体が問題を次第に掘り下げていく形になる場合が多いと思います。
持論を述べるのはむしろたたき台として必要なわけですが、しかし、賛同者を求めるのが目的の人は、その過程を重視せずに、相手を持論に引きずり込むことだけを考えている。
最初から質問が目的じゃないので噛み合うはずがない。

そういった輩と、真摯に何かを探求しようとする人との違いは、論理的な根拠を示しつつ持論を展開しているかどうか、という点。
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で、そういう輩に限って、自分の質問に回答がひとつもつかなかったりすると、自分の頭が良すぎて他人には理解できないのだ、などと妄想に浸りつつ、ひとり悦にいったりする。
ダダを捏ねる赤ん坊みたいなもので、誰か面倒を見てくれる人がいると世の中は平和で助かる。
見解の相違だね、とお互いに質疑を保留できる余裕があるうちは、可能性がまだある。

>私個人の現在の考えでは
「質問という体で問いかけしてるが
実際は(質問者にとって)優秀な弟子、賛同者が
欲しいだけなんとちゃうかな」
って考えが主流となってますね

顕著ですね。
基本的に素人の集まりにすぎないので、質疑を交わすこと自体が問題を次第に掘り下げていく形になる場合が多いと思います。
持論を述べるのはむしろたたき台として必要なわけですが、しかし、賛同者を求めるのが目的の人は、その過程を重視せずに、相手を持論に引きずり込むことだけを考えている。
最初から質問が目的じゃな...続きを読む

Q心から信じていれば命さえも懸けられる

私が「本当に心から信じていれば命だって懸けられるだろう」と言えば、皆さん「命を懸けるなど軽々しく言うものではありません、時代錯誤です」などと反論されます。また「あなたはそう言うけれども本当に信じているの? いのちを懸けてもそう言えるの?」と言えば「言論の自由だろう、お前は言論の自由を否定するのか!」と言われます。

しかしですよ、例えばバンジージャンプは命綱が絶対に切れないだろうと心から信じているから、あんな高いところから皆さん命を賭けて飛び降りているのでしょ? 皆さん命綱が切れないと心から信じているから命を懸けているではありませんか。この事実があるのに何故、皆さんこの事実を否定されるのか。事実判断を皆さんの価値判断で否定することなどできませんよ。事実そうなのですから。

「本当に信じていれば、全財産や命さえも懸けられる」というフレーズは色んな難しい社会的問題を解決できる魔法の言葉なのです。
例えば 従軍慰安婦問題も「本当に韓国政府が従軍慰安婦問題(少女二十万人拉致、性奴隷)があったと心から信じているなら、もし間違っていたら竹島を無条件で返してもらうぞ」と言えばそれで片が付くのです。何故なら韓国政府は本当は慰安婦の証言など信じていないのですからです。

このようにこのフレーズで多くの難問は解決できるのです。皆さんも「本当に、心から信じていれば命さえ懸けられるだろう」という言葉に嫌悪感を示さずにどんどん使いましよう。あらゆる難しい問題もすぐに解決できるのですから。

「本当に、心から信じていると言うことは、命さえも懸けられると言うことなのだ」というこの言葉は普通に使っても何らおかしくはないと思いますが皆さんどう思いますか? 私間違っていますか?

私が「本当に心から信じていれば命だって懸けられるだろう」と言えば、皆さん「命を懸けるなど軽々しく言うものではありません、時代錯誤です」などと反論されます。また「あなたはそう言うけれども本当に信じているの? いのちを懸けてもそう言えるの?」と言えば「言論の自由だろう、お前は言論の自由を否定するのか!」と言われます。

しかしですよ、例えばバンジージャンプは命綱が絶対に切れないだろうと心から信じているから、あんな高いところから皆さん命を賭けて飛び降りているのでしょ? 皆さん命...続きを読む

Aベストアンサー

>「本当に、心から信じていると言うことは、命さえも懸けられると言うことなのだ」というこの言葉は普通に使っても何らおかしくはないと思いますが皆さんどう思いますか? 私間違っていますか?

真木さんの今回の論旨の流れにいろいろ突込みどころがあるのですが、外国人を相手にする時には日本人とは違った価値観を彼らが持っていることを理解する必要があると思います。文化が違うのです。文化とは価値観の総称のことです。だから文化が違うとは、価値観が違うということです。

日本は日本海という越すに越されね荒海のおかげで、他の文化とは遮断され、縄文時代から現在に至るまで数千年かけて世界的にも類を見ない特異で独特な文化、すなわち価値観を築き上げてきました。外国で生活してみるとへーって思うことばかり。日本人の考え方ってこの国の人とそんなに違うのかって思い知らされることばかりです。例えば、日本人てこの地球上で性善説を信じている唯一の文化を持った国民なんですよ。そして、話し合えば解ってもらえると信じている人が態勢を占めている。

でも、日本以外の国では陸続きだったために互いに侵略しあい、戦に負ければ男どもは殺され、女どもとその子供は奴隷にされてきた。長い歴史の中でそんなことを繰り返してきた人々に性善説を信じよといっても無理です。

もちろん、日本人の作り上げてきた価値観の中には、外国の一部の世界で作り上げてきた価値観と共通した部分がないわけではなく、その共通項の部分のために、日本人が尊敬されている部分もあります。例えば正直であるとか、約束を守るとか、名誉を重んじ恥づべきことをするなという価値観です。このような価値観は、昔のギリシャや中世の西欧や日本のように、常態が群雄割拠で、いつも小国同士が小競り合いの戦さをしていた歴史を持った国に共通した価値観です。そしてこれは、基本的に武人たちが国を支配してきた世界に生じた価値観です。武人は基本的に理系人間で、技術と合理性を重んじる文化を作り上げてきた。しかしこのような小国による群雄割拠が常態であった地域は世界史的には例外に属しています。

世界史的には、圧倒的に大多数の民族は常態が群雄割拠ではなくて、強大な力を持つ政府による中央集権でした。中央集権国家では、小国同士ような小競り合いもほとんどなく長期にわたって安定して平和が保たれていました。そしてこの安定した中央集権国家の支配者は官僚と呼ばれる文系人間でした。戦さもなく社会が安定しているゆえに官僚が世襲化されるようになる。この世襲化された官僚のことを貴族とも呼んでいました。このような安定した社会の支配層を維持するために必要なのは、技術でも合理性でもなく、前例という伝統を重んじる固定化された価値観です。そのように合理的な根拠もなく支配されている一般民衆の中に、性善説など生じる余地がない。

しかし、安定した社会の内部の発展による富の蓄積や外部の予期せぬ環境の変化によって、この伝統による支配の説得力は徐々に失われて行きます。だから、歴史的に見て腐敗しなかった官僚は存在していません。時代と共に官僚は必ず腐敗します。その腐敗に我慢ができなくなった時に短期間の大混乱が起こって、新たな連中によってまた新しい長期の中央集権の安定期に移行して、そのうちにまた腐敗して短期の混乱が起こって、、、とこれを繰り返してきたのが、上記の古代のギリシャ、西欧、日本という群雄割拠地域を除いた地球上の圧倒的に大多数の民族の歴史です。

上に述べたように、このような文民支配による中央集権制度では、合理性よりも前例に基づいた伝統が重んじられる。もちろん、その伝統は偶然の成り行きで出来てきたために、各民族で全然違っています。そのようなそれぞれ違った根拠で出来上がってきた彼らのそれぞれ違った価値観を、合理的な論拠に基づいて話し合えば解り合えて一つの価値観に統一できるはずがありません。唯一できることは、互いに価値観の違いがあることを認識し、それを認め合って、一方の価値観を相手に押し付けずに、それぞれのやり方に任せることです。

真木さんの言う、死の覚悟を持って、とか、名誉を重んじ恥じた行為をしない、とか、公に尽くす、と言う価値観は古代のギリシャ人や群雄割拠で戦争に明け暮れた西洋人や源平以降戦国時代を経験した日本人には理解できるでしょう。しかし、このような武人支配を長年続けてこず、文系の官僚支配を続けてきたにこの地球上のほとんどの国の人には理解できない価値観だと思います。そのような国とうまくやってゆくためには、日本人独特な価値観を相手に強要するのではなくて、某元防衛省大臣がおっしゃったように「丁寧に無視」しながらお付き合いが最善の方法だと思いあますが、どうでしょうか。

>「本当に、心から信じていると言うことは、命さえも懸けられると言うことなのだ」というこの言葉は普通に使っても何らおかしくはないと思いますが皆さんどう思いますか? 私間違っていますか?

真木さんの今回の論旨の流れにいろいろ突込みどころがあるのですが、外国人を相手にする時には日本人とは違った価値観を彼らが持っていることを理解する必要があると思います。文化が違うのです。文化とは価値観の総称のことです。だから文化が違うとは、価値観が違うということです。

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Q<大衆は 絶対的に愚かか?>などの投稿をされた常連さんは、今後、この愚かな大衆を相手にして投稿をされ

先日、このカテである常連さんが<大衆は 絶対的に愚かか?>などの投稿をされていらしゃいました。そのことについては、私にはわかりません。
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Aベストアンサー

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前の会社の役員から
日常業務以外に禅問答のような仕事をさせられいました。
日常業務が終わってから、禅問答の仕事をするので、
毎日深夜まで会社に残っていました。

ようやく完成した成果物を持っていくとやり直しをさせられ、思慮不足と罵られ、
最後には、過去に遡らなければ出来ない事について、
やり直さなければ絶対に許さない、と命令されたので、
会社を辞めました。

その間、少し心を病みました。

自己都合退職でしたので、
失業手当を早くもらうために
介護の職業訓練を受けました。別に、特別やりたかったことでもないのですが、おかげで、お年寄りなど、弱者に対する配慮ができるようになったと思います。

それから、興味のあった
リラクセーションマッサージの仕事も経験しました。
結局、収入の不安定さから4ヶ月ほどで辞めましたが、
その時に、お客様に接する方法を学び、非常に役に立ちました。

今の会社では、
何でも屋の立場なので、
会社の周年イベント、
各種クレーム対応、
訴訟案件への対応、
など、いわゆる
人がやりたくない仕事をしています。

正直、私もやりたい仕事ではありませんが、
これらの経験も、
将来、きっと役に立つのではないか、と思っています。

今の職場でも、
経営側の考え方が私のそれとは大きく乖離しているので(例えば、人を大事に扱わないなど)、
多くの矛盾を抱えながら仕事をしています。

仮に、また、今の会社を辞める時でも、人間万事塞翁が馬、という故事を心に、これまで培ってきた経験を活かし、前向きに生きていくつもりです。

前の会社の役員から
日常業務以外に禅問答のような仕事をさせられいました。
日常業務が終わってから、禅問答の仕事をするので、
毎日深夜まで会社に残っていました。

ようやく完成した成果物を持っていくとやり直しをさせられ、思慮不足と罵られ、
最後には、過去に遡らなければ出来ない事について、
やり直さなければ絶対に許さない、と命令されたので、
会社を辞めました。

その間、少し心を病みました。

自己都合退職でしたので、
失業手当を早くもらうために
介護の職業訓練を受けました。別に、特別やり...続きを読む

Qあなたは幸せですか?

人間お金を沢山持ってても幸せと思わない人も居ます

宝くじで1等を引いた人の95%の人は不幸になるそうです

人生を幸せと思うかは個人個人それぞれで お金はなくても幸せと思う人も居ます。

ずばり あなたは幸せですか?

Aベストアンサー

お金がないと言っても、「全然ない」「あまりない」「普通にない」
「商売で資金が足りない」…色々あると思いますが、要は「必要」ということ、
を基準に考えています。

消費はキリがない部分がありますし、所有欲も同じでしょう。

プーチン氏は200兆円の資産があるそうです。
ジンギスカンは人類で唯一「京」の単位の資産を持っていたという説があります。

昔の知り合いで「超ドケチ」の金持ちがいましたが、それって貧乏と同じかなと思
いました。

自分のやりたいことに使う金を「必要」と考えます。そのために「稼ぐ」ことは大
いに結構で、しかし、それで終わってしまっては、やはり、貧しいと言えると思い
ます。

mokuzoさんが若い時に頑張って、今お金が使えるというのは、立派なことです。

金を使えるのも、「アクティブ」さの一つで、幸せである状態だと思います。その
点私は、まだまだで、これから今の30倍はできると思う。

Q絶対善はあるのです。

私は絶対善はあると主張していますが、皆さんはそんなものなどないと否定されます。でも私が言いたい事は常識的なことなのです。

この群れ社会において最も大切なものは何か?それは群れ社会の安寧秩序です。これは社会が平穏でルールが守られ安心して暮らせることです。これを守る事が最も正しい事なのです。この群れ社会においてこれ以上大切なことはないのです。これに異論がありますか?

そしてその群れ社会の安寧秩序を守る為に最も優れた方法が「私より公を優先すること」なのです。でも「私より公を優先すること」と言われても何か分からないでしょう。ですから分かり易く言えば愛や思いやりや慈悲心などですと説明しています。これはキリストが説いた愛です、孔子が説いた仁、つまり思いやりです、そして釈迦が説いた慈悲の心です。そしてこれらに内包、共通しているのが「私より公を優先する心、行為」です。

「私より公を優先する」とは分かり易く言えば「私欲という自分の思いを少し抑えて公の為とみんなで考え行うこと」です。自分の私欲の心を少し抑えて、一人一人がみんなの為と考えることです。これは民主主義を示しています。そして「みんなの為」と考えるということは皆さん一人一人がリーダー、その群れのトップの立場に立って考えると言うことです。それは強い責任感をもって考えると言うことです。そのような心を一人一人みんながもって、みんなで考えれば最も正しい答えに辿り着ける確率が高くなるよ、ということです。これ以上に優れた方法が何かありますか? これが私の言う絶対善なのです。

その群れ社会にとって絶対的に正しいことは社会の安寧秩序であり、そのために最も優れた方法が「私より公を優先する事、つまり愛や思いやりや慈悲心」なのです。もちろんこれは最高の方法を示しているので一般的にはなかなかできないことです。しかしそれを目指す事こそが最もより良い社会が創れるのだ、と言う事なのです。

私は絶対善はあると主張していますが、皆さんはそんなものなどないと否定されます。でも私が言いたい事は常識的なことなのです。

この群れ社会において最も大切なものは何か?それは群れ社会の安寧秩序です。これは社会が平穏でルールが守られ安心して暮らせることです。これを守る事が最も正しい事なのです。この群れ社会においてこれ以上大切なことはないのです。これに異論がありますか?

そしてその群れ社会の安寧秩序を守る為に最も優れた方法が「私より公を優先すること」なのです。でも「私より公を...続きを読む

Aベストアンサー

いろいろな人がいっぱい書き込んでくれて、芯木(shinwood)さんは今回いろいろ学んだんじゃないでしょうか。芯木さんの今回の作戦の誤りは、世の中には、形式を重要視する人と実態を重要視する人の両方がいることを無視して、実態を重視する芯木さんの一方的な表現を使ってその主張がなされていることです。

「手術は成功した。しかし、患者は死んだ」

要するに、患者の生死の実態よりも、手術の手順と形式の正確さの方に興味を持つ方がこの世の中にはいくらでも居られるのです。そして、哲学好きな人にこの形式組の人がいっぱいいます。そうした方々は、言葉の使用法の形式の方に興味が優先してしまい、たとへそこで使われている言葉が不完全でもそこで言っていることの内容や実態をなんとか理解しようという方向に興味を向けない傾向にあります。

「あんたの言いたことはなんとなく判るんだが、そのような言葉の用法はその内容と矛盾しており、間違っている」

などと言って、言葉の使い方が間違っているから、あなたの言う内容も間違いだ、などと考えてしまう人もいくらでもいます。だから、芯木さんが言いたいことの本質を論じようとするのではなくて、絶対の意味などの言葉の使い方がこだわった回答が多くなっているのです。

そのような人たちは、左を指差しながら、「右、右」と言っている人の心を察することができず、その間違いを言いつのる傾向があります。この場合、常識的に見て、指を差している方向をその発信者が言いたいのは明らかですのに。

物事を論じるためには、その内容も、その言葉の使い方も、両方とも重要です。しかし、その両方を同時に論じることにどれだけの生産性があるか、自明ではありません。大論文でもない限り、それを意識せずに両方とも同時に論じてしまうと誤解を招き、混乱さえ起こしかねません。ですから、何かを論じる場合には、内容か、形式か、そのどちらにより重点を置いているのか、文面から明確にわかるように書いておく方が、生産的な議論のやり取りができます。

ここでの主題は「公に対する奉仕」なのだと思いますが、例えば、「公」という言葉一つとっても、人によってその意味がだいぶ違い、芯木さんが言いたい意味では受け取ってくれない場合が散見されます。いわんや、「絶対」などという、一神教の影響を受けた西洋文化大好連中が好んで使う言葉は、哲学好みの人たちには刺激的すぎて芯木さんの言いたい内容よりも、その刺激的な言葉に拘ってしまう人がいくらでもいます。

出来るだけ刺激的な言葉を避けてご自分で言いたいことを表現することを工夫すると、芯木さんのご主張に賛同する方も増えるのではないでしょうか。また、どうしても「絶対」と言う言葉を使いたいならば、論述を始める前に、ここでのこの言葉は、、、、を意味するものとして特殊な使い方をしている、などと一言を入れておくと、読者もそのつもりで読んでくださると思います。

いろいろな人がいっぱい書き込んでくれて、芯木(shinwood)さんは今回いろいろ学んだんじゃないでしょうか。芯木さんの今回の作戦の誤りは、世の中には、形式を重要視する人と実態を重要視する人の両方がいることを無視して、実態を重視する芯木さんの一方的な表現を使ってその主張がなされていることです。

「手術は成功した。しかし、患者は死んだ」

要するに、患者の生死の実態よりも、手術の手順と形式の正確さの方に興味を持つ方がこの世の中にはいくらでも居られるのです。そして、哲学好きな人にこの形式...続きを読む

Aベストアンサー

>ケ・セラ・セラと言っていてよい確率は ふつうの人間のけんかだとか社
会的対立の場合に 50%を超えるのですか? それとも もっと少ない
のですか?
あるいは ケースバイケースの多様性があり過ぎますか?

質問の意味が、もう一つしっくりと判らないんだけど、ケ・セラ・セラ(What will be, will be、なるようになる)から来る、私の反応を書いておきます。

我々が複雑な構造と言うときにその言葉で表されているものに、その出現の根拠が全く違った2種類のものがある。その一つは、精密で巨大な振り子時計や昔のゼンマイ仕掛けの腕時計(ルビーの石が入っていて、何ルビーの腕時計なんて言ってたあの懐かしい腕時計)の内部や、からくり人形の内部のような複雑な機械の構造。もう一つは、生物の体の内部の複雑な構造だ。

この二つの間の決定的な違いは、時計など前者の構造の出現には、まずそれが何故作られたかの目的が前もって与えられており、さらにその目的を追考するために、その機械の外部にある者が目的や設計図に沿って作り出された複雑な構造であるのに対して、後者には、そんな目的もそれを作る外部の者も、そして前もって与えられたシナリオもなく、外界のと成り行きに任せて、擦った揉んだしながら、すなわちケ・セラ・セラってな具合に自発的に発生した複雑な構造だ。この成り行き任せで自発的に創出された複雑な構造のことを物理学では「散逸構造」って呼んでいる。

前者と後者の際立った違いは、前者は外部からのいろいろな障害や状況の変化に大変脆いのに対して、後者はそれらに対して頑強な抵抗力があることだ。何故なら、後者は外部との予期せぬ(従って確率的に起こる制御不可能な)いろいろな状況との相互作用で、成り行きに任せながらケ・セラ・セラてな具合に収まるところに収まるようにして、自発的に出来上がってくる。ケ・セラ・セラとその状態に留まっているのが(少なくとも局所的に)一番安定していることが理由で出来上がってきた構造だから、その状態を外部の者が無理やりズラしてしまっても、再びその安定状態に自発的に戻ってしまう。すなわち、自己修復の機構を持っているんだ。さらに、元々その構造が何のためにそこにあったのかなんてな目的が始めから無いんで、なんとなくそんな目的でも有ったつもりでいたのに、状況が変わって、その目的がなんだかわからなくなってしまっても意に介せずに存在し続けられる。ところが、前者には自己修復の機構もなく、また状況が変わって目的がなくなったら存在している意味すらなくなってしまうから、外部からのいろいろな障害や状況の変化に対して大変脆いんだ。

んで、さらに制御不可能な環境から、どのような仕掛けでそんな複雑で無目的な構造が自発的に創出できるのか、その条件は何かってな問題が当然浮かび上がってくる。それには3つあって、1)開放系であること、2)非線形効果が無視できなくなってしまうぐらい熱平衡状態から十分離れている「非平衡状態」にいること、3)一旦偶然に出来上がった構造を破壊するように制御不可能な形で外部から飛び込んできた要素をいつまでも覚えているんじゃなくて、その要素を「散逸」させて忘れさせてしあう仕掛けがあること、この3つだ。

あたしゃ、この文脈で「非平衡」って言葉使っているんで、ブラブラさんのこの言葉の用法とは違っているいみたいだね。

この3つの条件の中で数学的に一番面白いのは2)の非線形性だ。でも、物理的にもっと面白いのは3)だ。情報の散逸が起こるということは時間の向きの対称性が破れているってことだ。さらにその現象を数学的な方程式で書く場合、決定論的な微分方程式ではなくて、確率変数の従う非決定論的確率論的微分方程式になってしまう。だから、この宇宙って決定論的にできているのか、それとも非決定論的にできているのかという、物理学の最も基本的な問題に絡むからだ。

要するにケ・セラ・セラってえのは、神様がいるのかいないのかってな問題に絡み出す。だから、ケ・セラ・セラで出来てくる複雑な構造という最も本質的な部分を強調して「散逸構造」って名付けられたんだ。ここでの会話の成り行きだったら、「ケ・セラ・セラ構造」って呼んでも良いね。

今回は、ブラブラさんが、あたしの得意なケ・セラ・セラってな言葉を的を射て使ってたんで、今回はあんたを揶揄うのをやめて、あたしからぬ真面目な反応をしたんだ。いつもと違って、気持ち悪かっただろう。

>ケ・セラ・セラと言っていてよい確率は ふつうの人間のけんかだとか社
会的対立の場合に 50%を超えるのですか? それとも もっと少ない
のですか?
あるいは ケースバイケースの多様性があり過ぎますか?

質問の意味が、もう一つしっくりと判らないんだけど、ケ・セラ・セラ(What will be, will be、なるようになる)から来る、私の反応を書いておきます。

我々が複雑な構造と言うときにその言葉で表されているものに、その出現の根拠が全く違った2種類のものがある。その一つは、精密で巨大な振り...続きを読む

Q公理って何?

再び初歩的質問です。

「公理」を辞典で調べますと、

・数学で、論証がなくても自明の真理として承認され、他の命題の前提となる根本命題。

・論理学で、演繹的理論の出発点として、証明なしに採用される命題。

・現代においては、自明な命題ではなく、理論の前提となる仮定。

等の記述があります。

1.学問がないので、いまいちピンとこないのですが、具体的にはどのようなものがあるの
でしょうか?そして、どう理解したらいいのでしょうか?

2.「理論の前提となる仮定」から組み立てられた理論というものが、自然科学においても
検証されるとはいえ、何故、事実・真実と言えるのでしょうか?

Aベストアンサー

公理で一番有名なのは、平行線公理(平行線公準とも呼ばれる)でしょう。

「一つの直線上にない一点を通ってその直線は一つしかない」

この命題を証明することはできません。以前はこれを証明しようと多くの数学の天才たちが試みました。しかし誰にも証明できなかった。ロバチェフスキーが1829年に『幾何学の新原理並びに平行線の完全な理論』を発表して、彼が1826年に発見した新しい幾何学を提示して、上記の命題が証明不可能な公理であることが明らかになったのです。

ロバチェフスキーは、上記の命題の代わりに

(1)「一つの直線上にない一点を通ってその直線は何本でも引ける」

としても、数学的に無矛盾で閉じた論理体系を構築できることを明らかにしました。それがいわゆる非ユークリッド幾何学の始まりでした。この幾何学で表現されている空間は曲がった空間なのです。

その後に、リーマンが

(2)「一つの直線上にない一点を通ってその直線は一本も引けない」

としても、数学的に無矛盾で閉じた論理体系を構築できることを明らかにしました。この公理(2)が成り立つものとして構築された幾何学をリーマン幾何学と呼びます。一方、上記の公理(1)が成り立つものとして構築された幾何学をロバチェフスキー幾何学と呼びます。

さらに、リーマン幾何学の一つの具体的な例が球面状の幾何学であることもわかるようになりました。その場合この非ユークリッド幾何学を球面幾何学と呼ぶこともあります。

上記の事実の発見は、人類に多大な知的進展をもたらしました。なぜなら、自分の主張の論理的矛盾性をいかに証明しても、それでこの世界が解ったわけではないことが明らかになったからです。例えば、我々が埋め込まれている宇宙が上記のどの幾何学によって記述されている世界なのかは、論述の無矛盾性や整合性をいくら明らかにしても、判定できないことが明らかになったからです。

その判定には必ず実験や観測が必要である。すなわち論理的な理念の整合性に加え、事実はどうなのかを実験や観測で判定しなくてはならない。その判定をするのが自然科学なのです。そして数学は、命題の間の無矛盾性を論じる言語学であり、すなわち人文科学の一つであり、事実を論じる自然科学ではないことが明らかになったのです。

公理で一番有名なのは、平行線公理(平行線公準とも呼ばれる)でしょう。

「一つの直線上にない一点を通ってその直線は一つしかない」

この命題を証明することはできません。以前はこれを証明しようと多くの数学の天才たちが試みました。しかし誰にも証明できなかった。ロバチェフスキーが1829年に『幾何学の新原理並びに平行線の完全な理論』を発表して、彼が1826年に発見した新しい幾何学を提示して、上記の命題が証明不可能な公理であることが明らかになったのです。

ロバチェフスキーは、上記の命題の代わ...続きを読む

Q人間は、食糧の奴隷か?

人間は、食糧の奴隷か?

Aベストアンサー

食料でなくて、力を持った人間の肥大化した欲望の奴隷でしょう。

Qこの世界は夢、かも!

学者、野谷茂樹氏がラジオ深夜便で語っているのをユーチューブで見ました。
この世の現実は夢かも知れないという、懐疑論者の言い分を語っています。

懐疑論者の言い分を、独自解釈・意訳をすれば、、、

「認識は脳作業だから、科学者が脳だけを取り出して脳を生かせる装置を作って、その脳に電気信号を送って仮想現実を作り、それを認識させれば脳は、それを現実のものと思うはずだ。そう、今まさに我々は脳科学者によって見せられている、仮想世界の中で生きているのだ。故に現実と思っているこの世界は夢の世界なのだ。」

野谷茂樹氏は、認識は脳に支配されているので、この懐疑論を否定する証明が出来ないと云って、いらだっています。

私の独自解釈・意訳が適当かどうかちょっと自信が持てませんが、このままで質問としてみたいと思います。

さて、この世は夢ではない、と云う《証明》はあるのでしょうか?

Aベストアンサー

人間の脳は、人間が手足を持ち、胃袋を持ち、生殖器や泌尿器官を持っていて、それらのフィードバックを含んだ総体として始めて機能しています。決して精密な時計や複雑なIC回路などの人工構造物のように、その機能が各部分の器官の機能の単純な和として機能しているわけでありません。脳の機能は身体の総体的な機能全体のバランスの中で機能いています。すなわち、脳は「全体は部分の和よりも大きい」すなわち、脳の総体的な機能の全体は、各部位の部分の和よりも大きいものとして機能しています。

ですから、

「科学者が脳だけを取り出して脳を生かせる装置を作って、その脳に電気信号を送って仮想現実を作り、それを認識させれば脳は、それを現実のものと思うはずだ。」

という設定そのものが、現実の脳の機能を論じるのに全く意味をなさない設定になっています。だから、野矢茂樹氏が何に苛立っているのか私には理解できません。


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