古代ギリシアにおける民主制の発展と衰退過程、古代ローマにおける共和制から帝政への移行過程を政治史の流れに沿って教えて下さい。

A 回答 (1件)

こういった質問に答えたくないですけど、


あなたの良心にまかせて紹介します。

あとは、自分で調べてください。

参考URL:http://www.sekaishi.com/
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この回答へのお礼

ここの掲示に出しているのは自分の書いたレポートについて足りないところを補うためです。そのまま写してレポート提出なんてことはしません。人それぞれの意見や着目点が聞きたかっただけです。レポートは、ほとんど文献を調べて書いているので安心してください。参考HPありがこうございました。何かいい参考文献などがありましたらまた教えて下さい。

お礼日時:2001/07/28 22:03

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Q古代ギリシアと古代ギリシア文明について

「古代ギリシア」と「古代ギリシア文明」って同じ意味ととらえてよいのでしょうか?調べると「古代ギリシア」が多くでてきて、違いがよくわかりません。違うのでしたら「古代ギリシア文明」について詳しく教えてください。お願いします。

Aベストアンサー

古代ギリシャと古代ギリシャ文明とは、厳密に言いますと別物です。
古代ギリシャは、アテネやスパルタなどといった都市国家の時代を指します。
一方古代ギリシャ文明と言った場合、主に先古代キリシャの時代を指します。
具体的には、ミノア文明(クレタ文明)やミケーネ文明といった青銅器文明の時代を指します。
ただし、古代ギリシャ文明に、古代ギリシャ時代(鉄器文明時代)を含める場合もあります。

古代ギリシャと言った場合、基本的にヘレニズム文明以前を主に指しますが、マケドニアがローマに滅ぼされるまでの間も古代ギリシャに含める場合もあります。

古代ギリシャに対し、あまり言いませんが、中世ギリシャとか現代ギリシャという言い方もあります。
中世ギリシャとは、ビザンツ帝国時代を指します。
ビザンツ帝国は、本来東ローマ帝国なのですが、完全にギリシャ化した国家です。
その中心は、現在トルコ領のイスタンブール(当時はコンスタンティノープル)です。

Q古代ギリシアと中世ローマの包括的な特徴

すみません教えてください。古代ギリシアと中世ローマについて調べています。それぞれの文化宗教政治についての特徴を個別にあげることはできるのですが、ギリシアがローマへ与えた影響やつながりなど大きく捉えることができなくて悩んでいます。教えてください。

Aベストアンサー

もともと古代ローマ時代、395年に最後の皇帝テオドシウス帝が帝国を東西に分け、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)がコンスタンティノープルを中心に発展していきます。ここは以前、コンスタンティヌス帝がローマから都を移し、自分の名をつけてコンスタンティノポリスからコンスタンティノープルになったのですが、以前はビザンティウムという名でした。これはギリシア人でビザンティオンの建設者「ビザス」から取ったもので、ギリシアの植民地でした。ですからギリシア人が多く住んでいるわけで、宗教もギリシア正教なわけです。よく「ローマ文化はギリシアの模倣」といわれますが、実用面(法律・建築など)以外の文化面では、ローマはギリシアを手本にしてます。神話なんかもそうですよね。その辺からもういちど見直してはいかがでしょうか。

Q王政ローマと、共和政ローマと、ローマ帝国って違うの?

王政ローマと、共和政ローマと、ローマ帝国って違うの?

この3つは全部、違うの?

Aベストアンサー

古代ローマは王制からスタートしました。当時は今のローマ市内の7つの丘と周辺の湿地帯を中心とした本当に小さい都市で、王といっても周辺部族や城壁都市からのあぶれ者が参加した、半分暴力団みたいな集団のリーダーだったようです。それがローマを拠点して、周辺部族との戦争や和解などによって、徐々に力を蓄え、ひとつの国になっていきました。

すでに王制ローマ時代に7つの丘のひとつ、カピトリーノには神殿が作られ、パラティーノには王宮がたち政治の中心となっていました。

少し時代が下がり第七代王のタルクィニウス・スペルブスの時代になるまでにローマは近隣の中では目だって大きな国に成長していたのですが、内紛が絶えずまた政変が相次いだり王族の横暴などもあり、タルクィニウス・スペルブスを追放し王制を廃して共和制に移行することになりました。

これによりローマは王制から共和制になるのですが、その政治体系は執政官を2人選挙で選出し、毎年交代しながら首相のような役職を勤めました。
ちなみに、ローマには王制時代から民会があり、王であっても市民集会の投票を得ないでは王に選出されることはなく、戦争を行うにも(相手から攻めてきた時は別ですが)市民集会の議決が必要でした。またこれとは別に王制時代に元老院という助言機関があり、これもそのまま共和制ローマに残ります。この二つが共和制ローマの発展と、ローマ帝国への変貌のきっかけになっていきます。

これには少し説明が必要だと思います。
さきにローマの始まりは暴力団みたいなもの、と書きましたが、当時は自分の出身地を追放されたり、土地を借金などで失って食い詰める人々がたくさんいました。初代の王とされるロムルスとレムルスの兄弟は、もともと高貴な出てあったようで、このような者を引き連れてローマを建国しました。
その頃には先進国のギリシャが近隣にあり、民主的な政治体系があったため、かなり初期のころから市民集会の原型はあったようです。これは戦争になれば「死」を覚悟して戦う義務があるゆえに、権利として獲得したものでありました。

これが共和制になっても引き続き有効とされ、市民には市民集会のほかに護民官(按察官)という役職も与えられ、今でも「拒否権」と呼ばれるVETOを持つ強大な権力を有していました。これに対して貴族とか富裕者のサロンでもある元老院は、執政官を排出できる人材が集まる集団として隠然たる権力を保持していました。(執政官は戦争時に指揮官になるため、高度な教育を受けられる貴族などに限定されていたため)

この二つの勢力が、ローマ自体が段々強力になり勢力と国土を広げていく間に何度もぶつかり合います。理由のひとつとして、国土が広がるとその土地に住んでいる部族をローマ市民にするため、平民も増えること、もうひとつは国土が広がると富裕者はさらに富裕になることで、平民格差が広がったからです。富の再分配に対して国内紛争がなんども起きました。

これを最終的に解決する方法を考え出したのが、かの有名なユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)です。彼は地中海全体に広がったローマ共和国の版図を統治するには元老院と市民集会の対立が邪魔になるとして、終身執政官+終身護民官+最高神祇官(これは元々終身)になる役職を考え出します。それも市民集会も元老院もどちらも賛成多数で、カエサルに与えるはずでした・・
と、ここで起こったのが元老院によるカエサル暗殺です。

これによりカエサルが筋道をつけた「皇帝(エンペラー)」にカエサルの養子であったアウグストスが着任することになります。
これにより内政問題がほぼ片付いたため、ローマは帝国としてますます発展するのですが、王とは成り立ちが違っても、所詮は独裁権力であることは同じであるため、代を重ねるごとに皇帝も腐敗し、ローマ帝国の滅亡に至るのです。

最後にエンペラーについて
もともとインペリアルと呼ばれたもので、軍の指揮権を意味します。つまり最高軍司令官です。
こうしてみると、皇帝とは、最高軍司令官・最高行政長官(内閣総理大臣みたいなもの)・護民官(拒否権を持つ平民の長)・元老院第一人者(結果として元老院の議長のようなものになる)・最高神祇官という大国ローマの最高の権力者であり、現在の世界情勢とローマの覇権・周辺国への影響を比較してみれば、アメリカ大統領とローマ法王と安全保障理事会をひとりで行っているようなものでしょう。

このようにして王制ローマからローマ帝国までは一連の流れがあるのです。

古代ローマは王制からスタートしました。当時は今のローマ市内の7つの丘と周辺の湿地帯を中心とした本当に小さい都市で、王といっても周辺部族や城壁都市からのあぶれ者が参加した、半分暴力団みたいな集団のリーダーだったようです。それがローマを拠点して、周辺部族との戦争や和解などによって、徐々に力を蓄え、ひとつの国になっていきました。

すでに王制ローマ時代に7つの丘のひとつ、カピトリーノには神殿が作られ、パラティーノには王宮がたち政治の中心となっていました。

少し時代が下がり第七代王...続きを読む

Q古代ローマの造形技術の衰退について

つい先日塩野七生さんのローマ人の物語の最新刊を読んでいて、ふと疑問に思ったのですが


コンスタンティヌス大帝の時代の彫像(でいいのかな?素人なので)とアウグストゥス帝やユリウス・カエサルの肖像と比べると明かに下手くそな出来映えだと思いました。
これ以外にも技術の衰退は他にもあって中近東の優れた彫金技術というか冶金技術が衰退した理由は皮肉にも増えた需要に対して供給するべく森林資源の伐採で砂漠化が進み、それによって却って供給量が減少した為技術の継承がしにくくなった為だとは聞いた事がありました。


個人的には偶像崇拝を禁じたユダヤ教から派生したキリスト教の普及で古代ローマの造形技術がそうなったのかな?とも思いますが実際にはどんな説があるのか教えて頂ければと思います。

Aベストアンサー

こんにちは。
西洋美術史の一般論では、「古代ローマ末期は芸術衰退期」とされています。
その原因はご推察のとおり、キリスト教の普及です。

偶像崇拝と関係するかもしれませんが、非常に観念的なキリスト教の精神世界が、現世的で人間的なものに価値を置く古典古代の精神世界にとってかわっていくためです。
実在するヒーロー(=たとえばアウグストゥス)に至高の価値を見いだし表現するか、見えない神という観念的な存在にそれを求めるか、によって当然芸術は変容します。
前者では写実性の中に崇高さを求めますし、後者は「意味」が重要ですから記号的になったり装飾的な傾向が強くなります。

ローマ分裂後はキリスト教の世界が主流になりますよね。それが中世の始まりであり、古代ローマとは全く異質のビザンチン芸術のスタートとなります。

コンスタンティヌスの頃はまだローマの伝統が残っていますが、すでに中世に向かって古典古代の社会が崩壊しつつあるとも言え、移行期の皇帝の彫像にも変化が出てきているように私も感じます。写生はするけど、その中に人間の尊厳を表現するモチベーションがもはや前ほど感じられないというか・・・。かなり私見ですが。

他の要因としてはもちろん、経済の衰退とそれに起因する皇帝の政治力低下も、要因としてははずせないでしょう。

この時期のに比べると、最盛期のカエサルやアウグストゥスの彫刻は、非常に古典的な芸術性が高いと思います。

こんにちは。
西洋美術史の一般論では、「古代ローマ末期は芸術衰退期」とされています。
その原因はご推察のとおり、キリスト教の普及です。

偶像崇拝と関係するかもしれませんが、非常に観念的なキリスト教の精神世界が、現世的で人間的なものに価値を置く古典古代の精神世界にとってかわっていくためです。
実在するヒーロー(=たとえばアウグストゥス)に至高の価値を見いだし表現するか、見えない神という観念的な存在にそれを求めるか、によって当然芸術は変容します。
前者では写実性の中に崇高さ...続きを読む

Q君主制、封建制、共和制、官僚制…の意味と分類について

過去の質問を拝読しているうちに、わからなくなってしまったので質問させていただきます。

君主制、共和制、封建制、官僚制など、統治制度に関する言葉がいろいろとありますが、これらを簡潔に分類できますでしょうか?

君主制の反対語は一般的には共和制ですが、過去の質問では封建制が使われるていることもありました。
また、封建制の対概念としての官僚制という記述もありました。
しかし、君主制の中に封建制が含まれる気もしますし、官僚制と封建制が共存する統治体制もあるような気がします。

各語の意味を正確に理解していないことに問題があるのかもしれませんが、大雑把でも結構ですので、それぞれの言葉の意味をどのように解釈し、どのように分類したらよいかご教授ください。

Aベストアンサー

内政や外交などの政策決定の権限が「誰」にあるかで分類すると「君主制(帝政・王政・絶対君主制など、首長は世襲的)・君主」「共和制(議会制、首長は互選)・議会構成員」「民主制(国民多数による選挙に基づいて、直接的もしくは間接的に政策決定者が選ばれる)・国民」と言う分類になります(「名目上の元首が君主である」場合は立憲君主制とかの名称になっていますね。あと政治用語としては大統領制や議院内閣制などがあります)。

制度として、中央集権的であるか地方分権(分立)的であるかで分類すると、「中央集権制」「封建制」「連邦制」などになります。

「官僚制」とは、行政的な面で「官僚組織」によって運営される制度のことです。「官僚組織」とは、専門的な技術や知識を持った人たちが、権限や機能によって分化され、ピラミッド的に構成されている組織を言います。もっとも機能的な官僚組織は「軍隊」ですね。
こうした組織形態を持たないでプロジェクトや組織運営する方法もありますが(単年度制の委員会方式など)、なんて総称するのか分かりません(「非官僚的組織or運営」としか言いようがないのかな?)。

内政や外交などの政策決定の権限が「誰」にあるかで分類すると「君主制(帝政・王政・絶対君主制など、首長は世襲的)・君主」「共和制(議会制、首長は互選)・議会構成員」「民主制(国民多数による選挙に基づいて、直接的もしくは間接的に政策決定者が選ばれる)・国民」と言う分類になります(「名目上の元首が君主である」場合は立憲君主制とかの名称になっていますね。あと政治用語としては大統領制や議院内閣制などがあります)。

制度として、中央集権的であるか地方分権(分立)的であるかで分類する...続きを読む


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