『ボヘミアン・ラプソディ』はなぜ人々を魅了したのか >>

モンゴルってどんな国ですか?

日本から割と近いのに謎が多く、興味があります。

A 回答 (8件)

ガチ社会主義だった国、今は少し事情が違ってきた、そして、


出稼ぎで相撲を取りに来る人がいる。
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国はあれだけ広いのに、国民の人口が大阪市や名古屋市より少ない国。

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モンゴルは半島とは陸続きなので歩いて行けます。


ここで聞くより自身で直接見てくるのが良いでしょう。
それはさておきゲルの中は冬でも意外に暖かいですよ。

羊肉をよく食べます。絞める時は彼らのやり方があり、地面に一滴も血を垂らすことなく行います。
食べる時に絞めるので冷蔵庫がなくても大丈夫です。
川には魚がいますが、まず食べません。
観光は普通は冬より夏が良いでしょう。遊牧地帯へ行けば空が奇麗です。
プラネタリウムのように、地平線ぎりぎりまで星が見えます。
天の川もくっきりと見えます。
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遊牧民の国。

中国の北側から、さんざん国境を脅かしていた北威。
中国の大半を占領してた元=日本の鎌倉時代、渡海して日本に攻めてきたこともありました。
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モンゴルはあの元寇で日本を襲おうとしたモンゴル帝国の成れの果てです。


どうですか?まだ興味ありますか。
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国土は日本の4倍だが、人口は日本の


1/40の300万。

GDPは日本の1/160 で一人あたりGDPは
10万円で、かなり貧乏。

主な宗教は仏教。
人種的にはモンゴル人が95%。

半大統領制を採用。
複数政党あり。

対日感情は良好だが、対中韓感情は
悪い。特に中国に対する感情はかなり悪い。

国民気質としては、個人主義。
その結果、次のような特徴がみられる。
いじめが少ない。
他人に淡泊。
家族は大切にするが、他人には冷淡、場合によっては
過酷。
助けても恩を売らないし、助けられても感謝しない。
夫婦別姓。
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高校の相撲部に留学している生徒は多いですよ。


そこでそれなりの試合成績を残して、日体大に行く生徒もいます。
内陸国家で貿易するにも港がないので、ちょっと厄介ですね。
しかも上はロシア、下は中国と接しているので、かつての「フィンランド化」どころではありません。
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Q徳川家康や秀忠は明を征服しようと思わなかったのですか?

魏忠賢などの悪臣の専横によって乱れきった明朝の末期は徳川家康・秀忠が将軍だった頃であり、鎖国も行っていませんでした。
結果的に明は女真族という辺境の弱小民族によって征服されてしまうわけですが、徳川幕府がその気になれば明を征服するのは容易だったはずなのに、家康や秀忠は明を征服しようと思わなかったのでしょうか?

秀吉の朝鮮出兵の頃は、明もまだ弱体化が進んでいない頃でしたが、その頃とは比較にならないほど弱体化が進んでいたので。

Aベストアンサー

そんなこと、これっぽっちも考えていないと思います。
理由は簡単です。秀吉の朝鮮侵略の悲惨な結果を知っているからです。

日本の戦国時代を代表する武将の中で秀吉だけは異質ですが、それは彼が商人、現代風に言えば経済人の感覚を持っていたからです。当時の日本の経済発展のためには領土の拡大が欠かせなかったと思います。
まあ、しかし、他国への侵略という点においては、身の程を知らないというか、世界を知らないというかバカですね。先進的な欧州の植民地化の手法と比較すると幼稚極まりないと思います。
そういえば、そんなバカが過去にもいました。それは、日出る国の聖徳太子です。この時に現地で中国側と交渉した人物は秀吉の時と全く同じことをしています。現地で先進的な大国の実状を知って、日本側のトップの顔をつぶさないようにして、二枚舌で収拾するという方法です。

徳川家康は、豊臣秀吉の朝鮮侵略の失敗を教訓として300年続く日本の平和な時代の仕組みを作ります。限られた領土で平和を維持するために、大名の取り潰しや、参勤交代などの仕組みをつくりますが、政治的なシステム以外に庶民が作り上げたシステムもあります。それは、徳川300年の間に人口が全く増加していない事実から導かれます。

家康と秀忠は秀吉と同時代に生きていたので、二度とアホなことはしませんでしたが、その教訓を忘れてしまった平和ボケの人々は、明治に入って中国侵略を開始しますが、秀吉の朝鮮侵略から得られた軍事的な反省をなにひとつしていなかったため、最後は悲惨な結果になっています。
日清日露戦争は短期間の戦争であり、当時の日本は、欧米の先進的な兵器に関する各種技術を導入していたため、時代遅れの兵器相手に勝てるのは当然ですが、先進的な欧米諸国ではすでに確立していた兵站システムが全く構築されていなかったことが、日本の決定的な弱点と言うか特性なのだろうと思います。

そんなこと、これっぽっちも考えていないと思います。
理由は簡単です。秀吉の朝鮮侵略の悲惨な結果を知っているからです。

日本の戦国時代を代表する武将の中で秀吉だけは異質ですが、それは彼が商人、現代風に言えば経済人の感覚を持っていたからです。当時の日本の経済発展のためには領土の拡大が欠かせなかったと思います。
まあ、しかし、他国への侵略という点においては、身の程を知らないというか、世界を知らないというかバカですね。先進的な欧州の植民地化の手法と比較すると幼稚極まりないと思います...続きを読む

Q豊臣秀吉は朝鮮半島南部くらいなら支配できたのではないですか?

豊臣秀吉の朝鮮出兵ですが、朝鮮の首都(漢城)はすぐに陥落し、次に明軍との戦争になり、明・朝鮮連合軍との戦争になって最終的に撤退することになります。

でも、いくら秀吉軍が強いといっても、さすがに明を征服できる力があったようには思えません。

明との衝突を避け、目的を朝鮮半島南部の支配に限定すれば、目的が達成できた可能性が高いと思いますが、どうでしょうか。
そして、毛利や島津、徳川といった、後で逆らってきそうな大大名を朝鮮南部に配置すれば、邪魔者を追い出せますし、一挙両得のように思います。

Aベストアンサー

文禄慶長の役は征明嚮導とか仮道入明と言われたように、
朝鮮は通り道で秀吉は朝鮮を支配する意志がほぼ無いので
秀吉が朝鮮南部だけ統治するということはまずありません。
ただし、思考実験としての可能性を述べてみます。



文禄・慶長の役で、日本が明の参戦で苦戦に陥って
不利になったのは事実と言えなくはないですが、
文禄の役では碧蹄館の戦いをはじめ、第一次・二次平壌城の戦い
慶長の役では第二次蔚山城の戦い、泗川の戦い、順天の戦い等々
ほとんどの戦いで明(と朝鮮連合軍)には戦術的に勝っています。
ちなみに、文禄の役の時に碧蹄館の戦いで大損害を出した明は、
以後は朝鮮の意向を無視して講和に方針転換しています。
さらに慶長の役が終わった後、明史では

  (前略)喪師數十萬,糜餉數百萬,
  中朝與屬國迄無勝算,至關白死而禍始息
 (明史 朝鮮伝(320巻)26年11月)

  10万の兵を失い、100万の糧食を浪費したけど
  中朝(中国)と属国(朝鮮)には勝算が無かった。
  関白(秀吉)が死んだから終わってくれた。

と書かれていたくらいです。
このように、明とはそれなりの勝負はできているので、
本格的に準備をすればいい勝負はしたと思います。

余談ですが、南原城の戦いで見ても判るように
明は朝鮮南部まで軍を進めています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E5%8E%9F%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
講和がうまくいった場合など、状況にもよりますが、
朝鮮南部だから明が来ないというわけではありません。


日本が勝てなかった理由は兵站が続かなかったから。
(慶長の役を含めるなら秀吉が死んだから)
当時、兵糧はある程度を現地調達するのが常でしたが、
朝鮮はそもそも春窮という言葉があるくらい貧しく、
耕作に適する土地が少ないので収穫は期待できません。
戦時には日本・朝鮮・明がそれぞれ徴発したから
ますます何もなくなりました。
たとえ朝鮮南部に限定して支配しても、
長大な国境線を長期にわたって維持するのは
(明側が意図しなくても)焦土戦術となって
かなりの負担で益は無いと思われます。


ちなみに、今の韓国の歴史認識に惑わされて
朝鮮人は果敢に抵抗した事を憂慮する方が多いようです。
確かに住民の反乱はそれなりにてこずりましたが、
日本が漢城に到着した時、国王は逃走し、町は既に焼かれていて
王子二名を捕虜にしたのは朝鮮人の働きなのは有名な話。
碧蹄館の戦いに先立つ第三次平壌城の戦いで
「日本側の戦死者を調べるとほとんど朝鮮人でした」
というオチが朝鮮王朝実録に書いてあるくらい。
  是日天兵當陣斬獲一千二百八十五級、生擒二名、
  竝擄浙江人張大膳、奪馬二千九百八十五匹、
  救出本國被擄男婦一千二百二十五名。
  (中略)
  李如松 平壤之役、所斬首級、半皆朝鮮之民、
  焚溺萬餘、盡皆朝鮮之民
政策さえ誤らなければ統治できなくはないと思います。

文禄慶長の役は征明嚮導とか仮道入明と言われたように、
朝鮮は通り道で秀吉は朝鮮を支配する意志がほぼ無いので
秀吉が朝鮮南部だけ統治するということはまずありません。
ただし、思考実験としての可能性を述べてみます。



文禄・慶長の役で、日本が明の参戦で苦戦に陥って
不利になったのは事実と言えなくはないですが、
文禄の役では碧蹄館の戦いをはじめ、第一次・二次平壌城の戦い
慶長の役では第二次蔚山城の戦い、泗川の戦い、順天の戦い等々
ほとんどの戦いで明(と朝鮮連合軍)には戦術的に勝っていま...続きを読む

Q天皇制は将来的になくなるのですか?

未だに歴史系の定番で平積みもみかける網野義彦による「日本の歴史をよみなおす」を久しぶりに読み返したら序盤でタイトルのような事が書いてありました。

この本自体は何年も売れている「歴史好きな人の入り口」の一つみたいな存在で、お世話になった人も多いかと思います。
その分色んな方の眼にもとまってると思いますが、この文章が批判されているところは今のところ私にはありません。
これも不思議です。

そこで質問ですが、タイトルについていかがでしょうか?

Aベストアンサー

この文章が批判されているところは今のところ私にはありません。
これも不思議です。
 ↑
保守的な人からは批判されていますが。




そこで質問ですが、タイトルについていかがでしょうか?
  ↑
氏はマルクス史観に基づいて、天皇制がなくなる
と主張している節があります。
そして、マルクス史観は過去のモノでしょう。

マルクス史観ではなく、他の理由でなくなる
可能性はあると思います。

例えば皇族男子がいなくなるとかですね。
共産党が与党になったとか、
中国辺りに征服されるとか。

天皇というのは必要があって維持されてきた
制度です。
簡単にいえば、数千万、億もいる人民を統治する
ツールとして有用だから、現在も残っているわけです。

従って、その必要性、有用性が無くなれば、天皇制も
なくなるかもしれません。

Q戦国武将の滝川一益ってどういう歴史を残した人物ですか? 滝川一益の一生を分かりやすく生誕から死までの

戦国武将の滝川一益ってどういう歴史を残した人物ですか?

滝川一益の一生を分かりやすく生誕から死までの実績を教えてください。

徳川家康、豊臣秀吉、織田信長の誰の家臣だったのですか?

Aベストアンサー

詳細な記述が有ります。
よく読んでください。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BB%9D%E5%B7%9D%E4%B8%80%E7%9B%8A

Q清の康熙帝・雍正帝・乾隆帝が日本侵略を考えなかったのはなぜですか?

清の最盛期は長く、康熙・雍正・乾隆帝の全盛期は130年以上に及び、モンゴル帝国に次ぐ広大な領土を支配しました。
日本ではちょうど江戸時代にあたりますが、その当時の日本が清を恐れていたような記録はなく、清も日本を侵攻しようとは考えなかったようです。

意図していたわけではないと思いますが、相互不可侵の紳士協定が結ばれていたような感じです。
あれだけ領土拡大意欲の強かった清が、日本に対しては一切手を出さず、朝貢を求めるような素振りもなかったのはなぜでしょうか?

Aベストアンサー

小規模な貿易は行われていたようですが、秀吉や倭寇影響か、あまり良い国交関係とは言い難かったようですね。

前王朝の時、倭寇対策が大変だった。
江戸時代になって、おとなしくなったので、あえてちょっかいを出す必要はなかったのでは?

さらに言うと、そのためもあって、清王朝でも海上交通に制限をかけていた。
そして朝貢貿易以外、むしろ鎖国に近い政策だったことも要因の一つではないでしょうか。

Q上杉征伐の途中に石田三成の挙兵を知り、軍を西に向けた徳川家康の背後を上杉景勝は何故攻めなかったのです

上杉征伐の途中に石田三成の挙兵を知り、軍を西に向けた徳川家康の背後を上杉景勝は何故攻めなかったのですか?
最上を攻めている場合じゃないと思います。

Aベストアンサー

関ヶ原の戦いで西軍が挙兵してから敗北まで、上杉家が目指すのは関東侵攻これ一本だったのです
※直江書状参照

最上攻めでさえその前段にすぎません
が、この最上攻めの最中に既に西軍は関ヶ原の戦いで敗北しており、上杉勝家が兵を率いて関東に攻めいることは出来なくなりました

ちなみに会津征伐軍が反転する際に追撃するべきだったというのも否です
上杉軍が反転の情報を掴んだのは家康が江戸に入ってからなので!

Q日本で1番大きい古墳が大阪府堺市にある仁徳天皇陵古墳で日本で2番目に大きい古墳は仁徳天皇陵古墳から東

日本で1番大きい古墳が大阪府堺市にある仁徳天皇陵古墳で日本で2番目に大きい古墳は仁徳天皇陵古墳から東に行った大阪府藤井寺市の応神天皇陵古墳だそうです。

なぜ大阪の南側に日本一とナンバー2の古墳があるのですか?

仁徳天皇と応神天皇はいつの時代の人ですか?

応神天皇が作った巨大古墳を見て仁徳天皇が更に大きいナンバー1の古墳を作った?

二人は近い時代の人なのですか?

仁徳天皇は聞いたことがあるけど応神天皇は聞いたことがない。なにをした人ですか?

Aベストアンサー

応神天皇は仁徳天皇のお父さんです。
また、現在日本各地にある「八幡宮」の八幡神ですね。

仁徳天皇は難波高津宮に遷都し・・・ようするに大阪も何度か遷宮されたわけで、大阪市歌にも仁徳天皇のことが歌われています。

「高津の宮の昔より、よよの栄を重ねきて、民のかまどに立つ煙
にぎわいまさる 大阪市、にぎわいまさる 大阪市」

これは仁徳天皇が高津宮から庶民の家を見下ろしたときにかまどの煙が見えなかったことで税を数年廃止し、庶民のかまどにも煙が立つようになった(要するに豊かになってきた)という日本書紀の故事をうたったものです。

大阪に大きな古墳がたくさんあるのは、現在で言う奈良であったり大阪であったりしますが、天皇が(その当時はオオキミ)住まわれた(もしくは政治を行った)場所に近いということでしょうね。高槻にも今城塚古墳という大きな古墳がありますね。

Q豊臣秀吉が人身売買を許せないとしたことについて

織田信長はキリスト教の布教を認め日本各地にキリスト教が広まりました。その後を継いだ豊臣秀吉は、キリスト教布教に対し見せしめのためにバテレンを始め幼いキリスト教信者まで死罪にするなど強い弾圧を行いました。その理由のひとつに、秀吉は婦女の人身売買に宣教師が関わっていたことを知りキリスト教に怒りを持ったという説を何かで知りました。
この説は真実なのでしょうか。

Aベストアンサー

真実です。ほとんどの人が知りませんが、戦国時代には日本人の考える「人身売買」と西洋の「人身売買」は全く異なるものだったからです。

西洋の人身売買、奴隷制度、というものは「人間の形をした家畜」「元々死んでいてもいいものを拾って使う」というところから来ています。
 それは古代の民族戦争で勝った方が「勝者の権利」で、負けた民族を皆殺しにしていたところを、奴隷商人などがお金で買い取って「人間の姿をした家畜」として方々に売ったところから始まっているからです。古代では「民族が違い、宗教がちがうなら人間ではない」のが普通だったからです。

日本も大和朝廷が成立する以前の「生口」などは同じ考えでした。豪族ごとに「自分のたちのコミュニティ」があり、それ以外の人は「同じ人間ではない」状態だったからです。これを変えたのが大和朝廷の成立でこれにより「朝廷に参加する豪族とその身内はすべて同じ人間」になったのです。

そのため奈良から平安期にかけて、人間を家畜として扱う奴隷制度は消えて行きました。鎌倉時代や室町時代など大きな騒乱があると奴隷制が復活するのですが、幕府は何度もそれを違法として取り締まっていきます。残ったのは「年季奉公」という概念だけ、つまり「人生の20年ぐらいを買い、その分の働きをしたら解放される」というものだけだったのです。(実際には女郎屋などは、化粧代や部屋代などを取って、なかなか年季が明けないようにしていました)

ですから、当時の日本人としては「家畜のように人が売買されて、一生奴隷として暮らす」と言うこと自体に拒否感があり、非常に野蛮なことだと考えられていたのです。当然、秀吉にもそういう感覚はあったでしょう。

宣教師は日本に来て非常に喜んだのは「日本では他の国の相場の1/3で奴隷が買える」ということです。当たり前でしょう。日本は20年(人生の1/3ぐらい)分の報酬で人身売買されていて、奴隷は一生なのですから値段が同じなわけないのです。

そのため宣教師は多数の日本人を口入屋から買い入れて外国に連れて行っていました。ところが何年経っても年季が明けず「お前は一生奴隷として買い入れた」と知った日本人が「騙された」と思って逃げてきたのを秀吉が知ったので激怒したのです。
 
 ちょうどその頃秀吉は関白職になり、関白は「天皇に変わって日本の運営に責任を持つ」役割だったため「大和民族が融和して奴隷制を廃止したのになんて野蛮なことをするのか!」と怒ったわけです。

結局それが原因になって、宣教師と軍事力の関係性などがだんだん明るみになり、南蛮の侵略方法が明らかになったので、のちの鎖国につながっていく、ということになるわけです。

真実です。ほとんどの人が知りませんが、戦国時代には日本人の考える「人身売買」と西洋の「人身売買」は全く異なるものだったからです。

西洋の人身売買、奴隷制度、というものは「人間の形をした家畜」「元々死んでいてもいいものを拾って使う」というところから来ています。
 それは古代の民族戦争で勝った方が「勝者の権利」で、負けた民族を皆殺しにしていたところを、奴隷商人などがお金で買い取って「人間の姿をした家畜」として方々に売ったところから始まっているからです。古代では「民族が違い、宗教...続きを読む

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歴史上で、世界で、一番勇気のある人物は誰だと思いますか?

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「地球は青かった」の名言で有名な、ユーリィ・ガガーリンですかね。人類史上で初めて、大気圏外へ突出して宇宙飛行した人なので。その後不幸にして事故死されましたが、やはり勇敢ならではだったからだろうと。しかしそれ以前に宇宙圏まで、勝手に放り出された実験動物たちの方がよっぽど可哀そうですけどね。

Q露国ロシア政府がアイヌ民族はロシア人だと発表しました。 では、今まで日本人がアイヌ民族を虐めてたのは

露国ロシア政府がアイヌ民族はロシア人だと発表しました。

では、今まで日本人がアイヌ民族を虐めてたのはロシア人だったからだったのでしょうか?

アイヌ民族は日本人ではない。と日本人も言ってたので何となく今回の発表で納得しました。

アイヌ民族は日本人じゃなかったんだ。ロシア人だったので部落と言って北海道民が軽蔑していた。なるほどと思いました。

Aベストアンサー

日本人とは、日本に戸籍がある人。先祖代々よりの北海道先住住民のアイヌも、ちゃんと日本に戸籍があります。(最近の自称アイヌは、日本国籍なしの朝鮮人ですけど)。


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