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時代は、平安時代→鎌倉時代→室町時代→戦国時代→江戸時代と来ていますね。
明治維新以降は、何時代になるのですか?
(安直に、明治時代→大正時代→昭和時代→平成時代→○○時代と並べればよいですか?
 あるいは、現代にするのですか?)

A 回答 (13件中1~10件)

一般的にはそうですね。

ただ、戦国時代は「安土桃山時代」が正式な時代名です。
江戸時代以降は元号=時代名になっています。
元号でいうと江戸時代は「元和」から「慶応」まで35もありました。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。
<江戸時代以降は元号=時代名になっています。>ですね。
数日すると、時代が変わるのですね。(ただし、私にとっては、ほとんど意味を持ってませんが)

お礼日時:2019/03/30 17:50

明治期、大正期、【昭和戦前、戦後=現在】でしょうか。


ちなみに、オイラが習った時は、室町時代の次は安土・桃山時代と言っていた.。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。
1の現在や2の50年後くらいは、<明治期、大正期、【昭和戦前、戦後=現在】>と並びそうですね。戦前・戦後はわけるのですね。

お礼日時:2019/03/28 17:05

人によって違います。



学校教育では明治時代、大正時代、昭和時代のようにわけることが多いと思います。
本によってはまとめて東京時代としているもの、両方を併記しているものもあります。

将来は、その時点での歴史学の成果によって新たな時代区分がされると思います。
現在使われている古墳時代も何十年か前は大和時代という言い方のほうが多かったと思います。
全時代を通して、そのときの歴史学者たちが新たな時代の名称を付けると思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。
<将来は、その時点での歴史学の成果によって新たな時代区分がされると思います。> 了解しました。

お礼日時:2019/03/28 07:25

#7です。

おれいありがとうございます。

>そこで、勝手ながら、その時点は、1.現在、2.50年後、3.500年後位が良いかな、と思っております。
1.現在は便宜上、明治時代・大正時代・昭和時代・そして今後平成時代と区分されるでしょうが、これは「江戸時代」のような社会制度や社会現象からみた歴史学的な区分けではないです。

2.50年後はアラフィフの私は既に存在していないので、明治・大正から敗戦期までは名称が付いていると思います。
これを明治ー敗戦期まででたとえば「帝国主義時代」とするのか、明治と大正・昭和あたりで「西洋文明受容期・第一次国
際進出期」のように分けるかは分かりません。

3.500年後の日本人からみれば、ちょうど戦国時代を見ているような感じでしょうから、江戸時代と明治以降が区分されるのは当然としても、その後がどうなるかが分かりません。

たとえば現在の皇太子が天皇に在位する時代が30年ぐらいあり、その後に秋篠宮悠仁君が在位する時代の後後継者がおらずに天皇制が終了するとなれば「明治期に始まった立憲君主制による大正・昭和・平成・後平成・午後平成の君主日本時代」と天皇制が終了した後の「共和政日本時代」で分けることになるでしょう。

なぜなら天皇制が終了して共和制になれば新しい権威確立のために何十年も日本国中が揺れることになるからです。そうなればそれ以前の、天皇が居た時代と共和制の時代は500年後からみれば100年単位で区分する違う時代になるでしょう。


私が「まだ決まっていない」とするのは、今の段階では「明治時代がどういう時代で、その次の社会現象に移る決定的なターニングポイントがない」と認識しているからです。現在認識されているターニングポイントは明治維新と太平洋戦争敗戦ですが、社会制度上の違いは平安→鎌倉とか江戸→明治のような大きな変化ではありません。

><江戸時代は近世・鎌倉時代は中世などと分ける>なら<現代・近代>ですね。<簡便的に><「明治時代・大正時代」><「昭和時代」>でもしょうがない

はい簡便に分けるのは仕方がありません。そうしないと今歴史を学ぶ人はなんの手がかりもなくずらずらと覚えることになるからです。
でも、それは歴史的な社会構造変化に伴う時代呼称ではないです。
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この回答へのお礼

再度のご回答ありがとうございました。
<1.現在は便宜上、明治時代・大正時代・昭和時代・そして今後平成時代と区分されるでしょう> あくまでも<便宜上>ですね。
2の50年後は、<明治・大正から敗戦期までは名称が付いている>のですね。(括って)
3の500年後、括りが大きくなって、<江戸時代と明治以降が区分される>のでしょうね。(私は東京時代かな、と思います)

お礼日時:2019/03/27 19:46

Wikiで「日本の歴史」を見たら、普通に「平成時代」などと書いてますが・・。



個人的にも「明治時代」や「大正時代」は、特に違和感もありませんし。
バブル世代の私は、「昭和時代」と言われたら、「昭和って、そんな過去のことなの?」みたいな感じで、かなり違和感はあるものの。
私の祖母は大正生まれで、その孫の私は、祖母の存命中でも「大正時代」に違和感がないんだから・・。
平成の後期世代の人にとっては、「昭和時代」なのでしょう。

それはさておき、要は、歴史を語る上で、「どういう区分が便利か?」で、「適宜使い分けがされている」と言うのが、正解かと思いますよ。
たとえば、他の回答者さんが言う「近代/現代」は、古代,中世,近世,近代,現代と言う、大雑把な括りで歴史を語る際に使う言葉で。
また、「では近代と現代を、どこで分けるか?」なんてのは、個々の学者の意見や学術分野などで異なってきます。

具体例で言いますと、日本史のみで考えれば、「戦前/戦後」は大きな分れ目ですが。
それを世界史的に考えれば、もうちょっと後の、冷戦構造の終結などをもって区分されるべきでしょ?

あるいは、質問者さんが書いてる「平安時代→鎌倉時代→・・」も、主に朝廷や幕府の「統治者」と言う区分ですから、そう言う区分で言えば、明治時代以降は「戦前/戦後」と言う区別が妥当かも知れません。

更に統治者に関して、細かいことを言えば、平安時代でも、そこを主体に語る場合、天皇中心の前期、藤原氏が隆盛の中期、平氏の時代となった後期では、異なるものとして分類されますし。
鎌倉時代も、初期の源氏と北条氏で区分されますよね?
鎌倉時代と室町時代の間には、ちょこっとですが、天皇が復権を目指した「南北朝時代」とか。
戦国から江戸時代の間にも、信長,秀吉の「安土桃山時代」なんてのも。

そんな風に考えると、「〇〇時代」と言う言い方は、やはり割と任意性が高いと思います。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございます。
短いような昭和といっても、<統治者>の観点から見たら<「戦前/戦後」>
には大きな断層があるのですね。歴史上、このような断層を細かく使うか、あるいは無視するか、難しいですね。

お礼日時:2019/03/27 19:37

その時代に生きている人にとっては時代の区切りなどありませんから、


「まだ未確定」
というのが正しいところです。

ただし、いくつか区分けはあります。
①元号そのまま(明治時代、大正時代、・・・)
②維新以後敗戦までを「近代」、それ以降を「現代」

ただし確定していません。
確定するにはあと100年は必要でしょう。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうごあ¥ざいました。
1の現在から見たら、<①元号そのまま(明治時代、大正時代、・・・)>でしょうね。
2の50年後には、<②維新以後敗戦までを「近代」、それ以降を「現代」>に変わるのでしょうね。

お礼日時:2019/03/27 19:23

>明治維新以降は、何時代になるのですか?


まだ決まっていない。

平安時代→鎌倉時代→室町時代→戦国時代→江戸時代
こういう呼称は、歴史学者が考えて作った区分で、#6さんが現代・近代と分けるなら江戸時代は近世・鎌倉時代は中世などと分けるべき、というのは正しい意見です。

そもそも鎌倉時代に生きた人は「今は鎌倉時代」なんて思っていなかったでしょうし「中世」だとも思っていなかったはずです。

明治以降の日本は西洋化と近代化で平成までひとつの流れを居有しています。江戸時代が250年ほど続いたように「西洋近代化時代」はまだ終わっていないのです。しかも明治時代の人はまだ生きています。(明治45年(1913年)生まれは106歳なのでまだ2千人ぐらいは居ます)

この時代区分がつき、名称が決まるのはもう少しあと、たぶん50年ぐらい後でしょう。

今は簡便的に「明治時代・大正時代」とはいえますが「昭和時代」と呼ぶには昭和生まれの人が多すぎます。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございました。
<江戸時代は近世・鎌倉時代は中世などと分ける>なら
今さら遅いのですが、この質問を投稿した後、気付いたことがあります。それは、明治以降の時代を、いつの時点で見るか、です。その時点によって、時代の捉え方・名称が違うだろうな、と気が付きました。そこで、勝手ながら、その時点は、1.現在、2.50年後、3.500年後位が良いかな、と思っております。
時代の名称が確定するのは、ある程度年数がたってから、<たぶん50年ぐらい後>ですね。
<江戸時代は近世・鎌倉時代は中世などと分ける>なら<現代・近代>ですね。<簡便的に><「明治時代・大正時代」><「昭和時代」>でもしょうがないか、ですね。

お礼日時:2019/03/26 19:44

近代・現代という分け方をするなら



江戸時代は、近世、鎌倉室町辺りは中世、古墳期~平安までが古代、石器時代が原始
という感じに分類するのが定説

平安とか室町とか鎌倉、江戸というのは、時の為政者の所在地を元にした呼称で
明治以降は、ずっと東京を拠点にして、在位した天皇を基準にした呼称
この天皇基準の呼称を時の為政者と同等と考えるなら

江戸時代->明治時代->大正時代->昭和時代->平成時代
と言う風に呼称すべきだろう

耳慣れないし、昭和は戦前と戦後で全く別として扱っても良いくらいだけど
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございました。
今さら遅いのですが、この質問を投稿した後、気付いたことがあります。それは、明治以降の時代を、いつの時点で見るか、です。その時点によって、時代の捉え方・名称が違うだろうな、と気が付きました。そこで、勝手ながら、その時点は、1.現在、2.50年後、3.500年後位が良いかな、と思っております。
1. 原始・古代・中世・近世と続くなら、近代・現代になるのですね。
2.<江戸時代->明治時代->大正時代->昭和時代->平成時代>もありえるのですね。

お礼日時:2019/03/26 19:34

>(安直に、明治時代→大正時代→昭和時代→…



これでは江戸時代以前が大きなくくりであるのに対し、くくり方が細かすぎて整合性がありません。
鎌倉時代、江戸時代などと同じようなくくり方をするなら、

・近代・・・明治~大正~昭和前期
・現代・・・昭和後期 (戦後)~平成

とするのが一般的です。
ただ、近代と現代の境目を太平洋戦争の終戦時点に置くかどうかは、学者によって見解の分かれるところでしょう。

https://langsquare.exblog.jp/20844310/
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございました。
今さら遅いのですが、この質問を投稿した後、気付いたことがあります。それは、明治以降の時代を、いつの時点で見るか、です。その時点によって、時代の捉え方・名称が違うだろうな、と気が付きました。そこで、勝手ながら、その時点は、1.現在、2.50年後、3.500年後位が良いかな、と思っております。
1の現在と2の50年後では、
<・近代・・・明治~大正~昭和前期
 ・現代・・・昭和後期 (戦後)~平成>ですね。
現代/近代の使い分けが有意義ですね。

お礼日時:2019/03/26 19:27

暫定で、明治時代→大正時代→


織田、豊臣の時代が、安土桃山時代と統合されたように、遠い将来、明治大正時代のように、纏められるかもしれません。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございました。
今さら遅いのですが、この質問を投稿した後、気付いたことがあります。それは、明治以降の時代を、いつの時点で見るか、です。その時点によって、時代の捉え方・名称が違うだろうな、と気が付きました。そこで、勝手ながら、その時点は、1.現在、2.50年後、3.500年後位が良いかな、と思っております。
1の現在は、<暫定で、明治時代→大正時代→>ですね。
2の50年後では、明治大正昭和平成時代になりそうですね

お礼日時:2019/03/26 16:51

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そういえば、そんなバカが過去にもいました。それは、日出る国の聖徳太子です。この時に現地で中国側と交渉した人物は秀吉の時と全く同じことをしています。現地で先進的な大国の実状を知って、日本側のトップの顔をつぶさないようにして、二枚舌で収拾するという方法です。

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日清日露戦争は短期間の戦争であり、当時の日本は、欧米の先進的な兵器に関する各種技術を導入していたため、時代遅れの兵器相手に勝てるのは当然ですが、先進的な欧米諸国ではすでに確立していた兵站システムが全く構築されていなかったことが、日本の決定的な弱点と言うか特性なのだろうと思います。

そんなこと、これっぽっちも考えていないと思います。
理由は簡単です。秀吉の朝鮮侵略の悲惨な結果を知っているからです。

日本の戦国時代を代表する武将の中で秀吉だけは異質ですが、それは彼が商人、現代風に言えば経済人の感覚を持っていたからです。当時の日本の経済発展のためには領土の拡大が欠かせなかったと思います。
まあ、しかし、他国への侵略という点においては、身の程を知らないというか、世界を知らないというかバカですね。先進的な欧州の植民地化の手法と比較すると幼稚極まりないと思います...続きを読む

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 ↑
勿論おりましたよ。
でも、そうした意見はマスコミが取り上げず
表にでることはありませんでした。
ネットがあれば出たでしょうが。




日本が負けてから政治もメディアも教育も、GHQの統制下にあることは
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素晴らしい!」みたいなことを言っても、
「今のメディアはアメリカに都合の良いことしか言えないよう統制されている。
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いたのです。

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だった社会主義者を使ったので、彼らが
マスコミなどの要職に就き、
見せかけが本当になってしまいました。


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表にでることはありませんでした。
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