出産前後の痔にはご注意!

存在性理論とか存在主義って聞いた事がありますか?

理解してる人いますか?

大体どういう考えか分かりますか

観るべき点はありますか?

http://www2u.biglobe.ne.jp/~yuniko37/

書き過ぎて返って分かりづらいですが

最初のところとか読みにくければ飛ばしていいので

批判してもいいです。

A 回答 (1件)

存在性理論とか存在主義って聞いた事がありますか?


 ↑
ハイ、ハルさん、という人からしょっちゅう聞かされて
います。



理解してる人いますか?
大体どういう考えか分かりますか
 ↑
理解していません。
どういう考えか判りません。



観るべき点はありますか?
 ↑
申し訳ないが、ありません。



http://www2u.biglobe.ne.jp/~yuniko37/
 ↑
もっと簡潔に説明できませんか?
    • good
    • 0
この回答へのお礼

Thank you

簡潔に書くとすれば

存在するものには殆どにそれを存在させる性質が在ります

そのものが持ってる場合もあれば、他から影響を受ける性質もありますが

存在すると言っても物質の様に循環してとどまる存在もあれば 光の様に運動だけの存在もあります

存続するか散逸するかですが、熱力学の第二法則 エントロピー増大則によって最後は崩壊し散逸、熱死へ

進んで行くと言う本もあるのです。つまり何をやっても無駄、人間の営為も熱死となって無に帰す。

永遠に無に帰す と言う考えです。私の高校の物理Ⅱの先生はこの法則には例外がない と言い切りました。

ならば人間が今戦争をしようと育児放棄しようと世界の結果は同じ 無に帰す です。

其れに対して「複雑系はエントロピーを小さくする」と言う話もありましたし

私が考えてもそんなに一方的に進む崩壊・散逸・無秩序化なら 何でビッグバン以前はエントロピーが小さかったのか 疑問です

私は宇宙はサイクリック宇宙であり 爆発してはブラックホールに集まりそのブラックホールが無数に集まって

限界が来たら爆発する と考えます。

その中で存在や物質の事ですが 存在するものは存在性によって存在する。

様々な性質が在りますがそれが何かを存在させう為に働いていれば存在性です。

存在性を代表するものは様々な引力です。引力が無かったら原子も電子もバラバラになって存在と思われるものはなくなるでしょう。

運動エネルギーもなければ循環も無理です。循環しなかたら物質も存在不可です。

その物質が太陽の恵みを受けて光合成で酸素と炭素固定、そして光エネルギーの化学エネルギー化を植物がやり

動物はそれに寄生するように生きています。その動物の猿の頭に精神が宿り。

じゃあ精神とは何か?と言うと脳の性質のネットワーク主体化による意識が精神の中心です

精神は人間の諸感覚で世界とつながっており 人間の精神は小宇宙と言われる。

そこから導か出されたのが存在主義で、存在が目的であり存在する事に価値があり

存在する事に意義があり、意味もある と言う原論中の原論です。

お礼日時:2019/03/27 22:05

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人はこんなQ&Aも見ています

関連するカテゴリからQ&Aを探す

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Q公理って何?

再び初歩的質問です。

「公理」を辞典で調べますと、

・数学で、論証がなくても自明の真理として承認され、他の命題の前提となる根本命題。

・論理学で、演繹的理論の出発点として、証明なしに採用される命題。

・現代においては、自明な命題ではなく、理論の前提となる仮定。

等の記述があります。

1.学問がないので、いまいちピンとこないのですが、具体的にはどのようなものがあるの
でしょうか?そして、どう理解したらいいのでしょうか?

2.「理論の前提となる仮定」から組み立てられた理論というものが、自然科学においても
検証されるとはいえ、何故、事実・真実と言えるのでしょうか?

Aベストアンサー

公理で一番有名なのは、平行線公理(平行線公準とも呼ばれる)でしょう。

「一つの直線上にない一点を通ってその直線は一つしかない」

この命題を証明することはできません。以前はこれを証明しようと多くの数学の天才たちが試みました。しかし誰にも証明できなかった。ロバチェフスキーが1829年に『幾何学の新原理並びに平行線の完全な理論』を発表して、彼が1826年に発見した新しい幾何学を提示して、上記の命題が証明不可能な公理であることが明らかになったのです。

ロバチェフスキーは、上記の命題の代わりに

(1)「一つの直線上にない一点を通ってその直線は何本でも引ける」

としても、数学的に無矛盾で閉じた論理体系を構築できることを明らかにしました。それがいわゆる非ユークリッド幾何学の始まりでした。この幾何学で表現されている空間は曲がった空間なのです。

その後に、リーマンが

(2)「一つの直線上にない一点を通ってその直線は一本も引けない」

としても、数学的に無矛盾で閉じた論理体系を構築できることを明らかにしました。この公理(2)が成り立つものとして構築された幾何学をリーマン幾何学と呼びます。一方、上記の公理(1)が成り立つものとして構築された幾何学をロバチェフスキー幾何学と呼びます。

さらに、リーマン幾何学の一つの具体的な例が球面状の幾何学であることもわかるようになりました。その場合この非ユークリッド幾何学を球面幾何学と呼ぶこともあります。

上記の事実の発見は、人類に多大な知的進展をもたらしました。なぜなら、自分の主張の論理的矛盾性をいかに証明しても、それでこの世界が解ったわけではないことが明らかになったからです。例えば、我々が埋め込まれている宇宙が上記のどの幾何学によって記述されている世界なのかは、論述の無矛盾性や整合性をいくら明らかにしても、判定できないことが明らかになったからです。

その判定には必ず実験や観測が必要である。すなわち論理的な理念の整合性に加え、事実はどうなのかを実験や観測で判定しなくてはならない。その判定をするのが自然科学なのです。そして数学は、命題の間の無矛盾性を論じる言語学であり、すなわち人文科学の一つであり、事実を論じる自然科学ではないことが明らかになったのです。

公理で一番有名なのは、平行線公理(平行線公準とも呼ばれる)でしょう。

「一つの直線上にない一点を通ってその直線は一つしかない」

この命題を証明することはできません。以前はこれを証明しようと多くの数学の天才たちが試みました。しかし誰にも証明できなかった。ロバチェフスキーが1829年に『幾何学の新原理並びに平行線の完全な理論』を発表して、彼が1826年に発見した新しい幾何学を提示して、上記の命題が証明不可能な公理であることが明らかになったのです。

ロバチェフスキーは、上記の命題の代わ...続きを読む

Q私は悟りました 随分前に悟りました つもりです。分かる事があれば答えます。

何か分からない事があったら素朴な疑問でもお聞かせ下さい

専門的な問題は知らない事が多いので知らない言葉は分かりませんが

何か分からない事はありませんか?

Aベストアンサー

1,悟りとは何ですか。

2,ハルさんが悟ったことが、悟りと言える
 客観的な根拠は何でしょう。
 自分でそう信じるだけなら、宗教と同じです。
 客観的な根拠が必要だと思います。

3,悟ることにより、何がどう変わりますか。

Q哲学とは何か?

哲学とは何か?この第一歩から考えてみたくなりました。

野矢茂樹氏の「ラジオ深夜便」出演の話はどなたかが紹介していましたが、
私も一度聞いたことがありました。
改めて聞いてみると、嬉しくなるほど分かりやすいと思いました。なんだか
分からない話を随分聞いてきたせいでしょうか?

どんな分野でも、言っていることが明快な人は、その中身をよく理解してい
る人で、逆に言っていることが何だかよくわからない人は、結局分かってい
ないのだという世間一般の定説は正しいものでしょう。

哲学とは何かということについて、野矢氏は、次のように述べています。

ごく簡単に哲学史を述べれば、アリストテレスは哲学を学問として捉えていた。
トマス・アクィナスにとっては、哲学は宗教であった。
デカルトは、哲学は学問の基礎であると考えていた。
現代においては、哲学者の数だけ定義が存在すると言って過言ではない。

私(野矢氏)にとって哲学とは、人間の言葉を使った複雑な思考の中の問題として
1.思考の全体を見通せていない、2.思考を支えている多くの暗黙のものを自覚し
ていない、3.全体の曖昧さ、矛盾を分からないでいる、これらの問題を解決する
ことである、と。

確かに、哲学というものの定義は、様々であることは実感していました。だから、
「さあ統一しましょう」といったところで、そううまくはゆかない。せめて、各々
の定義を理解し合えたら、もう少し意義のある対話ができるかも知れません。

さて、あなたの「哲学の定義」はというと、どういうことになりますでしょうか?

哲学とは何か?この第一歩から考えてみたくなりました。

野矢茂樹氏の「ラジオ深夜便」出演の話はどなたかが紹介していましたが、
私も一度聞いたことがありました。
改めて聞いてみると、嬉しくなるほど分かりやすいと思いました。なんだか
分からない話を随分聞いてきたせいでしょうか?

どんな分野でも、言っていることが明快な人は、その中身をよく理解してい
る人で、逆に言っていることが何だかよくわからない人は、結局分かってい
ないのだという世間一般の定説は正しいものでしょう。

哲学...続きを読む

Aベストアンサー

キリスト教が発達してからの西洋哲学は、キリスト教を隠れ蓑にしていた人間のインモラルな部分に、風を通して、本来の人間性を取り戻そう、という、初々しいものではなかったですか。

ルネサンス美術と同じで、西洋の精神世界の理想である、ギリシアの昔のように、キリスト教を離れて、自由に思考をしたかった。もう一度、自分の頭で考えてみたかった。

ギリシアで発達した哲学は、言葉遊びのきらいもありますが、(多分に、貴族の暇つぶしだったでしょう)、発想は、もっと自由で、はつらつとしたものでした。人間の尊厳の確認であったかのような印象があります。

その旗頭であるソクラテスが牢獄に繋がれ、毒をあおって死ななければならなかったため、何か、陰惨な印象を持っていましたが、何年か前、彼の牢獄であったと伝えられている岩屋を訪れる機会があり、その場所が、アクロポリスを見渡せる、風光明媚な場所であったため、何だか、足元のはしごを外された気分、というか、牢獄でさえ、知的でした。

おっしゃる通り、哲学は、対話によって、曖昧なものや無意識に受け入れていた事柄を、明確にしてゆく役割を担っているのだと思います。中世以降のヨーロッパでは、キリスト教が邪魔になりましたが、現代の日本では、いかがでしょうか。

キリスト教が発達してからの西洋哲学は、キリスト教を隠れ蓑にしていた人間のインモラルな部分に、風を通して、本来の人間性を取り戻そう、という、初々しいものではなかったですか。

ルネサンス美術と同じで、西洋の精神世界の理想である、ギリシアの昔のように、キリスト教を離れて、自由に思考をしたかった。もう一度、自分の頭で考えてみたかった。

ギリシアで発達した哲学は、言葉遊びのきらいもありますが、(多分に、貴族の暇つぶしだったでしょう)、発想は、もっと自由で、はつらつとしたものでした。人...続きを読む

Q次の文のA・B・Cの主語などを教えて下さい。

このカテの質問を読んでみましたが、私は日本語が未熟であるので、主語などがわからず、冒頭だけ挫折してしました。
次の文のA・B・Cの主語などを教えて下さい。
A(主語などは)<見解の異なるアドヴァイスは いっさい受けつけないという段階を超えている。>
B(主語などは)<すでに みづからの見解がないのである。>  C(主語などは)<ほとばしるのは・・・。>

Aベストアンサー

次のようです。

☆☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
【表題:】ほとばしる痴性 あふれる痴呆――ああ 不動明王!


【1. 表題に示した命題(そういう判断)についてですが なぜそのように
考えるのかと言えば 以下のようです。】

A 《【質問者が自分とは】見解の異なるアドヴァイス【を回答として受け取
ったとき そのアドヴァイス】は 【見解が異なるゆえ】いっさい受けつけな
い》という【ことが考えられるが いま問題とする場合は その痴呆ぶりがそ
のような】段階を 超えている。
【だから 痴性だと結論づける】。

B 【すなわち いやしくも自分自身に何らかの見解があるというのではなく 
そうではなく】すでに みづからの見解がないのである。
【ゆえに 痴性だと結論づけます】。

C 【つまり その質問において趣旨説明について見ても そこに】ほとばし
るのは・・・【痴性であると結論づけます】。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

Q地球と人間はどちらが大切なのでしょうか?

愛は地球を救うと言う夏のチャリティ番組もありますが

人間が救われないと 地球を救っても何かおかしい様な?

確かに地球環境を守るか改善しないと人間も生きて行けなくなるかもしれませんが

人間が滅びてもまた進化した知的生命体が生まれるでしょう。

しかし僕らは人間だから人間が滅びたら何になるんだろうか?

この悲惨な世界で人間が大事か 地球が大事か?

Aベストアンサー

こういう問題は、極論すると
わかりやすくなると思います。

科学技術が発達して、人間が宇宙に住めるように
なった場合を想定してください。

地球が無くなっても、人間は宇宙で生き続ける
ことが出来ます。

つまり、人間にとって、地球の存在は必須では
ないのです。

人間の方が大切です。

Q絶対善はあるのです。

私は絶対善はあると主張していますが、皆さんはそんなものなどないと否定されます。でも私が言いたい事は常識的なことなのです。

この群れ社会において最も大切なものは何か?それは群れ社会の安寧秩序です。これは社会が平穏でルールが守られ安心して暮らせることです。これを守る事が最も正しい事なのです。この群れ社会においてこれ以上大切なことはないのです。これに異論がありますか?

そしてその群れ社会の安寧秩序を守る為に最も優れた方法が「私より公を優先すること」なのです。でも「私より公を優先すること」と言われても何か分からないでしょう。ですから分かり易く言えば愛や思いやりや慈悲心などですと説明しています。これはキリストが説いた愛です、孔子が説いた仁、つまり思いやりです、そして釈迦が説いた慈悲の心です。そしてこれらに内包、共通しているのが「私より公を優先する心、行為」です。

「私より公を優先する」とは分かり易く言えば「私欲という自分の思いを少し抑えて公の為とみんなで考え行うこと」です。自分の私欲の心を少し抑えて、一人一人がみんなの為と考えることです。これは民主主義を示しています。そして「みんなの為」と考えるということは皆さん一人一人がリーダー、その群れのトップの立場に立って考えると言うことです。それは強い責任感をもって考えると言うことです。そのような心を一人一人みんながもって、みんなで考えれば最も正しい答えに辿り着ける確率が高くなるよ、ということです。これ以上に優れた方法が何かありますか? これが私の言う絶対善なのです。

その群れ社会にとって絶対的に正しいことは社会の安寧秩序であり、そのために最も優れた方法が「私より公を優先する事、つまり愛や思いやりや慈悲心」なのです。もちろんこれは最高の方法を示しているので一般的にはなかなかできないことです。しかしそれを目指す事こそが最もより良い社会が創れるのだ、と言う事なのです。

私は絶対善はあると主張していますが、皆さんはそんなものなどないと否定されます。でも私が言いたい事は常識的なことなのです。

この群れ社会において最も大切なものは何か?それは群れ社会の安寧秩序です。これは社会が平穏でルールが守られ安心して暮らせることです。これを守る事が最も正しい事なのです。この群れ社会においてこれ以上大切なことはないのです。これに異論がありますか?

そしてその群れ社会の安寧秩序を守る為に最も優れた方法が「私より公を優先すること」なのです。でも「私より公を...続きを読む

Aベストアンサー

いろいろな人がいっぱい書き込んでくれて、芯木(shinwood)さんは今回いろいろ学んだんじゃないでしょうか。芯木さんの今回の作戦の誤りは、世の中には、形式を重要視する人と実態を重要視する人の両方がいることを無視して、実態を重視する芯木さんの一方的な表現を使ってその主張がなされていることです。

「手術は成功した。しかし、患者は死んだ」

要するに、患者の生死の実態よりも、手術の手順と形式の正確さの方に興味を持つ方がこの世の中にはいくらでも居られるのです。そして、哲学好きな人にこの形式組の人がいっぱいいます。そうした方々は、言葉の使用法の形式の方に興味が優先してしまい、たとへそこで使われている言葉が不完全でもそこで言っていることの内容や実態をなんとか理解しようという方向に興味を向けない傾向にあります。

「あんたの言いたことはなんとなく判るんだが、そのような言葉の用法はその内容と矛盾しており、間違っている」

などと言って、言葉の使い方が間違っているから、あなたの言う内容も間違いだ、などと考えてしまう人もいくらでもいます。だから、芯木さんが言いたいことの本質を論じようとするのではなくて、絶対の意味などの言葉の使い方がこだわった回答が多くなっているのです。

そのような人たちは、左を指差しながら、「右、右」と言っている人の心を察することができず、その間違いを言いつのる傾向があります。この場合、常識的に見て、指を差している方向をその発信者が言いたいのは明らかですのに。

物事を論じるためには、その内容も、その言葉の使い方も、両方とも重要です。しかし、その両方を同時に論じることにどれだけの生産性があるか、自明ではありません。大論文でもない限り、それを意識せずに両方とも同時に論じてしまうと誤解を招き、混乱さえ起こしかねません。ですから、何かを論じる場合には、内容か、形式か、そのどちらにより重点を置いているのか、文面から明確にわかるように書いておく方が、生産的な議論のやり取りができます。

ここでの主題は「公に対する奉仕」なのだと思いますが、例えば、「公」という言葉一つとっても、人によってその意味がだいぶ違い、芯木さんが言いたい意味では受け取ってくれない場合が散見されます。いわんや、「絶対」などという、一神教の影響を受けた西洋文化大好連中が好んで使う言葉は、哲学好みの人たちには刺激的すぎて芯木さんの言いたい内容よりも、その刺激的な言葉に拘ってしまう人がいくらでもいます。

出来るだけ刺激的な言葉を避けてご自分で言いたいことを表現することを工夫すると、芯木さんのご主張に賛同する方も増えるのではないでしょうか。また、どうしても「絶対」と言う言葉を使いたいならば、論述を始める前に、ここでのこの言葉は、、、、を意味するものとして特殊な使い方をしている、などと一言を入れておくと、読者もそのつもりで読んでくださると思います。

いろいろな人がいっぱい書き込んでくれて、芯木(shinwood)さんは今回いろいろ学んだんじゃないでしょうか。芯木さんの今回の作戦の誤りは、世の中には、形式を重要視する人と実態を重要視する人の両方がいることを無視して、実態を重視する芯木さんの一方的な表現を使ってその主張がなされていることです。

「手術は成功した。しかし、患者は死んだ」

要するに、患者の生死の実態よりも、手術の手順と形式の正確さの方に興味を持つ方がこの世の中にはいくらでも居られるのです。そして、哲学好きな人にこの形式...続きを読む

Qキリスト教や仏教やイスラム教やヒンドゥー教等は 何とか統一できないものか?

宗教が統一できれば世界的に平和にも近づくのではないでしょうか

どうやるのかは分かりませんが 統一教会はキリスト教の神霊を統一しようとして失敗した

キリスト教に拘らず 全ての人に 無宗教の人にも納得の行く教えを練り出せないものか?

まずはそれらの宗教の代表が会議してる様なので もっと危機感を持って

自分から変わる意識を持って 緊張感を持って月に一度でも2週に一度でも会議を2,3日

かけても何とかして宗教が協力して進化する様な宗教哲学を活性化出来ないものでしょうか?

Aベストアンサー

宗教間対話は、共通の目的を、確認し合う事からだと思います
その第一が
「生存の権利は、誰人と言えども、いかなる理由であっても
これを犯してはならない」
と言う事です

ダライラマ等が参加する、宗教間の対話など
ただのパフォーマンスに過ぎず、下心がミエミエで
何の問題の解決にもなりません

宗教間対話」のあり方として
「積極的寛容」を提示しなければなりません
①それぞれの宗教が「原点の心」に基づく、
②「独自性」と「共通性」を自覚する、
③自己の宗教の「創造的発展」、
④人類的課題の克服に協調することを目的とする
等が挙げられます、

柳沼正広氏による第2章「キリスト教と諸宗教 宗教の神学」では、
キリスト教が他の諸宗教をどのように考えてきたかが述べられています。
諸宗教に対する考え方として、
排他主義、包括主義、多元主義、多元主義への批判を取り上げています。
他宗教を理解する努力のなかで、
自身の宗教への理解や反省が深められていく
宗教間対話の持つ重要性について論じています。

中国における中心的な思想である儒教に対して、
外来宗教である仏教と、儒教より後に成立した道教が
、自らの立場を主張しつつ、互いに交流と対話を
行ってきた歴史を辿っています

統合、に必要なものは「信」です
「不信」が統合を不可能にしています
宗教間の争いを無くすには
信頼関係を結び、友好、交流活動の継続しかありません

信は  結合 善 勇気 幸福 平和 不可能を可能にします
不信は 分断 悪 臆病 不幸 戦争 可能を不可能にします

宗教間対話は、共通の目的を、確認し合う事からだと思います
その第一が
「生存の権利は、誰人と言えども、いかなる理由であっても
これを犯してはならない」
と言う事です

ダライラマ等が参加する、宗教間の対話など
ただのパフォーマンスに過ぎず、下心がミエミエで
何の問題の解決にもなりません

宗教間対話」のあり方として
「積極的寛容」を提示しなければなりません
①それぞれの宗教が「原点の心」に基づく、
②「独自性」と「共通性」を自覚する、
③自己の宗教の「創造的発展」、
④人類的課題の克服に協調...続きを読む

Q哲学カテ界隈で話が噛み合わない現象が起きるのは何故だと思いますか?

タイトル通りです
自分で色々考えてますがたまには
他人の意見聞いてみたくなったので質問しました

私個人の現在の考えでは
「質問という体で問いかけしてるが
実際は(質問者にとって)優秀な弟子、賛同者が
欲しいだけなんとちゃうかな」
って考えが主流となってますね

「話が噛み合わない現象なんて起きてないよ!」
って思う人はこの質問スルーしてください
尚、この質問は哲学的な問答を求めていません
アンケートみたいなものです

Aベストアンサー

>私個人の現在の考えでは
「質問という体で問いかけしてるが
実際は(質問者にとって)優秀な弟子、賛同者が
欲しいだけなんとちゃうかな」
って考えが主流となってますね

顕著ですね。
基本的に素人の集まりにすぎないので、質疑を交わすこと自体が問題を次第に掘り下げていく形になる場合が多いと思います。
持論を述べるのはむしろたたき台として必要なわけですが、しかし、賛同者を求めるのが目的の人は、その過程を重視せずに、相手を持論に引きずり込むことだけを考えている。
最初から質問が目的じゃないので噛み合うはずがない。

そういった輩と、真摯に何かを探求しようとする人との違いは、論理的な根拠を示しつつ持論を展開しているかどうか、という点。
賛同を求める乞食の輩は、論理的な根拠が提示できなくなると、強引にかぶせてきますからすぐに判別できる。
どうでも良い箇所では物分かりの良い顔して猫なで声を出すのが得意ですが、いざ本丸に攻め込まれると見境も無く髪を振り乱してあたふた大声で怒鳴り散らす。
おだてられての木登りも大得意。

それでも論理を辿ることさえお互いできれば、そんなに大きな齟齬は生じないものです。
で、そういう輩に限って、自分の質問に回答がひとつもつかなかったりすると、自分の頭が良すぎて他人には理解できないのだ、などと妄想に浸りつつ、ひとり悦にいったりする。
ダダを捏ねる赤ん坊みたいなもので、誰か面倒を見てくれる人がいると世の中は平和で助かる。
見解の相違だね、とお互いに質疑を保留できる余裕があるうちは、可能性がまだある。

>私個人の現在の考えでは
「質問という体で問いかけしてるが
実際は(質問者にとって)優秀な弟子、賛同者が
欲しいだけなんとちゃうかな」
って考えが主流となってますね

顕著ですね。
基本的に素人の集まりにすぎないので、質疑を交わすこと自体が問題を次第に掘り下げていく形になる場合が多いと思います。
持論を述べるのはむしろたたき台として必要なわけですが、しかし、賛同者を求めるのが目的の人は、その過程を重視せずに、相手を持論に引きずり込むことだけを考えている。
最初から質問が目的じゃな...続きを読む

Q真理を知ってる人は居ますか。居るとすれば誰でしょうか?

あなたは真理を知ってる人を見たり聞いたりしたことがありますか?

お釈迦様でしょうか? イエス様でしょうか? 神様でしょうか?文豪でしょうか?

詩人でしょうか?

それともあなたの知ってる人に真理を幾らかでも知ってる人が居ましたか?

Aベストアンサー

器の小さい人、足元しか見えない人、先入観を抱いている人、
色眼鏡を掛けている人、自分を知らない人に真理は分かりません、
無智無学無能偏見な人は、邪説を心理と勘違いします

暗い洞窟で、生まれてから今日まで過ごしてきた人に
青い空と緑の大地の話をする人を迫害します
(プラトンの喩えから)

ガンジーは
「無関心 嘲笑 非難 抑圧 を突き抜けて 尊敬の段階に入る」
と言いました

その人は、最も、無関心 嘲笑 非難 抑圧された人かもしれません
高い山ほど、風当たりが強いからです

Qヨーロッパ人の真理論は成っていない!?

1. 次の見解に示されたヨーロッパ人の真理論は どの説もあやふやであり 成
っていない。という見解を示して問います。

2. ▲ (ヰキぺ:真理) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%90%86

§ 1 西洋哲学における真理論

真理とは何か、についての研究を真理論という。以下に代表的な説を挙げる。

A. 真理の対応説(correspondent theory of truth):「思惟」と「事物」(羅:
res、レス)が一致ないし対応していることが真理であるとする。

アリストテレス、トマス・アクィナス、イマヌエル・カント、カール・マルクス、
バートランド・ラッセル、前期ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン、アルフレッ
ド・タルスキ、カール・ポパー

B. 真理の整合説:他の命題と整合的な認識が真理であるとする。公理的で演繹的
な真理観。
    
中期プラトン、ライプニッツ、スピノザ、ヘーゲル

C. 真理の明証説:意識に対して明証的に現れるものを真理とみる。
    
ルネ・デカルト、エトムント・フッサール

D. 真理の実用説(有用説):生にとって有効・実用的な認識を真理であるとする。
    
フリードリヒ・ニーチェ、ウィリアム・ジェイムズ

E. 真理の合意説:合意された認識を真理であるとする。
    
チャールズ・サンダース・パース、ユルゲン・ハーバーマス

F. 真理の定義不可能説:命題 P は命題「命題 P は真である」と同値であるから、
真理の概念は定義不可能であるという立場。
    
フレーゲ

G. 真理の余剰説(redundancy theory of truth):命題 P は命題「命題 P は真
である」と同値であるから、真理の概念は無用な余剰であるとする。
    
フランク・ラムゼイ

H. 規約主義:真理はその言語体系における規約に依存するという立場。
    
アンリ・ポアンカレ、デュエム、オットー・ノイラート
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

3. ▲ B. 真理の整合説:他の命題と整合的な認識が真理であるとする。公理
的で演繹的な真理観。
☆ にちなんで言うとすれば 大前提を《公理》ではなく 《想定》とするとよい
のだ。経験合理性を超えた絶対的な整合性の世界――それは 人間には分かるか分
からないかが分からないナゾである――を 真理として想定しますよと。


4. 《イデア》では ダメである。いや 真理と想定したものを《イデア》と名
づけたというだけなら よいのである。つまり イデアなる絶対真理の世界からこ
の仮象の経験世界のものごとを《演繹》して来ては ダメである。絶対と相対とが
――人間の思考において/によって――つながったことに成ってしまう。人間が勝手
につなげたことになる。自然の驚異かつ脅威は 神の怒りであり天罰だという説を
みちびく。

5. 経験合理性による《整合性》だけでは ダメなのである。なぜなら想定によ
れば 真理は 人知を超えており 人間に理解しうる整合性から自由であるのだか
ら。有無を超えており 善悪の此岸ではなく彼岸であり 或る意味で人間の判定す
る真偽をも超えている。


6. ▲ B. 真理の整合説:他の命題と整合的な認識が真理であるとする。
☆ だから これはマチガイである。《いくつかの命題》を 経験世界において並
列させても それらを真理は超えており それらから真理は自由であるのだから。


7. 言いかえると 経験事象にかんしてさまざまな認識をおこない命題(その判
断)として提出する。その命題の真偽がどうかという問題は 相対的な真実を問う
ている。絶対としての真理ではない。


8. まづ 《事実》について人は認識する。これを自己表現する。その命題につ
いて まづその当人については 《明証性》があるなら 主観真実であると見なさ
れる。――これが:
▲ C. 真理の明証説: 意識に対して明証的に現れるものを真理とみる。
☆ であり これは 厳密な定義としては 真理ではなく 相対的な真実のことで
ある。


9. すなわち ここから《明証性に立つ主観真実》が その認識内容として《事
実》と合っているなら それは一般に《事実認識》として認め合われる。(ただし 
真理ではなく 真実である)。すなわち:
▲ A. 真理の対応説(correspondent theory of truth):「思惟」と「事物」
(羅:res、レス)が一致ないし対応していることが真理であるとする。


10. そのことをもう少し具体的に細かく見てみよう。この一人のひとの主観真
実が 当の事実と照らし合わせてほかの人たちによって検証される。やはり同じく
自己の主観において真実として見解を同じくするなら そこでは 主観の共同化が
成る。


11. この主観共同化が 地域を超えて歴史を超えて共有されるなら――たとえ
ば意志自由とその相互尊重にもとづく民主制なる理念など―― これは 共同主観
(コモンセンス)と呼ばれる。これは 或る程度普遍的な真実であると見なされる。
すなわち 次の説に相当する。(ただし 真理ではなく 真実である):
▲ E. 真理の合意説:合意された認識を真理であるとする。


12. 地域や民族の文化などによってその普遍性が狭まれたなら 共同主観は 
部分的な真実となる。(ただし 真理ではなく 真実である):
▲ D. 真理の実用説(有用説):生にとって有効・実用的な認識を真理であると
する。
 


13. 民族(≒その一定の言語)の文化をさらにその独自性において重く見る立
ち場では この《部分真実》をさらに限定するようである。(ただし 真理ではな
く 真実である):
▲ H. 規約主義:真理はその言語体系における規約に依存するという立場。


14. この部分真実を けっきょく一人の個人(つまりその人の主観)にまでも
う一度収縮させたものが 次の見解である。われが思えば・言葉で語るならば そ
れが《真実》である。のだから それの共同化などは 問う必要はないと。(ただ
し 真理ではなく 真実である):
▲ G. 真理の余剰説(redundancy theory of truth):命題 P は命題「命題 Pは
真である」と同値であるから、真理の概念は無用な余剰であるとする。


15. それではあまりにも独りよがりではないかと批判されたときには ふたた
びのようにこの相対世界を超えて 絶対の真理なる桃源郷を提示する道にのがれる。:
▲ F. 真理の定義不可能説:命題Pは命題「命題Pは真である」と同値であるから、
真理の概念は定義不可能であるという立場。

☆ これは《真理》を言おうとはしているのである。 つまり(3)に戻って 真
理を 《非知――知り得るか知り得ないかが人間には知り得ないナゾ――》として
想定すればよい地点に戻っている。

16. ご批判をどうぞ。賛成票をもどうぞ。

1. 次の見解に示されたヨーロッパ人の真理論は どの説もあやふやであり 成
っていない。という見解を示して問います。

2. ▲ (ヰキぺ:真理) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%90%86

§ 1 西洋哲学における真理論

真理とは何か、についての研究を真理論という。以下に代表的な説を挙げる。

A. 真理の対応説(correspondent theory of truth):「思惟」と「事物」(羅:
res、レス)が一致ないし対応していることが真理で...続きを読む

Aベストアンサー

我が家の神棚には、祓い清められたお神札があって、真理とは斯く斯くと書かれている。耶蘇教のお札は捨て、須く各人もこれにならうべし。
という主張になっていないかをちょっと検討しましょうか。ご自身の真理説を正面に打ち出す論考ではないという点は割り引くつもりですが、対質に充分かは問題とします。

ウィキペの説明を利用した、「想定すればよい地点に戻っている」という論法は殆ど無意味でしょう。ウィキペのならべた立場は、何方かの記述を参照したのかも知れませんが、まあ言わば素朴実在論を基とした上での分類に過ぎない。真理概念無用とか定義不可能とかを同列にならべるなど、無雑作に集めたに近い。

真理と真実とを区別して、大半が後者に過ぎないというのが、ご批判の基調になっています。その中で、規約主義を<部分真実>としています。bragelloneさんの見解からはそうだとしても、彼らが実際に、何を「真理」としてそれを言っているのかの検討は不要なのか。言語に依存するという側面から、相対的・限定的だろうと見るのは可能であるとしても、対象とされる「真理」は果たして相対的と見うるものか。真理・真実の区別の可否に関わらないか。言語を問題とする人たちが語る「真理」とbragelloneさんの「真理」は、真理・真実の区別とも違う、ということはないのか。言い換えると、言語の問題と見るという時点で、「真理」概念がそれまでのものと大きく変わっている、と見られるのではないか。

例えば、bragelloneさんの言う「事実認識」の例で考えてみましょうか。
10kgの鉄球と500gの木の玉とを同時に手を離して、どちらが先に地面に着くか。義務教育の悪い影響を受けていない人なら、鉄球と答えるでしょう。手に持っただけでもう分かる。強い力で引かれているから重い。より強い力はより速い速度を生む。さあ、両手に持って同時に落としてみましょうか。鉄の方が先に地面に着く!
「重たいものは先に落ちる」は真実であっても、真理とは呼ばない、というのがbragelloneさんの「真理・真実」の解釈ですね。それは規約主義にとっても真理ではないだろう。理論「重たいものは先に落ちる」と実験結果とが一致したとしても、理論の蓋然性が増しただけである、としているのではないだろうか。実際の規約主義を知りませんが、おそらく、realな事柄についての「真理」には触れないのではないか。
しかし、ガリレオ・ガリレイにとってはそうではなかった。理論「重たいものは先に落ちる」が、真理であるのか否かは実験によって厳密に検証されるべき事柄だったはず。解明されるべき・解明された自然の法則を、真理と呼ばない方がどうかしている。ガリレオは自然学者で哲学者ではない、などという解釈は西洋の学問を知らない者でしょう。
その理論・実験を「真理の対応説」に填めて、十把一絡げに数え上げたのがウィキペですね。bragelloneさんの見解も、そこにあるのは事象の説明原理として認証されたものに過ぎない、として精々「真実」なのだ、とする。

さて、ヨーロッパ人ではない者として、「真理」と「真実」は分けなければならない言葉なのか。別概念として、現に日本人に在るのか。
哲学なるものを勉強し始めた若者とか、学問を目指そうと目覚めた者なら、「真理を求める」とか何とか思うかも知れない。その時は神棚に奉られるようなものと思っているのかも知れない。しかし少し反省すれば、「真理」を奉るというのは、馬の鼻先に人参をぶら下げるのと同じこと、と分かるのではないか。「真理」なるものがあると思うのも、真理と真実とを区別するのも、その人の自由。私にとっては、先に来るのは「正しい」であって、「それは真理だ」とか「真実だ」などという表現は気取ってみたときしか出てこない。精々、有形であれば「真実」、無形は「真理」、どっちで良いときは「真」と使い分けるか、というところ。
因みに、我が家に神棚はない。

我が家の神棚には、祓い清められたお神札があって、真理とは斯く斯くと書かれている。耶蘇教のお札は捨て、須く各人もこれにならうべし。
という主張になっていないかをちょっと検討しましょうか。ご自身の真理説を正面に打ち出す論考ではないという点は割り引くつもりですが、対質に充分かは問題とします。

ウィキペの説明を利用した、「想定すればよい地点に戻っている」という論法は殆ど無意味でしょう。ウィキペのならべた立場は、何方かの記述を参照したのかも知れませんが、まあ言わば素朴実在論を基とした...続きを読む


このQ&Aを見た人がよく見るQ&A

人気Q&Aランキング