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1. 次の見解に示されたヨーロッパ人の真理論は どの説もあやふやであり 成
っていない。という見解を示して問います。

2. ▲ (ヰキぺ:真理) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%90%86

§ 1 西洋哲学における真理論

真理とは何か、についての研究を真理論という。以下に代表的な説を挙げる。

A. 真理の対応説(correspondent theory of truth):「思惟」と「事物」(羅:
res、レス)が一致ないし対応していることが真理であるとする。

アリストテレス、トマス・アクィナス、イマヌエル・カント、カール・マルクス、
バートランド・ラッセル、前期ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン、アルフレッ
ド・タルスキ、カール・ポパー

B. 真理の整合説:他の命題と整合的な認識が真理であるとする。公理的で演繹的
な真理観。
    
中期プラトン、ライプニッツ、スピノザ、ヘーゲル

C. 真理の明証説:意識に対して明証的に現れるものを真理とみる。
    
ルネ・デカルト、エトムント・フッサール

D. 真理の実用説(有用説):生にとって有効・実用的な認識を真理であるとする。
    
フリードリヒ・ニーチェ、ウィリアム・ジェイムズ

E. 真理の合意説:合意された認識を真理であるとする。
    
チャールズ・サンダース・パース、ユルゲン・ハーバーマス

F. 真理の定義不可能説:命題 P は命題「命題 P は真である」と同値であるから、
真理の概念は定義不可能であるという立場。
    
フレーゲ

G. 真理の余剰説(redundancy theory of truth):命題 P は命題「命題 P は真
である」と同値であるから、真理の概念は無用な余剰であるとする。
    
フランク・ラムゼイ

H. 規約主義:真理はその言語体系における規約に依存するという立場。
    
アンリ・ポアンカレ、デュエム、オットー・ノイラート
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

3. ▲ B. 真理の整合説:他の命題と整合的な認識が真理であるとする。公理
的で演繹的な真理観。
☆ にちなんで言うとすれば 大前提を《公理》ではなく 《想定》とするとよい
のだ。経験合理性を超えた絶対的な整合性の世界――それは 人間には分かるか分
からないかが分からないナゾである――を 真理として想定しますよと。


4. 《イデア》では ダメである。いや 真理と想定したものを《イデア》と名
づけたというだけなら よいのである。つまり イデアなる絶対真理の世界からこ
の仮象の経験世界のものごとを《演繹》して来ては ダメである。絶対と相対とが
――人間の思考において/によって――つながったことに成ってしまう。人間が勝手
につなげたことになる。自然の驚異かつ脅威は 神の怒りであり天罰だという説を
みちびく。

5. 経験合理性による《整合性》だけでは ダメなのである。なぜなら想定によ
れば 真理は 人知を超えており 人間に理解しうる整合性から自由であるのだか
ら。有無を超えており 善悪の此岸ではなく彼岸であり 或る意味で人間の判定す
る真偽をも超えている。


6. ▲ B. 真理の整合説:他の命題と整合的な認識が真理であるとする。
☆ だから これはマチガイである。《いくつかの命題》を 経験世界において並
列させても それらを真理は超えており それらから真理は自由であるのだから。


7. 言いかえると 経験事象にかんしてさまざまな認識をおこない命題(その判
断)として提出する。その命題の真偽がどうかという問題は 相対的な真実を問う
ている。絶対としての真理ではない。


8. まづ 《事実》について人は認識する。これを自己表現する。その命題につ
いて まづその当人については 《明証性》があるなら 主観真実であると見なさ
れる。――これが:
▲ C. 真理の明証説: 意識に対して明証的に現れるものを真理とみる。
☆ であり これは 厳密な定義としては 真理ではなく 相対的な真実のことで
ある。


9. すなわち ここから《明証性に立つ主観真実》が その認識内容として《事
実》と合っているなら それは一般に《事実認識》として認め合われる。(ただし 
真理ではなく 真実である)。すなわち:
▲ A. 真理の対応説(correspondent theory of truth):「思惟」と「事物」
(羅:res、レス)が一致ないし対応していることが真理であるとする。


10. そのことをもう少し具体的に細かく見てみよう。この一人のひとの主観真
実が 当の事実と照らし合わせてほかの人たちによって検証される。やはり同じく
自己の主観において真実として見解を同じくするなら そこでは 主観の共同化が
成る。


11. この主観共同化が 地域を超えて歴史を超えて共有されるなら――たとえ
ば意志自由とその相互尊重にもとづく民主制なる理念など―― これは 共同主観
(コモンセンス)と呼ばれる。これは 或る程度普遍的な真実であると見なされる。
すなわち 次の説に相当する。(ただし 真理ではなく 真実である):
▲ E. 真理の合意説:合意された認識を真理であるとする。


12. 地域や民族の文化などによってその普遍性が狭まれたなら 共同主観は 
部分的な真実となる。(ただし 真理ではなく 真実である):
▲ D. 真理の実用説(有用説):生にとって有効・実用的な認識を真理であると
する。
 


13. 民族(≒その一定の言語)の文化をさらにその独自性において重く見る立
ち場では この《部分真実》をさらに限定するようである。(ただし 真理ではな
く 真実である):
▲ H. 規約主義:真理はその言語体系における規約に依存するという立場。


14. この部分真実を けっきょく一人の個人(つまりその人の主観)にまでも
う一度収縮させたものが 次の見解である。われが思えば・言葉で語るならば そ
れが《真実》である。のだから それの共同化などは 問う必要はないと。(ただ
し 真理ではなく 真実である):
▲ G. 真理の余剰説(redundancy theory of truth):命題 P は命題「命題 Pは
真である」と同値であるから、真理の概念は無用な余剰であるとする。


15. それではあまりにも独りよがりではないかと批判されたときには ふたた
びのようにこの相対世界を超えて 絶対の真理なる桃源郷を提示する道にのがれる。:
▲ F. 真理の定義不可能説:命題Pは命題「命題Pは真である」と同値であるから、
真理の概念は定義不可能であるという立場。

☆ これは《真理》を言おうとはしているのである。 つまり(3)に戻って 真
理を 《非知――知り得るか知り得ないかが人間には知り得ないナゾ――》として
想定すればよい地点に戻っている。

16. ご批判をどうぞ。賛成票をもどうぞ。

A 回答 (7件)

我が家の神棚には、祓い清められたお神札があって、真理とは斯く斯くと書かれている。

耶蘇教のお札は捨て、須く各人もこれにならうべし。
という主張になっていないかをちょっと検討しましょうか。ご自身の真理説を正面に打ち出す論考ではないという点は割り引くつもりですが、対質に充分かは問題とします。

ウィキペの説明を利用した、「想定すればよい地点に戻っている」という論法は殆ど無意味でしょう。ウィキペのならべた立場は、何方かの記述を参照したのかも知れませんが、まあ言わば素朴実在論を基とした上での分類に過ぎない。真理概念無用とか定義不可能とかを同列にならべるなど、無雑作に集めたに近い。

真理と真実とを区別して、大半が後者に過ぎないというのが、ご批判の基調になっています。その中で、規約主義を<部分真実>としています。bragelloneさんの見解からはそうだとしても、彼らが実際に、何を「真理」としてそれを言っているのかの検討は不要なのか。言語に依存するという側面から、相対的・限定的だろうと見るのは可能であるとしても、対象とされる「真理」は果たして相対的と見うるものか。真理・真実の区別の可否に関わらないか。言語を問題とする人たちが語る「真理」とbragelloneさんの「真理」は、真理・真実の区別とも違う、ということはないのか。言い換えると、言語の問題と見るという時点で、「真理」概念がそれまでのものと大きく変わっている、と見られるのではないか。

例えば、bragelloneさんの言う「事実認識」の例で考えてみましょうか。
10kgの鉄球と500gの木の玉とを同時に手を離して、どちらが先に地面に着くか。義務教育の悪い影響を受けていない人なら、鉄球と答えるでしょう。手に持っただけでもう分かる。強い力で引かれているから重い。より強い力はより速い速度を生む。さあ、両手に持って同時に落としてみましょうか。鉄の方が先に地面に着く!
「重たいものは先に落ちる」は真実であっても、真理とは呼ばない、というのがbragelloneさんの「真理・真実」の解釈ですね。それは規約主義にとっても真理ではないだろう。理論「重たいものは先に落ちる」と実験結果とが一致したとしても、理論の蓋然性が増しただけである、としているのではないだろうか。実際の規約主義を知りませんが、おそらく、realな事柄についての「真理」には触れないのではないか。
しかし、ガリレオ・ガリレイにとってはそうではなかった。理論「重たいものは先に落ちる」が、真理であるのか否かは実験によって厳密に検証されるべき事柄だったはず。解明されるべき・解明された自然の法則を、真理と呼ばない方がどうかしている。ガリレオは自然学者で哲学者ではない、などという解釈は西洋の学問を知らない者でしょう。
その理論・実験を「真理の対応説」に填めて、十把一絡げに数え上げたのがウィキペですね。bragelloneさんの見解も、そこにあるのは事象の説明原理として認証されたものに過ぎない、として精々「真実」なのだ、とする。

さて、ヨーロッパ人ではない者として、「真理」と「真実」は分けなければならない言葉なのか。別概念として、現に日本人に在るのか。
哲学なるものを勉強し始めた若者とか、学問を目指そうと目覚めた者なら、「真理を求める」とか何とか思うかも知れない。その時は神棚に奉られるようなものと思っているのかも知れない。しかし少し反省すれば、「真理」を奉るというのは、馬の鼻先に人参をぶら下げるのと同じこと、と分かるのではないか。「真理」なるものがあると思うのも、真理と真実とを区別するのも、その人の自由。私にとっては、先に来るのは「正しい」であって、「それは真理だ」とか「真実だ」などという表現は気取ってみたときしか出てこない。精々、有形であれば「真実」、無形は「真理」、どっちで良いときは「真」と使い分けるか、というところ。
因みに、我が家に神棚はない。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます

★ ウィキペの説明を利用した、「想定すればよい地点に戻っている」とい
う論法は殆ど無意味でしょう。
☆ これは:
★ ご自身の真理説を正面に打ち出す論考ではないという点
☆ にかかわっています。長くなりすぎるので 致し方ないところです。


★ 真理と真実とを区別して、大半が後者に過ぎないというのが、ご批判の
基調になっています。
☆ はい。間違いありません。

★ その中で、規約主義を<部分真実>としています。・・・言語の問題と
見るという時点で、「真理」概念がそれまでのものと大きく変わっている、
と見られるのではないか。
☆ おそらく《西洋哲学》という土壌の上にあるかぎり 特別の扱いは要ら
ないのではないでしょうか?


★ 「重たいものは先に落ちる」は真実であっても、真理とは呼ばない、と
いうのがbragelloneさんの「真理・真実」の解釈ですね。
☆ いや その事実は 空気抵抗によるのであって それがなければ落下速
度は同じだということではないのですか?

それも 経験事象についての事実認識であり 共同化された主観真実ですね。


★ 解明されるべき・解明された自然の法則を、真理と呼ばない方がどうか
している。ガリレオは自然学者で哲学者ではない、などという解釈は西洋の
学問を知らない者でしょう。
☆ それは 二段階に分けて捉えればよろしいでしょう。第二段階は 形而
上学を持ち出す場合です。


★ さて、ヨーロッパ人ではない者として、「真理」と「真実」は分けなけ
ればならない言葉なのか。別概念として、現に日本人に在るのか。
☆ ここも 広い視野での哲学とすれば 第一に世間の通念に合わせた事実
認識や主観真実の問題として扱い 第二には哲学固有の概念整理として 真
理と真実とを分けて捉える。


★ 私にとっては、先に来るのは「正しい」であって、「それは真理だ」と
か「真実だ」などという表現は気取ってみたときしか出てこない。精々、有
形であれば「真実」、無形は「真理」、どっちで良いときは「真」と使い分
けるか・・・。
☆ 《絶対》という言葉を 相対的な経験事象についても 強調の用法とし
てしょっちゅう人びとは使っています。

そこから自由な場として哲学は存在するということになっています。それな
りの存在理由があるはずです。

お礼日時:2019/03/29 20:04

>これは やはり経験事象についての問題である。

と見ます。…つまり 別様に真理論にかかわっているはずなんです。
---もちろん真理論に関わっているわけですが、「それを別様で有るとか、どうとか」と述べている言語、その言語そのものを問題としているのだから、「《神》とは別です」とかではない、と言ってくるでしょう。まあ、私が代弁することではありませんが。

>つまり 《さだまった認識が得られるか得られないかが つねに分からない》ということ。これが 超経験・絶対性・無限です。
---さだまった認識が得られるか得られないかが、「今」分からない、と言うことを、超経験とか絶対性とか無限とか呼ぶいわれはない、と私なら思います。

堂々巡り状態とも見えますので、この辺りでおきましょう。丁寧にご返答を頂きましたが、当初申し上げたとおりの認識を確認したというところです。
ただ一点言い訳をしておきます。「真理と真実とを区別するのも、その人の自由」と書きながら、一方自由であろうかという論法になっていました。「絶対としての真理」なる想定そのものは、私の理解の範疇外ですから、一旦はその想定があることを認めなければ、対話にならない、ということから来る分裂であったと言うこと。真理論がどうだというレベルのものではありませんが、「真理」なる言葉はそれぞれが勝手に使って良いという訳にはいかないだろう、とも思います。
では、失礼。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★★ 不完全性定理
★---もちろん真理論に関わっているわけですが、「それを別様で有るとか、どう
とか」と述べている言語、その言語そのものを問題としているのだから、「《神》
とは別です」とかではない、と言ってくるでしょう。・・・
☆ そうですね。少し考えを変えますが この定理は それ自体では 真理論に
触れてはいない。と思います。ですから 《〈神〉とは別です》というのではな
く 《神の議論とは 別である》というべきでした。



☆☆ >《認識するにあたって コンセンサスがない》ということ・つまり《さ
だまった認識が得られるか得られないかが つねに分からない》ということ。こ
れが 超経験・絶対性・無限です。
★ ---さだまった認識が得られるか得られないかが、「今」分からない、と言う
ことを、超経験とか絶対性とか無限とか呼ぶいわれはない、と私なら思います。
☆ 《コンセンサスがない》つまり《コンセンサスを得ることができない問題だ
と証明された》なら 認識にとって《不可知》です。

《コンセンサスを得ることができるか・できないかが分からない》場合は 非知
であり それは 絶対性・無限である。つまりそういう想定じょうの(仮説法に
よる)定義そのものです。


★ 堂々巡り状態とも見えますので、この辺りでおきましょう。丁寧にご返答を
頂きましたが、当初申し上げたとおりの認識を確認したというところです。
☆ 残念ですが 無理にお引き留めすることもむつかしい。

★ ただ一点言い訳をしておきます。「真理と真実とを区別するのも、その人の
自由」と書きながら、一方自由であろうかという論法になっていました。・・・
☆ 了解しました。


★ 真理論がどうだというレベルのものではありませんが、「真理」なる言葉は
それぞれが勝手に使って良いという訳にはいかないだろう、とも思います。
☆ ですから アブダクションの手法によるものながら 定義して用いています。

たぶん この問題は 結着がつくまで尾を引くとは思います。おつかれさまでし
た。

お礼日時:2019/04/05 20:36

>これを 未知でも不可知でもなく 非知と呼ぶこととしています。


---どう呼ぶかは私の関知するところではないのですが、「コンセンサスはない」のは、諸外国人で日本語の「神」と訳すことにも異を唱えたり、或いは知識人なら何らか高度な意味を付けた積もりになるとして、いや、神と言えば大国サンだろうという方もいないとは言えない。神云々にコメントを返す気がないという意味で、神棚はない、としておきます。

>物別れにすることができるということです。
---私のちょっとソフトに表現した「物別れ」の意味とズレますね。このサイトで言えば、一方が、もう彼にはコメントを返すのを止める・受けるのを拒絶する、という事態を含む意味でしたが。

前二回と今回も、言語を問題とする人たちが、という件で付け加えて居るのですが、
>実態は 《言語矛盾かどうか》が人間には思考も認識もできないんです。出来るかどうかが分からない。
---素人の私の「言語矛盾」という表現が適当でないのかも知れませんが、規約主義とか定義不能とかを持ち出す方々は、矛盾を示すでしょう。自己言及型の矛盾とか、ゲーデルの不完全性定理とかの類いを持ち出す。数理的論理学上の矛盾、あるいは証明する式の不存在の証明。そこにある線引きは、彼らから見れば、踏み越えるのは論外である。それを認めないなら、討論の相手とは見ない、ということになるのだろう、と外野の素人は見ます。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

☆☆>これを 未知でも不可知でもなく 非知と呼ぶこととしています。
★---どう呼ぶかは私の関知するところではないのですが、
☆ でも その区別が大事だと考えます。《可知(既知・未知)および不可知》は
認識の対象となる経験事象に属します。

ところが 《非知》は 超経験の場を想定しつつその認識のあり方が 《対象に成
るとも成らないとも分からないナゾ》だと説明することになります。

★ ・・・「コンセンサスはない」のは、諸外国人で日本語の「神」と訳すことに
も異を唱えたり、或いは知識人なら何らか高度な意味を付けた積もりになるとして、
いや、神と言えば大国サンだろうという方もいないとは言えない。神云々にコメン
トを返す気がないという意味で、神棚はない、としておきます。
☆ ここが 大事なところではないでしょうか? 《認識するにあたって コンセ
ンサスがない》ということ・つまり 《さだまった認識が得られるか得られないか
が つねに分からない》ということ。これが 超経験・絶対性・無限です。


★---「物別れ」:一方が、もう彼にはコメントを返すのを止める・受けるのを拒絶
する、という事態を含む意味でしたが。
☆ それなら 対話(問い求め)の中断を意味します。再開したあとの双方の認識
いかんが問題になります。



★ 「言語矛盾」:定義不能
☆ これは 《認識をさだまったかたちで持ち得た》ことを意味します。《定義不
能》と《分かった》ということです。おそらく《未知》という分類に入ると思いま
す。《知り得ないと証明し得た》場合には 《不可知》に分類されます。――いづ
れにしても 経験事象に属します。


★ 不完全性定理
☆ 暴論になりましょうが これは やはり経験事象についての問題である。と見
ます。《神》とは別です。強いて言えば 《無い神》派でしょう。つまり 別様に
真理論にかかわっているはずなんです。

お礼日時:2019/04/04 19:42

まとめをし、閉じると言うことで、それで結構ですが、ちょこっと。



>《「絶対なる真理」という言葉自体が言語矛盾を起こしている》とも《いや 起こしていない》とも いづれとも自由に言えます。
---おそらく自由ではない。「絶対なる真理」は正確な表現に直す必要があり、直す過程で一悶着も二悶着も起こり、結局そこで物別れ。まあ、そう言うところでしょう。物別れの自由。それはちょうど、
>やはり《神》という言葉は あるんです。
---言葉はあっても、その言葉が何を意味するかについて、コンセンサスはない、と同じ。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ まとめをし、閉じると言うことで、それで結構ですが、ちょこっと。
☆ はい。――いえ。受け身人間ですので 受け取るぶんには いつでも
だいじょうぶです。



順序をたがえますが:
☆☆> やはり《神》という言葉は あるんです。
★--- 言葉はあっても、その言葉が何を意味するかについて、コンセンサ
スはない〔、と同じ〕。
☆ ① 言葉があるその《神》について しかしながら 認識はさだまら
ない。

② いやいや。さだまらないのではなく 認識の対象になるかならないか
が分からない。

③ いづれ分かるようになるのではなく つねに《分かるか分からないか
が分からない》。――これを 未知でも不可知でもなく 非知と呼ぶこと
としています。

④ 非知なる神を こんどは想定しておくことになる。そうせざるを得な
い。神という言葉が 完全に死語となった場合には この探究――形而上
学とよばれる哲学――は 消える。

⑤ すなわち《コンセンサスがない》ということは 《その絶対性が有る
とも無いとも分からず 言い換えると 有るとも言え・無いとも言えると
いうナゾ》である。となります。

⑥ 実際じょうは 有る派か無い派かに分かれて その絶対性とわれとの
カカハリを表わすことになる。両派があたかも同時に成り立つことになる。



☆☆> 《「絶対なる真理」という言葉自体が言語矛盾を起こしている》
とも《いや 起こしていない》とも いづれとも自由に言えます。
★--- おそらく自由ではない。
☆ ⑦ 実態は 《言語矛盾かどうか》が人間には思考も認識もできない
んです。出来るかどうかが分からない。

⑧ 分かったなら その人は絶対者になれます。つまり 分かったら そ
の人は 神です。



★ 「絶対なる真理」は正確な表現に直す必要があり、直す過程で一悶着
も二悶着も起こり、結局そこで物別れ。まあ、そう言うところでしょう。
物別れの自由。
☆ ⑨ 物別れとなる・あるいは想定としてでも表現を直しておくことが
できないというのは その真理ないし神について 分かったということで
す。

⑩ 人間の知性がそこまでおよび 認識できたから 物別れにすることが
できるということです。

⑪ そうはならないのが 絶対性なんです。

お礼日時:2019/04/02 20:31

>真理を無と見る真理観は やはり真理論なんです。


---言い換えますと、形而上学の命題を有意味と認めない、という真理観。「絶対なる真理」という言葉自体が言語矛盾を起こしている、と。
したがって、
>絶対なる真理を 仮説法(アブダクション)で想定するのがよいと考えます。
---「絶対なる真理」は、仮説法の対象になる言葉ではない、ということでしょうね。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

全体として受け取って 次のように考えます。

1. やはり《神》という言葉は あるんです。人間にとって現実――最広義の
意味で――の一環であると見ざるを得ない。

・ 《永遠》という言葉を 誰もその時間(超時間)を生きる者はいないのに使
っています。

・ 《人知を超えている》という定義は 超自然や超経験に当てはまります。

・ 《有る無し》を超えており 《因果関係から自由である》と説明されます。

・ 《二で割っても三で割っても 商はもとのままである》という《無限》が考
えられます。

・ これらの意味で《真理》という言葉を持ち出さざるを得ないはずです。

・ つまり 《絶対なる真理》という想定が持たれます。

2. ただし この真理は 人間の認識にとって《非知》です。可知(既知か未
知)あるいは不可知(知り得ないと証明されたもの)ではなく 《知り得るか知
り得ないかが知り得ないナゾ》です。

3. したがって この想定における(仮説法による)真理は 具体的に《有る
真理》か《無い真理》か いづれかとして表現され持たれ得ます。互いに対等で
同等です。

4. すなわち 《形而上学の命題を 有意味と認める》派か《認めない》派か
いづれかに分かれます。

5. 《「絶対なる真理」という言葉自体が言語矛盾を起こしている》とも《い
や 起こしていない》とも いづれとも自由に言えます。

6. 《「絶対なる真理」を仮説法で想定したとき》 絶対性というのは 無と
言いかえることができて 実際には《想定しない または 想定の対象にはなら
ない》と主張する立ち場もあり得ます。

7. その《有》か《無》かの対極どうしも 相対性の世界では(または 人間
の言葉による表現の上で)互いに同等であるとなります。

8. 要するに人は 真理論において《有る神》派か《無い神》派か いづれか
を自己の真理観として自由にえらび おのれの信仰とすることが出来ます。

9. そのように分かれるかたちを嫌うのも自由であり その場合は 《普遍神》
を立てて そこに《有る神と無い神》をふくむという真理観を持つでしょう。

お礼日時:2019/04/01 22:30

言葉足らずの部分を2,3補充しておきます。



>区別するのだと提案しました。
>という条件をつけて判断をおこなっています
---私の舌足らずで、若干ズレを生じたようです。前者は、bragelloneさんの区別を容れるとしたら「真理=真実とされるべき」、後者は、「彼の時代…。命題が登場する時代」と時代の変遷を示す、という意味合いのつもりでした。真理観が異質なものに変わっている、ということ。

>ここまで議論(検証)がおよぶのであれば
---このお言葉の前提である私の「真理論は不要」とは、ウィキペが代表的な立場の一つとしてあげているGです。ウィキペのように単なる事典だということに徹すれば、不要論も代表的な立場の一つとして数え上げておけば充分でしょう。しかし、ヨーロッパ人の真理論を問題とするなら、その立場は立場として捉える必要がありはしないか。その件は、bragelloneさんの当初の記述ではウィキペの並びを利用したものしかない。真理観の異質化を、「特別の扱いは要らない」所詮ヨーロッパ人の埒でしかないと捨てて良い、かどうかは、大きな問題と私には思える。

>それは 経験科学のいとなみに
---「機序」と書いたのは心理的なことを意味しているつもりではなかったのですが、それは措いておきましょう。機序は経験科学でそれとは別に「定義」があるかのごとき捉え方、そこから異なりそうですから。

もともと大きな問題ですから、疑問に思った者が居た、ぐらいで流していただければ。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


順序をたがえますが:
★ 機序は経験科学でそれとは別に「定義」があるかのごとき捉え方、そこから
異なりそうですから。
☆ 機序が 仕組みのことでしたら やはり《絶対性なる真理と相対的な真実の
区別》というところに入らざるを得ないように思います。



☆☆> 真理と真実とを区別する前と後との二段階を区別する
☆☆> 《彼の時代としては》という条件をつけて判断をおこなっています
★--- 私の舌足らずで、若干ズレを生じたようです。前者は、bragelloneさん
の区別を容れるとしたら「真理=真実とされるべき」、後者は、「彼の時代…。
命題が登場する時代」と時代の変遷を示す、という意味合いのつもりでした。
真理観が異質なものに変わっている、ということ。
☆ これは それこそ同時代の人間として考えるなら その時代に特有の情況
に即して捉えることになる。――そういう問題ですよね。

そして 現代から新たな視点をかぶせる場合もあるということ。また 真理と
真実の区別――峻別――は はっきりしたかたちでは 誰も言っていないので
はないかとさえ うたがわれます。

☆☆> ここまで議論(検証)がおよぶのであれば
★ --- このお言葉の前提である私の「真理論は不要」とは、ウィキペが代表
的な立場の一つとしてあげているGです。
☆ このGは やはり真理を――非知ゆえ――無(無根拠)と捉え 人間の相
対的な主観真実だけを扱えば 科学は成り立つという立ち場だと見ます。


★ ・・・しかし、ヨーロッパ人の真理論を問題とするなら、その立場は立場
として捉える必要がありはしないか。
その件は、bragelloneさんの当初の記述ではウィキペの並びを利用したものし
かない。真理観の異質化を、「特別の扱いは要らない」所詮ヨーロッパ人の埒
でしかないと捨てて良い、かどうかは、大きな問題と私には思える。
☆ ですから 真理を無と見る真理観は やはり真理論なんです。

真理と真実とを区別した場合に そういう見方になるのだと。真理に有神論と
無神論とが同等にあり得るゆえ。


★ もともと大きな問題ですから、疑問に思った者が居た、ぐらいで流してい
ただければ。
☆ 絶対なる真理を 仮説法(アブダクション)で想定するのがよいと考えま
す。

お礼日時:2019/03/31 20:31

>哲学固有の概念整理として 真理と真実とを分けて捉える。


---bragelloneさんの、分けるという見解そのものを論評する気はありませんが、「ヨーロッパ人の真理論は成っていない」論が成立しているかについて、もう一言。

ガリレオの例は、彼の時代としては、言わば真理=真実とされるべきだろう、というもの。「命題」が登場する時代では、自然の法則類は仮説に過ぎない、とされる。F、G、Hあたりで、その登場人物達がどう論じたかは知りませんが、形而上学を廃するというのが共通認識ではないか。ウィキペは真理論に入れているけれど、「真理の概念は無用な余剰」という意味は、真理論は不要、ということではないか。言い換えると、神棚のない家庭には、「お神札」自体不要である。
要・不要を論ずる気はありませんが、不要説に対して「どの説もあやふやであり」と言って良いのかどうか。

要らぬ誤解のないように付け加えます、ウィキペは真理論を「真理とは何かについての研究」と書いていますが、ちょっとずれる。我々が、ある命題・判断を、そうだ! その通り、あるいは正しい、と思うこと、その機序という側面が、そこには欠けている。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


★ ガリレオの例は、彼の時代としては、言わば真理=真実とされるべき
だろう、というもの。
☆ それについては 前回 世間の通念をそのまま用いて世界を取り扱う
第一の段階と そしてそのあと 第二段階として 哲学プロパーの定義し
整理した概念を用いて世界を認識しさらには加工をほどこす科学行為とを
区別するのだと提案しました。

つまり おうるど_しょうさんも:
★ 彼の時代としては
☆ という条件をつけて判断をおこなっています。これは 取りも直さず
いま提示した二段ロケット方式をすでに前提しておられるわけだと思いま
す。




★ 「真理の概念は無用な余剰」という意味は、真理論は不要、というこ
とではないか。言い換えると、神棚のない家庭には、「お神札」自体不要
である。
☆ ここまで議論(検証)がおよぶのであれば 質問者の《真理》説を明
らかにせざるを得ません。

★ 神棚のない家庭
☆ は 《神は無い つまり 〈無い神〉がある》という真理説なんです。
つまり:
★ 真理論は不要、ということ
☆ です。《無――あるいは 無根拠――》という真理を 人知を超えた
ところに 想定として 見ている。


☆☆ 15. 非知
☆ の具体的な内容が 《〔有る〕神》か《無い神》かだという意味です。
知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾであるゆえ その実際の想定は
《有る神》派か《無い神》派か いづれかひとつに分かれるという意味で
す。

これが〔人知を超えた・また超自然や超経験としての〕真理が 人間にと
って具体的にみづからを現わすその姿です。



★ 我々が、ある命題・判断を、そうだ! その通り、あるいは正しい、
と思うこと、その機序という側面が、そこには欠けている。
☆ それは 経験科学のいとなみにおさまります。相対的な真実をあつか
います。

お礼日時:2019/03/30 20:25

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