これからの季節に親子でハイキング! >>

後醍醐天皇は、南北朝の後は、どうやって暮らしていたんですか?
吉野でのんびりしていたんでしょうか?

A 回答 (4件)

昔むかしの話です。

南へ逃れた後醍醐天皇一族は死滅して、北朝の自称天皇が後を継ぎました。何とかの乱は
このようなことの繰り返しです。とさ。
    • good
    • 0

後醍醐天皇の年表(ウィキペディアからのコピペ)



1318年 即位
1324年 正中の変(後醍醐天皇の鎌倉幕府打倒計画が発覚して、六波羅探題が天皇側近日野資朝らを処分)
1331年 元弘の乱(倒幕計画が側近吉田定房の密告により発覚し身辺に危険が迫ったため急遽京都脱出を決断、三種の神器を持って挙兵した。はじめ比叡山に拠ろうとして失敗し、笠置山(現京都府相楽郡笠置町内)に籠城するが、圧倒的な兵力を擁した幕府軍の前に落城して捕らえられる。)
1332年 隠岐の島ヘ流される
1333年 名和長年ら名和一族を頼って隠岐島から脱出し、伯耆船上山(現鳥取県東伯郡琴浦町内)で挙兵する。これを追討するため幕府から派遣された足利高氏(尊氏)が後醍醐方に味方して六波羅探題を攻略。その直後に東国で挙兵した新田義貞は鎌倉を陥落させて北条氏を滅亡させる。ここからがいわゆる「建武の新政」

1335年 建武2年(1335年)、中先代の乱の鎮圧のため勅許を得ないまま東国に出向いた足利尊氏が、乱の鎮圧に付き従った将士に鎌倉で独自に恩賞を与えるなど新政から離反する。後醍醐天皇は新田義貞に尊氏追討を命じ、義貞は箱根・竹ノ下の戦いでは敗れるものの、京都で楠木正成や北畠顕家らと連絡して足利軍を破る。尊氏は九州へ落ち延びるが、翌年に九州で態勢を立て直し、光厳上皇の院宣を得たのちに再び京都へ迫る。楠木正成は後醍醐天皇に尊氏との和睦を進言するが後醍醐天皇はこれを退け、義貞と正成に尊氏追討を命じる。しかし、新田・楠木軍は湊川の戦いで敗北し、正成は討死し義貞は都へ逃れる。

ここから南北朝時代
足利軍が入京すると後醍醐天皇は比叡山に逃れて抵抗するが、足利方の和睦の要請に応じて三種の神器を足利方へ渡し、尊氏は光厳上皇の院政のもとで持明院統から光明天皇を新天皇に擁立し、建武式目を制定して幕府を開設する(なお、太平記の伝えるところでは、後醍醐天皇は比叡山から下山するに際し、先手を打って恒良親王に譲位したとされる)。廃帝後醍醐は幽閉されていた花山院を脱出し、尊氏に渡した神器は贋物であるとして、吉野(現奈良県吉野郡吉野町)に自ら主宰する朝廷を開き、京都朝廷(北朝)と吉野朝廷(南朝)が並立する南北朝時代が始まる。後醍醐天皇は、尊良親王や恒良親王らを新田義貞に奉じさせて北陸へ向かわせ、懐良親王を征西将軍に任じて九州へ、宗良親王を東国へ、義良親王を奥州へと、各地に自分の皇子を送って北朝方に対抗させようとした。しかし、劣勢を覆すことができないまま病に倒れ、延元4年 / 暦応2年(1339年)8月15日、奥州に至らず、吉野へ戻っていた義良親王(後村上天皇)に譲位し、翌日、吉野金輪王寺で朝敵討滅・京都奪回を遺言して崩御した。享年52(満50歳没)。

決してのんびりしていたわけではありませんね。
北朝を討とう討とうと怨念の塊のようななか、病に倒れ50歳でなくなりました。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとう

ありがとうございますm(_ _)m

お礼日時:2019/03/28 21:31

>後醍醐天皇は、南北朝の後は、どうやって暮らしていたんですか?


>吉野でのんびりしていたんでしょうか?

放置するとバ○と嘘つきが湧くので、回答はしておきます。


回答:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E9%86%8D …


南北朝の後・・・?

丸投げ確定。
後醍醐天皇は南朝を開いた後、子供に譲位して南朝を続けさせて、その翌日に崩御しています。



質問の内容はここに投稿できるなら自分で調べられると思いますが、それはしているのでしょうか。
していないなら、何故なのでしょうか。
あなたは他人が回答を考えてその文章を打つ手間をどのように思っているのでしょうか。


私は努力する人を手伝う気はありますが、たかがBAの為に怠け者を甘やかす事を親切と思ってもいません。
「後醍醐天皇は、南北朝の後どうなったの?!」の回答画像2
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとう

ありがとうございますm(_ _)m

お礼日時:2019/03/28 21:33

隠岐の島でのんびり、呪っていたんじゃないの。

    • good
    • 1
この回答へのお礼

ありがとう

わお!
なるほど。ありがとうございますm(_ _)m

お礼日時:2019/03/28 16:05

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人はこんなQ&Aも見ています

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Q日本の国旗って韓国の国旗を真似したんでしょうか?

日本の国旗って韓国の国旗を真似したんでしょうか?

Aベストアンサー

太極旗は、李氏朝鮮(高宗)時代の1883年が最初
日の丸は、1870年制定

Q明治天皇以前に軍装をした最後の天皇は、どなたでしょうか?

今上天皇は軍装(軍服をまとう)をしませんでしたが、先代の明治・大正・昭和天皇は軍装をしましたね。
天皇家の草創期では、天皇は武人であるから、軍装したのはずですね。
ところで、明治天皇以前に軍装をした最後の天皇は、どなたでしょうか?

Aベストアンサー

太平記によると、南北朝時代の後村上天皇は鎧を着てました。
北朝の軍から逃れるときに鎧姿で馬に乗っていたそうです。

Q江戸時代にスペインやオランダが、日本に対して低姿勢だったのはなぜですか?

江戸時代前期というとスペインやオランダが強かった頃であり、スペインはフィリピンを、オランダはインドネシアを植民地とし、原住民に対して過酷な収奪をやっていました。
しかしながら、日本に対しては一切手を出さず、徳川幕府がキリスト教を迫害しても文句を言わず、オランダに至っては貿易は出島のみ、それもキリスト教を布教しないという条件でようやく認めてもらっている有様です。

このように、江戸時代の世界の覇権国とも言えるスペインとオランダが、なぜか日本に対しては強いことを言えず、低姿勢に徹したのはなぜでしょうか?

Aベストアンサー

彼らは、まずキリスト教神父が乗り込み
現地人を宣撫して、それから本国から軍隊を
送り込み、占領してしまう、
という方法をとっています。

日本は、そうした戦法をいち早く察知し
キリスト教が広がるのを阻止しました。
そもそもですが、一定レベル以上の文化、文明が
既に発達している地域で、新たな宗教を布教する
のは困難なのです。

このように、キリスト教布教に失敗した、という
のがまず上げられます。


次は武力です。

スペインの神父が、本国に当てた書見が残って
いますが、それには
「他のアジア諸国と異なり、日本の武力は強力
 である」
旨の記載がうかがえます。

幸いというか、戦国時代の余韻が残っていた
時代です。
鉄砲の数も世界一、と言われたほどです。

植民地にするのはいじめるためではありません。
儲けるためです。

武力で植民地化するよりも、貿易で儲けた方が、
という判断が働いたのでしょう。

Q徳川家康や秀忠は明を征服しようと思わなかったのですか?

魏忠賢などの悪臣の専横によって乱れきった明朝の末期は徳川家康・秀忠が将軍だった頃であり、鎖国も行っていませんでした。
結果的に明は女真族という辺境の弱小民族によって征服されてしまうわけですが、徳川幕府がその気になれば明を征服するのは容易だったはずなのに、家康や秀忠は明を征服しようと思わなかったのでしょうか?

秀吉の朝鮮出兵の頃は、明もまだ弱体化が進んでいない頃でしたが、その頃とは比較にならないほど弱体化が進んでいたので。

Aベストアンサー

そんなこと、これっぽっちも考えていないと思います。
理由は簡単です。秀吉の朝鮮侵略の悲惨な結果を知っているからです。

日本の戦国時代を代表する武将の中で秀吉だけは異質ですが、それは彼が商人、現代風に言えば経済人の感覚を持っていたからです。当時の日本の経済発展のためには領土の拡大が欠かせなかったと思います。
まあ、しかし、他国への侵略という点においては、身の程を知らないというか、世界を知らないというかバカですね。先進的な欧州の植民地化の手法と比較すると幼稚極まりないと思います。
そういえば、そんなバカが過去にもいました。それは、日出る国の聖徳太子です。この時に現地で中国側と交渉した人物は秀吉の時と全く同じことをしています。現地で先進的な大国の実状を知って、日本側のトップの顔をつぶさないようにして、二枚舌で収拾するという方法です。

徳川家康は、豊臣秀吉の朝鮮侵略の失敗を教訓として300年続く日本の平和な時代の仕組みを作ります。限られた領土で平和を維持するために、大名の取り潰しや、参勤交代などの仕組みをつくりますが、政治的なシステム以外に庶民が作り上げたシステムもあります。それは、徳川300年の間に人口が全く増加していない事実から導かれます。

家康と秀忠は秀吉と同時代に生きていたので、二度とアホなことはしませんでしたが、その教訓を忘れてしまった平和ボケの人々は、明治に入って中国侵略を開始しますが、秀吉の朝鮮侵略から得られた軍事的な反省をなにひとつしていなかったため、最後は悲惨な結果になっています。
日清日露戦争は短期間の戦争であり、当時の日本は、欧米の先進的な兵器に関する各種技術を導入していたため、時代遅れの兵器相手に勝てるのは当然ですが、先進的な欧米諸国ではすでに確立していた兵站システムが全く構築されていなかったことが、日本の決定的な弱点と言うか特性なのだろうと思います。

そんなこと、これっぽっちも考えていないと思います。
理由は簡単です。秀吉の朝鮮侵略の悲惨な結果を知っているからです。

日本の戦国時代を代表する武将の中で秀吉だけは異質ですが、それは彼が商人、現代風に言えば経済人の感覚を持っていたからです。当時の日本の経済発展のためには領土の拡大が欠かせなかったと思います。
まあ、しかし、他国への侵略という点においては、身の程を知らないというか、世界を知らないというかバカですね。先進的な欧州の植民地化の手法と比較すると幼稚極まりないと思います...続きを読む

Q豊臣秀吉は朝鮮半島南部くらいなら支配できたのではないですか?

豊臣秀吉の朝鮮出兵ですが、朝鮮の首都(漢城)はすぐに陥落し、次に明軍との戦争になり、明・朝鮮連合軍との戦争になって最終的に撤退することになります。

でも、いくら秀吉軍が強いといっても、さすがに明を征服できる力があったようには思えません。

明との衝突を避け、目的を朝鮮半島南部の支配に限定すれば、目的が達成できた可能性が高いと思いますが、どうでしょうか。
そして、毛利や島津、徳川といった、後で逆らってきそうな大大名を朝鮮南部に配置すれば、邪魔者を追い出せますし、一挙両得のように思います。

Aベストアンサー

文禄慶長の役は征明嚮導とか仮道入明と言われたように、
朝鮮は通り道で秀吉は朝鮮を支配する意志がほぼ無いので
秀吉が朝鮮南部だけ統治するということはまずありません。
ただし、思考実験としての可能性を述べてみます。



文禄・慶長の役で、日本が明の参戦で苦戦に陥って
不利になったのは事実と言えなくはないですが、
文禄の役では碧蹄館の戦いをはじめ、第一次・二次平壌城の戦い
慶長の役では第二次蔚山城の戦い、泗川の戦い、順天の戦い等々
ほとんどの戦いで明(と朝鮮連合軍)には戦術的に勝っています。
ちなみに、文禄の役の時に碧蹄館の戦いで大損害を出した明は、
以後は朝鮮の意向を無視して講和に方針転換しています。
さらに慶長の役が終わった後、明史では

  (前略)喪師數十萬,糜餉數百萬,
  中朝與屬國迄無勝算,至關白死而禍始息
 (明史 朝鮮伝(320巻)26年11月)

  10万の兵を失い、100万の糧食を浪費したけど
  中朝(中国)と属国(朝鮮)には勝算が無かった。
  関白(秀吉)が死んだから終わってくれた。

と書かれていたくらいです。
このように、明とはそれなりの勝負はできているので、
本格的に準備をすればいい勝負はしたと思います。

余談ですが、南原城の戦いで見ても判るように
明は朝鮮南部まで軍を進めています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E5%8E%9F%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
講和がうまくいった場合など、状況にもよりますが、
朝鮮南部だから明が来ないというわけではありません。


日本が勝てなかった理由は兵站が続かなかったから。
(慶長の役を含めるなら秀吉が死んだから)
当時、兵糧はある程度を現地調達するのが常でしたが、
朝鮮はそもそも春窮という言葉があるくらい貧しく、
耕作に適する土地が少ないので収穫は期待できません。
戦時には日本・朝鮮・明がそれぞれ徴発したから
ますます何もなくなりました。
たとえ朝鮮南部に限定して支配しても、
長大な国境線を長期にわたって維持するのは
(明側が意図しなくても)焦土戦術となって
かなりの負担で益は無いと思われます。


ちなみに、今の韓国の歴史認識に惑わされて
朝鮮人は果敢に抵抗した事を憂慮する方が多いようです。
確かに住民の反乱はそれなりにてこずりましたが、
日本が漢城に到着した時、国王は逃走し、町は既に焼かれていて
王子二名を捕虜にしたのは朝鮮人の働きなのは有名な話。
碧蹄館の戦いに先立つ第三次平壌城の戦いで
「日本側の戦死者を調べるとほとんど朝鮮人でした」
というオチが朝鮮王朝実録に書いてあるくらい。
  是日天兵當陣斬獲一千二百八十五級、生擒二名、
  竝擄浙江人張大膳、奪馬二千九百八十五匹、
  救出本國被擄男婦一千二百二十五名。
  (中略)
  李如松 平壤之役、所斬首級、半皆朝鮮之民、
  焚溺萬餘、盡皆朝鮮之民
政策さえ誤らなければ統治できなくはないと思います。

文禄慶長の役は征明嚮導とか仮道入明と言われたように、
朝鮮は通り道で秀吉は朝鮮を支配する意志がほぼ無いので
秀吉が朝鮮南部だけ統治するということはまずありません。
ただし、思考実験としての可能性を述べてみます。



文禄・慶長の役で、日本が明の参戦で苦戦に陥って
不利になったのは事実と言えなくはないですが、
文禄の役では碧蹄館の戦いをはじめ、第一次・二次平壌城の戦い
慶長の役では第二次蔚山城の戦い、泗川の戦い、順天の戦い等々
ほとんどの戦いで明(と朝鮮連合軍)には戦術的に勝っていま...続きを読む

Q天皇制は将来的になくなるのですか?

未だに歴史系の定番で平積みもみかける網野義彦による「日本の歴史をよみなおす」を久しぶりに読み返したら序盤でタイトルのような事が書いてありました。

この本自体は何年も売れている「歴史好きな人の入り口」の一つみたいな存在で、お世話になった人も多いかと思います。
その分色んな方の眼にもとまってると思いますが、この文章が批判されているところは今のところ私にはありません。
これも不思議です。

そこで質問ですが、タイトルについていかがでしょうか?

Aベストアンサー

この文章が批判されているところは今のところ私にはありません。
これも不思議です。
 ↑
保守的な人からは批判されていますが。




そこで質問ですが、タイトルについていかがでしょうか?
  ↑
氏はマルクス史観に基づいて、天皇制がなくなる
と主張している節があります。
そして、マルクス史観は過去のモノでしょう。

マルクス史観ではなく、他の理由でなくなる
可能性はあると思います。

例えば皇族男子がいなくなるとかですね。
共産党が与党になったとか、
中国辺りに征服されるとか。

天皇というのは必要があって維持されてきた
制度です。
簡単にいえば、数千万、億もいる人民を統治する
ツールとして有用だから、現在も残っているわけです。

従って、その必要性、有用性が無くなれば、天皇制も
なくなるかもしれません。

Q日本で1番大きい古墳が大阪府堺市にある仁徳天皇陵古墳で日本で2番目に大きい古墳は仁徳天皇陵古墳から東

日本で1番大きい古墳が大阪府堺市にある仁徳天皇陵古墳で日本で2番目に大きい古墳は仁徳天皇陵古墳から東に行った大阪府藤井寺市の応神天皇陵古墳だそうです。

なぜ大阪の南側に日本一とナンバー2の古墳があるのですか?

仁徳天皇と応神天皇はいつの時代の人ですか?

応神天皇が作った巨大古墳を見て仁徳天皇が更に大きいナンバー1の古墳を作った?

二人は近い時代の人なのですか?

仁徳天皇は聞いたことがあるけど応神天皇は聞いたことがない。なにをした人ですか?

Aベストアンサー

応神天皇は仁徳天皇のお父さんです。
また、現在日本各地にある「八幡宮」の八幡神ですね。

仁徳天皇は難波高津宮に遷都し・・・ようするに大阪も何度か遷宮されたわけで、大阪市歌にも仁徳天皇のことが歌われています。

「高津の宮の昔より、よよの栄を重ねきて、民のかまどに立つ煙
にぎわいまさる 大阪市、にぎわいまさる 大阪市」

これは仁徳天皇が高津宮から庶民の家を見下ろしたときにかまどの煙が見えなかったことで税を数年廃止し、庶民のかまどにも煙が立つようになった(要するに豊かになってきた)という日本書紀の故事をうたったものです。

大阪に大きな古墳がたくさんあるのは、現在で言う奈良であったり大阪であったりしますが、天皇が(その当時はオオキミ)住まわれた(もしくは政治を行った)場所に近いということでしょうね。高槻にも今城塚古墳という大きな古墳がありますね。

Q上杉征伐の途中に石田三成の挙兵を知り、軍を西に向けた徳川家康の背後を上杉景勝は何故攻めなかったのです

上杉征伐の途中に石田三成の挙兵を知り、軍を西に向けた徳川家康の背後を上杉景勝は何故攻めなかったのですか?
最上を攻めている場合じゃないと思います。

Aベストアンサー

関ヶ原の戦いで西軍が挙兵してから敗北まで、上杉家が目指すのは関東侵攻これ一本だったのです
※直江書状参照

最上攻めでさえその前段にすぎません
が、この最上攻めの最中に既に西軍は関ヶ原の戦いで敗北しており、上杉勝家が兵を率いて関東に攻めいることは出来なくなりました

ちなみに会津征伐軍が反転する際に追撃するべきだったというのも否です
上杉軍が反転の情報を掴んだのは家康が江戸に入ってからなので!

Q織田信長の城ってどこですか? もう焼け落ちて現存していないんですか? 徳川家康が名古屋城で、豊臣秀吉

織田信長の城ってどこですか?

もう焼け落ちて現存していないんですか?

徳川家康が名古屋城で、豊臣秀吉が大阪城ですよね?

織田信長の城はどこ?

Aベストアンサー

そもそも「信長は安土城」みたいに武将と城が1:1で対応しているわけではありません。
もちろん1つの城にずっととどまっている武将も多数存在しますが、信長・秀吉・家康は複数の城を転々としています。

ちなみに徳川家康は名古屋城を居城としたことはありません。

Q日本の三大神社、仏閣と言えばどこですか? 伊勢神宮、出雲大社、あと1つはなに? 日光東照宮?

日本の三大神社、仏閣と言えばどこですか?


伊勢神宮、出雲大社、あと1つはなに?

日光東照宮?

Aベストアンサー

「三大神社」なんてありません。
ま、こんなページもあります。
https://ameblo.jp/masac2/entry-10185641170.html


このQ&Aを見た人がよく見るQ&A

人気Q&Aランキング