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百田尚樹氏の日本国紀に記された「皇位纂奪を企んだ足利義満」を読んだ。

日本という狭い国土の中で和をもって暮らしていくためには万世一系というシステムは理にかなっている。有能有望な人材であっても天皇をお支えし、自ら(子孫)が国王となることを望まない文化が日本だと思っている。

百田氏によれば、義満が次男の義嗣を皇太子とする式典の5日後に急死し、彼の野望はついえたと記しているが、明治に編纂された纂輯(サンシュウ)御系図(写真)には、頼山陽が正統ではないとした後花園天皇の祖父が不明であることが記されている。

であれば、その後つづく北朝は万世一系と言えるのだろうか?義満の二の矢、三の矢の企みによる世であるのであろうか?

いや、そんな世であるはずはない。今の世が足利義満の企み(皇位簒奪)の世であれば、後醍醐天皇を支え足利尊氏と戦った楠木正成の像が皇居の前で皇族の皆様を衛るはずはない。

「百田尚樹氏の日本国紀に記された「皇位纂奪」の質問画像

質問者からの補足コメント

  • 「後花園天皇の祖父が不明」なんて書いてないというご指摘がありましたが、写真の資料のなかで、後花園天皇の父親について記載された「貞成親王、母西御方、父不詳」との記載を受けたものです。

      補足日時:2019/04/12 17:49

A 回答 (6件)

後花園天皇の「母方の祖父」は後花園天皇のところに書いてあるよ.

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「貞成親王、母西御方、父不詳」とあるけどこれは「後花園天皇の祖父が不明」という意味じゃない, ってことはいいね?



あとは「であれば、その後つづく北朝は万世一系と言えるのだろうか?」がどこから出てきたのかを待つことにしよう.
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この回答へのお礼

コメントありがとうございます。
私はいま、Tacosanさんの一番最初のアンサーが一番良いと思っています。
つまり、写真の資料は「後花園天皇の母方の祖父が不詳」であるだけで、このことは万世一系には関係無いと理解しています。

なので~
「貞成親王、母西御方、父不詳」とあるけどこれは「後花園天皇の祖父が不明」という意味じゃない, ってことはいいね?
という問への回答は「いいえ、良くないです。」となります。
でも、Tacosanさんの「~じゃない
」という表現が「~では無い」という意味でなく、「~ではないだろうか?」と言う意味であれば、私の回答は逆になります。

さて、いま、頼山陽の日本政記の「正統論」を何度も読み返しながら、山陽が命をかけて僕らに伝えてくれた意味をしっかり理解しようとしています(楽しんでいます)ので、もう少しお時間をください。
幕末の輪王寺宮の東武皇帝につながる天海の「金輪王寺の移設」が、引っ掛かっております(^-^)/

お礼日時:2019/04/15 04:53

あ, やっぱり (俺が) 勘違いしてた. さっきふと思い出したんだけど, ここの「貞成親王、母西御方、父不詳」は「後花園天皇の祖父が不明」という意味じゃない.



それから, 「A側にまわるには、知識等不足していますので」ってどういうこと? 自分がなにをどのように考えて質問したのか, なんかの資料を調べないとわからないんですか?
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この回答へのお礼

更逆Qありがとうございました。
Tacosanさんの更逆Q「A側にまわるには、知識等不足していますので~少し資料を調べますので」ってどういうこと?に対する回答ですが~

アンサー側にまわって、Qを出された方に理解してもらえるAを記すための知識レベルになるには、正しい知識を思い出すために資料をしらべたり、出されたQの意味をしっかり理解するために時間が必要ということです。
ご理解いただけましたか?

お礼日時:2019/04/14 00:01

質問文の「であれば、その後つづく北朝は万世一系と言えるのだろうか?」という疑問はどこから出たんだろう. 「後花園天皇の祖父が不明」

だとしても, この疑問にはつながらないよね.
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この回答へのお礼

逆質問ありがとうございます。
A側にまわるには、知識等不足していますので~少し資料を調べますので時間をください(^-^)/

お礼日時:2019/04/13 21:19

あぁ, そこのことね.



系統としては
崇光天皇~栄仁親王~貞成親王~後花園天皇
だから何ら問題ないはずだけど.
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この回答へのお礼

「後花園天皇の祖父が不明」と書いてあることをご理解いただけたのであれば、幸いです。

お礼日時:2019/04/13 01:54

とりあえず 1点だけ指摘.



「後花園天皇の祖父が不明」なんて書いてない.
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この回答へのお礼

ご指摘ありがとうございます。
Qに記載した内容は、写真の資料のなかで、後花園天皇の父親について記載された「貞成親王、母西御方、父不詳」との記載を受けて記したものです。
ご確認いただければ幸いです。

お礼日時:2019/04/12 07:09

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文禄・慶長の役で、日本が明の参戦で苦戦に陥って
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文禄の役では碧蹄館の戦いをはじめ、第一次・二次平壌城の戦い
慶長の役では第二次蔚山城の戦い、泗川の戦い、順天の戦い等々
ほとんどの戦いで明(と朝鮮連合軍)には戦術的に勝っています。
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 (明史 朝鮮伝(320巻)26年11月)

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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E5%8E%9F%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
講和がうまくいった場合など、状況にもよりますが、
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というオチが朝鮮王朝実録に書いてあるくらい。
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  (中略)
  李如松 平壤之役、所斬首級、半皆朝鮮之民、
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文禄慶長の役は征明嚮導とか仮道入明と言われたように、
朝鮮は通り道で秀吉は朝鮮を支配する意志がほぼ無いので
秀吉が朝鮮南部だけ統治するということはまずありません。
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実際の軍議もあんな大きめの声を出してたと思いますか?
 ↑
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 声が大きい方が目立つし、意見も通りやすいのは
 今も同じです。
2,戦国時代の武将の声はとてつもなく大きかった
 と言われています。
 広い戦場で自分の名前をCMするのですから
 大きいことが要求されたのです。



当時の武将達も声が小さめの人や、言葉を噛む人とかいたと思うのですが…
  ↑
そりゃいたでしょうね。



普通の声のトーンで話さなかったのですかね?
  ↑
徳川家康は、部下の自由なディスカッションに任せ
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Aベストアンサー

朝鮮は中国の冊封体制に組み込まれた属国の一つで、
独立国のように見えますが、冊封国と言われるものです。
つまり、すっかり取り込まれていたのです。



華夷思想において、中央は高貴なものとされたのに対し、
周辺の地域は東夷・西戎・南蛮・北狄といわれ、
辺境の蛮族扱いされていました。
このような辺境は直接統治より冊封による間接統治が
効率的と考えられていました。
辺境の国家は冊封されないと国として認められないので
多くは交易もできない状況でした。
冊封国は基本的に中国から内政・外交の干渉は受けませんが、
子分になって中国の強い影響下にあることを認めたものです。
詳しくは冊封(国)で調べてみてください。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%8A%E5%B0%81

朝鮮の始祖である太祖李成桂は高麗から王位を簒奪した時に
明に報告すると「王朝が交代したなら国号を改めよ」といわれ、
「朝鮮」と「和寧」のどちらが良いかを洪武帝(明の皇帝)に
選んでもらいました。
朝鮮の国号からしてこのような状況です。
また、朝鮮は国王の交代があっても中国の事前承認を重視しました。
拒否した実例はありませんが、中国の許可なく王になれなかったのです。
これは朝鮮だけで、冊封国には越南(ベトナム)や琉球も含まれますが、
他の冊封国は自分たちで国王を決めてからの事後承諾でした。
近年では朝鮮最後の皇帝(注:独立後大韓帝国を名乗りました)である
純宗が立太子の時(皇太子への就任)認めてもらうために
清との交渉が行われました。

冊封国にも序列があり、王の服の色や描かれた竜の数などで表され、
朝鮮の序列は低くはありませんでした。
しかし、東北の金(後金)を下位にみていたため
明が衰え金の勢力が強くなっても明の庇護を頼りに
強気で臨んだため丁卯胡乱と丙子胡乱で完敗し、
三田渡の盟約で清の属国であると認めさせられ、
皇帝ではない清からの勅使に対しても
(朝鮮)王が三跪九叩頭の礼により迎えました。
ちなみに、三跪九叩頭は1度ひざまずいて3回土下座を3セット
都合9回土下座をするもので、清の皇帝が臣下にさせた儀礼です。
余談ですが台湾出兵の後始末で日本の使者が皇帝に対するとき
皇帝への儀礼として要求されましたが拒否しています。

朝鮮が清の冊封から脱したのは日清戦争の結果で、
下関条約の第1条は清からの独立を認めさせるもの。
一般の方にも読める「朝鮮紀行」(講談社学術文庫)には
この時に無理やり独立することで清の庇護下から解放させられて
ガクブルの高宗の様子が書かれています。(P319~P341 )

現在の韓国では、属国ではなく「兄弟国」という表現が多いのですが、
実際には壬午軍乱(1882年)の後始末で真に結ばされた
「中朝商民水陸貿易章程」でも属国であることが確認されました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9C%9D%E5%95%86%E6%B0%91%E6%B0%B4%E9%99%B8%E8%B2%BF%E6%98%93%E7%AB%A0%E7%A8%8B

朝鮮が冊封国を維持できたのは、清による虎の威を借りたから。
現在の韓国の国旗である太極旗の原型(諸説あります)は、
1882年に訪日使節団が使ったものです。
そこには日本になめられないように「大清国属」と書かれ、
清の支配下にあることを自称していたことがわかります。



現在の中国がチベットなどを侵略するのは
現代において価値があるから。
紛争で注目される尖閣諸島も、1970年代に国連の調査で
海底資源が指摘されるまで無関心どころか
国の機関紙に日本領と書いていたくらいです。
価値があって与しやすいと思われれば侵略されます。

朝鮮は中国の冊封体制に組み込まれた属国の一つで、
独立国のように見えますが、冊封国と言われるものです。
つまり、すっかり取り込まれていたのです。



華夷思想において、中央は高貴なものとされたのに対し、
周辺の地域は東夷・西戎・南蛮・北狄といわれ、
辺境の蛮族扱いされていました。
このような辺境は直接統治より冊封による間接統治が
効率的と考えられていました。
辺境の国家は冊封されないと国として認められないので
多くは交易もできない状況でした。
冊封国は基本的に中国から内政・外交の干渉...続きを読む

Q19世紀の日本とオスマン帝国はどちらの方が強かったでしょうか?

西欧から植民地化されなかった強国として日本とオスマン帝国が挙げられますが、日本は17世紀までは強国でしたが長い間の鎖国により19世紀に入ると弱体化しました。一方でオスマン帝国も17世紀は西欧を圧倒していたものの19世紀になると瀕死の病人と言われるようになります。

19世紀といっても初期、中期、末期でかなり異なると思いますが、19世紀の日本とオスマン帝国を比較すると、軍事力・経済力はどちらの方が上だったでしょうか。

Aベストアンサー

19世紀といっても
日本は1867年までは江戸時代

明治維新以降の工業も繊維工業など軽工業中心でこの傾向は第二次世界大戦まで変わりません

重工業も国策として発展させようとしていましたが、主力輸出品が絹糸など繊維製品や日本茶で第一次世界大戦中の欧州諸国の輸出が低下した4年間を除き貿易収支は毎年赤字で
重工業促進のため、イギリスなどから多額の外資を導入し、第一次世界大戦がなければ財政破綻寸前まで追い込まれていました

で、促進したはずの重工業も
第一次世界大戦前の粗鋼生産量は25万tに過ぎず
ドイツ(1380万t)、イギリス(800万t)には勿論
ロシア(450万t)、オーストリア・ハンガリー(220万t)、イタリア(90万t)にも及びませんでした

しかしながら19世紀末ならオスマンよりは状況は良かったはずです

オスマンはアジア初の憲法を制定した国でしたが
工業は重工業は未発達
宿敵ロシアとは16世紀から十数次にわたる露土戦争を繰り返していてなかなか平穏に工業化を進められる状況下にありませんでした

アナトリア半島は植民地化されなかったものの、バルカン半島のスラブ民族諸国の独立、そしてそれらの国々の領土拡張、イタリアに敗れ(伊土戦争)リビアを喪失など領土は浸食されています

19世紀四半世紀まではオスマンは日本より強力
19世紀末になってようやく日本の国力がオスマンを上回っていたと推測されると思われます

19世紀といっても
日本は1867年までは江戸時代

明治維新以降の工業も繊維工業など軽工業中心でこの傾向は第二次世界大戦まで変わりません

重工業も国策として発展させようとしていましたが、主力輸出品が絹糸など繊維製品や日本茶で第一次世界大戦中の欧州諸国の輸出が低下した4年間を除き貿易収支は毎年赤字で
重工業促進のため、イギリスなどから多額の外資を導入し、第一次世界大戦がなければ財政破綻寸前まで追い込まれていました

で、促進したはずの重工業も
第一次世界大戦前の粗鋼生産量は25万tに過ぎず...続きを読む

Q祭り、祀る、という言葉について質問です。 日光東照宮は徳川家康公が祀られおり、 主祭神とされています

祭り、祀る、という言葉について質問です。

日光東照宮は徳川家康公が祀られおり、
主祭神とされていますが、
この祀ると祭りは元々同じものですか?

花火祭りなどの祭りとは
祀る事と関係があるのでしょうか?

歴史、神事好きの方は教えて下さい。

Aベストアンサー

今は日本語と中国語(漢字)をごっちゃにしか教えていませんからね・・

「祭」「祀」というのは中国語です。”まつり”というのは日本語です。日本語のまつりの概念に当たるものに、中国語の祭とか祀とかの概念に当たるものだったので、日本語の”まつり”に祭とか祀とかを当てて、祭り、祀り、と書いています。

祭と祀は字が違うように(中国語では)別の意味の単語です。
日本語では、これらをまとめて”まつり”と言います。
日本語でいう”まつり”が中国語でいう祭なのか祀なのかを考えて、使い分けているわけです。(このような中国語の勉強を、日本語の勉強と称して教えていることが多いのですよね・・)

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Aベストアンサー

でもそれを疑う人っていなかったのでしょうか?
 ↑
勿論おりましたよ。
でも、そうした意見はマスコミが取り上げず
表にでることはありませんでした。
ネットがあれば出たでしょうが。




日本が負けてから政治もメディアも教育も、GHQの統制下にあることは
国民も知っていたはずです。
だからメディアがいくら「日本の軍部はこんなに悪かった!アメリカの民主主義は
素晴らしい!」みたいなことを言っても、
「今のメディアはアメリカに都合の良いことしか言えないよう統制されている。
これは占領政策の一環で、国民を洗脳するための陰謀だ。」
と疑ってかかるのが普通だと思います。
なぜ当時の人は疑わずに180度違う価値観を受け入れてしまったのでしょうか。
 ↑
それを受け入れたのが、日本の支配層であり、
指導層だったからです。
多くの国民は、日本は負けたから悪者にされた、なんて
ことは百も承知でした。
そういう意見は総て封殺されたのです。

では、どうして指導層、支配層は受け入れた
のか。

表面だけ従うように見せておき、米国の
影響が無くなったら元に戻そう、と考えて
いたのです。

ところが、GHQが、洗脳工作に、当時盛ん
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マスコミなどの要職に就き、
見せかけが本当になってしまいました。


■1945年7月に作成された対日心理作戦報告によれば、占領軍に友好的な
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でもそれを疑う人っていなかったのでしょうか?
 ↑
勿論おりましたよ。
でも、そうした意見はマスコミが取り上げず
表にでることはありませんでした。
ネットがあれば出たでしょうが。




日本が負けてから政治もメディアも教育も、GHQの統制下にあることは
国民も知っていたはずです。
だからメディアがいくら「日本の軍部はこんなに悪かった!アメリカの民主主義は
素晴らしい!」みたいなことを言っても、
「今のメディアはアメリカに都合の良いことしか言えないよう統制されている。
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