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万葉集で絶対に公表されない歌があるのは本当ですか?

A 回答 (4件)

No.1ですがちょっと補足です。



「消えてしまった歌」はあるかもしれません。最初は載っていた歌が何らかの手違いあるいは陰謀によって写本からは省かれてしまった、ゆえに現代の我々は知ることができない、ということはあり得ます。
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読めない、または読み方が定説になっていない歌があるということじゃないですか?


定説がないので教科書などには絶対に出てきません。
最も有名なのは第9番の「莫囂圓隣歌」でしょう。
netにたくさんの記事がありますが見つけたひとつを貼っておきます。
http://www.hananoe.jp/culture/bouken/bouken126.h …

昔から文字の写し間違いで読めないとか、古代朝鮮語で書かれているなど諸説紛々。「莫囂圓隣歌」で検索すればたくさん出てきます。読めない歌はほかにもたくさんあるようです。
ちなみに小生は万葉集はさっぱりわかりません。知っているのは読めない歌があることぐらい。
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万葉集の中にもその虚船の事を指し示す歌が残されているのだが何故か公表されない



ネットにありました
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嘘です。



絶対に公表されない歌なら、そいつはそもそも「万葉集に載っている」とは言えない。政府の機密文書とかではない、1200年前に書かれた歌集です。活字のない時代、様々な人によって何度も書き写されて現代に残っているものです。
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Aベストアンサー

でもそれを疑う人っていなかったのでしょうか?
 ↑
勿論おりましたよ。
でも、そうした意見はマスコミが取り上げず
表にでることはありませんでした。
ネットがあれば出たでしょうが。




日本が負けてから政治もメディアも教育も、GHQの統制下にあることは
国民も知っていたはずです。
だからメディアがいくら「日本の軍部はこんなに悪かった!アメリカの民主主義は
素晴らしい!」みたいなことを言っても、
「今のメディアはアメリカに都合の良いことしか言えないよう統制されている。
これは占領政策の一環で、国民を洗脳するための陰謀だ。」
と疑ってかかるのが普通だと思います。
なぜ当時の人は疑わずに180度違う価値観を受け入れてしまったのでしょうか。
 ↑
それを受け入れたのが、日本の支配層であり、
指導層だったからです。
多くの国民は、日本は負けたから悪者にされた、なんて
ことは百も承知でした。
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では、どうして指導層、支配層は受け入れた
のか。

表面だけ従うように見せておき、米国の
影響が無くなったら元に戻そう、と考えて
いたのです。

ところが、GHQが、洗脳工作に、当時盛ん
だった社会主義者を使ったので、彼らが
マスコミなどの要職に就き、
見せかけが本当になってしまいました。


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マッカーサーの政治顧問付補佐官であったエマーソンの米上院での証言によれば、
野坂らの提唱で設立された日本人民解放連盟の中国での
日本兵捕虜洗脳教育を対日心理戦に利用できると確信し、
WGIPのモデルとなった。

エマーソンは「日本国内の戦争反対分子を励まし、内部崩壊を早める」
よう提言し実行されたが、同証言で「共産主義の目的についての理解がなかった」
と弁明している。

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「反日」歴史教育の土壌となり、戦後の「反日日本人」のルーツ、温床となった。

でもそれを疑う人っていなかったのでしょうか?
 ↑
勿論おりましたよ。
でも、そうした意見はマスコミが取り上げず
表にでることはありませんでした。
ネットがあれば出たでしょうが。




日本が負けてから政治もメディアも教育も、GHQの統制下にあることは
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