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新5000円札の津田梅子は津田塾大学の設立者だそうですが今も津田塾大学という大学はあるのですか?廃校した?

A 回答 (4件)

質問者さんは日本人? 女子大の人気が落ちたとはいえ、津田塾はかつては女の東大と言われたほどの名門女子大で、当然今でもあるけれど、釣

りの質問かな?
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この回答へのお礼

みんなありがとう

お礼日時:2019/04/10 20:31

津田梅子が設立した津田塾大学は東京都小平市津田町12-1-1に立派に現存しています


詳細は検索してご覧ください
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そう言ってる事で、お里が知れる。

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Q明治天皇以前に軍装をした最後の天皇は、どなたでしょうか?

今上天皇は軍装(軍服をまとう)をしませんでしたが、先代の明治・大正・昭和天皇は軍装をしましたね。
天皇家の草創期では、天皇は武人であるから、軍装したのはずですね。
ところで、明治天皇以前に軍装をした最後の天皇は、どなたでしょうか?

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北朝の軍から逃れるときに鎧姿で馬に乗っていたそうです。

Q日本の国旗って韓国の国旗を真似したんでしょうか?

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太極旗は、李氏朝鮮(高宗)時代の1883年が最初
日の丸は、1870年制定

Q江戸時代にスペインやオランダが、日本に対して低姿勢だったのはなぜですか?

江戸時代前期というとスペインやオランダが強かった頃であり、スペインはフィリピンを、オランダはインドネシアを植民地とし、原住民に対して過酷な収奪をやっていました。
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Aベストアンサー

彼らは、まずキリスト教神父が乗り込み
現地人を宣撫して、それから本国から軍隊を
送り込み、占領してしまう、
という方法をとっています。

日本は、そうした戦法をいち早く察知し
キリスト教が広がるのを阻止しました。
そもそもですが、一定レベル以上の文化、文明が
既に発達している地域で、新たな宗教を布教する
のは困難なのです。

このように、キリスト教布教に失敗した、という
のがまず上げられます。


次は武力です。

スペインの神父が、本国に当てた書見が残って
いますが、それには
「他のアジア諸国と異なり、日本の武力は強力
 である」
旨の記載がうかがえます。

幸いというか、戦国時代の余韻が残っていた
時代です。
鉄砲の数も世界一、と言われたほどです。

植民地にするのはいじめるためではありません。
儲けるためです。

武力で植民地化するよりも、貿易で儲けた方が、
という判断が働いたのでしょう。

Q最近お城巡りをしていて備中松山城の城下町(?)にある武家屋敷跡に行きました。 そこで疑問に思ったので

最近お城巡りをしていて備中松山城の城下町(?)にある武家屋敷跡に行きました。
そこで疑問に思ったのですが、武家屋敷には一般的には誰が住んでいたのですか??
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Aベストアンサー

家臣団の住まいです。
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城主・国主は本丸や彼用の居館に住んでいました。

もちろんそれらさまざまな身分の者が混然と住んでいるということではなく、
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いざというときに迅速に有機的に軍事行動を起こすためという目的もあったでしょう。

Q長篠の戦いで、武田軍は、どのような面で勝算を見込んで、2倍以上の兵力の織田・徳川軍に対して戦いを挑ん

長篠の戦いは、<3万8千の織田信長・徳川家康連合軍と、1万5千の武田勝頼の軍勢が戦った合戦である。>そうですね。
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長篠の戦は勝頼にとっては、準備万端で迎えたものではなく、行き当たりばったりで始まったものです。 長篠の戦いが発生したのは、家康の家臣の謀反が発端となっています。 家康は三河の奉行として、大賀彌四郎という男を抜擢していました。 この大賀は、もともとは中間ちゅうげん(雑用係)の身分だったのですが、なかなか目端が利いたために家康が取り立てました。 そしてやがては三河の一地方の行政を差配するほどの地位を与えています。 当時は武力が尊ばれる時代で、武士たちは行政に携わることを嫌い、この方面の人材は不足気味でした。 そのために家康は大賀を抜擢したのですが、大賀は取り立てを受けるとやがて増長し、三河の中心地である岡崎城を奪い、自分がその主になりたいという、だいそれた野心を抱くようになります。 しかし大賀自身には兵力がありませんので、勝頼に連絡し、「三河で一揆を扇動して徳川軍を攪乱し、その隙に城門を開いて迎えるので、岡崎城を家康から奪って欲しい」と要請しました。 そして成功の暁には、自分を岡崎城の城主にしてほしい、と願い出ます。 勝頼としては、岡崎城を手に入れれば、織田・徳川連合を三河で分断することができますので、喜んでこの申し出を受け入れます。 そして1575年5月の初めに、甲斐かい(山梨県)を出発して三河へと向かいました。 武田軍の総兵力は3万3千でしたが、この時は裏切りに応じて城を接収するのが目的でしたので、勝頼が動員したのは1万5千、全体の半分以下でしかありませんでした。 つまり勝頼は、出陣の際には織田・徳川連合と決戦を行うつもりはなかったのです。 このことが、長篠の戦いの結果に大きな影響を与えます。 長篠城に転進する大賀の企てた陰謀はやがて露見し、大賀とその仲間たちは捕縛されました。 これは大賀の仲間になっていた者が、果たして主君を裏切っていいものかと思い直し、家康の重臣に大賀の企みを密告したためでした。
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長篠の戦は勝頼にとっては、準備万端で迎えたものではなく、行き当たりばったりで始まったものです。 長篠の戦いが発生したのは、家康の家臣の謀反が発端となっています。 家康は三河の奉行として、大賀彌四郎という男を抜擢していました。 この大賀は、もともとは中間ちゅうげん(雑用係)の身分だったのですが、なかなか目端が利いたために家康が取り立てました。 そしてやがては三河の一地方の行政を差配するほどの地位を与えています。 当時は武力が尊ばれる時代で、武士たちは行政に携わることを嫌い、...続きを読む

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和歌山県には紀州徳川家という豪族がいるそうですが、本家の栃木県の徳川家康の直系の徳川家とどういう関係ですか?

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いちおう確認だが, あなたのいう「直系」とはどのようなもののことですか?

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秀吉の朝鮮出兵の頃は、明もまだ弱体化が進んでいない頃でしたが、その頃とは比較にならないほど弱体化が進んでいたので。

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そんなこと、これっぽっちも考えていないと思います。
理由は簡単です。秀吉の朝鮮侵略の悲惨な結果を知っているからです。

日本の戦国時代を代表する武将の中で秀吉だけは異質ですが、それは彼が商人、現代風に言えば経済人の感覚を持っていたからです。当時の日本の経済発展のためには領土の拡大が欠かせなかったと思います。
まあ、しかし、他国への侵略という点においては、身の程を知らないというか、世界を知らないというかバカですね。先進的な欧州の植民地化の手法と比較すると幼稚極まりないと思います。
そういえば、そんなバカが過去にもいました。それは、日出る国の聖徳太子です。この時に現地で中国側と交渉した人物は秀吉の時と全く同じことをしています。現地で先進的な大国の実状を知って、日本側のトップの顔をつぶさないようにして、二枚舌で収拾するという方法です。

徳川家康は、豊臣秀吉の朝鮮侵略の失敗を教訓として300年続く日本の平和な時代の仕組みを作ります。限られた領土で平和を維持するために、大名の取り潰しや、参勤交代などの仕組みをつくりますが、政治的なシステム以外に庶民が作り上げたシステムもあります。それは、徳川300年の間に人口が全く増加していない事実から導かれます。

家康と秀忠は秀吉と同時代に生きていたので、二度とアホなことはしませんでしたが、その教訓を忘れてしまった平和ボケの人々は、明治に入って中国侵略を開始しますが、秀吉の朝鮮侵略から得られた軍事的な反省をなにひとつしていなかったため、最後は悲惨な結果になっています。
日清日露戦争は短期間の戦争であり、当時の日本は、欧米の先進的な兵器に関する各種技術を導入していたため、時代遅れの兵器相手に勝てるのは当然ですが、先進的な欧米諸国ではすでに確立していた兵站システムが全く構築されていなかったことが、日本の決定的な弱点と言うか特性なのだろうと思います。

そんなこと、これっぽっちも考えていないと思います。
理由は簡単です。秀吉の朝鮮侵略の悲惨な結果を知っているからです。

日本の戦国時代を代表する武将の中で秀吉だけは異質ですが、それは彼が商人、現代風に言えば経済人の感覚を持っていたからです。当時の日本の経済発展のためには領土の拡大が欠かせなかったと思います。
まあ、しかし、他国への侵略という点においては、身の程を知らないというか、世界を知らないというかバカですね。先進的な欧州の植民地化の手法と比較すると幼稚極まりないと思います...続きを読む

Q真珠湾攻撃時の航空母艦6隻のお互いの距離はどのくらい?

映画やテレビなどで観ると何か6隻固まって真珠湾に近づいたイメージが私にはあるのですが、
実際の距離はどのくらいで行動したのでしょうか? 無線を封印していたので電灯による信号で
連絡し合っていたので、そんな距離はないですよね? もし、あまりに近い距離に6隻もいて敵に発見されると一網打尽で全艦撃沈もありえますね。

Aベストアンサー

個艦の距離はだいたい1.5~2kmくらいです。
(当たり前ですが航行しながら洋上補給していますので
 その時はもっと間隔は狭くなります)
でも、残念ながら真珠湾の時は輪形陣ではなく警戒陣です。
ちなみに、先導が軽巡阿武隈でその後ろに戦艦比叡・霧島、
その左右を重巡利根・筑摩、その後ろに赤城・加賀・瑞鶴と
蒼龍・飛龍・翔鶴が並んで続き、周囲を駆逐艦が警戒しています。

空母6隻がまとまっていると万一の時に全滅と思いますが、
個艦の距離をとりすぎると個別の防御が薄くなります。
空母6隻に対して戦艦2、重巡2、軽巡1、駆逐艦9なので、
空母1隻を大型艦1駆逐艦1~2程度で守るより、
みんなでみんなを守るほうがよいという判断です。

当時の様子を映像で見るとローリング(横揺れ)よりも
ピッチング(縦揺れ)が目立つので大荒れに見えますが
実はこの時期にしては破格なほどの穏やかな海です。
なので荒天だとこの距離だとかなり近いものです。
あまり離れすぎると真珠湾攻略部隊を迎えに出た
鳳翔のように迷子になったら大変です。

防御を考えると、参加艦艇を増やして個別の輪形陣が
理想かもしれませんが、末期のアメリカのように
巡洋艦や駆逐艦を多数配備できるほど艦艇はありませんし、
この時は南太平洋各地で一斉に攻撃開始なので
その他の地域に配備する艦艇も必要になることもあるので
これ以上の艦艇の配備は困難です。

真珠湾攻撃は日本海軍有史以来初めてというくらいの
遠洋攻撃なので、試行錯誤の連続です。
参加艦艇には航続距離がある高速艦が求められます。
ちなみに随伴する補給艦も高速性が求められたので
速度に危惧がある船は外されています。
さらに、当時は禁止されていた艦内にドラム缶で
保管する方法(大型艦だけです)もとられたので
被弾して引火したらミッドウェーみたいなことに。
(ただし重油は簡単に引火しません)
それくらい綱渡りの攻撃でした。

個艦の距離はだいたい1.5~2kmくらいです。
(当たり前ですが航行しながら洋上補給していますので
 その時はもっと間隔は狭くなります)
でも、残念ながら真珠湾の時は輪形陣ではなく警戒陣です。
ちなみに、先導が軽巡阿武隈でその後ろに戦艦比叡・霧島、
その左右を重巡利根・筑摩、その後ろに赤城・加賀・瑞鶴と
蒼龍・飛龍・翔鶴が並んで続き、周囲を駆逐艦が警戒しています。

空母6隻がまとまっていると万一の時に全滅と思いますが、
個艦の距離をとりすぎると個別の防御が薄くなります。
空母6隻に対し...続きを読む

Q「1945年」←これのこと、なんて言いますか?西暦ではなく。

語呂合わせで「年」を覚えるのを、「年号を覚える」という表現をしているものが多々あるのですが、
「年号」は「平成」とかのことで年そのもののことではないですよね?
「1945」を「年号」とは言いませんよね?
言いますか?
「1945」のことはなんと言えばいいのでしょうか?
「年数」ですか?
1945を語呂合わせで覚えるとしたら
「語呂合わせで”年数”を覚える」であって
「語呂合わせで”年号”を覚える」ではないと思うのですが、
どうでしょうか?
ネット上で「語呂合わせで年号を覚える」って表現が多くて困惑しています。
といって「年数」というのも、なんだか「歴史上重要な出来事があった年」を表現する言葉として
弱い気がします。
「紀年数」というのもあるにはありましたが…なじみがなくてぴんときません。
「1945」や「645」のような、重要な出来事があった年のことを
なんと言うのが適切でしょうか。
ご教示いただけましたら幸いです。

Aベストアンサー

>「年号」は「平成」とかのことで年そのもののことではないですよね?
それ年号ではなく、元号(げんごう)ですけど

>「1945」のことはなんと言えばいいのでしょうか?
年号ですけど

どうしてもと言うなら、暦年でも使ったら?

Qなぜ徳川家康は江戸に幕府を開いたのですか? 江戸がなぜ候補に上がって決定された?

なぜ徳川家康は江戸に幕府を開いたのですか?

江戸がなぜ候補に上がって決定された?

Aベストアンサー

皆さん書いていらっしゃる通り、秀吉に命じられたようです。
  
正月に「家康江戸を建てる」というドラマがありました。それを見て思ったこと。
当時は一面湿地のような、飲み水にも事欠く土地をあそこまで整備した家康という人物は(ブレーンの助言もあったとは思いますが)単に戦に強い武将だけではない、優れた政治力の持ち主だったと改めて感心しました。
彼だったからこそ、徳川300年の礎を築くことが出来たのだと思いました。


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