『ボヘミアン・ラプソディ』はなぜ人々を魅了したのか >>

哲学の認識論の勉強を少し前に始めていますが、いやいや私には難しい。

『私がいて友人Aがいたとします。私は主観でもって友人Aを認識する。しかし、
客観的には友人Aが存在するかどうかは分からない。
逆に、友人Aは私と同様に自分の主観でもって私を認識する。しかし、客観的には
私が存在するかどうかは分からない、と。
これだけでは、なんだかとても矛盾しているようでよくわかりません。この後、哲
学ではどういう理論が展開されているのでしょうか?』

質問者からの補足コメント

  • 以前、このあたりのことを質問をし、ある方に回答をいただいたのですが、
    私のレベルでは消化不良に陥りました。その後、所有する哲学辞典を読んで
    見ましたが、やはりよくわからないので、改めて質問を立てたということで
    あります。

    要は、「哲学的な」カントらの理論を分かりやすく教えてほしいという質問
    です。

    しかし、興味深い質問をいただいていますので、またあれこれ考えてみたいと
    思います。

      補足日時:2019/04/12 14:52
  • 主観・客観は哲学的に大変複雑です。
    分厚い辞典で調べてみてください。

    No.8の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/04/14 00:09

A 回答 (11件中1~10件)

二段ロケットで考える回答を述べます。




《認識》とは 《知る》ことです。

知ったらその――有限で相対的な――経験知で ものごとの存在を
規定し 確定させます。

同じものごとをあらためて知ったとき その知にもとづき以前の認
識を修正したりあるいは増幅したりします。

この知解の過程が――それは限りなく続きますが――《客観》です。




けれどもそのような変な無限の過程は おもしろくない。と思って
なのか ひとは これの近似値を求めるようになりました。

そして あるいは 清水の舞台から飛び降りたかのように(へんな
タトへ) 超経験の場へと飛躍しました。


近似値は 《実無限》と言うのだと思います。《可能無限》を人間
がそう処理した値であると。

超経験は 《真無限》と 想定上 呼ぶようです。



真無限は あったらそれは 絶対性です。

客観というのは ですから事実認識について その真実性に程度の
差があるばあい――あるのですから――なるべく間違いのない内容
のことを言うのだと見るしかないように思います。


絶対性は 主観や客観をも超えています。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

>《認識》とは 《知る》ことです

>知ったらその――有限で相対的な――経験知で ものごとの存在を
規定し 確定させます

>同じものごとをあらためて知ったとき その知にもとづき以前の認
識を修正したりあるいは増幅したりします

>この知解の過程が――それは限りなく続きますが――《客観》です

ということですね。

無限・絶対は哲学的に難しいので、少し考えねばなりません。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2019/04/22 23:27

と云う事は、自身の心さえ信じることはしない、出来ない、と云う事ですよね。



認識は認識ではない?

ニャンポコさん、何を怖がっているんですか。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

私は、自分の存在も、友人Aの存在も、客観的にあると信じています。
(どこかに書いてあります)

ニャンポコさんが怖がっているのではなくて、認識論ではそういう理論に
なるということですよ。

お礼日時:2019/04/15 00:47

私がいて、友人Aがいる。


私にとって友人Aは客観物=客体である。
私は友人Aを客観物としてその存在を認めているが、これは私の主観に依るものだ。
この主観は私だけのものだから、私以外のものにとって、友人Aが存在するかどうかは疑わしい。

これでどうでしょうか?
    • good
    • 0
この回答へのお礼

私は友人Aを主観において認識しているが、認識の妥当性を主張できない、
あるいは、認識の妥当性を主張する権利を持たない、というのが認識論的な
言い方のようです。

お礼日時:2019/04/14 22:49

今回のcyototu氏の回答は難しいです。



主観、客観は認識と云う言葉ほど複雑では無いように思います。
客観は、主体から離れて存在する外界の対象。
また、第三者の立場で見たり考えたりする事。
で、良いと思いますが。

質問で取り上げた文章が変だ、というだけではないでしょうか。
おかしな文章です。
この回答への補足あり
    • good
    • 0
この回答へのお礼

まあ、そうでもないでしょう。

お礼日時:2019/04/13 17:07

私は認知科学については言葉を知っている程度です。


素人回答でもよければ少し追記。

自分自身をよく観察。

ちょっと飛びますが、自分の中の本能が養育、教育により歪められていないか、時間を掛けて、体験的に、時には酷い感情や不快感で涙したりして調査する経験も必要だと。私の場合はそうでした。

身体の機能面から見れば、基礎としてこんなのがあったとうろ覚え。
sensory, perception, cognition, conceptualization
早大通りの古書店の本で読んだかな。でも記憶違いかも。

/////
私は 背伸びして 中身増えずとも 空きが出来る それが次の余力に

天下り式に教えられたことは案外脆い場合もありますね。
実体験から気づいた事は強い。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

>自分の中の本能が養育、教育により歪められていないか

哲学的に、非常に重要な視点だと思います。

>時間を掛けて、体験的に、時には酷い感情や不快感で涙したりして調査する経験も必要だと

とても、ストイックですね。

認知科学という学問は、新しいだけに、とても魅力ある論理が展開されているみたいですね。

>私は 背伸びして 中身増えずとも 空きが出来る それが次の余力に

背伸びしても、上滑りしなければいいと思っています。
その「滑り」を楽しんでいるのなら、それはそれで。
時代に乗って滑ることは楽しいし。

でも、昔から「年寄りの教訓」というのがあって、私も聞くようにしています。
それは、実体験で検証されたものでありますから。

お礼日時:2019/04/13 13:09

もう少し、質問文で、どこがわからないかを記載した方が良いと思います。


質問文の例では、認識論的には「分からない」のでは無く、認識の妥当性を主張できないだけですよね?(カント流に言えば、権利をお互いに持たないと言う事でしょう)
そうであるなら、認識を主張する権利をどのように得るかが、カント流の認識論につながると思います。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

哲学を知らなかった私は、どうせ哲学本を読んでも分からないだろうと
思い、ここで哲学を覚えようとしました。

そして、知らず知らずのうちに哲学とは、言葉を要約して、はっきり言
わないようにするものであるという認識をしていたようです。

読み返してみると確かに、不親切な文章が多いように思えます。

お礼日時:2019/04/13 11:47

友人Aが犬を連れていたとしましょう。


犬は飼い主Aを見あげて顔色を窺い、飼い主はそれに気付いて落ち着かせようと、頭を撫でる。
それを見ている私は、嗚呼、犬と飼い主はお互いに認識し合っているんだなぁと、受け止められます。

こんな事以前に、私と友人Aとの対話が成り立っている時点で、Aが私を認識しているかどうかを疑う事こそ不自然です。

客観と言う言葉をどう取り扱うか?
それが問題です。

文そのものに疑問を感じます。
客観的には分からない、って何を言おうとしているのですか?
    • good
    • 0
この回答へのお礼

主観・客観は難しいですね。

cyototu先生の回答がきているので、今夜じっくり考えてみようと思っています。

お礼日時:2019/04/13 13:19

客観と主観に関する哲学者の混乱の原因は、人類の手に入れてきた科学の成果に対する誤解に基づいています。

科学の科学たる所以は、我々の埋め込まれたこの世界で何が可能かを明らかにすることではなくて、何が不可能かを明らかにすることなのです。

*以前は、人間は肉体的訓練や精神的訓練で空中遊泳ができると考えられていた。しかし、ニュートンによる力学の発展は、それが不可能であることを明らかにした。

*以前は、物の移動が瞬時にできると考えられていた。しかし、アインシュタインによる相対性理論は、物の移動は光速を超えることが不可能であることを明らかにした。

*以前は、エネルギーと時間を掛け合わせた作用変数と呼ばれている量は幾らでも小さい値が取れると考えられていた。しかし、プランクによる量子論はその値に下限があり、それが、連続な値を取ることが不可能であることを明らかにした。

このように、科学の役割とは、この宇宙には生成不可能な事象があり、その不可能な事象とは何かを明らかにすることで、この宇宙の個性を明らかにすることなのです。そして客観的事実と言う言葉は、このようにこの宇宙に固有な不可能な事象に付けられた言葉なのです。そして、この不可能なことが明らかにされるたびに、人類は途轍もない技術や便利さを手に入れてきた。それに対して、可能な事象を論じている限り、客観か主観かという論争の決着をつけることは出来ません。

質問者さんの提示した例の、

>私がいて友人Aがいたとします。私は主観でもって友人Aを認識する。しかし、
客観的には友人Aが存在するかどうかは分からない。
逆に、友人Aは私と同様に自分の主観でもって私を認識する。しかし、客観的には
私が存在するかどうかは分からない

という言述に対する混乱は、客観と主観という言葉が、この世の中にある可能性に関する言葉であると誤解していることによって起こってくる混乱です。そうではなくて、客観と主観という言葉はこの世の中にある不可能性に関する言葉なのです。

果たして、この友人が客観的にいるのかどうかは、あなたとその友人の間で、各々が属していると思い込んでいる宇宙の中で、それぞれ不可能とされているものが何であるかに同意できるかどうかで判断できます。もし同意できるなら、その二人は同じ宇宙の中に客観的に存在していると結論できます。しかし、同意できないなら、あなたと友人が客観的に存在しているかいないのかの判断はできません。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

重量級の回答をいただいたと思っております。

「主観・客観」については、哲学者によって解釈が違うことを知りました。
先生はこれをどう定義しておられますか?

お礼日時:2019/04/13 23:58

認知科学の本を読んだことありますか?

    • good
    • 0
この回答へのお礼

https://www.youtube.com/watch?v=mhI5PRhwgYU

そうそう、この動画を見て、苫米地英人という人を知り、認知科学
というものに興味を持ちました。
まだ、本を読んだことはありません。

お薦めはありますか?

お礼日時:2019/04/12 01:14

それでも、認識しているという主体、


つまり自分の存在は確かである。

これがデカルトの、我思う故に我あり
です。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

デカルトが方法的懐疑の末に到達した哲学の根本的原理である
「我思うゆえに我あり」。

デカルトはどう定義していたのか?カントは?我と我の間には
何があるのか?自分は何故自分なのか?

知りたいことは、山のようにあります。

お礼日時:2019/04/12 03:08

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人はこんなQ&Aも見ています

関連するカテゴリからQ&Aを探す

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Q哲学カテ界隈で話が噛み合わない現象が起きるのは何故だと思いますか?

タイトル通りです
自分で色々考えてますがたまには
他人の意見聞いてみたくなったので質問しました

私個人の現在の考えでは
「質問という体で問いかけしてるが
実際は(質問者にとって)優秀な弟子、賛同者が
欲しいだけなんとちゃうかな」
って考えが主流となってますね

「話が噛み合わない現象なんて起きてないよ!」
って思う人はこの質問スルーしてください
尚、この質問は哲学的な問答を求めていません
アンケートみたいなものです

Aベストアンサー

>私個人の現在の考えでは
「質問という体で問いかけしてるが
実際は(質問者にとって)優秀な弟子、賛同者が
欲しいだけなんとちゃうかな」
って考えが主流となってますね

顕著ですね。
基本的に素人の集まりにすぎないので、質疑を交わすこと自体が問題を次第に掘り下げていく形になる場合が多いと思います。
持論を述べるのはむしろたたき台として必要なわけですが、しかし、賛同者を求めるのが目的の人は、その過程を重視せずに、相手を持論に引きずり込むことだけを考えている。
最初から質問が目的じゃないので噛み合うはずがない。

そういった輩と、真摯に何かを探求しようとする人との違いは、論理的な根拠を示しつつ持論を展開しているかどうか、という点。
賛同を求める乞食の輩は、論理的な根拠が提示できなくなると、強引にかぶせてきますからすぐに判別できる。
どうでも良い箇所では物分かりの良い顔して猫なで声を出すのが得意ですが、いざ本丸に攻め込まれると見境も無く髪を振り乱してあたふた大声で怒鳴り散らす。
おだてられての木登りも大得意。

それでも論理を辿ることさえお互いできれば、そんなに大きな齟齬は生じないものです。
で、そういう輩に限って、自分の質問に回答がひとつもつかなかったりすると、自分の頭が良すぎて他人には理解できないのだ、などと妄想に浸りつつ、ひとり悦にいったりする。
ダダを捏ねる赤ん坊みたいなもので、誰か面倒を見てくれる人がいると世の中は平和で助かる。
見解の相違だね、とお互いに質疑を保留できる余裕があるうちは、可能性がまだある。

>私個人の現在の考えでは
「質問という体で問いかけしてるが
実際は(質問者にとって)優秀な弟子、賛同者が
欲しいだけなんとちゃうかな」
って考えが主流となってますね

顕著ですね。
基本的に素人の集まりにすぎないので、質疑を交わすこと自体が問題を次第に掘り下げていく形になる場合が多いと思います。
持論を述べるのはむしろたたき台として必要なわけですが、しかし、賛同者を求めるのが目的の人は、その過程を重視せずに、相手を持論に引きずり込むことだけを考えている。
最初から質問が目的じゃな...続きを読む

Qあなたにとって正義とは何ですか?

あなたにとって正義とは何ですか?

Aベストアンサー

胡散臭いもの。

典型が戦争です。

勝った方が正義になります。
強いモノが正義です。

ワシントンは米国では正義の人ですが、
英国では反逆者で悪い人です。

現代の価値観で評価すれば、歴史の
英雄のほとんどは侵略者、独裁者、殺人鬼です。

かようにして、正義は胡散臭いものなのです。

Q公理って何?

再び初歩的質問です。

「公理」を辞典で調べますと、

・数学で、論証がなくても自明の真理として承認され、他の命題の前提となる根本命題。

・論理学で、演繹的理論の出発点として、証明なしに採用される命題。

・現代においては、自明な命題ではなく、理論の前提となる仮定。

等の記述があります。

1.学問がないので、いまいちピンとこないのですが、具体的にはどのようなものがあるの
でしょうか?そして、どう理解したらいいのでしょうか?

2.「理論の前提となる仮定」から組み立てられた理論というものが、自然科学においても
検証されるとはいえ、何故、事実・真実と言えるのでしょうか?

Aベストアンサー

公理で一番有名なのは、平行線公理(平行線公準とも呼ばれる)でしょう。

「一つの直線上にない一点を通ってその直線は一つしかない」

この命題を証明することはできません。以前はこれを証明しようと多くの数学の天才たちが試みました。しかし誰にも証明できなかった。ロバチェフスキーが1829年に『幾何学の新原理並びに平行線の完全な理論』を発表して、彼が1826年に発見した新しい幾何学を提示して、上記の命題が証明不可能な公理であることが明らかになったのです。

ロバチェフスキーは、上記の命題の代わりに

(1)「一つの直線上にない一点を通ってその直線は何本でも引ける」

としても、数学的に無矛盾で閉じた論理体系を構築できることを明らかにしました。それがいわゆる非ユークリッド幾何学の始まりでした。この幾何学で表現されている空間は曲がった空間なのです。

その後に、リーマンが

(2)「一つの直線上にない一点を通ってその直線は一本も引けない」

としても、数学的に無矛盾で閉じた論理体系を構築できることを明らかにしました。この公理(2)が成り立つものとして構築された幾何学をリーマン幾何学と呼びます。一方、上記の公理(1)が成り立つものとして構築された幾何学をロバチェフスキー幾何学と呼びます。

さらに、リーマン幾何学の一つの具体的な例が球面状の幾何学であることもわかるようになりました。その場合この非ユークリッド幾何学を球面幾何学と呼ぶこともあります。

上記の事実の発見は、人類に多大な知的進展をもたらしました。なぜなら、自分の主張の論理的矛盾性をいかに証明しても、それでこの世界が解ったわけではないことが明らかになったからです。例えば、我々が埋め込まれている宇宙が上記のどの幾何学によって記述されている世界なのかは、論述の無矛盾性や整合性をいくら明らかにしても、判定できないことが明らかになったからです。

その判定には必ず実験や観測が必要である。すなわち論理的な理念の整合性に加え、事実はどうなのかを実験や観測で判定しなくてはならない。その判定をするのが自然科学なのです。そして数学は、命題の間の無矛盾性を論じる言語学であり、すなわち人文科学の一つであり、事実を論じる自然科学ではないことが明らかになったのです。

公理で一番有名なのは、平行線公理(平行線公準とも呼ばれる)でしょう。

「一つの直線上にない一点を通ってその直線は一つしかない」

この命題を証明することはできません。以前はこれを証明しようと多くの数学の天才たちが試みました。しかし誰にも証明できなかった。ロバチェフスキーが1829年に『幾何学の新原理並びに平行線の完全な理論』を発表して、彼が1826年に発見した新しい幾何学を提示して、上記の命題が証明不可能な公理であることが明らかになったのです。

ロバチェフスキーは、上記の命題の代わ...続きを読む

Q人間が人間を超えるものをつくること

たとえば、情報工学の先端でAIの研究に携わっているとしましょう。
すべてにおいて人間を超える可能性を秘めているものを対象として目の前におくとき、主観は常に対象を客観視できるでしょうか。
人間が人間を超えるものをつくる、ということは、あえて極論を言いますと、人間が人間を滅ぼすというポテンシャルを含み持つことです。
IT化による効率性、利便性は今や否定できません。
ITシステムが修正を繰り返し生き延びる様は人間のようであり、自ら学習を重ねて賢くなる人工知能AIはいつか人間を超える存在になると言われます。
そのようになると想定される場合に、果たして人間は冷静に客観である対象に向き合えるものでしょうか。それとも、専門家のあいだでは人間を超えることはないという根拠があるから、冷静に研究開発を続けられるのでしょうか。
もしそうならば、それを開示して世の中の不安も同時に払拭していく責任も同時にあると思うのですが、皆様はどのように思われますか?

Aベストアンサー

#14です。お礼ありがとうございます。

>ああ、私たちはいつになったら悟るのだろう
人間を失ったことを

頭のいい人たちはすでに19世紀初頭に警鐘を鳴らしていますよ。
たとえばJ・J・トールキンは「人間らしさ」を「自然(精霊や斎もの)との交流と恐れが人間の本質である」としてそれが失われる前に指輪物語を書きました。指輪物語で人間以外が西の国に行ってしまうのは、まさに19世紀が「機械に人間が乗っ取られ、人間性を失う時期」だったからです。

同様にラフカディオ・ハーンは日本に来て「まだ人間性が残っている今のうちに記録を残そう」と小泉八雲として様々な小説を著作しました。

「メトロポリス」なんていうデストピアを描いた映画もありましたね。

どれも19世紀末から20世紀初頭の作品で、この辺りが機械を発明した第一世代から、機械と共存する第二世代に変わった時期なのでしょう。それから先はコンピューターでもAIでも機械化の延長にすぎないわけです。

人間のほとんどは「科学文明と共に生きること」を選んだのです。そのほうが「犠牲はあるかもしれないが、少なくとも自然の中で恐れて生きているよりは幸せである」と考えたからです。

実際、20世紀の科学進歩はすさまじく、それ以前の不治の病とされた天然痘は撲滅、ペストなどは激減、結核は治るようになり、飛行機を使えば1日で世界一周できるようになりました。機械を使うことによる犠牲者はあるものの、全体で見れば「機械のおかげで人は死ななくなった」のです。

ですから、今後もAI化などは「ほとんどの人が疑問を持たずに」進んでいくのだと思います。でも結局人間はそれで幸せなんだと思いますよ。

私には子供が居ますが、20世紀初頭の乳幼児の死亡率は50%以上だったわけです。つまり10人産んでも5人しか残らない社会で、ほとんどの人が「長生きできなかった兄弟」を背負って生きていたわけです。父母の、特に母親が自分でお腹を痛めた子を失う辛さと残酷さは悲劇以上のものだったでしょうが、たった100年前はそれが普通だったわけです。

今は乳幼児の死亡率は先進国なら数パーセントしかありません。

私は「人類が科学技術を捨てて『人間性を取り戻す』ことを望むのか?」と聞かれればNOだと思います。その代り人間は「機械とうまく付き合っていく」しか道はないのだと思います。

>人間はAIの奴隷。モルモット。

人間は自分で機械・技術の檻の中を選んだのです。アマゾンや砂漠地帯など一部の人間たちは拒否しています。ああ、インドに「文明を受け付けない島」があるようですが、そういう人たちはまだ「人間」なのでしょう。

でもほとんどの人間は自分たちで望んで、機械・技術に守られることを選んだのです。

#14です。お礼ありがとうございます。

>ああ、私たちはいつになったら悟るのだろう
人間を失ったことを

頭のいい人たちはすでに19世紀初頭に警鐘を鳴らしていますよ。
たとえばJ・J・トールキンは「人間らしさ」を「自然(精霊や斎もの)との交流と恐れが人間の本質である」としてそれが失われる前に指輪物語を書きました。指輪物語で人間以外が西の国に行ってしまうのは、まさに19世紀が「機械に人間が乗っ取られ、人間性を失う時期」だったからです。

同様にラフカディオ・ハーンは日本に来て「まだ人...続きを読む

Qキリスト教や仏教やイスラム教やヒンドゥー教等は 何とか統一できないものか?

宗教が統一できれば世界的に平和にも近づくのではないでしょうか

どうやるのかは分かりませんが 統一教会はキリスト教の神霊を統一しようとして失敗した

キリスト教に拘らず 全ての人に 無宗教の人にも納得の行く教えを練り出せないものか?

まずはそれらの宗教の代表が会議してる様なので もっと危機感を持って

自分から変わる意識を持って 緊張感を持って月に一度でも2週に一度でも会議を2,3日

かけても何とかして宗教が協力して進化する様な宗教哲学を活性化出来ないものでしょうか?

Aベストアンサー

宗教間対話は、共通の目的を、確認し合う事からだと思います
その第一が
「生存の権利は、誰人と言えども、いかなる理由であっても
これを犯してはならない」
と言う事です

ダライラマ等が参加する、宗教間の対話など
ただのパフォーマンスに過ぎず、下心がミエミエで
何の問題の解決にもなりません

宗教間対話」のあり方として
「積極的寛容」を提示しなければなりません
①それぞれの宗教が「原点の心」に基づく、
②「独自性」と「共通性」を自覚する、
③自己の宗教の「創造的発展」、
④人類的課題の克服に協調することを目的とする
等が挙げられます、

柳沼正広氏による第2章「キリスト教と諸宗教 宗教の神学」では、
キリスト教が他の諸宗教をどのように考えてきたかが述べられています。
諸宗教に対する考え方として、
排他主義、包括主義、多元主義、多元主義への批判を取り上げています。
他宗教を理解する努力のなかで、
自身の宗教への理解や反省が深められていく
宗教間対話の持つ重要性について論じています。

中国における中心的な思想である儒教に対して、
外来宗教である仏教と、儒教より後に成立した道教が
、自らの立場を主張しつつ、互いに交流と対話を
行ってきた歴史を辿っています

統合、に必要なものは「信」です
「不信」が統合を不可能にしています
宗教間の争いを無くすには
信頼関係を結び、友好、交流活動の継続しかありません

信は  結合 善 勇気 幸福 平和 不可能を可能にします
不信は 分断 悪 臆病 不幸 戦争 可能を不可能にします

宗教間対話は、共通の目的を、確認し合う事からだと思います
その第一が
「生存の権利は、誰人と言えども、いかなる理由であっても
これを犯してはならない」
と言う事です

ダライラマ等が参加する、宗教間の対話など
ただのパフォーマンスに過ぎず、下心がミエミエで
何の問題の解決にもなりません

宗教間対話」のあり方として
「積極的寛容」を提示しなければなりません
①それぞれの宗教が「原点の心」に基づく、
②「独自性」と「共通性」を自覚する、
③自己の宗教の「創造的発展」、
④人類的課題の克服に協調...続きを読む

Q私は悟りました 随分前に悟りました つもりです。分かる事があれば答えます。

何か分からない事があったら素朴な疑問でもお聞かせ下さい

専門的な問題は知らない事が多いので知らない言葉は分かりませんが

何か分からない事はありませんか?

Aベストアンサー

1,悟りとは何ですか。

2,ハルさんが悟ったことが、悟りと言える
 客観的な根拠は何でしょう。
 自分でそう信じるだけなら、宗教と同じです。
 客観的な根拠が必要だと思います。

3,悟ることにより、何がどう変わりますか。

Q哲学とは何か?

哲学とは何か?この第一歩から考えてみたくなりました。

野矢茂樹氏の「ラジオ深夜便」出演の話はどなたかが紹介していましたが、
私も一度聞いたことがありました。
改めて聞いてみると、嬉しくなるほど分かりやすいと思いました。なんだか
分からない話を随分聞いてきたせいでしょうか?

どんな分野でも、言っていることが明快な人は、その中身をよく理解してい
る人で、逆に言っていることが何だかよくわからない人は、結局分かってい
ないのだという世間一般の定説は正しいものでしょう。

哲学とは何かということについて、野矢氏は、次のように述べています。

ごく簡単に哲学史を述べれば、アリストテレスは哲学を学問として捉えていた。
トマス・アクィナスにとっては、哲学は宗教であった。
デカルトは、哲学は学問の基礎であると考えていた。
現代においては、哲学者の数だけ定義が存在すると言って過言ではない。

私(野矢氏)にとって哲学とは、人間の言葉を使った複雑な思考の中の問題として
1.思考の全体を見通せていない、2.思考を支えている多くの暗黙のものを自覚し
ていない、3.全体の曖昧さ、矛盾を分からないでいる、これらの問題を解決する
ことである、と。

確かに、哲学というものの定義は、様々であることは実感していました。だから、
「さあ統一しましょう」といったところで、そううまくはゆかない。せめて、各々
の定義を理解し合えたら、もう少し意義のある対話ができるかも知れません。

さて、あなたの「哲学の定義」はというと、どういうことになりますでしょうか?

哲学とは何か?この第一歩から考えてみたくなりました。

野矢茂樹氏の「ラジオ深夜便」出演の話はどなたかが紹介していましたが、
私も一度聞いたことがありました。
改めて聞いてみると、嬉しくなるほど分かりやすいと思いました。なんだか
分からない話を随分聞いてきたせいでしょうか?

どんな分野でも、言っていることが明快な人は、その中身をよく理解してい
る人で、逆に言っていることが何だかよくわからない人は、結局分かってい
ないのだという世間一般の定説は正しいものでしょう。

哲学...続きを読む

Aベストアンサー

キリスト教が発達してからの西洋哲学は、キリスト教を隠れ蓑にしていた人間のインモラルな部分に、風を通して、本来の人間性を取り戻そう、という、初々しいものではなかったですか。

ルネサンス美術と同じで、西洋の精神世界の理想である、ギリシアの昔のように、キリスト教を離れて、自由に思考をしたかった。もう一度、自分の頭で考えてみたかった。

ギリシアで発達した哲学は、言葉遊びのきらいもありますが、(多分に、貴族の暇つぶしだったでしょう)、発想は、もっと自由で、はつらつとしたものでした。人間の尊厳の確認であったかのような印象があります。

その旗頭であるソクラテスが牢獄に繋がれ、毒をあおって死ななければならなかったため、何か、陰惨な印象を持っていましたが、何年か前、彼の牢獄であったと伝えられている岩屋を訪れる機会があり、その場所が、アクロポリスを見渡せる、風光明媚な場所であったため、何だか、足元のはしごを外された気分、というか、牢獄でさえ、知的でした。

おっしゃる通り、哲学は、対話によって、曖昧なものや無意識に受け入れていた事柄を、明確にしてゆく役割を担っているのだと思います。中世以降のヨーロッパでは、キリスト教が邪魔になりましたが、現代の日本では、いかがでしょうか。

キリスト教が発達してからの西洋哲学は、キリスト教を隠れ蓑にしていた人間のインモラルな部分に、風を通して、本来の人間性を取り戻そう、という、初々しいものではなかったですか。

ルネサンス美術と同じで、西洋の精神世界の理想である、ギリシアの昔のように、キリスト教を離れて、自由に思考をしたかった。もう一度、自分の頭で考えてみたかった。

ギリシアで発達した哲学は、言葉遊びのきらいもありますが、(多分に、貴族の暇つぶしだったでしょう)、発想は、もっと自由で、はつらつとしたものでした。人...続きを読む

Q地球と人間はどちらが大切なのでしょうか?

愛は地球を救うと言う夏のチャリティ番組もありますが

人間が救われないと 地球を救っても何かおかしい様な?

確かに地球環境を守るか改善しないと人間も生きて行けなくなるかもしれませんが

人間が滅びてもまた進化した知的生命体が生まれるでしょう。

しかし僕らは人間だから人間が滅びたら何になるんだろうか?

この悲惨な世界で人間が大事か 地球が大事か?

Aベストアンサー

こういう問題は、極論すると
わかりやすくなると思います。

科学技術が発達して、人間が宇宙に住めるように
なった場合を想定してください。

地球が無くなっても、人間は宇宙で生き続ける
ことが出来ます。

つまり、人間にとって、地球の存在は必須では
ないのです。

人間の方が大切です。

Q言葉について

言葉とは人間そのもの、人間と表裏一体だということ、理解できました。

そうすると、人工知能AIの使う言葉は、どのように捉えられるでしょう。プログラミングされた言葉が人を感動させることはあるのか。いわゆる言霊というのは失われてしまうと思うのですが。

それともそういうことがあるのだとすれば、それはプログラミングした人間自身の言葉の反映なのか。
それともAIは自身で言葉を獲得して、詩や短歌、俳句の領域に至るまで凌駕していくのか。

どのように思われますか?

Aベストアンサー

ことばを《ロゴス》として広く捉えた場合 次のように分類できるのではないか
と考えます。

☆☆ ひどっち=ぶらじゅろんぬの定理 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
【Q:ヒラメキとは 人に起きるいかなる現象か】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/10598115.html

〇 ヒラメキの成り立ち (ひどっち=ぶらじゅろんぬの定理)
(または ロゴスの階層 
つまり 《非思考の庭》と《思考の緑野》とのあいだに何が起きるのか) 


 [非思考の庭]
  スピリトゥス=ロゴス(α):クレド(非経験のナゾなる非思考の庭):神
                   ↓
 ----【天使(α’):ロゴス(α)の使い】--------------
                   ↓
 [思考の緑野]            ↓
  インスピレーション=ロゴス(β):異言
       :中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ
                   ↓
  インスピレーション=ロゴス(γ):預言
       :本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間による言葉化
       :概念? 象徴(シンボル)? 世界観じたい?
                   ↓
  ラチオ=ロゴス(δ):コギト=思考〔の緑野〕
       :経験合理性にもとづこうとする論理


   *(註) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

   ・ロゴス:ことば

   ・スピリトゥス:霊。聖霊

   ・クレド( credo = I believe. 我れは信じる)

   ・異言(シャリバリ):意味の分からないことば

   ・預言:解釈。経験思考で分かるように表現する。

    〔もともとは 予言= pro-phetia(予‐言)として成ったことば〕

   ・ラチオ( ratio ):理性

    〔 = reason 。《 re-or =思う・考える・数える》から〕

   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

☆ ロボットや人工知能は インスピレーション=ロゴスつまり ヒラメキとし
ての言葉を受け取ることがあるのか? といったことが気に成ります。

ことばを《ロゴス》として広く捉えた場合 次のように分類できるのではないか
と考えます。

☆☆ ひどっち=ぶらじゅろんぬの定理 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
【Q:ヒラメキとは 人に起きるいかなる現象か】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/10598115.html

〇 ヒラメキの成り立ち (ひどっち=ぶらじゅろんぬの定理)
(または ロゴスの階層 
つまり 《非思考の庭》と《思考の緑野》とのあいだに何が起きるのか) 


 [非思考の庭]
  スピリトゥス=ロゴス(α):クレド(非経験のナゾなる非思考...続きを読む

Q科学

超初歩的な質問です。

「サイエンスする」とはどういうことでしょうか?

哲学は科学の範疇には入らない、という考え方が多いようですが、そうだとすると
それは、何故ですか?

Aベストアンサー

基本的には、科学が形而上学でないと言う事が違いなんだと思います。(これに関しては、量子力学の「解釈」は、その実体を観察できない以上「形而上学」に過ぎないと言う批判はあるでしょう)
あらゆる形而上的な概念を排除しようとした、マッハなどは、その立場としては、科学的でしょうが、それを思想的な衝動とした時点では、哲学的と言えるでしょう。
20世紀初頭は、現代の科学的な方法論は、ほぼ確立していましたが、現象の解釈と言う点では、まだ自然哲学から抜け出ていなかったと言えるでしょう。
実際問題としては、「科学」、狭義には「自然科学」の厳密性を担保するのは、「現象」そのものです。(現象以外は、基本的に検証の対象にならないと言えるでしょう)
「哲学」は、その性質上、形而上の存在も対象としなければいけません。 したがって、その厳密性の担保は、哲学が方法そのものから、生み出す必要があります。(これが、「哲学」が一筋縄では行かない所以です)
厳密性が一定の範囲で、確実に担保できるのは、形式科学としての「数学」ですね。(むしろ、厳密性が担保できる「形式」を見つけるのが、「数学」なのかもしれません)
宗教もある意味、「数学」に似ています。 それは、宗教の信仰者からは、そのようなものでは無いと言われるかもしれませんが、何らかの信仰対象に対して、信仰者がある形式で、その信仰を行う活動と言えなくも無いわけです。(その形式の分析は、宗教では無く、「宗教学」と呼ばれるでしょう)
古代ギリシャにおいては、これらは、全て「哲学」の領域にあったと言えるでしょう。(「数学」、「自然学」、「形而上学」は、「哲学」の中で混然一体として議論されていたわけです)
ヨーロッパにおいては、ローマ帝国によるキリスト教の国教化に伴い、しばらくは、(キリスト教)「神学」は、自然哲学や「形而上学」としての、プラトニズムと混然一体として、「哲学」としても、蜜月を迎えましたが、16世紀以降は、暗黒時代を経て、「哲学」からは、それぞれ「神学」、「自然科学」として、分科していきました。
分科した理由はさまざまでしょうが、基本的に「哲学的」な厳密性では、上手くゆかなくなったのが、一番の理由でしょう。
(キリスト教)「神学」は、その宗教的理由から、教義にかかわるような議論を嫌ったわけでしょうし、「自然科学」は、原因を追究するより、現象の法則の科学的解明の方が重要だったと言う事です。
「数学」も、論理実証主義により、その厳密性を確立する事を目指しましたが、ヘーゲルなどにより、その基盤が確実で無い事が証明されてしまいました。(したがって、一定の形式における論理的整合性の検証に特化したわけです)
これらは、「Why(何故)」から、「How(どのように?)」への転換と言えます。
「哲学」が追求するのは、「Why」でしょう。
「科学」は、「How」であり、一部の解釈は、「Why」となります。(ただし、解釈は、あくまで解釈であり、実証は成されていないでしょう)
これが、「哲学」と「科学」を分ける境界なんでしょう。

基本的には、科学が形而上学でないと言う事が違いなんだと思います。(これに関しては、量子力学の「解釈」は、その実体を観察できない以上「形而上学」に過ぎないと言う批判はあるでしょう)
あらゆる形而上的な概念を排除しようとした、マッハなどは、その立場としては、科学的でしょうが、それを思想的な衝動とした時点では、哲学的と言えるでしょう。
20世紀初頭は、現代の科学的な方法論は、ほぼ確立していましたが、現象の解釈と言う点では、まだ自然哲学から抜け出ていなかったと言えるでしょう。
実際問題...続きを読む


このQ&Aを見た人がよく見るQ&A

人気Q&Aランキング