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1. 《絶対》は この経験世界には無いと言う。その概念は――想像において
――有ると言う。

2. では この経験世界を超えたところというのは 想定することができるか?

3. と言うよりも その《非経験の場》をこの経験的な相対世界を超えた《絶
対性》としてすでに想定したゆえに(そのときに) この《絶対》だとか《無限》
といった言葉≒概念が持たれているのではないのか?

3-1. そしておそらく その想定より先に ひとは《かみ》という言葉を持
ち得たらしい。





4. 経験世界を超えているとは どういうことか? 

5. 絶対なる非経験の場は――経験世界の外なのではなく―― 経験世界を覆
い包んでいると帰結される。それが 《超えている》ということだ。

5-1. 超経験・超自然たる非経験として経験世界に あまねく存在(非存在)
しているということだ。

5-2. 経験(つまり 経験的な能力たる人知)を超えているのだから その
存在の仕方は 分からない。《有る》とも《無い》とも分からない。存在の有と
無とを超えているので 《非存在》と呼ぶのがよい。

5-3. 非存在が――分かりやすい言葉を用いれば 《霊性》として――この
世界に遍在しているということだ。有るとしてかあるいは無いとしてか いづれ
かのかたちで 存在している(または 存在していない)。



6. これが いわゆる神の遍在として――初めからの想定じょう――理解され
ているコトである。《非存在》は 《霊性》とも呼ばれる。

6-1. つまり重ねて言えば この非経験の場なる神は 経験事象としては―
―その経験事象を覆い包んでいると想定されたとしても―― 存在するとも存在
しないとも いづれとも人間が知り得ず またついぞ決めることの出来ないナゾ
である。

7. これが 《絶対性》である。



☆ ここまでで見解を寄せて欲しいのですが 起こり得る疑問にこたえて次のよ
うに補足を添えます。





8. 《絶対性》を擬人化して《絶対者》と呼ばれることがある。さらにはチカ
ラないしそのハタラキに着目して 《創造主》と仮りに表現された。

8-1. これらは 初めの想定から帰結した仮説ゆえ その限りで一般に 表
現の問題である。

8-2. 表現の問題であることを超えるのは 人間たるそれぞれ《わたし》が
価値判断をそこに寄せる場合である。そしてそのことは 信教・良心の自由とし
てゆるされている。





9. もっとひらたく言えば いわゆる神について それが存在するとも・しな
いとも われわれ人間がいづれとも証明し得ないゆえに この想定があるのだと
思われる。しかも 想定するという説明やその認識を持つ前に 神という言葉を
持ち得たらしい。哲学は ミネルヴァの梟だと言われる。

10. これが 人間の――生きる・そして共に生きる――条件である。天与ゆ
えに――つまり 絶対性のゆえに――仕方がない。避けることのできない条件だ。






☆ もう少し伸ばそう。

11. したがって 想定を承けて神を捉えるならば それは 《ただひとつの
普遍神》であらざるを得ない。《絶対》が 二つも三つもあっては 困る。つま
り 数えるといった人知におさまるのでは おかしい。

12. 普遍神は 有るか無いか。人それぞれにどちらか好きなほうをえらべば
よい。すでにえらんで受け容れられている。

12-1. はじめにことばがあったの《ことば》は 人知を超えていて人が知
り得るか知り得ないかが知り得ないゆえに 《はじめにおこなひありき》という
命題が 真なりというように見えることがある。



13. 有神論も無神論も どちらも《神とわれとのカカハリ》を示している。
互いに同等である。その意味でも 良心・信教の自由。

14. 有る神としては さらに人(民族)によってそれぞれ互いに異なる名が
つけられている。これも 自由にえらべばよい。

15. 無い神も じっさいには人によって――普遍神とのカカハリの具合いが
その人の個性(?)として―― さまざまなのであろう。

16. それだけのことだ。これが 絶対性なる神のからくりである。

A 回答 (8件)

何遍も読んで何となく少しだけ分かりました。


そんな感じではないでしょうか。同意するみたいな。
人の考えること、考えるやり方にはいろいろあるのだと息をつきました。

私は読書家の反対でしたから読解にかかる省エネ余地が大いにあると前向きになれそう。

言葉って信号弾なのですね。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

それは よかった。


言葉は 基本的には 人びとの意志や気持ちから自由な(中立な)記号
です。シルシです。

ですが 文脈の中に置かれると その情況や登場人物の意向や感情に囲
まれて その雰囲気などがシルシにくっついて来ます。

社会的な使用が重なると 同じような文脈においては 気持ちやその指
向する方向もが シルシに付着したような恰好になります。

それで:
★ 言葉って信号弾なのですね。
☆ といった捉え方が出て来るのだと思います。

シルシが信号のように成ったときには 方向や向きがそれによって指し
示されるかたちに成りえます。

また 四つ辻の信号の役割りを果たすというのは それは 記号もしく
は信号としての言葉によるものでは必ずしもなく 哲学としての思考が
果たす交通整理によってだと思われます。

思考の軌跡を追えば 志向性ないし指向性がおのづと捉えられて 止ま
れや進めといった指針をも得ることが出来るようになっているかも知れ
ません。






★ 人の考えること、考えるやり方にはいろいろあるのだと息をつきま
した。
☆ これを社会的な構造と捉え ただしそれは むろん物理的な構造の
ことではないですから あたかも《神〔と人間たるわれとのカカハリと
して〕のからくり》のごとくにも捉えられるかも知れない。

――といった視点(視座)のこととして問い求めたものです。

お礼日時:2019/04/13 11:29

私はブラジュさんの見解に賛成!

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この回答へのお礼

ご回答を そして何より賛同を ありがとうございます。

神のからくりの中で 対称性のやぶれが起こり 散逸構
造が出来て行きます。
――といったふうに捉えてみました。

大雑把すぎるのかも知れません。

お礼日時:2019/04/12 20:24

対象としているものは あくまで経験的・相対的また有限の事象です」←だったら あなたの質問自体 しなくてもイイだけ・・



経験的でも相対的でも無く 有限だけなのだから
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若輩者ですみません...



この質問は何のために書き込まれているのでしょうか?

自論の絶対性の確立のためでしょうか?
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

哲学には むかしから 形而上学という分野があります。要するに
神論です。

昨今はあまり流行らないのですが じっさいはどうか? よい理論
が出てくれば話は決まりです。

また よい理論も なおさらに問い求めがつづきます。


その一環でありその過程のひとつです。

お礼日時:2019/04/12 15:26

きみのは机上の空論だね。

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この回答へのお礼

きみは 機上の空人かね?

中身のある上から目線にしないと。



ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2019/04/12 12:47

No.2です


それは無理です。論理、議論の場で「絶対」と言い出したら
それは主張の不変を表します

議論の場で絶対が出ると後はその絶対なる論理に
賛成か反対かという単純二原論化します
言うなれば絶対論者はプロパガンダ論者です

人の意見を聞いて変わることが出来ないから
「絶対」を言い出してるのですよ
故に話し合うだけ時間の無駄です
「はい!論破」言い合う状態に得るものは何もない
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この回答へのお礼

考えちがいをしておられます。――ご回答をありがとうございます。

★ 論理、議論の場で「絶対」と言い出したら それは主張の不変
を表します
☆ 《不変》は ・そして取り分け《主張》というものは 経験事
象です。移ろいゆかざるをえないものごとです。

たとえ一生のあいだ不変であったとしても その思想や主張またそ
の表現行為といったことは あくまで有限で経験的・相対的なもの
ですから。



★ 賛成か反対かという単純二原論
☆ これが 移ろいゆかざるを得ず ほとんどは 朽ちざるを得な
い相対的なものです。

――このように相対世界を見るのが 絶対性なる視点――霊性です
が――です。

この視点を現実に実現させることは 並大抵のことではかなわない
でしょうが それを目指すしか 人間という存在また心には あり
ません。違いますか?



★ 人の意見を聞いて変わることが出来ない
☆ というふうに絶対視するのは 人間のやることではありません。

この理論だけでも 普及するとよいでしょう。

お礼日時:2019/04/12 11:02

絶対を言い出したした連中は


聞く耳持ってないからですよ
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この回答へのお礼

聞く耳を持たせてやればいいぢゃん。

この質問の趣旨説明のように。




ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2019/04/12 10:30

絶対が無いって?



幾らでも この世にあるが?

絶対息を しないと生きられない

絶対食べないと生きられない

絶対水分を採らないと生きられない

絶対 死は来る・・等
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この回答へのお礼

経験事象をめぐって そこに共通の要素・要因が見出せる。

その例外がないという一般性・法則性ないし普遍性のことを 仮りに:
★ 絶対
☆ という言葉で表現したものです。強調の用法です。

超経験を言う絶対という言葉を その不変化性に注目して 経験事象
についても仮りに派生的に用いたものです。

対象としているものは あくまで経験的・相対的また有限の事象です。



このあとは 同じやり取りの繰り返しになると予想されますので も
うお応えしません。

ご回答をありがとうございました。

お礼日時:2019/04/12 10:28

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「私より公を優先する」とは分かり易く言えば「私欲という自分の思いを少し抑えて公の為とみんなで考え行うこと」です。自分の私欲の心を少し抑えて、一人一人がみんなの為と考えることです。これは民主主義を示しています。そして「みんなの為」と考えるということは皆さん一人一人がリーダー、その群れのトップの立場に立って考えると言うことです。それは強い責任感をもって考えると言うことです。そのような心を一人一人みんながもって、みんなで考えれば最も正しい答えに辿り着ける確率が高くなるよ、ということです。これ以上に優れた方法が何かありますか? これが私の言う絶対善なのです。

その群れ社会にとって絶対的に正しいことは社会の安寧秩序であり、そのために最も優れた方法が「私より公を優先する事、つまり愛や思いやりや慈悲心」なのです。もちろんこれは最高の方法を示しているので一般的にはなかなかできないことです。しかしそれを目指す事こそが最もより良い社会が創れるのだ、と言う事なのです。

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#14です。お礼ありがとうございます。

>ああ、私たちはいつになったら悟るのだろう
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頭のいい人たちはすでに19世紀初頭に警鐘を鳴らしていますよ。
たとえばJ・J・トールキンは「人間らしさ」を「自然(精霊や斎もの)との交流と恐れが人間の本質である」としてそれが失われる前に指輪物語を書きました。指輪物語で人間以外が西の国に行ってしまうのは、まさに19世紀が「機械に人間が乗っ取られ、人間性を失う時期」だったからです。

同様にラフカディオ・ハーンは日本に来て「まだ人間性が残っている今のうちに記録を残そう」と小泉八雲として様々な小説を著作しました。

「メトロポリス」なんていうデストピアを描いた映画もありましたね。

どれも19世紀末から20世紀初頭の作品で、この辺りが機械を発明した第一世代から、機械と共存する第二世代に変わった時期なのでしょう。それから先はコンピューターでもAIでも機械化の延長にすぎないわけです。

人間のほとんどは「科学文明と共に生きること」を選んだのです。そのほうが「犠牲はあるかもしれないが、少なくとも自然の中で恐れて生きているよりは幸せである」と考えたからです。

実際、20世紀の科学進歩はすさまじく、それ以前の不治の病とされた天然痘は撲滅、ペストなどは激減、結核は治るようになり、飛行機を使えば1日で世界一周できるようになりました。機械を使うことによる犠牲者はあるものの、全体で見れば「機械のおかげで人は死ななくなった」のです。

ですから、今後もAI化などは「ほとんどの人が疑問を持たずに」進んでいくのだと思います。でも結局人間はそれで幸せなんだと思いますよ。

私には子供が居ますが、20世紀初頭の乳幼児の死亡率は50%以上だったわけです。つまり10人産んでも5人しか残らない社会で、ほとんどの人が「長生きできなかった兄弟」を背負って生きていたわけです。父母の、特に母親が自分でお腹を痛めた子を失う辛さと残酷さは悲劇以上のものだったでしょうが、たった100年前はそれが普通だったわけです。

今は乳幼児の死亡率は先進国なら数パーセントしかありません。

私は「人類が科学技術を捨てて『人間性を取り戻す』ことを望むのか?」と聞かれればNOだと思います。その代り人間は「機械とうまく付き合っていく」しか道はないのだと思います。

>人間はAIの奴隷。モルモット。

人間は自分で機械・技術の檻の中を選んだのです。アマゾンや砂漠地帯など一部の人間たちは拒否しています。ああ、インドに「文明を受け付けない島」があるようですが、そういう人たちはまだ「人間」なのでしょう。

でもほとんどの人間は自分たちで望んで、機械・技術に守られることを選んだのです。

#14です。お礼ありがとうございます。

>ああ、私たちはいつになったら悟るのだろう
人間を失ったことを

頭のいい人たちはすでに19世紀初頭に警鐘を鳴らしていますよ。
たとえばJ・J・トールキンは「人間らしさ」を「自然(精霊や斎もの)との交流と恐れが人間の本質である」としてそれが失われる前に指輪物語を書きました。指輪物語で人間以外が西の国に行ってしまうのは、まさに19世紀が「機械に人間が乗っ取られ、人間性を失う時期」だったからです。

同様にラフカディオ・ハーンは日本に来て「まだ人...続きを読む

Q哲学カテ界隈で話が噛み合わない現象が起きるのは何故だと思いますか?

タイトル通りです
自分で色々考えてますがたまには
他人の意見聞いてみたくなったので質問しました

私個人の現在の考えでは
「質問という体で問いかけしてるが
実際は(質問者にとって)優秀な弟子、賛同者が
欲しいだけなんとちゃうかな」
って考えが主流となってますね

「話が噛み合わない現象なんて起きてないよ!」
って思う人はこの質問スルーしてください
尚、この質問は哲学的な問答を求めていません
アンケートみたいなものです

Aベストアンサー

>私個人の現在の考えでは
「質問という体で問いかけしてるが
実際は(質問者にとって)優秀な弟子、賛同者が
欲しいだけなんとちゃうかな」
って考えが主流となってますね

顕著ですね。
基本的に素人の集まりにすぎないので、質疑を交わすこと自体が問題を次第に掘り下げていく形になる場合が多いと思います。
持論を述べるのはむしろたたき台として必要なわけですが、しかし、賛同者を求めるのが目的の人は、その過程を重視せずに、相手を持論に引きずり込むことだけを考えている。
最初から質問が目的じゃないので噛み合うはずがない。

そういった輩と、真摯に何かを探求しようとする人との違いは、論理的な根拠を示しつつ持論を展開しているかどうか、という点。
賛同を求める乞食の輩は、論理的な根拠が提示できなくなると、強引にかぶせてきますからすぐに判別できる。
どうでも良い箇所では物分かりの良い顔して猫なで声を出すのが得意ですが、いざ本丸に攻め込まれると見境も無く髪を振り乱してあたふた大声で怒鳴り散らす。
おだてられての木登りも大得意。

それでも論理を辿ることさえお互いできれば、そんなに大きな齟齬は生じないものです。
で、そういう輩に限って、自分の質問に回答がひとつもつかなかったりすると、自分の頭が良すぎて他人には理解できないのだ、などと妄想に浸りつつ、ひとり悦にいったりする。
ダダを捏ねる赤ん坊みたいなもので、誰か面倒を見てくれる人がいると世の中は平和で助かる。
見解の相違だね、とお互いに質疑を保留できる余裕があるうちは、可能性がまだある。

>私個人の現在の考えでは
「質問という体で問いかけしてるが
実際は(質問者にとって)優秀な弟子、賛同者が
欲しいだけなんとちゃうかな」
って考えが主流となってますね

顕著ですね。
基本的に素人の集まりにすぎないので、質疑を交わすこと自体が問題を次第に掘り下げていく形になる場合が多いと思います。
持論を述べるのはむしろたたき台として必要なわけですが、しかし、賛同者を求めるのが目的の人は、その過程を重視せずに、相手を持論に引きずり込むことだけを考えている。
最初から質問が目的じゃな...続きを読む

Q言葉について

言葉とは人間そのもの、人間と表裏一体だということ、理解できました。

そうすると、人工知能AIの使う言葉は、どのように捉えられるでしょう。プログラミングされた言葉が人を感動させることはあるのか。いわゆる言霊というのは失われてしまうと思うのですが。

それともそういうことがあるのだとすれば、それはプログラミングした人間自身の言葉の反映なのか。
それともAIは自身で言葉を獲得して、詩や短歌、俳句の領域に至るまで凌駕していくのか。

どのように思われますか?

Aベストアンサー

ことばを《ロゴス》として広く捉えた場合 次のように分類できるのではないか
と考えます。

☆☆ ひどっち=ぶらじゅろんぬの定理 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
【Q:ヒラメキとは 人に起きるいかなる現象か】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/10598115.html

〇 ヒラメキの成り立ち (ひどっち=ぶらじゅろんぬの定理)
(または ロゴスの階層 
つまり 《非思考の庭》と《思考の緑野》とのあいだに何が起きるのか) 


 [非思考の庭]
  スピリトゥス=ロゴス(α):クレド(非経験のナゾなる非思考の庭):神
                   ↓
 ----【天使(α’):ロゴス(α)の使い】--------------
                   ↓
 [思考の緑野]            ↓
  インスピレーション=ロゴス(β):異言
       :中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ
                   ↓
  インスピレーション=ロゴス(γ):預言
       :本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間による言葉化
       :概念? 象徴(シンボル)? 世界観じたい?
                   ↓
  ラチオ=ロゴス(δ):コギト=思考〔の緑野〕
       :経験合理性にもとづこうとする論理


   *(註) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

   ・ロゴス:ことば

   ・スピリトゥス:霊。聖霊

   ・クレド( credo = I believe. 我れは信じる)

   ・異言(シャリバリ):意味の分からないことば

   ・預言:解釈。経験思考で分かるように表現する。

    〔もともとは 予言= pro-phetia(予‐言)として成ったことば〕

   ・ラチオ( ratio ):理性

    〔 = reason 。《 re-or =思う・考える・数える》から〕

   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

☆ ロボットや人工知能は インスピレーション=ロゴスつまり ヒラメキとし
ての言葉を受け取ることがあるのか? といったことが気に成ります。

ことばを《ロゴス》として広く捉えた場合 次のように分類できるのではないか
と考えます。

☆☆ ひどっち=ぶらじゅろんぬの定理 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
【Q:ヒラメキとは 人に起きるいかなる現象か】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/10598115.html

〇 ヒラメキの成り立ち (ひどっち=ぶらじゅろんぬの定理)
(または ロゴスの階層 
つまり 《非思考の庭》と《思考の緑野》とのあいだに何が起きるのか) 


 [非思考の庭]
  スピリトゥス=ロゴス(α):クレド(非経験のナゾなる非思考...続きを読む

Q心から信じていれば命さえも懸けられる

私が「本当に心から信じていれば命だって懸けられるだろう」と言えば、皆さん「命を懸けるなど軽々しく言うものではありません、時代錯誤です」などと反論されます。また「あなたはそう言うけれども本当に信じているの? いのちを懸けてもそう言えるの?」と言えば「言論の自由だろう、お前は言論の自由を否定するのか!」と言われます。

しかしですよ、例えばバンジージャンプは命綱が絶対に切れないだろうと心から信じているから、あんな高いところから皆さん命を賭けて飛び降りているのでしょ? 皆さん命綱が切れないと心から信じているから命を懸けているではありませんか。この事実があるのに何故、皆さんこの事実を否定されるのか。事実判断を皆さんの価値判断で否定することなどできませんよ。事実そうなのですから。

「本当に信じていれば、全財産や命さえも懸けられる」というフレーズは色んな難しい社会的問題を解決できる魔法の言葉なのです。
例えば 従軍慰安婦問題も「本当に韓国政府が従軍慰安婦問題(少女二十万人拉致、性奴隷)があったと心から信じているなら、もし間違っていたら竹島を無条件で返してもらうぞ」と言えばそれで片が付くのです。何故なら韓国政府は本当は慰安婦の証言など信じていないのですからです。

このようにこのフレーズで多くの難問は解決できるのです。皆さんも「本当に、心から信じていれば命さえ懸けられるだろう」という言葉に嫌悪感を示さずにどんどん使いましよう。あらゆる難しい問題もすぐに解決できるのですから。

「本当に、心から信じていると言うことは、命さえも懸けられると言うことなのだ」というこの言葉は普通に使っても何らおかしくはないと思いますが皆さんどう思いますか? 私間違っていますか?

私が「本当に心から信じていれば命だって懸けられるだろう」と言えば、皆さん「命を懸けるなど軽々しく言うものではありません、時代錯誤です」などと反論されます。また「あなたはそう言うけれども本当に信じているの? いのちを懸けてもそう言えるの?」と言えば「言論の自由だろう、お前は言論の自由を否定するのか!」と言われます。

しかしですよ、例えばバンジージャンプは命綱が絶対に切れないだろうと心から信じているから、あんな高いところから皆さん命を賭けて飛び降りているのでしょ? 皆さん命...続きを読む

Aベストアンサー

>「本当に、心から信じていると言うことは、命さえも懸けられると言うことなのだ」というこの言葉は普通に使っても何らおかしくはないと思いますが皆さんどう思いますか? 私間違っていますか?

真木さんの今回の論旨の流れにいろいろ突込みどころがあるのですが、外国人を相手にする時には日本人とは違った価値観を彼らが持っていることを理解する必要があると思います。文化が違うのです。文化とは価値観の総称のことです。だから文化が違うとは、価値観が違うということです。

日本は日本海という越すに越されね荒海のおかげで、他の文化とは遮断され、縄文時代から現在に至るまで数千年かけて世界的にも類を見ない特異で独特な文化、すなわち価値観を築き上げてきました。外国で生活してみるとへーって思うことばかり。日本人の考え方ってこの国の人とそんなに違うのかって思い知らされることばかりです。例えば、日本人てこの地球上で性善説を信じている唯一の文化を持った国民なんですよ。そして、話し合えば解ってもらえると信じている人が態勢を占めている。

でも、日本以外の国では陸続きだったために互いに侵略しあい、戦に負ければ男どもは殺され、女どもとその子供は奴隷にされてきた。長い歴史の中でそんなことを繰り返してきた人々に性善説を信じよといっても無理です。

もちろん、日本人の作り上げてきた価値観の中には、外国の一部の世界で作り上げてきた価値観と共通した部分がないわけではなく、その共通項の部分のために、日本人が尊敬されている部分もあります。例えば正直であるとか、約束を守るとか、名誉を重んじ恥づべきことをするなという価値観です。このような価値観は、昔のギリシャや中世の西欧や日本のように、常態が群雄割拠で、いつも小国同士が小競り合いの戦さをしていた歴史を持った国に共通した価値観です。そしてこれは、基本的に武人たちが国を支配してきた世界に生じた価値観です。武人は基本的に理系人間で、技術と合理性を重んじる文化を作り上げてきた。しかしこのような小国による群雄割拠が常態であった地域は世界史的には例外に属しています。

世界史的には、圧倒的に大多数の民族は常態が群雄割拠ではなくて、強大な力を持つ政府による中央集権でした。中央集権国家では、小国同士ような小競り合いもほとんどなく長期にわたって安定して平和が保たれていました。そしてこの安定した中央集権国家の支配者は官僚と呼ばれる文系人間でした。戦さもなく社会が安定しているゆえに官僚が世襲化されるようになる。この世襲化された官僚のことを貴族とも呼んでいました。このような安定した社会の支配層を維持するために必要なのは、技術でも合理性でもなく、前例という伝統を重んじる固定化された価値観です。そのように合理的な根拠もなく支配されている一般民衆の中に、性善説など生じる余地がない。

しかし、安定した社会の内部の発展による富の蓄積や外部の予期せぬ環境の変化によって、この伝統による支配の説得力は徐々に失われて行きます。だから、歴史的に見て腐敗しなかった官僚は存在していません。時代と共に官僚は必ず腐敗します。その腐敗に我慢ができなくなった時に短期間の大混乱が起こって、新たな連中によってまた新しい長期の中央集権の安定期に移行して、そのうちにまた腐敗して短期の混乱が起こって、、、とこれを繰り返してきたのが、上記の古代のギリシャ、西欧、日本という群雄割拠地域を除いた地球上の圧倒的に大多数の民族の歴史です。

上に述べたように、このような文民支配による中央集権制度では、合理性よりも前例に基づいた伝統が重んじられる。もちろん、その伝統は偶然の成り行きで出来てきたために、各民族で全然違っています。そのようなそれぞれ違った根拠で出来上がってきた彼らのそれぞれ違った価値観を、合理的な論拠に基づいて話し合えば解り合えて一つの価値観に統一できるはずがありません。唯一できることは、互いに価値観の違いがあることを認識し、それを認め合って、一方の価値観を相手に押し付けずに、それぞれのやり方に任せることです。

真木さんの言う、死の覚悟を持って、とか、名誉を重んじ恥じた行為をしない、とか、公に尽くす、と言う価値観は古代のギリシャ人や群雄割拠で戦争に明け暮れた西洋人や源平以降戦国時代を経験した日本人には理解できるでしょう。しかし、このような武人支配を長年続けてこず、文系の官僚支配を続けてきたにこの地球上のほとんどの国の人には理解できない価値観だと思います。そのような国とうまくやってゆくためには、日本人独特な価値観を相手に強要するのではなくて、某元防衛省大臣がおっしゃったように「丁寧に無視」しながらお付き合いが最善の方法だと思いあますが、どうでしょうか。

>「本当に、心から信じていると言うことは、命さえも懸けられると言うことなのだ」というこの言葉は普通に使っても何らおかしくはないと思いますが皆さんどう思いますか? 私間違っていますか?

真木さんの今回の論旨の流れにいろいろ突込みどころがあるのですが、外国人を相手にする時には日本人とは違った価値観を彼らが持っていることを理解する必要があると思います。文化が違うのです。文化とは価値観の総称のことです。だから文化が違うとは、価値観が違うということです。

日本は日本海という越すに越...続きを読む

Qキリスト教や仏教やイスラム教やヒンドゥー教等は 何とか統一できないものか?

宗教が統一できれば世界的に平和にも近づくのではないでしょうか

どうやるのかは分かりませんが 統一教会はキリスト教の神霊を統一しようとして失敗した

キリスト教に拘らず 全ての人に 無宗教の人にも納得の行く教えを練り出せないものか?

まずはそれらの宗教の代表が会議してる様なので もっと危機感を持って

自分から変わる意識を持って 緊張感を持って月に一度でも2週に一度でも会議を2,3日

かけても何とかして宗教が協力して進化する様な宗教哲学を活性化出来ないものでしょうか?

Aベストアンサー

宗教間対話は、共通の目的を、確認し合う事からだと思います
その第一が
「生存の権利は、誰人と言えども、いかなる理由であっても
これを犯してはならない」
と言う事です

ダライラマ等が参加する、宗教間の対話など
ただのパフォーマンスに過ぎず、下心がミエミエで
何の問題の解決にもなりません

宗教間対話」のあり方として
「積極的寛容」を提示しなければなりません
①それぞれの宗教が「原点の心」に基づく、
②「独自性」と「共通性」を自覚する、
③自己の宗教の「創造的発展」、
④人類的課題の克服に協調することを目的とする
等が挙げられます、

柳沼正広氏による第2章「キリスト教と諸宗教 宗教の神学」では、
キリスト教が他の諸宗教をどのように考えてきたかが述べられています。
諸宗教に対する考え方として、
排他主義、包括主義、多元主義、多元主義への批判を取り上げています。
他宗教を理解する努力のなかで、
自身の宗教への理解や反省が深められていく
宗教間対話の持つ重要性について論じています。

中国における中心的な思想である儒教に対して、
外来宗教である仏教と、儒教より後に成立した道教が
、自らの立場を主張しつつ、互いに交流と対話を
行ってきた歴史を辿っています

統合、に必要なものは「信」です
「不信」が統合を不可能にしています
宗教間の争いを無くすには
信頼関係を結び、友好、交流活動の継続しかありません

信は  結合 善 勇気 幸福 平和 不可能を可能にします
不信は 分断 悪 臆病 不幸 戦争 可能を不可能にします

宗教間対話は、共通の目的を、確認し合う事からだと思います
その第一が
「生存の権利は、誰人と言えども、いかなる理由であっても
これを犯してはならない」
と言う事です

ダライラマ等が参加する、宗教間の対話など
ただのパフォーマンスに過ぎず、下心がミエミエで
何の問題の解決にもなりません

宗教間対話」のあり方として
「積極的寛容」を提示しなければなりません
①それぞれの宗教が「原点の心」に基づく、
②「独自性」と「共通性」を自覚する、
③自己の宗教の「創造的発展」、
④人類的課題の克服に協調...続きを読む

Q哲学とは何か?

哲学とは何か?この第一歩から考えてみたくなりました。

野矢茂樹氏の「ラジオ深夜便」出演の話はどなたかが紹介していましたが、
私も一度聞いたことがありました。
改めて聞いてみると、嬉しくなるほど分かりやすいと思いました。なんだか
分からない話を随分聞いてきたせいでしょうか?

どんな分野でも、言っていることが明快な人は、その中身をよく理解してい
る人で、逆に言っていることが何だかよくわからない人は、結局分かってい
ないのだという世間一般の定説は正しいものでしょう。

哲学とは何かということについて、野矢氏は、次のように述べています。

ごく簡単に哲学史を述べれば、アリストテレスは哲学を学問として捉えていた。
トマス・アクィナスにとっては、哲学は宗教であった。
デカルトは、哲学は学問の基礎であると考えていた。
現代においては、哲学者の数だけ定義が存在すると言って過言ではない。

私(野矢氏)にとって哲学とは、人間の言葉を使った複雑な思考の中の問題として
1.思考の全体を見通せていない、2.思考を支えている多くの暗黙のものを自覚し
ていない、3.全体の曖昧さ、矛盾を分からないでいる、これらの問題を解決する
ことである、と。

確かに、哲学というものの定義は、様々であることは実感していました。だから、
「さあ統一しましょう」といったところで、そううまくはゆかない。せめて、各々
の定義を理解し合えたら、もう少し意義のある対話ができるかも知れません。

さて、あなたの「哲学の定義」はというと、どういうことになりますでしょうか?

哲学とは何か?この第一歩から考えてみたくなりました。

野矢茂樹氏の「ラジオ深夜便」出演の話はどなたかが紹介していましたが、
私も一度聞いたことがありました。
改めて聞いてみると、嬉しくなるほど分かりやすいと思いました。なんだか
分からない話を随分聞いてきたせいでしょうか?

どんな分野でも、言っていることが明快な人は、その中身をよく理解してい
る人で、逆に言っていることが何だかよくわからない人は、結局分かってい
ないのだという世間一般の定説は正しいものでしょう。

哲学...続きを読む

Aベストアンサー

キリスト教が発達してからの西洋哲学は、キリスト教を隠れ蓑にしていた人間のインモラルな部分に、風を通して、本来の人間性を取り戻そう、という、初々しいものではなかったですか。

ルネサンス美術と同じで、西洋の精神世界の理想である、ギリシアの昔のように、キリスト教を離れて、自由に思考をしたかった。もう一度、自分の頭で考えてみたかった。

ギリシアで発達した哲学は、言葉遊びのきらいもありますが、(多分に、貴族の暇つぶしだったでしょう)、発想は、もっと自由で、はつらつとしたものでした。人間の尊厳の確認であったかのような印象があります。

その旗頭であるソクラテスが牢獄に繋がれ、毒をあおって死ななければならなかったため、何か、陰惨な印象を持っていましたが、何年か前、彼の牢獄であったと伝えられている岩屋を訪れる機会があり、その場所が、アクロポリスを見渡せる、風光明媚な場所であったため、何だか、足元のはしごを外された気分、というか、牢獄でさえ、知的でした。

おっしゃる通り、哲学は、対話によって、曖昧なものや無意識に受け入れていた事柄を、明確にしてゆく役割を担っているのだと思います。中世以降のヨーロッパでは、キリスト教が邪魔になりましたが、現代の日本では、いかがでしょうか。

キリスト教が発達してからの西洋哲学は、キリスト教を隠れ蓑にしていた人間のインモラルな部分に、風を通して、本来の人間性を取り戻そう、という、初々しいものではなかったですか。

ルネサンス美術と同じで、西洋の精神世界の理想である、ギリシアの昔のように、キリスト教を離れて、自由に思考をしたかった。もう一度、自分の頭で考えてみたかった。

ギリシアで発達した哲学は、言葉遊びのきらいもありますが、(多分に、貴族の暇つぶしだったでしょう)、発想は、もっと自由で、はつらつとしたものでした。人...続きを読む

Q「マウンティング」をする人は「自信家」ではないか。

先の質問で、最後の回答をくださった方が、記事中のいくつかのキーワードを添えて以下のリンクを教えてくれました。

その時の回答をそのまま引用します


<またまたズレているかもしれませんが、おもしろい記事を見つけたので貼っておきます。
https://president.jp/articles/-/26637#cxrecs_s

マウンティング サル 優位に立ちたい 自信が無いから 
デジタル人間 感情の欠落 生きづらい
悪いのはあいつだ わたしには関係ない>

わたしはTVを視ませんし、新聞を読まない、インターネットでは、主にわたし同様、心の病を持った人のブログを読む。それ以外は専ら海外のアート・サイトを渉猟するだけで、WEBニュースもまとめサイトも覗くことはありません。ですから、最近の言葉はほとんど知りません。
「マウンティング」という言葉も初めて知りました。

以下リンクの記事より

「そもそもマウンティングをする人は、自分に自信がありません。そのため、自分よりも格下の人間をつくりだすことで、集団内での序列を少しでも高めて、上位にいるという安心感を得ようとします。」

わたしはブログを通して、自分同様に自己肯定感の極めて低い人たちを知っています。
けれども、わたしの知っている「自信のない人たち」は決して、決して「自分より格下の人間を作り出し」たり「人より優位に立ちたい」などとは露ほども思っていません。ただひたすら自己の無価値を嘆くだけです。わたしもまた同様です。

「マウンティング」とやらいう行動をとる人は、寧ろ、自己顕示欲の強い自信家であり野心家ではないのでしょうか?

「そもそもマウンティングをする人は、自分に自信がありません。」
この記事を書いた人は、如何なる根拠を持ってこのように断言するのでしょうか?

先の質問で、最後の回答をくださった方が、記事中のいくつかのキーワードを添えて以下のリンクを教えてくれました。

その時の回答をそのまま引用します


<またまたズレているかもしれませんが、おもしろい記事を見つけたので貼っておきます。
https://president.jp/articles/-/26637#cxrecs_s

マウンティング サル 優位に立ちたい 自信が無いから 
デジタル人間 感情の欠落 生きづらい
悪いのはあいつだ わたしには関係ない>

わたしはTVを視ませんし、新聞を読まない、インターネット...続きを読む

Aベストアンサー

そうなんですよ!

私も自信のない人、好きです
自信がない、って謙虚であることでもありますもんね
また、丁寧に物事を考えていけば
自信満々にはならないですもん

質問者さまが無力無能とは思いませんが、まあそれは置いておくとして
ある精神科医が
「自分はうつ病の患者さんが好きだし
精神科医は、みんなそうだと思う
うつ病の患者さんは優しいし礼儀正しい人が多い
元気になってくると医者にお礼を言ってくれる」

この言葉を知り
何かあった時に他人のせいにはしないで
自分が悪かったと自分を責めるような人が
うつ病になるのではと思いました

おそらく
「下をつくって、でも上に怯える」ような人が
自慢話で武装するのではないでしょうか?

「上とか下とかでなく
私は私でしかない」
と思える人が「本当の自信」がある人なのかもしれないですよ

Q引き籠もりは 未来社会のネガ(陰画)であり KY は 草の根民主制への第一歩である。

1. 民主制では わざわざクウキを読む必要はなく クウキをかたちづくる
必要もない。それこそ民主制の雰囲気は 空気のようなものだ。

2. ところが 日本人にあるまじき KY だ・ニートだと言って それを読め・
それに従えという意味でのクウキは このいわば白紙であるという意味での空
気のさらに上に別の訴える手段を持ちこもうとした結果状態であり その手段
じたいであるだろう。

3. いろんな意味での党派の意向を 民主的な対話や話し合いという過程の
中に持ち込み人びとを丸め込もうとするときの思潮やまた圧力と感じられもす
る雰囲気のことである。

4. この国には お上には逆らえない・長いものには巻かれろ・寄らば大樹
の陰といった《アマアガリ・シンドローム(公民アマテラスへの出世指向)》
が人びとの心の中に見られる場合がある。

5. あるいはそのアマテラス公民のおこなうことは《あやまち得ない》とい
う無謬性なる神話が浸透していて アマテラス公民を無条件に信奉するという
《アマテラス予備軍症候群》がしばしば見られる。

6. これらの風潮がはびこっている――と ようやくその権威づけられた威
光がやや落ち目になってきた今 あらためて取り上げてみよう。

6-1. つまり この《伝統》なる風潮を読まないという KY は じつは 
未来社会への旗手である。

6-2. 引き籠もりは クウキに対する志向性に関する限り すでにいまシ
ャッターが押されて陰画として現われた未来社会の風景である。

7. たぶんその場合にも KY はダメだと言われるときのクウキはそれをも
読むことだけは読んでおいたほうがよいはずだが 読んだ結果として KY と
いう現象が起きても構わないし 起きたほうがひとは よりいっそう自由であ
る。

☆ どう考えますか?




8. なお最後にですが あらためて定義です。:

  ○ KY の定義 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  広い意味での会議において 会議としての意志決定をするときに 
  言論をとおしてというかたちを超えて 
  おもにヨリ高い権限を有する者の意向を人々がすでに汲み取って
  ――必ずしもまだ発言されていなくとも噂で流されているところの
  意向をすでに忖度して―― 
  多くの参加者の意向がそれになびいていくとき 
  そのような同調という風潮を意に介さない傾向および志向性。
  
 ○ ニートや引き籠もりは そのクウキなる風潮に生理的にさえ嫌悪
  をも催す現象の結果あらわれる状態ではないか。また 佐渡へ佐渡
  へと草木もなびく群れを目の前に見せられては やってらんないよ
  と言った状態。

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

1. 民主制では わざわざクウキを読む必要はなく クウキをかたちづくる
必要もない。それこそ民主制の雰囲気は 空気のようなものだ。

2. ところが 日本人にあるまじき KY だ・ニートだと言って それを読め・
それに従えという意味でのクウキは このいわば白紙であるという意味での空
気のさらに上に別の訴える手段を持ちこもうとした結果状態であり その手段
じたいであるだろう。

3. いろんな意味での党派の意向を 民主的な対話や話し合いという過程の
中に持ち込み人びとを丸め込も...続きを読む

Aベストアンサー

パチパチパチ。


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