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科学的認識とは、自然現象を客観的に知ること、一定の枠組みをつくりあげ、いわばその枠組みを眼鏡とし、それを通して自然を見ることによって認識しますよね。
主観はいつも、認識すべきものを自分から切り離して目の前に立たせ、自分の枠組みの中にはめ込み、客観として仕立て上げることによって認識が行われます。
この主観客観関係が、すべての科学的認識の基盤と考えてよいでしょうか。

A 回答 (9件)

科学的認識とは、自然現象に付いてならば客観的に検証し、作り上げた一定の枠組みを眼鏡として見る事、と云えます。


ところが、主観はいつも認識すべきものを自分から切り離さずに目の前に立たせ、客観的に作り上げられた枠組みに捉われずに仕立て上げ、これを認識します。
この主観客観関係が、人間の認識と云う働きに複雑性をもたらします。

☆ これでどうでしょうか。
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この回答へのお礼

汽笛さん、そうです。
主観はいつも認識すべきものを自分から切り離さずに目の前に立たせます。客観的に見るという行為は、主観が、自分の領域(意識の領域)を跳び越えて客観物である外部の実在に達しなければならない。しかし、それは不可能です。
いわば私たちは、どう跳躍しようと、いつも意識の内部にいるのであり、その領域を超えて外部の実在に達することはできません。科学的な認識においても、そういった主観客観関係の齟齬があるのではないかと思い質問いたしました。

お礼日時:2019/04/16 06:26

> (シンギュラリティ)への関心が高まっています。



AI に詳しくない人ほど、シンギュラリティと大騒ぎして、AI の専門的知識がある人ほど冷静であるという皮肉。
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この回答へのお礼

なぜ、AIの専門知識のある人は冷静でいられるんですか?

お礼日時:2019/04/15 23:44

> ゲノム編集されたものは突然変異という形で自然界にも存在する、という見解によって進められているようですが、それは自然界の長いサイクルの中で起こってきたもの。

人為的に操作することの危険性は計り知れないと思います。

話が脱線していますけれど。

まずは自然科学と、工学技術(結果が出れば良し)との立場が違う事を認識した上で、論点を絞るべきでしょう。

なお遺伝子組み換え食品は一般的には、生殖機能を殺した上で販売されます。
それは遺伝子組み換え植物が勝手に増えないように、という配慮から来ているのではなくて、毎年、種子を買わせる方が儲かるからです。

ただし遺伝子組み換え技術は、ある面では軍事利用されている技術でもあって、正直、中国なんか影で何しているか分からないです。
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この回答へのお礼

ゲノム編集とは工学技術ー自然の仕組みを取り入れて、社会のニーズに役立つ人工システムを作る、という分野なのですね。
農業に科学が応用されているということですね。今や様々な工学技術は私たちの生活にとって切り離せない恩恵となっています。そこにやはり私は危機感を持ってしまいます。
人工知能(AI)が人間の能力を超える技術的特異点(シンギュラリティ)への関心が高まっています。
AIが認識、客観化を行うのでしょうか。考えられません。

お礼日時:2019/04/15 22:20

私も、科学の勉強をしたことがなく無知なのですが、ちょうど主観・客観のことを勉強して


いたところでしたので、意見を述べてみます。

それにしても、ややこしい文章ですね。

自然の中から、観測できるものを定量化したもの、これを科学ではすでに客観的事実を構成
するものとしていると思います。
そして、仮説を立て、実験により証明されたものが、客観的事実=真実とするという、ルール
になっている、と。

簡単に言えば、「科学的認識」とは、こういうことなのではないかと。

また、観測できないもの、定量化できないものは、科学では認識できないということになります。
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この回答へのお礼

観測し、仮説を立て、実験により証明されたものが、客観的事実=真実とするというルールということですね。
つまり、人間の頭脳の中で考え、実験をかさね、数学などを駆使して再現性を求める。
ありのままに知るのではなく、やはり客観化しているのだと思いました。
ありがとうございました。

お礼日時:2019/04/15 21:45

自分の枠組みの中にはめ込み、と云うところが変です。

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この回答へのお礼

変ですか。やはり変ですね。そういう気がしてきました。
ありがとうございます。

お礼日時:2019/04/15 21:31

質問の・ここが知りたいというところが はっきりしないのですが。




1. 認識とは 知ることです。

2. 知る対象は 世界のすべてです。

2-1. 哲学は欲張りで 世界を超えた何ものかをも 問い求めよ
うとします。

3. 認識のあり方として 価値判断を抜きにした場合と価値判断を
ともなう場合とに分けることが出来ます。

3-1. 価値自由な――と言っても或るひとりの人間としておのれ
の価値観を持ちつつそれを禁欲しつつ・しかもなお全体としてのおの
が主観によって成すのですが その――認識は 科学的と言われます。

3-2. 科学的認識は 自然現象を対象とする自然科学と社会を対
象とする社会科学とがあります。

3-3. 世界のその対象について要素・要因に分解しそのあり方や
ウゴキをめぐって一般性や規則性(あるいは 普遍性・法則性)を捉
えて理論立てて行くのが 科学です。

3-4. 価値判断とは 対象についてその良し悪しを決めるという
認識行為です。主観によって異なるのですが 成るたけやはり一般性
のある価値観を問い求めます。共同主観=コモン・センス。

4. あらためて哲学は 広義のそれとして 価値自由な科学と価値
判断をともなう(または 倫理としての)科学とに分かれます。=3.

5. 客観というのは 対象をそのあるがままの姿で捉えることを言
います。そのとき得られている共同主観をさらに見きわめて つねに
客観へ近づけるよう科学は つとめます。

5-1. ただし実際には客観は 人間としてそれを知り得るという
前提のもとに仮定したものです。どこまで知り得ているかは 必ずし
も明確なわけではないと思われます。

5-2. 自然科学は 再現性で客観が保証されると言われます。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
自然科学と社会科学における認識は違うことがわかりました。
ただ一点、自然科学は対象をそのあるがままの姿で捉える、それを客観という。
実際には客観は、人間としてそれを知り得るという前提のもとに仮定したものならば
決してありのままとは言えないのではないかとか、いろいろ思いました。

お礼日時:2019/04/15 21:29

> 自然現象は量的関係、そして因果関係という枠組みで把握する。

ということでしょうか。

うーん。枠組みにこだわっていますね。
文系も理系も関係なく、大事な事は『検証可能性』、最も大事な事は『再現性』です。

STAP 細胞のアホは、再現性が得られずに嘘がバレました。
経済学なんかではノーベル賞を取るような難解な理論であっても、現実世界で再現性が得られる事は稀です。
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この回答へのお礼

検証して再現するーこれはつまり、一度ではなく何度も同じことが起こる。その現象が偶然起こったものではなく、必然的に起こったことを確認する作業ですね。
ということは、科学的認識とはもともと主観が客観を認識する際、懐疑として捉え、それを検証再現していくことで払拭していく過程だと言えます。 
自然科学を応用した現代の科学技術はすべてこの方法に拠って立つものなのですね。
たとえば、今年になってゲノム編集された食材の流通ルールが決まりました。
遺伝子情報を切るというピンポイントで精度の高い方法だということで、近年、世界中で開発がすすめられ、第二の産業革命などとも言われていますが、生態系への影響は未知数だと思います。
いわば、生態系いわば自然への働きかけが一層積極的で露骨になると思います。
自然を挑発してそこから強引に力を引き出し、積極的に役立つものに仕立て上げ作りあげるからです。
ゲノム編集されたものは突然変異という形で自然界にも存在する、という見解によって進められているようですが、それは自然界の長いサイクルの中で起こってきたもの。人為的に操作することの危険性は計り知れないと思います。

お礼日時:2019/04/15 05:10

no.1さんはキャラドさんはわかってません科学とはこうですじゃああとはわかってくださいと谷に突き落とす面倒の少ない回答です。

問を掘って穴に落ちるのが面白いです。科学的認識に違和感感があります。認識って科学的だったりすることに違和感があります。チキンラーメン昨日の夜はうまかったけど今条件一緒なのに飽きてうまくないのが違和です。科学的認識はどんな文脈で出でてきますか?
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
科学的認識にこだわっていますが、今はこれを知りたいです。
>チキンラーメン昨日の夜はうまかったけど今条件一緒なのに飽きてうまくないのが違和です。
そういえばそうですね。

お礼日時:2019/04/15 04:44

質問文を読んで、あまり科学を勉強していない人が一所懸命に科学を表現しようと頑張っているけれど、まだ言葉遊びの感が、強く残っています。



自然科学の研究を進める上では、一般的には
 1. 何らかの自然現象を、(主に数式に基づいて)モデル化する
 2. そのモデルが妥当である事を実験により検証する
 3. その実験は、誰が何度繰り返しても再現性が得られる事を確認する
この三段階のステップを踏みます。しばしば順番は前後しますけれども。

あなたの書く『枠組み』が、単なる思考の世界に留まっていては、それは科学では無いのです。
事実に基づく検証が必用なのです。
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この回答へのお礼

そのとおりです。私は科学を勉強していません。
つまり、自然現象は量的関係、そして因果関係という枠組みで把握する。ということでしょうか。

お礼日時:2019/04/14 20:36

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ITシステムが修正を繰り返し生き延びる様は人間のようであり、自ら学習を重ねて賢くなる人工知能AIはいつか人間を超える存在になると言われます。
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Aベストアンサー

#14です。お礼ありがとうございます。

>ああ、私たちはいつになったら悟るのだろう
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頭のいい人たちはすでに19世紀初頭に警鐘を鳴らしていますよ。
たとえばJ・J・トールキンは「人間らしさ」を「自然(精霊や斎もの)との交流と恐れが人間の本質である」としてそれが失われる前に指輪物語を書きました。指輪物語で人間以外が西の国に行ってしまうのは、まさに19世紀が「機械に人間が乗っ取られ、人間性を失う時期」だったからです。

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今は乳幼児の死亡率は先進国なら数パーセントしかありません。

私は「人類が科学技術を捨てて『人間性を取り戻す』ことを望むのか?」と聞かれればNOだと思います。その代り人間は「機械とうまく付き合っていく」しか道はないのだと思います。

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#14です。お礼ありがとうございます。

>ああ、私たちはいつになったら悟るのだろう
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Qキリスト教や仏教やイスラム教やヒンドゥー教等は 何とか統一できないものか?

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どうやるのかは分かりませんが 統一教会はキリスト教の神霊を統一しようとして失敗した

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宗教間対話は、共通の目的を、確認し合う事からだと思います
その第一が
「生存の権利は、誰人と言えども、いかなる理由であっても
これを犯してはならない」
と言う事です

ダライラマ等が参加する、宗教間の対話など
ただのパフォーマンスに過ぎず、下心がミエミエで
何の問題の解決にもなりません

宗教間対話」のあり方として
「積極的寛容」を提示しなければなりません
①それぞれの宗教が「原点の心」に基づく、
②「独自性」と「共通性」を自覚する、
③自己の宗教の「創造的発展」、
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Q言葉について

言葉とは人間そのもの、人間と表裏一体だということ、理解できました。

そうすると、人工知能AIの使う言葉は、どのように捉えられるでしょう。プログラミングされた言葉が人を感動させることはあるのか。いわゆる言霊というのは失われてしまうと思うのですが。

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Aベストアンサー

ことばを《ロゴス》として広く捉えた場合 次のように分類できるのではないか
と考えます。

☆☆ ひどっち=ぶらじゅろんぬの定理 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
【Q:ヒラメキとは 人に起きるいかなる現象か】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/10598115.html

〇 ヒラメキの成り立ち (ひどっち=ぶらじゅろんぬの定理)
(または ロゴスの階層 
つまり 《非思考の庭》と《思考の緑野》とのあいだに何が起きるのか) 


 [非思考の庭]
  スピリトゥス=ロゴス(α):クレド(非経験のナゾなる非思考の庭):神
                   ↓
 ----【天使(α’):ロゴス(α)の使い】--------------
                   ↓
 [思考の緑野]            ↓
  インスピレーション=ロゴス(β):異言
       :中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ
                   ↓
  インスピレーション=ロゴス(γ):預言
       :本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間による言葉化
       :概念? 象徴(シンボル)? 世界観じたい?
                   ↓
  ラチオ=ロゴス(δ):コギト=思考〔の緑野〕
       :経験合理性にもとづこうとする論理


   *(註) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

   ・ロゴス:ことば

   ・スピリトゥス:霊。聖霊

   ・クレド( credo = I believe. 我れは信じる)

   ・異言(シャリバリ):意味の分からないことば

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    〔もともとは 予言= pro-phetia(予‐言)として成ったことば〕

   ・ラチオ( ratio ):理性

    〔 = reason 。《 re-or =思う・考える・数える》から〕

   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

☆ ロボットや人工知能は インスピレーション=ロゴスつまり ヒラメキとし
ての言葉を受け取ることがあるのか? といったことが気に成ります。

ことばを《ロゴス》として広く捉えた場合 次のように分類できるのではないか
と考えます。

☆☆ ひどっち=ぶらじゅろんぬの定理 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
【Q:ヒラメキとは 人に起きるいかなる現象か】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/10598115.html

〇 ヒラメキの成り立ち (ひどっち=ぶらじゅろんぬの定理)
(または ロゴスの階層 
つまり 《非思考の庭》と《思考の緑野》とのあいだに何が起きるのか) 


 [非思考の庭]
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Q難癖をつけて論破しようとする人 ある主張に対して、根拠を提示して論理的に説明をしても、その根拠に信憑

難癖をつけて論破しようとする人

ある主張に対して、根拠を提示して論理的に説明をしても、その根拠に信憑性がないと言って否定します。

例えば、日本の人口が1億2000万人程度だとする根拠を、国勢調査や各種統計で示しても、その根拠が正しいとする理由を聞いてくるのです。

国の統計や学術的な統計であっても、
『なぜ国の統計なら正しいのか?』
『どうしてその学者の言うことは正しいのか?』
と言ってきて、最終的に答えられないと、非論理的で君は間違っていると言われてしまいます。


どうやら彼は、100%正しいとする根拠や証明ができないと、曖昧なものは全て否定するようです。

なので、統計も実数ではないからダメ。
学術論文も、一学者の主張だからダメ。

このように主張すると何も言えなくなるのですが、どうしたら論理的に説明ができるようになるのでしょうか?

Aベストアンサー

どのみち、結論を出す現実の必要がない、という意味でクダラン話をしているんでしょうな。

 論証の根拠として使う命題すべてをリストアップして、それらをA, B, C, … とします。そして「A, B, C, … が正しいと仮定すると、」というマクラコトバをつけて結論Rを論証なさいませ。以上をまとめれば、
「もしA, B, C, … が正しいなら、Rである」
という命題を述べたことになる。「どうしてAが事実なんだ?根拠は?」というツッコミは意味をなしませんし、「もしA, B, C, … が正しいなら、Rである」という命題の論証に対して「そんな論証は説得力がない」とは言わせない。だから、せいぜい「そんな結論Rは説得力がない」と文句をつけるしかできない。
「そりゃ、A, B, C, … が正しいと仮定すると、という議論ですから、説得力はこれらの仮定に依存しますよ」
「そんなことを言うのなら、A, B, C, … のどれかが正しくないと仮定すれば、別の結論が出るじゃないか!」
「そうですね」
「では、君は何も言っていないのと同じだ」
「へえ、そう思うのですか?」
てな調子で、口喧嘩はいくらでも続きますがね。

 形式論理は、仮定に最初から陰に(あるいは陽に)含意されている命題を取り出してみせる以外には何もできません。なので、論理的に完璧な論証とは、現実に関する断定を一切含まない論証だということです。(数学もそうですけど)形式論理は現実世界とは断絶しています。現実に関する命題については、あくまでも過去の経験(観測した情報)だけが根拠ですから、「絶対に間違わない」ということは不可能です。物理学や化学の「法則」も過去の経験だけに基づいていますから、覆る可能性が常にある。(逆に、(形而上学や信仰など)覆る可能性がない命題は科学の(つまり現実に関する)命題ではない。たとえば
  この世は10分前に神によって創造された。
というような信念は、(もちろん、記憶や痕跡全部を含めて創造された、という主張ですから)反証しようがない。)
 というわけで、「現実に関する命題を証明する」ということはもともと不可能で、できるのは「論証」だけです。その論証の「説得力」は、仮定A, B, C, …を何度も検証するという経験を積み重ね、あるいはうっかり持ち込んでしまった思い込み(リストにない仮定)がないかを何度も確認する、というプロセスによって磨かれていくものの、疑いが完全になくなることはない。

 なお、以上の話はただのナンセンスではない。「どんな仮定のもとでの議論か」ということを明示するのは論文においても重要で、ここを手抜きすると「見落とし」「無反省」「無自覚な思い込み」などと突っ込まれることになります。

どのみち、結論を出す現実の必要がない、という意味でクダラン話をしているんでしょうな。

 論証の根拠として使う命題すべてをリストアップして、それらをA, B, C, … とします。そして「A, B, C, … が正しいと仮定すると、」というマクラコトバをつけて結論Rを論証なさいませ。以上をまとめれば、
「もしA, B, C, … が正しいなら、Rである」
という命題を述べたことになる。「どうしてAが事実なんだ?根拠は?」というツッコミは意味をなしませんし、「もしA, B, C, … が正しいなら、Rである」という命題の論証...続きを読む

Q公理って何?

再び初歩的質問です。

「公理」を辞典で調べますと、

・数学で、論証がなくても自明の真理として承認され、他の命題の前提となる根本命題。

・論理学で、演繹的理論の出発点として、証明なしに採用される命題。

・現代においては、自明な命題ではなく、理論の前提となる仮定。

等の記述があります。

1.学問がないので、いまいちピンとこないのですが、具体的にはどのようなものがあるの
でしょうか?そして、どう理解したらいいのでしょうか?

2.「理論の前提となる仮定」から組み立てられた理論というものが、自然科学においても
検証されるとはいえ、何故、事実・真実と言えるのでしょうか?

Aベストアンサー

公理で一番有名なのは、平行線公理(平行線公準とも呼ばれる)でしょう。

「一つの直線上にない一点を通ってその直線は一つしかない」

この命題を証明することはできません。以前はこれを証明しようと多くの数学の天才たちが試みました。しかし誰にも証明できなかった。ロバチェフスキーが1829年に『幾何学の新原理並びに平行線の完全な理論』を発表して、彼が1826年に発見した新しい幾何学を提示して、上記の命題が証明不可能な公理であることが明らかになったのです。

ロバチェフスキーは、上記の命題の代わりに

(1)「一つの直線上にない一点を通ってその直線は何本でも引ける」

としても、数学的に無矛盾で閉じた論理体系を構築できることを明らかにしました。それがいわゆる非ユークリッド幾何学の始まりでした。この幾何学で表現されている空間は曲がった空間なのです。

その後に、リーマンが

(2)「一つの直線上にない一点を通ってその直線は一本も引けない」

としても、数学的に無矛盾で閉じた論理体系を構築できることを明らかにしました。この公理(2)が成り立つものとして構築された幾何学をリーマン幾何学と呼びます。一方、上記の公理(1)が成り立つものとして構築された幾何学をロバチェフスキー幾何学と呼びます。

さらに、リーマン幾何学の一つの具体的な例が球面状の幾何学であることもわかるようになりました。その場合この非ユークリッド幾何学を球面幾何学と呼ぶこともあります。

上記の事実の発見は、人類に多大な知的進展をもたらしました。なぜなら、自分の主張の論理的矛盾性をいかに証明しても、それでこの世界が解ったわけではないことが明らかになったからです。例えば、我々が埋め込まれている宇宙が上記のどの幾何学によって記述されている世界なのかは、論述の無矛盾性や整合性をいくら明らかにしても、判定できないことが明らかになったからです。

その判定には必ず実験や観測が必要である。すなわち論理的な理念の整合性に加え、事実はどうなのかを実験や観測で判定しなくてはならない。その判定をするのが自然科学なのです。そして数学は、命題の間の無矛盾性を論じる言語学であり、すなわち人文科学の一つであり、事実を論じる自然科学ではないことが明らかになったのです。

公理で一番有名なのは、平行線公理(平行線公準とも呼ばれる)でしょう。

「一つの直線上にない一点を通ってその直線は一つしかない」

この命題を証明することはできません。以前はこれを証明しようと多くの数学の天才たちが試みました。しかし誰にも証明できなかった。ロバチェフスキーが1829年に『幾何学の新原理並びに平行線の完全な理論』を発表して、彼が1826年に発見した新しい幾何学を提示して、上記の命題が証明不可能な公理であることが明らかになったのです。

ロバチェフスキーは、上記の命題の代わ...続きを読む

Q哲学カテ界隈で話が噛み合わない現象が起きるのは何故だと思いますか?

タイトル通りです
自分で色々考えてますがたまには
他人の意見聞いてみたくなったので質問しました

私個人の現在の考えでは
「質問という体で問いかけしてるが
実際は(質問者にとって)優秀な弟子、賛同者が
欲しいだけなんとちゃうかな」
って考えが主流となってますね

「話が噛み合わない現象なんて起きてないよ!」
って思う人はこの質問スルーしてください
尚、この質問は哲学的な問答を求めていません
アンケートみたいなものです

Aベストアンサー

>私個人の現在の考えでは
「質問という体で問いかけしてるが
実際は(質問者にとって)優秀な弟子、賛同者が
欲しいだけなんとちゃうかな」
って考えが主流となってますね

顕著ですね。
基本的に素人の集まりにすぎないので、質疑を交わすこと自体が問題を次第に掘り下げていく形になる場合が多いと思います。
持論を述べるのはむしろたたき台として必要なわけですが、しかし、賛同者を求めるのが目的の人は、その過程を重視せずに、相手を持論に引きずり込むことだけを考えている。
最初から質問が目的じゃないので噛み合うはずがない。

そういった輩と、真摯に何かを探求しようとする人との違いは、論理的な根拠を示しつつ持論を展開しているかどうか、という点。
賛同を求める乞食の輩は、論理的な根拠が提示できなくなると、強引にかぶせてきますからすぐに判別できる。
どうでも良い箇所では物分かりの良い顔して猫なで声を出すのが得意ですが、いざ本丸に攻め込まれると見境も無く髪を振り乱してあたふた大声で怒鳴り散らす。
おだてられての木登りも大得意。

それでも論理を辿ることさえお互いできれば、そんなに大きな齟齬は生じないものです。
で、そういう輩に限って、自分の質問に回答がひとつもつかなかったりすると、自分の頭が良すぎて他人には理解できないのだ、などと妄想に浸りつつ、ひとり悦にいったりする。
ダダを捏ねる赤ん坊みたいなもので、誰か面倒を見てくれる人がいると世の中は平和で助かる。
見解の相違だね、とお互いに質疑を保留できる余裕があるうちは、可能性がまだある。

>私個人の現在の考えでは
「質問という体で問いかけしてるが
実際は(質問者にとって)優秀な弟子、賛同者が
欲しいだけなんとちゃうかな」
って考えが主流となってますね

顕著ですね。
基本的に素人の集まりにすぎないので、質疑を交わすこと自体が問題を次第に掘り下げていく形になる場合が多いと思います。
持論を述べるのはむしろたたき台として必要なわけですが、しかし、賛同者を求めるのが目的の人は、その過程を重視せずに、相手を持論に引きずり込むことだけを考えている。
最初から質問が目的じゃな...続きを読む

Qよく似たような「宇宙」と「世界」を、哲学やこのカテでは、どのように区別して使っているのですか?

「宇宙」と「世界」というよく似たような言葉があります。
哲学やこのカテでは、双方をどのように区別して使っているのですか?

Aベストアンサー

われわれを取り巻く時空間という意味で使っています。


細かい色合いを問題にするなら:

宇宙という場合には 次のふたつを言う傾向があります。:
① 自然科学また天文学の対象を言う。
② ブディズム関係で ミクロコスモスたる人間の精神に対する
マクロコスモスとしての世界を言う。


世界という場合には おそらく社会・国家また地球といった意味
合いが濃いように見られます。


ただしけっきょく ②で世界を宇宙と同じ意味で使いましたし 
小宇宙と言って 人間の存在ないし脳や精神のことを言う場合が
あると言わなければならないと思います。

使用にあたって特に制限・制約はないものと思います。

Qあなたにとって正義とは何ですか?

あなたにとって正義とは何ですか?

Aベストアンサー

胡散臭いもの。

典型が戦争です。

勝った方が正義になります。
強いモノが正義です。

ワシントンは米国では正義の人ですが、
英国では反逆者で悪い人です。

現代の価値観で評価すれば、歴史の
英雄のほとんどは侵略者、独裁者、殺人鬼です。

かようにして、正義は胡散臭いものなのです。

Q良心の呵責を感じることはありますか?

哲学者カントは、良心の呵責についてこのように述べています。

「人間が良心の呵責によって感じる苦痛は、たといその根源が道徳的であるにしても、結果からいえば、
哀傷とか恐怖とか其他種の病的状態と同じく、自然的である。」
参考:カント 道徳哲学 岩波文庫 p.41

つまり、良心の呵責は、たとえ道徳的であったにしても、自然な感情から来ている。恐怖とか、哀愁とかいったように。

あなたは、良心の呵責を感じることはありますか?
それはどんなことですか?

Aベストアンサー

私も感じますよ。それも取り返しのつかない子供の頃の自分の行動とかにね。
歳を重ねていくうちにいろいろ経験していく中で、まだ自分の感情が未熟だった頃の失態とかを思い出して、何であんなひどい事をしてしまったんだと感じます。
たとえば犬を飼ったのに遊んだのはちょっとの間だけで、あとはほおっておいて散歩もしないでフィラリアで死んでしまったときとか、思うようにならない事で腹を立ててヤツ当たりに弟を叩いて泣かせてしまったことや、子供の時の事なんで誰でもやってしまう仕方がない事とはいえ、とても辛く思い出すときがあります。ほかにもいろいろと自分の失態を思い出しては良心の呵責に胸がつまります。不思議なことにそういう想い出だけは心に残ってるんですよね。

Q国家とは? 国民とは? 何ですか? 深く考えても答えが出ません!

国家とは?
国民とは?
何ですか?
深く考えても答えが出ません!

Aベストアンサー

国家とは部族の延長。
これではざっくりしすぎ?


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