出産前後の痔にはご注意!

歴史の質問です。

日中戦争によって日本が対立を深めるアメリカ、イギリス、オランダ、フランスに共通することはなんですか?

A 回答 (3件)

当時、東南アジアに植民地を持っていたということでしょうね。

。アメリカはフィリピン、イギリスはマレーシア、ミャンマー、シンガポール、香港、オランダはインドネシア、フランスはベトナム、カンボジア、ラオスなど。
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インド・ヨーロッパ語族であること。

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白人の国、キリスト教徒が多い国。

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Q第二次大戦時、ドイツは武器調達用の資金はどこから来ましたか?

ドイツは第一次大戦で敗戦国となり、その賠償金もめちゃくちゃ高額な額だったと思うのですが第二次大戦では相当高度な武器を短期間で調達できています。こんな資金はどこから来たのでしょうか?

Aベストアンサー

> こんな資金はどこから来たのでしょうか?

一言でいうと、お金は後払い約束から来ていました。実際にはお金がなかったわけです。具体的には国債や手形を駆使しました。実質的にナチスは後払い約束を踏み倒しました。

まず、普通の税収ではばく大な軍事支出をまかなえなかったので、国債発行でもお金を得て、軍需企業に支払います。すなわち、軍需企業に対しては後払いではありませんが、国債は後で償還(返済)しなければならないので、結局は後払い約束によって資金を得ていたことになります。しかも、償還期限が来ても借換債を発行すれば、実質返済せずに借り続けられるのです。
さらに、それでも足りずに、メフォ手形というのを発行しました。手形とは、まさに後払い約束(の証文)ですが、メフォ手形は異常なものでした。軍需企業としては損害がない(ライヒスバンクが割り引いて買い取ってくれた)のですが、その買い取った手形については、支払期日が来るたびに延長手形が振り出されました。前述の借換債と同様、結局は償還せずに借り続ける状態ということです。しかもライヒスバンクはドイツの中央銀行(日本で言えば日銀)ですから、国家ぐるみの手形詐欺のようなものでした。

以上から、ネトウヨ歴史学の不備も分かってきます。
まず、「国債ではなく手形を使った」というのは変で、実際は軍事費をまかなうのに国債も手形も使われました。いわば、ナチスはドイツを二重抵当に入れて二通りの借金をしたわけです。
「軍備目的の資金を彼らが出すとも思えませんし」もまた誤りで、英米の資本もドイツの再軍備を助けていました。これは歴史の皮肉というものでしょう。
「手形では通貨の流通量は増えない」も誤りでしょう。通貨の定義は複数ありますが、手形も通貨に含まれることが多いので、手形で通貨の流通量は増えることになります。ただし、手形は、物資やサービスの価格を超えてまでの信用創造はおこないません。一方、インフレになるのは、世に存在する物資やサービスの総合計に見合わない、それを超えた通貨が発行される(創造される)場合です。手形は、生産された物資やサービスに見合う分だけの通貨を増やすのであって、超えては増やさないわけです。
「支払い前は」なんて書いてますが、紙幣や硬貨だけが通貨と思っているのでしょうか。

> こんな資金はどこから来たのでしょうか?

一言でいうと、お金は後払い約束から来ていました。実際にはお金がなかったわけです。具体的には国債や手形を駆使しました。実質的にナチスは後払い約束を踏み倒しました。

まず、普通の税収ではばく大な軍事支出をまかなえなかったので、国債発行でもお金を得て、軍需企業に支払います。すなわち、軍需企業に対しては後払いではありませんが、国債は後で償還(返済)しなければならないので、結局は後払い約束によって資金を得ていたことになります。しかも、償還期...続きを読む

Q日本の国旗って韓国の国旗を真似したんでしょうか?

日本の国旗って韓国の国旗を真似したんでしょうか?

Aベストアンサー

太極旗は、李氏朝鮮(高宗)時代の1883年が最初
日の丸は、1870年制定

Qよく人は、酒に酔って覚えてない。 これってほんとだったらとっくの昔に外の道路で轢き殺されてますよね?

よく人は、酒に酔って覚えてない。

これってほんとだったらとっくの昔に外の道路で轢き殺されてますよね?

私、いくら酒飲んでも何もかも覚えてるけど。

体はふらつくけど頭は確か。

あり得ないわ。

こんなことで刑事事件が緩和されたら
たまったもんじゃない

Aベストアンサー

>ようは、その瞬間は記憶してるけどすぐさまその記憶が飛んじゃうっていうわけですか?
まあそんな感じですね。
海馬は短期記憶を司っているのですが、機能不全を起こして側頭葉の長期記憶に書き込む前にすっ飛んじゃうって感じらしいです。

Q明治天皇以前に軍装をした最後の天皇は、どなたでしょうか?

今上天皇は軍装(軍服をまとう)をしませんでしたが、先代の明治・大正・昭和天皇は軍装をしましたね。
天皇家の草創期では、天皇は武人であるから、軍装したのはずですね。
ところで、明治天皇以前に軍装をした最後の天皇は、どなたでしょうか?

Aベストアンサー

太平記によると、南北朝時代の後村上天皇は鎧を着てました。
北朝の軍から逃れるときに鎧姿で馬に乗っていたそうです。

Q世界史!

こんにちは。 私は世界史が好きな高校生なのですが、中世や古代のヨーロッパ、アジア アフリカ地図を無料で閲覧できるサイトを探しています。『~世紀のヨーロッパ地図』等と言う風に検索してみると、さまざまなサイトが出てくると思うのですが、どれもこれもそこまで詳しくありません。例えば(神聖ローマ帝国)は厳密には一つの国家ではなく、~公国とか~司教領、~王国など、多くの領邦からなる国なのに上記のように*神聖ローマ帝国*と一くくりに表されているものがほとんどです。うまく伝わるかわかりませんが、とにかく"詳しく"かかれた世界地図(特に古代末期:西ローマ帝国滅亡前後と十字軍の時代)が閲覧できるサイトをおしえてください。

Aベストアンサー

1年単位で表示できます。
 http://geacron.com/home-en/?sid=GeaCron921126


ご存知かもしれませんが、
紙媒体なら
「世界史地図」吉川弘文館
568年のヨーロッパ
ランゴバルド族の移動
アヴァール人の移動
などを矢印で表示したりしてます。
十字軍あたりなら1097年があります。
フランドル公ロベールなどの
進軍経路を記している。
アルモラヴィド帝国とかは載ってます。
 
 https://www.amazon.co.jp/標準世界史地図-亀井-高孝/dp/4642095438/ref=mp_s_a_1_1?keywords=世界史地図&qid=1553555134&s=books&sr=1-1

Q長篠の戦いで、武田軍は、どのような面で勝算を見込んで、2倍以上の兵力の織田・徳川軍に対して戦いを挑ん

長篠の戦いは、<3万8千の織田信長・徳川家康連合軍と、1万5千の武田勝頼の軍勢が戦った合戦である。>そうですね。
ところで、武田軍は、どのような面で勝算を見込んで、2倍以上の兵力の織田・徳川軍に対して戦いを挑んだのでしょうか?

Aベストアンサー

長篠の戦は勝頼にとっては、準備万端で迎えたものではなく、行き当たりばったりで始まったものです。 長篠の戦いが発生したのは、家康の家臣の謀反が発端となっています。 家康は三河の奉行として、大賀彌四郎という男を抜擢していました。 この大賀は、もともとは中間ちゅうげん(雑用係)の身分だったのですが、なかなか目端が利いたために家康が取り立てました。 そしてやがては三河の一地方の行政を差配するほどの地位を与えています。 当時は武力が尊ばれる時代で、武士たちは行政に携わることを嫌い、この方面の人材は不足気味でした。 そのために家康は大賀を抜擢したのですが、大賀は取り立てを受けるとやがて増長し、三河の中心地である岡崎城を奪い、自分がその主になりたいという、だいそれた野心を抱くようになります。 しかし大賀自身には兵力がありませんので、勝頼に連絡し、「三河で一揆を扇動して徳川軍を攪乱し、その隙に城門を開いて迎えるので、岡崎城を家康から奪って欲しい」と要請しました。 そして成功の暁には、自分を岡崎城の城主にしてほしい、と願い出ます。 勝頼としては、岡崎城を手に入れれば、織田・徳川連合を三河で分断することができますので、喜んでこの申し出を受け入れます。 そして1575年5月の初めに、甲斐かい(山梨県)を出発して三河へと向かいました。 武田軍の総兵力は3万3千でしたが、この時は裏切りに応じて城を接収するのが目的でしたので、勝頼が動員したのは1万5千、全体の半分以下でしかありませんでした。 つまり勝頼は、出陣の際には織田・徳川連合と決戦を行うつもりはなかったのです。 このことが、長篠の戦いの結果に大きな影響を与えます。 長篠城に転進する大賀の企てた陰謀はやがて露見し、大賀とその仲間たちは捕縛されました。 これは大賀の仲間になっていた者が、果たして主君を裏切っていいものかと思い直し、家康の重臣に大賀の企みを密告したためでした。
浜松城にいた家康は、謀反の知らせを受けて激怒し、大賀をのこぎり引きという、残忍な刑罰によって処刑しています。 大賀の陰謀が失敗したことが伝わると、勝頼は行軍の目的を失ってしまいました。 しかし、1万5千もの兵を動員しておきながら、何の成果も得ずに撤退するわけにもいかず、家康に奪われていた長篠城を取り戻そうと目的を切り替えます。 このようにして、長篠の戦いは流動的な、言わば行き当たりばったりの経緯によって開始されたのでした。

長篠の戦は勝頼にとっては、準備万端で迎えたものではなく、行き当たりばったりで始まったものです。 長篠の戦いが発生したのは、家康の家臣の謀反が発端となっています。 家康は三河の奉行として、大賀彌四郎という男を抜擢していました。 この大賀は、もともとは中間ちゅうげん(雑用係)の身分だったのですが、なかなか目端が利いたために家康が取り立てました。 そしてやがては三河の一地方の行政を差配するほどの地位を与えています。 当時は武力が尊ばれる時代で、武士たちは行政に携わることを嫌い、...続きを読む

Q戦前の日本での、民間人の銃所持ってどこまで許されていたのですか。

夏目漱石の三四郎(1908年連載)を読んでいると、ある人物が失恋して自殺のために短銃(ピストル)を買うという話(与次郎が友達に借金を返せないためにこしらえた作り話なのですが、当時銃を買えたのは本当かもしれない。)
が出てくるのですが、当時一般人でも銃は買えたのですか?

Aベストアンサー

まず、散弾銃、ライフル、けん銃を「銃」で一括りにして考えるとトンチンカンな話しになるので、キチンと分けて考えよう。
平成の現代においても、散弾銃やライフルは、害獣駆除を含めた狩猟や競技のための所持が認められているもので、一定の条件を満たせば所持が認められる(保管設備も容易とは言えないけど、ゴリゴリの厳重というレベルまでは求められない)。

一方で、戦前といえども、民間人が自由にけん銃を所持することは原則的には出来なかった。
しかし、海外や植民地への渡航者などが護身用として警察の許可を得て購入できたほか、将校が自分用の装備として購入したり(帝国軍将校は制服などの装備は自費で賄った)、予備として購入したりしていた(5.15事件の影響で一人2丁までの制限が出来た)。
また、予備役軍人もけん銃を持つことが出来た。
結果、帰国者が持ち帰った銃などアンダーグラウンドを含めて、相当な数のけん銃が市中に流出していたモノと考えられている(昭和50年ころまでは、「爺さまが終戦直後に納屋に隠したけん銃が出てきた」なんて話し、決して珍しいことではなかった)。

現在でも競技(ラピットファイアピストル、フリーピストル)用の装薬けん銃の所持は可能となっているが、50人という定員がある上、エアピストル(これも定員500人)などの実績を持ち、日本ライフル協会の推薦を受ける必要があるなど、非常に狭き門となっている。

また、競技用といえど「装薬けん銃」は、実射練習や競技大会参加時以外は「警察署預かり」が条件となっていて、自宅で”保管”どころか、”銃を持ってちょっと立ち寄る”コトさえ厳しく制限されている(空撃ち練習も出来ない)。

まず、散弾銃、ライフル、けん銃を「銃」で一括りにして考えるとトンチンカンな話しになるので、キチンと分けて考えよう。
平成の現代においても、散弾銃やライフルは、害獣駆除を含めた狩猟や競技のための所持が認められているもので、一定の条件を満たせば所持が認められる(保管設備も容易とは言えないけど、ゴリゴリの厳重というレベルまでは求められない)。

一方で、戦前といえども、民間人が自由にけん銃を所持することは原則的には出来なかった。
しかし、海外や植民地への渡航者などが護身用として警察...続きを読む

Q祭り、祀る、という言葉について質問です。 日光東照宮は徳川家康公が祀られおり、 主祭神とされています

祭り、祀る、という言葉について質問です。

日光東照宮は徳川家康公が祀られおり、
主祭神とされていますが、
この祀ると祭りは元々同じものですか?

花火祭りなどの祭りとは
祀る事と関係があるのでしょうか?

歴史、神事好きの方は教えて下さい。

Aベストアンサー

今は日本語と中国語(漢字)をごっちゃにしか教えていませんからね・・

「祭」「祀」というのは中国語です。”まつり”というのは日本語です。日本語のまつりの概念に当たるものに、中国語の祭とか祀とかの概念に当たるものだったので、日本語の”まつり”に祭とか祀とかを当てて、祭り、祀り、と書いています。

祭と祀は字が違うように(中国語では)別の意味の単語です。
日本語では、これらをまとめて”まつり”と言います。
日本語でいう”まつり”が中国語でいう祭なのか祀なのかを考えて、使い分けているわけです。(このような中国語の勉強を、日本語の勉強と称して教えていることが多いのですよね・・)

言語によって単語の守備範囲が違うことは良くあるのですが、1対1の対応しかないと思われていることも多いです。
日本語は単語が少ないのか、例として日本語の”みる”は、中国語で見、観、看など、英語では see, look, watch など、複数の単語が対応していることが多いです。

Q朝鮮はどうして独立を維持できたのでしょうか。

朝鮮半島を見ていて、いつも不思議に思うことがあります。それは、中国はどうして朝鮮半島を取り込もうとしなかったのか。逆に言えば、朝鮮はどうして独立を維持できたのかという事です。中国が帝国主義であることは紛れもなく、広大な国土に加え、今でも「台湾の独立は認めない」、「チベットの自治は認めない」と言っています。普通に考えれば、朝鮮半島は海に突き出ていて立地条件も良く、何としても手に入れたい土地だと思うのです。独立というのは口で言うほど簡単ではなく、国力がなければできません。力関係で言ったら、朝鮮は中国(清)にとても敵わなかったはずです。朝鮮半島は、かつては百済、新羅、高句麗と三つに分裂していました。なおさら取り込まれ易かったはずです。それを思うと不思議でなりません。よろしくお願いします。

Aベストアンサー

朝鮮は中国の冊封体制に組み込まれた属国の一つで、
独立国のように見えますが、冊封国と言われるものです。
つまり、すっかり取り込まれていたのです。



華夷思想において、中央は高貴なものとされたのに対し、
周辺の地域は東夷・西戎・南蛮・北狄といわれ、
辺境の蛮族扱いされていました。
このような辺境は直接統治より冊封による間接統治が
効率的と考えられていました。
辺境の国家は冊封されないと国として認められないので
多くは交易もできない状況でした。
冊封国は基本的に中国から内政・外交の干渉は受けませんが、
子分になって中国の強い影響下にあることを認めたものです。
詳しくは冊封(国)で調べてみてください。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%8A%E5%B0%81

朝鮮の始祖である太祖李成桂は高麗から王位を簒奪した時に
明に報告すると「王朝が交代したなら国号を改めよ」といわれ、
「朝鮮」と「和寧」のどちらが良いかを洪武帝(明の皇帝)に
選んでもらいました。
朝鮮の国号からしてこのような状況です。
また、朝鮮は国王の交代があっても中国の事前承認を重視しました。
拒否した実例はありませんが、中国の許可なく王になれなかったのです。
これは朝鮮だけで、冊封国には越南(ベトナム)や琉球も含まれますが、
他の冊封国は自分たちで国王を決めてからの事後承諾でした。
近年では朝鮮最後の皇帝(注:独立後大韓帝国を名乗りました)である
純宗が立太子の時(皇太子への就任)認めてもらうために
清との交渉が行われました。

冊封国にも序列があり、王の服の色や描かれた竜の数などで表され、
朝鮮の序列は低くはありませんでした。
しかし、東北の金(後金)を下位にみていたため
明が衰え金の勢力が強くなっても明の庇護を頼りに
強気で臨んだため丁卯胡乱と丙子胡乱で完敗し、
三田渡の盟約で清の属国であると認めさせられ、
皇帝ではない清からの勅使に対しても
(朝鮮)王が三跪九叩頭の礼により迎えました。
ちなみに、三跪九叩頭は1度ひざまずいて3回土下座を3セット
都合9回土下座をするもので、清の皇帝が臣下にさせた儀礼です。
余談ですが台湾出兵の後始末で日本の使者が皇帝に対するとき
皇帝への儀礼として要求されましたが拒否しています。

朝鮮が清の冊封から脱したのは日清戦争の結果で、
下関条約の第1条は清からの独立を認めさせるもの。
一般の方にも読める「朝鮮紀行」(講談社学術文庫)には
この時に無理やり独立することで清の庇護下から解放させられて
ガクブルの高宗の様子が書かれています。(P319~P341 )

現在の韓国では、属国ではなく「兄弟国」という表現が多いのですが、
実際には壬午軍乱(1882年)の後始末で真に結ばされた
「中朝商民水陸貿易章程」でも属国であることが確認されました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9C%9D%E5%95%86%E6%B0%91%E6%B0%B4%E9%99%B8%E8%B2%BF%E6%98%93%E7%AB%A0%E7%A8%8B

朝鮮が冊封国を維持できたのは、清による虎の威を借りたから。
現在の韓国の国旗である太極旗の原型(諸説あります)は、
1882年に訪日使節団が使ったものです。
そこには日本になめられないように「大清国属」と書かれ、
清の支配下にあることを自称していたことがわかります。



現在の中国がチベットなどを侵略するのは
現代において価値があるから。
紛争で注目される尖閣諸島も、1970年代に国連の調査で
海底資源が指摘されるまで無関心どころか
国の機関紙に日本領と書いていたくらいです。
価値があって与しやすいと思われれば侵略されます。

朝鮮は中国の冊封体制に組み込まれた属国の一つで、
独立国のように見えますが、冊封国と言われるものです。
つまり、すっかり取り込まれていたのです。



華夷思想において、中央は高貴なものとされたのに対し、
周辺の地域は東夷・西戎・南蛮・北狄といわれ、
辺境の蛮族扱いされていました。
このような辺境は直接統治より冊封による間接統治が
効率的と考えられていました。
辺境の国家は冊封されないと国として認められないので
多くは交易もできない状況でした。
冊封国は基本的に中国から内政・外交の干渉...続きを読む

Q明治時代と一世一元の制について

明治時代は厳密には一世一元の制には入らないのですか。
理由も含めて答えていただけると幸いです。

Aベストアンサー

慶応の時に即位してますが、改元はその時でなく、少しずれて、新政府の発足をきっかけにしてますから。


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