【復活求む!】惜しくも解散してしまったバンド|J-ROCK編 >>

去る四月十日  天皇陛下即位30年奉祝感謝の集いで北野武が述べた祝辞
の中に 次のようなくだりがありました。

▲ (北野武、笑いと感謝込めた天皇皇后両陛下への祝辞全文 「日本とい
う国に生を受けたことを幸せに思います」) ~~~~~~~~~~~~
https://www.huffingtonpost.jp/entry/takeshi-kita …

私はちょうど60年前の今日、当時12歳だったその日、母に連れられて、日
の丸の旗を持つ大勢の群衆の中にいました。波立つように遠くの方から歓声
が聞こえ、旗が振られ、おふたりが乗った馬車が近づいてくるのが分かりま
した。

母は私の頭を押さえ、「頭を下げろ!決して上げるんじゃない」と、ポコポ
コ殴りながら「バチが当たるぞ」と言いました。

私は母の言うとおり、見たい気持ちを抑え、頭を下げていました。

そうしないと、バチが当たって、急におじいさんになっていたり、石になっ
てしまうのではないかと思ったからです。

そういうわけで、お姿を拝見することは叶いませんでしたが、おふたりが目
の前を通り過ぎていくのは、はっきりと感じることができました。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

☆ この種のうわさの内容は いまどう変わったのでしょうか?

① ただ世間の空気として流れていただけだから 世の中の変化とともに 
うやむやになった。それでよいのだ。・・・といったことでしょうか?

② いかに哲学と言えども そういうことは――お二階のそのまた雲の上の
ことは―― 万機公論に決する対象ではないのだ。このバカ! ・・・とい
うことになっているんでしょうか?

③ 例の《人間宣言》というものも ただの世間のうわさに過ぎない。つま
り そういった雰囲気を醸し出すような声明があったというだけで 決して
それが公式のものだとは思えない者の疑問です。《人間宣言》とは どこに
も書かれていないはずです。

A 回答 (9件)

爺ちゃんの母親は、天皇陛下は、ウンチやオシッコをしないと固く信じていました。

爺ちゃんは18歳の時に、天皇陛下に1メータくらいの距離でお目にかかれ、視線を合わしながらのお言葉も頂戴しました。同時に皇居に招かれた仲間は、「天ちゃん、バンザーイ!」と言うと放言していましたが、陛下が5メータくらいに近づかれ時より、最敬礼の御辞儀で、お顔を拝見することもなしで、通過後、嬉しさの余りに涙を流していました。

回答としては①です。ゴチャゴチャ言うな!です。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 回答としては①です。ゴチャゴチャ言うな!です。
☆ 理屈など糞くらえ! でしょうか?

哲学ごときが 何を言うか? でしょうか。

明解至極でしょうか。――んなばかな。




★ 爺ちゃんの母親は、天皇陛下は、ウンチやオシッコをしない
と固く信じていました。
☆ 子どもたちに ウソをおしえてよい・・・のでしょうか?
日本は そういう国なのでしょうか?

お礼日時:2019/04/24 11:40

あれは、北野流のの諧謔と思います。

「日本という国に生を受けたことを幸せに思います」も含めてです。
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この回答へのお礼

相手にするほうが ばかだ――ですか?


その考えに片向きはしませんが 北野武と言えば そういう問題
であるのかも分からない――とは感じました。

つまり 北野の発言であることから離れて 一般的に取り上げる
としたら どう考えるか? になると思います。




ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2019/05/05 20:55

>(北野少年の)母は私の頭を押さえ、「頭を下げろ でないとバチが当たるぞ」


頭を下げろ、に、天皇陛下を見るな までの意味が含まれていることはそうだとして、
北野少年母は、具体的な「バチ」が何かは言っていません。
北野少年は、「バチ」の部分を、おじいさんになる(浦島太郎?)、または石になる(ゴルゴン?)と推測。
うん、目がつぶれるとは、誰も思ってない。
 ※石になれば、そりゃあ目もつぶれるが....
よって、「この種のうわさ」として、 天皇を見たら 目がつぶれる とは、誰も言っていません。
>この種のうわさの内容は いまどう変わったか
最初からそんなうわさは無い。

なお、北野少年母の
・天皇陛下を見るとバチが当たる
これなら解ります。
具体的にどんなバチなのか、いつバチが当たるか言っていないことが肝要。
まあ、人間なら、いつかは不幸に合うのは確実。(少なくとも、死亡する。)そうしたら、バチが当たたことにすれば外れようがありません。で、バチが当たる行為とは、天皇陛下を見る以外にもいろいろあるだろうから、天皇陛下を見なくてもバチが当たった、という苦情に対するいいわけは簡単。
うん、北野少年母は、正しい。

ただし、1948年以降、制度として、「一般参賀」で天皇は一般国民に顔見せしている(TVも含む。何年からかは不明にしても、1959年より前。)ので、北野少年母の文言(1959年)は時代遅れもいいところ、なので、
まあ、北野少年がじっとしているよう、そういった言っただけだろうし、北野少年も先刻承知、と思うが。

ここだけは、bragelloneさんに確認。
天皇を見たら 目がつぶれる の 「目がつぶれる」は、いったい誰の発言? ソースを示してください。

石になる を 目がつぶれる  と読み替えるのは、そりゃ無理筋だろうから却下します。石になること自体、北野少年の想像であってウワサとしてあったかどうか謎。北野少年母の「天皇陛下を見るとバチが当たる」は、ぎりぎりですがウワサの範疇としていいけど、それ以上はダメでしょう。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

☆☆ >(北野少年の)母は私の頭を押さえ、「頭を下げろ でないとバチが当たる
ぞ」
★ ・・・うん、目がつぶれるとは、誰も思ってない。
よって、「この種のうわさ」として、 天皇を見たら 目がつぶれる とは、誰も言
っていません。
☆ なるほど。確かにズレがありますね。

★ 天皇を見たら 目がつぶれる の 「目がつぶれる」は、いったい誰の発言? ソ
ースを示してください。
☆ これはですね。わたしの父も母も言っていたことです。

戦時中に学校には《御真影》という写真が校内の目につく所に掲げてあったそうです。
生徒らがそこを通るときには 下を向いて歩き決してその姿を見てはいけない 見た
なら眼がつぶれるとおそわっていたそうです。それで こちらの《言い伝え》でこの
質問をしてみました。

そして:
★ 北野少年母の
・天皇陛下を見るとバチが当たる
☆ なる発言内容に重ねてみています。北野氏とわたしはほぼ同い歳ですので その
母御も わが親たちと同じ体験をしていたであろうと推測したものです。




一般性があるか? ないとすれば わたしの両親はそろってこの話をねつ造したとい
うことになります。

もちろん そういう反論は信じません。

たとえば:
◆(№1) 爺ちゃんの母親は、天皇陛下は、ウンチやオシッコをしないと固く信じ
ていました。
☆ というたぐいの伝説や神話であると見られます。

そして №3のたんぞう氏とわたしのやり取りは この質問の趣旨に沿った問い求め
になっていると考えます。その対話は さらに推し進める余地があるとも思っていま
す。どうでしょう。

お礼日時:2019/04/30 11:52

レトルトと中のよいとかニコニっこダイhyっかにか枯れた女性が


球つぶしたいよねと科ツイートしていたのが
最近、各地でつぶしたいと云う解雇身が多発してる尾で、
話題にしてますが、
物騒です阿kら
玉ぐし料をなくそうと云う宇野は新党よりは仏教的な発言ということなのでしょうか。
山里量退散が津b従ってる世杖rkれどね。の文でよいのか南アのですか。
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この回答へのお礼

玉ぐし料といった具体的なことがらについて考えたことがなくて。・・・

お礼日時:2019/04/27 02:39

祝辞だのお祝いした塔子tですか。


バカ際されすぎてて私の力の佐奈sでは何か丘もうばあwれるだけでした。

今日は蟹を食べて目が疲れて見栄ニックなりあmしたよ。
全部木待てる絵のでh素か。
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この回答へのお礼

蟹のほかは ちょっとよく分かんないなぁ。

お礼日時:2019/04/26 00:05

猿を得てというのが気になりました。


人間から猿へ
進化もすれば対価もする。改心。
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この回答へのお礼

祝辞は いい評価を得ているようです。

お礼日時:2019/04/25 02:12

目が潰れてるのはレトルトのイラストでは微々離党ことでh層化。


私はとにかく名雨のを一部だの全部屑につぶされてめちゃ草歯にされてるのに
何故レトルト形式で嫌がらっするのでh層化。
頃するしかないんでh層化。
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この回答へのお礼

アース役でしょうか。

お礼日時:2019/04/25 02:06

① ただ世間の空気として流れていただけだから 世の中の変化とともに 


うやむやになった。それでよいのだ。・・・といったことでしょうか?
 ↑
現代では芸能人の一種みたいな感じになって
いますね。
こんなことが続けば、天皇制は無くなってしまう
でしょう。



② いかに哲学と言えども そういうことは――お二階のそのまた雲の上の
ことは―― 万機公論に決する対象ではないのだ。このバカ! ・・・とい
うことになっているんでしょうか?
 ↑
哲学、というよりも、国家統治の技術の
問題だと思います。



③ 例の《人間宣言》というものも ただの世間のうわさに過ぎない。つま
り そういった雰囲気を醸し出すような声明があったというだけで 決して
それが公式のものだとは思えない者の疑問です。《人間宣言》とは どこに
も書かれていないはずです。
  ↑
天皇というのは、本来は神と人間を媒介する
存在です。
つまり、ローマ法王に似ています。
神だ、なんてやったのは、戦争において、国民を一丸とするため
西欧列強の侵略に対抗するための技術です。

もっとも、江戸時代などの庶民は、公家などは
神様扱いしていたようですが。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

① ただ世間の空気として流れていただけだから 世の中の変化とともに 
うやむやになった。それでよいのだ。・・・
 ↑
★ 現代では芸能人の一種みたいな感じになっていますね。
こんなことが続けば、天皇制は無くなってしまうでしょう。
☆ ううーん。それも 風の便りと言いますか それこそゴシップ欄の問
題だという見方ですよね。

そういううわさの問題から自由に考えてみたいのですが?



② いかに哲学と言えども そういうことは――お二階のそのまた雲の上
のことは―― 万機公論に決する対象ではないのだ。このバカ! ・・・
 ↑
★ 哲学、というよりも、国家統治の技術の問題だと思います。
☆ それをここでは 哲学と言っています。そして おそらく:
★ 技術
☆ の問題に限られることはないと言ってよいでしょう。

そもそも人間性をどう捉えて その理論にもとづき 社会のあり方やその
形態について考えることになると思います。

密接に関連して 次のような質問で同じく問い求めています。:
【Q:あなたは 何語をしゃべっていますか?】



③ 例の《人間宣言》・・・《人間宣言》とは どこにも書かれていない
はずです。
  ↑
★ 天皇というのは、本来は神と人間を媒介する存在です。
☆ そうですね。きびしく行きますが 《本来》論では済まない――つま
り そこに質を変える尾ひれ(つまり 現人神説)がついていました――
ので 問題が 終わったようでうやむやに成りつつ 長引いているのでは?

それに 民主制の社会にとっては 巫覡は要らないでしょうね。

★ つまり、ローマ法王に似ています。
☆ ですから そういったふるい国家統治(マツリゴト)説がなお尾を引
いているわけですね。


★ 神だ、なんてやったのは、戦争において、国民を一丸とするため 西
欧列強の侵略に対抗するための技術です。
☆ だとしても・ですから 《人間宣言》と何となく言われるだけのかた
ちを採った同じく小手先の技術で処理した そういうものだという空気で 
済ませているわけです。

★ もっとも、江戸時代などの庶民は、公家などは神様扱いしていたよう
ですが。
☆ と同時に庶民らは 列島のどこかに天子様とか呼ぶ人がいるとかいな
いとかとうわさしていたらしいです。その程度だったようです。よ。

お礼日時:2019/04/24 17:49

ヘーカってんだから、階段から先には上れないんじゃない?

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この回答へのお礼

ん? 

★ ヘーカ
☆ 《閉架》?  《塀か?》? ――分かんない。


ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2019/04/24 15:34

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Q「とうもろこし」にまつわる世界観

「とうもろこし」と聞くと、焼きとうもろこしやコーンスープを思い浮かべる方が多いと思います。しかし、今やアメリカでは、45000種類の食品のうち1/4以上の食品にとうもろこしが使われていることをご存知でしょうか。日本も例外ではありません。

コーンスターチ(トウモロコシの澱粉)コーンフラワー(とうもろこし粉)に加工され、コーン油も搾油されていますが、食品の原材料表示の中の、ブドウ糖果糖液糖、加工デンプン、デキストリン、キサンタンガム、アスコルビン酸、カラメル色素など。とうもろこしから作られる添加物は何百種類に及ぶといわれます。
ドライミルと呼ばれる製粉所に対して、ウェットミル(湿式工場)があります。
ここは複雑なパイプや機械部品からなる怪獣みたいなもので、毎日大量のとうもろこしを飲み込み、反対側についている蛇口から、さまざまな製品、糖類、デンプン、アルコールや酸、乳化剤や安定剤を流し出す。そのほとんどが食品添加物として、シリアルやスナック菓子、調味料やドレッシング、チキンナゲットや冷凍食品、ありとあらゆるものに使われています。

この中で「ブドウ糖果糖液糖」これは1960年代に日本で開発されたとうもろこしを原料とする甘味料で、安価で甘味が強いので、砂糖に変わるものとして、清涼飲料水、調味料、菓子類、加工食品全般に大量に使われていて、血糖値が上昇しやすくなるという危険性があります。
また、最近よく耳にする「難消化性デキストリン」
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人間と同じように、食べ物にも個性があって、どんなに栄養のある良いものでも、一種類の食べ物だけを食べて生きる事はできません。主食副食バランスよく食べてはじめて、健康が支えられるように人間はできていると思います。
皆さんはどのように思われますか?

「とうもろこし」と聞くと、焼きとうもろこしやコーンスープを思い浮かべる方が多いと思います。しかし、今やアメリカでは、45000種類の食品のうち1/4以上の食品にとうもろこしが使われていることをご存知でしょうか。日本も例外ではありません。

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米国在住です。

十五年ほど前、ご質問にある、米国人のトウモロコシの食べ過ぎの件について、長女が高校で習ってきまして、それ以来、彼女はトウモロコシを食べることを拒否しています。理由としては、取り立てて料理をして食べなくても、”箱入りの食べ物”には、必ずトウモロコシが使われていて、私達の体内は、トウモロコシだらけだからだということででした。

その後、私の家族の”食事セオリー”はどんどんと発展を続け、現在では、肉食をやめ、一週間に二度のオリーブオイルで調理した鮭・マスがたんぱく源となり、酪農製品も摂らず、ピーナッツバターやアーモンドバターを、全粉のパンに塗り、お茶も、ビーツや生姜の薄切りを煮だしたものを飲んでいます。

何が体にいいのかよくわからないのですが、キノアやケールやビーツなど、あまりおいしくない食材も、出すと喜ばれるので、頑張って調理しています。あとは、季節の野菜を、組み合わせを考えて、蒸したり、茹でたり、いためたりして、”味付けをしないで”、そのまま食卓に出しています。サラダには、ライムジュースを振りかけるだけです。

基本的に、出来合いのものを使わず、食料品店で、丸のままの食材を買ってきて、それを調理する、というやり方です。体には良いのかもしれませんが、手がかかるし、そして、食費も普通の倍以上はかかります。

これが、行き過ぎた健康志向、アメリカの意識高い系の食事の実態です。もはや、バランスが取れればよい、などという問題ではないところに来ています。

一方、80パーセント以上のアメリカ人は、現在でも、漂白された白いパンを食べ、チーズバーガーをほおばり、ビールにバーベキュー、タコスに山のようなチーズ、トウモロコシだらけのシリアルを毎日食べているような状況です。

私も、食事はバランスさえ取れていて、おいしければ、それが、ベストだろうと考えていましたが、私の家族を見る限り、何が何だか、判らなくなっている現状です。私事で恐縮ですが、お知らせまで。

米国在住です。

十五年ほど前、ご質問にある、米国人のトウモロコシの食べ過ぎの件について、長女が高校で習ってきまして、それ以来、彼女はトウモロコシを食べることを拒否しています。理由としては、取り立てて料理をして食べなくても、”箱入りの食べ物”には、必ずトウモロコシが使われていて、私達の体内は、トウモロコシだらけだからだということででした。

その後、私の家族の”食事セオリー”はどんどんと発展を続け、現在では、肉食をやめ、一週間に二度のオリーブオイルで調理した鮭・マスがたんぱく源と...続きを読む

Q人間が人間を超えるものをつくること

たとえば、情報工学の先端でAIの研究に携わっているとしましょう。
すべてにおいて人間を超える可能性を秘めているものを対象として目の前におくとき、主観は常に対象を客観視できるでしょうか。
人間が人間を超えるものをつくる、ということは、あえて極論を言いますと、人間が人間を滅ぼすというポテンシャルを含み持つことです。
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ITシステムが修正を繰り返し生き延びる様は人間のようであり、自ら学習を重ねて賢くなる人工知能AIはいつか人間を超える存在になると言われます。
そのようになると想定される場合に、果たして人間は冷静に客観である対象に向き合えるものでしょうか。それとも、専門家のあいだでは人間を超えることはないという根拠があるから、冷静に研究開発を続けられるのでしょうか。
もしそうならば、それを開示して世の中の不安も同時に払拭していく責任も同時にあると思うのですが、皆様はどのように思われますか?

Aベストアンサー

#14です。お礼ありがとうございます。

>ああ、私たちはいつになったら悟るのだろう
人間を失ったことを

頭のいい人たちはすでに19世紀初頭に警鐘を鳴らしていますよ。
たとえばJ・J・トールキンは「人間らしさ」を「自然(精霊や斎もの)との交流と恐れが人間の本質である」としてそれが失われる前に指輪物語を書きました。指輪物語で人間以外が西の国に行ってしまうのは、まさに19世紀が「機械に人間が乗っ取られ、人間性を失う時期」だったからです。

同様にラフカディオ・ハーンは日本に来て「まだ人間性が残っている今のうちに記録を残そう」と小泉八雲として様々な小説を著作しました。

「メトロポリス」なんていうデストピアを描いた映画もありましたね。

どれも19世紀末から20世紀初頭の作品で、この辺りが機械を発明した第一世代から、機械と共存する第二世代に変わった時期なのでしょう。それから先はコンピューターでもAIでも機械化の延長にすぎないわけです。

人間のほとんどは「科学文明と共に生きること」を選んだのです。そのほうが「犠牲はあるかもしれないが、少なくとも自然の中で恐れて生きているよりは幸せである」と考えたからです。

実際、20世紀の科学進歩はすさまじく、それ以前の不治の病とされた天然痘は撲滅、ペストなどは激減、結核は治るようになり、飛行機を使えば1日で世界一周できるようになりました。機械を使うことによる犠牲者はあるものの、全体で見れば「機械のおかげで人は死ななくなった」のです。

ですから、今後もAI化などは「ほとんどの人が疑問を持たずに」進んでいくのだと思います。でも結局人間はそれで幸せなんだと思いますよ。

私には子供が居ますが、20世紀初頭の乳幼児の死亡率は50%以上だったわけです。つまり10人産んでも5人しか残らない社会で、ほとんどの人が「長生きできなかった兄弟」を背負って生きていたわけです。父母の、特に母親が自分でお腹を痛めた子を失う辛さと残酷さは悲劇以上のものだったでしょうが、たった100年前はそれが普通だったわけです。

今は乳幼児の死亡率は先進国なら数パーセントしかありません。

私は「人類が科学技術を捨てて『人間性を取り戻す』ことを望むのか?」と聞かれればNOだと思います。その代り人間は「機械とうまく付き合っていく」しか道はないのだと思います。

>人間はAIの奴隷。モルモット。

人間は自分で機械・技術の檻の中を選んだのです。アマゾンや砂漠地帯など一部の人間たちは拒否しています。ああ、インドに「文明を受け付けない島」があるようですが、そういう人たちはまだ「人間」なのでしょう。

でもほとんどの人間は自分たちで望んで、機械・技術に守られることを選んだのです。

#14です。お礼ありがとうございます。

>ああ、私たちはいつになったら悟るのだろう
人間を失ったことを

頭のいい人たちはすでに19世紀初頭に警鐘を鳴らしていますよ。
たとえばJ・J・トールキンは「人間らしさ」を「自然(精霊や斎もの)との交流と恐れが人間の本質である」としてそれが失われる前に指輪物語を書きました。指輪物語で人間以外が西の国に行ってしまうのは、まさに19世紀が「機械に人間が乗っ取られ、人間性を失う時期」だったからです。

同様にラフカディオ・ハーンは日本に来て「まだ人...続きを読む

Qもし、日本にキリスト教がもっと普及していたら?

アメリカでは、人口の70%がキリスト教徒だそうです。
日本では、キリスト教徒は人口の1%です。その割には、クリスマス、バレンタイン、ハロウィンなどキリスト教の行事が盛んですが。
それはさておき、
もし、日本に、キリスト教が、もっと普及していたら、日本は変わっていたと思いますか?日本の社会や国民性は変わっていたと思いますか?もしそうなら、どのように変わっていたと思いますか?

Aベストアンサー

日本は「宣教師の墓場」といわれていたくらいで、西洋では知識階層の宣教師の論法が日本の農民に論破されるくらいですから、普及することはあり得ないと思いますよ。ザビエルが日本を撤退するとき、「ほとほと疲れた」と書いています。

インドが200年イギリスに支配されてもキリスト教が布教できなかったり、中国にも景教以外のキリスト教はほとんど入っていません。アブラハムの宗教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教など)に対抗できる精神的風土を持つ国にはキリスト教は進入できませんでした。持っていなかった韓国のキリスト教はカトリックやプロテスタントではなく、カルト教会が大部分で、代表が統一神霊協会です。

Qあなたにとって正義とは何ですか?

あなたにとって正義とは何ですか?

Aベストアンサー

胡散臭いもの。

典型が戦争です。

勝った方が正義になります。
強いモノが正義です。

ワシントンは米国では正義の人ですが、
英国では反逆者で悪い人です。

現代の価値観で評価すれば、歴史の
英雄のほとんどは侵略者、独裁者、殺人鬼です。

かようにして、正義は胡散臭いものなのです。

Q難癖をつけて論破しようとする人 ある主張に対して、根拠を提示して論理的に説明をしても、その根拠に信憑

難癖をつけて論破しようとする人

ある主張に対して、根拠を提示して論理的に説明をしても、その根拠に信憑性がないと言って否定します。

例えば、日本の人口が1億2000万人程度だとする根拠を、国勢調査や各種統計で示しても、その根拠が正しいとする理由を聞いてくるのです。

国の統計や学術的な統計であっても、
『なぜ国の統計なら正しいのか?』
『どうしてその学者の言うことは正しいのか?』
と言ってきて、最終的に答えられないと、非論理的で君は間違っていると言われてしまいます。


どうやら彼は、100%正しいとする根拠や証明ができないと、曖昧なものは全て否定するようです。

なので、統計も実数ではないからダメ。
学術論文も、一学者の主張だからダメ。

このように主張すると何も言えなくなるのですが、どうしたら論理的に説明ができるようになるのでしょうか?

Aベストアンサー

どのみち、結論を出す現実の必要がない、という意味でクダラン話をしているんでしょうな。

 論証の根拠として使う命題すべてをリストアップして、それらをA, B, C, … とします。そして「A, B, C, … が正しいと仮定すると、」というマクラコトバをつけて結論Rを論証なさいませ。以上をまとめれば、
「もしA, B, C, … が正しいなら、Rである」
という命題を述べたことになる。「どうしてAが事実なんだ?根拠は?」というツッコミは意味をなしませんし、「もしA, B, C, … が正しいなら、Rである」という命題の論証に対して「そんな論証は説得力がない」とは言わせない。だから、せいぜい「そんな結論Rは説得力がない」と文句をつけるしかできない。
「そりゃ、A, B, C, … が正しいと仮定すると、という議論ですから、説得力はこれらの仮定に依存しますよ」
「そんなことを言うのなら、A, B, C, … のどれかが正しくないと仮定すれば、別の結論が出るじゃないか!」
「そうですね」
「では、君は何も言っていないのと同じだ」
「へえ、そう思うのですか?」
てな調子で、口喧嘩はいくらでも続きますがね。

 形式論理は、仮定に最初から陰に(あるいは陽に)含意されている命題を取り出してみせる以外には何もできません。なので、論理的に完璧な論証とは、現実に関する断定を一切含まない論証だということです。(数学もそうですけど)形式論理は現実世界とは断絶しています。現実に関する命題については、あくまでも過去の経験(観測した情報)だけが根拠ですから、「絶対に間違わない」ということは不可能です。物理学や化学の「法則」も過去の経験だけに基づいていますから、覆る可能性が常にある。(逆に、(形而上学や信仰など)覆る可能性がない命題は科学の(つまり現実に関する)命題ではない。たとえば
  この世は10分前に神によって創造された。
というような信念は、(もちろん、記憶や痕跡全部を含めて創造された、という主張ですから)反証しようがない。)
 というわけで、「現実に関する命題を証明する」ということはもともと不可能で、できるのは「論証」だけです。その論証の「説得力」は、仮定A, B, C, …を何度も検証するという経験を積み重ね、あるいはうっかり持ち込んでしまった思い込み(リストにない仮定)がないかを何度も確認する、というプロセスによって磨かれていくものの、疑いが完全になくなることはない。

 なお、以上の話はただのナンセンスではない。「どんな仮定のもとでの議論か」ということを明示するのは論文においても重要で、ここを手抜きすると「見落とし」「無反省」「無自覚な思い込み」などと突っ込まれることになります。

どのみち、結論を出す現実の必要がない、という意味でクダラン話をしているんでしょうな。

 論証の根拠として使う命題すべてをリストアップして、それらをA, B, C, … とします。そして「A, B, C, … が正しいと仮定すると、」というマクラコトバをつけて結論Rを論証なさいませ。以上をまとめれば、
「もしA, B, C, … が正しいなら、Rである」
という命題を述べたことになる。「どうしてAが事実なんだ?根拠は?」というツッコミは意味をなしませんし、「もしA, B, C, … が正しいなら、Rである」という命題の論証...続きを読む

Qヨーロッパ人の真理論は成っていない!?

1. 次の見解に示されたヨーロッパ人の真理論は どの説もあやふやであり 成
っていない。という見解を示して問います。

2. ▲ (ヰキぺ:真理) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%90%86

§ 1 西洋哲学における真理論

真理とは何か、についての研究を真理論という。以下に代表的な説を挙げる。

A. 真理の対応説(correspondent theory of truth):「思惟」と「事物」(羅:
res、レス)が一致ないし対応していることが真理であるとする。

アリストテレス、トマス・アクィナス、イマヌエル・カント、カール・マルクス、
バートランド・ラッセル、前期ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン、アルフレッ
ド・タルスキ、カール・ポパー

B. 真理の整合説:他の命題と整合的な認識が真理であるとする。公理的で演繹的
な真理観。
    
中期プラトン、ライプニッツ、スピノザ、ヘーゲル

C. 真理の明証説:意識に対して明証的に現れるものを真理とみる。
    
ルネ・デカルト、エトムント・フッサール

D. 真理の実用説(有用説):生にとって有効・実用的な認識を真理であるとする。
    
フリードリヒ・ニーチェ、ウィリアム・ジェイムズ

E. 真理の合意説:合意された認識を真理であるとする。
    
チャールズ・サンダース・パース、ユルゲン・ハーバーマス

F. 真理の定義不可能説:命題 P は命題「命題 P は真である」と同値であるから、
真理の概念は定義不可能であるという立場。
    
フレーゲ

G. 真理の余剰説(redundancy theory of truth):命題 P は命題「命題 P は真
である」と同値であるから、真理の概念は無用な余剰であるとする。
    
フランク・ラムゼイ

H. 規約主義:真理はその言語体系における規約に依存するという立場。
    
アンリ・ポアンカレ、デュエム、オットー・ノイラート
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

3. ▲ B. 真理の整合説:他の命題と整合的な認識が真理であるとする。公理
的で演繹的な真理観。
☆ にちなんで言うとすれば 大前提を《公理》ではなく 《想定》とするとよい
のだ。経験合理性を超えた絶対的な整合性の世界――それは 人間には分かるか分
からないかが分からないナゾである――を 真理として想定しますよと。


4. 《イデア》では ダメである。いや 真理と想定したものを《イデア》と名
づけたというだけなら よいのである。つまり イデアなる絶対真理の世界からこ
の仮象の経験世界のものごとを《演繹》して来ては ダメである。絶対と相対とが
――人間の思考において/によって――つながったことに成ってしまう。人間が勝手
につなげたことになる。自然の驚異かつ脅威は 神の怒りであり天罰だという説を
みちびく。

5. 経験合理性による《整合性》だけでは ダメなのである。なぜなら想定によ
れば 真理は 人知を超えており 人間に理解しうる整合性から自由であるのだか
ら。有無を超えており 善悪の此岸ではなく彼岸であり 或る意味で人間の判定す
る真偽をも超えている。


6. ▲ B. 真理の整合説:他の命題と整合的な認識が真理であるとする。
☆ だから これはマチガイである。《いくつかの命題》を 経験世界において並
列させても それらを真理は超えており それらから真理は自由であるのだから。


7. 言いかえると 経験事象にかんしてさまざまな認識をおこない命題(その判
断)として提出する。その命題の真偽がどうかという問題は 相対的な真実を問う
ている。絶対としての真理ではない。


8. まづ 《事実》について人は認識する。これを自己表現する。その命題につ
いて まづその当人については 《明証性》があるなら 主観真実であると見なさ
れる。――これが:
▲ C. 真理の明証説: 意識に対して明証的に現れるものを真理とみる。
☆ であり これは 厳密な定義としては 真理ではなく 相対的な真実のことで
ある。


9. すなわち ここから《明証性に立つ主観真実》が その認識内容として《事
実》と合っているなら それは一般に《事実認識》として認め合われる。(ただし 
真理ではなく 真実である)。すなわち:
▲ A. 真理の対応説(correspondent theory of truth):「思惟」と「事物」
(羅:res、レス)が一致ないし対応していることが真理であるとする。


10. そのことをもう少し具体的に細かく見てみよう。この一人のひとの主観真
実が 当の事実と照らし合わせてほかの人たちによって検証される。やはり同じく
自己の主観において真実として見解を同じくするなら そこでは 主観の共同化が
成る。


11. この主観共同化が 地域を超えて歴史を超えて共有されるなら――たとえ
ば意志自由とその相互尊重にもとづく民主制なる理念など―― これは 共同主観
(コモンセンス)と呼ばれる。これは 或る程度普遍的な真実であると見なされる。
すなわち 次の説に相当する。(ただし 真理ではなく 真実である):
▲ E. 真理の合意説:合意された認識を真理であるとする。


12. 地域や民族の文化などによってその普遍性が狭まれたなら 共同主観は 
部分的な真実となる。(ただし 真理ではなく 真実である):
▲ D. 真理の実用説(有用説):生にとって有効・実用的な認識を真理であると
する。
 


13. 民族(≒その一定の言語)の文化をさらにその独自性において重く見る立
ち場では この《部分真実》をさらに限定するようである。(ただし 真理ではな
く 真実である):
▲ H. 規約主義:真理はその言語体系における規約に依存するという立場。


14. この部分真実を けっきょく一人の個人(つまりその人の主観)にまでも
う一度収縮させたものが 次の見解である。われが思えば・言葉で語るならば そ
れが《真実》である。のだから それの共同化などは 問う必要はないと。(ただ
し 真理ではなく 真実である):
▲ G. 真理の余剰説(redundancy theory of truth):命題 P は命題「命題 Pは
真である」と同値であるから、真理の概念は無用な余剰であるとする。


15. それではあまりにも独りよがりではないかと批判されたときには ふたた
びのようにこの相対世界を超えて 絶対の真理なる桃源郷を提示する道にのがれる。:
▲ F. 真理の定義不可能説:命題Pは命題「命題Pは真である」と同値であるから、
真理の概念は定義不可能であるという立場。

☆ これは《真理》を言おうとはしているのである。 つまり(3)に戻って 真
理を 《非知――知り得るか知り得ないかが人間には知り得ないナゾ――》として
想定すればよい地点に戻っている。

16. ご批判をどうぞ。賛成票をもどうぞ。

1. 次の見解に示されたヨーロッパ人の真理論は どの説もあやふやであり 成
っていない。という見解を示して問います。

2. ▲ (ヰキぺ:真理) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%90%86

§ 1 西洋哲学における真理論

真理とは何か、についての研究を真理論という。以下に代表的な説を挙げる。

A. 真理の対応説(correspondent theory of truth):「思惟」と「事物」(羅:
res、レス)が一致ないし対応していることが真理で...続きを読む

Aベストアンサー

我が家の神棚には、祓い清められたお神札があって、真理とは斯く斯くと書かれている。耶蘇教のお札は捨て、須く各人もこれにならうべし。
という主張になっていないかをちょっと検討しましょうか。ご自身の真理説を正面に打ち出す論考ではないという点は割り引くつもりですが、対質に充分かは問題とします。

ウィキペの説明を利用した、「想定すればよい地点に戻っている」という論法は殆ど無意味でしょう。ウィキペのならべた立場は、何方かの記述を参照したのかも知れませんが、まあ言わば素朴実在論を基とした上での分類に過ぎない。真理概念無用とか定義不可能とかを同列にならべるなど、無雑作に集めたに近い。

真理と真実とを区別して、大半が後者に過ぎないというのが、ご批判の基調になっています。その中で、規約主義を<部分真実>としています。bragelloneさんの見解からはそうだとしても、彼らが実際に、何を「真理」としてそれを言っているのかの検討は不要なのか。言語に依存するという側面から、相対的・限定的だろうと見るのは可能であるとしても、対象とされる「真理」は果たして相対的と見うるものか。真理・真実の区別の可否に関わらないか。言語を問題とする人たちが語る「真理」とbragelloneさんの「真理」は、真理・真実の区別とも違う、ということはないのか。言い換えると、言語の問題と見るという時点で、「真理」概念がそれまでのものと大きく変わっている、と見られるのではないか。

例えば、bragelloneさんの言う「事実認識」の例で考えてみましょうか。
10kgの鉄球と500gの木の玉とを同時に手を離して、どちらが先に地面に着くか。義務教育の悪い影響を受けていない人なら、鉄球と答えるでしょう。手に持っただけでもう分かる。強い力で引かれているから重い。より強い力はより速い速度を生む。さあ、両手に持って同時に落としてみましょうか。鉄の方が先に地面に着く!
「重たいものは先に落ちる」は真実であっても、真理とは呼ばない、というのがbragelloneさんの「真理・真実」の解釈ですね。それは規約主義にとっても真理ではないだろう。理論「重たいものは先に落ちる」と実験結果とが一致したとしても、理論の蓋然性が増しただけである、としているのではないだろうか。実際の規約主義を知りませんが、おそらく、realな事柄についての「真理」には触れないのではないか。
しかし、ガリレオ・ガリレイにとってはそうではなかった。理論「重たいものは先に落ちる」が、真理であるのか否かは実験によって厳密に検証されるべき事柄だったはず。解明されるべき・解明された自然の法則を、真理と呼ばない方がどうかしている。ガリレオは自然学者で哲学者ではない、などという解釈は西洋の学問を知らない者でしょう。
その理論・実験を「真理の対応説」に填めて、十把一絡げに数え上げたのがウィキペですね。bragelloneさんの見解も、そこにあるのは事象の説明原理として認証されたものに過ぎない、として精々「真実」なのだ、とする。

さて、ヨーロッパ人ではない者として、「真理」と「真実」は分けなければならない言葉なのか。別概念として、現に日本人に在るのか。
哲学なるものを勉強し始めた若者とか、学問を目指そうと目覚めた者なら、「真理を求める」とか何とか思うかも知れない。その時は神棚に奉られるようなものと思っているのかも知れない。しかし少し反省すれば、「真理」を奉るというのは、馬の鼻先に人参をぶら下げるのと同じこと、と分かるのではないか。「真理」なるものがあると思うのも、真理と真実とを区別するのも、その人の自由。私にとっては、先に来るのは「正しい」であって、「それは真理だ」とか「真実だ」などという表現は気取ってみたときしか出てこない。精々、有形であれば「真実」、無形は「真理」、どっちで良いときは「真」と使い分けるか、というところ。
因みに、我が家に神棚はない。

我が家の神棚には、祓い清められたお神札があって、真理とは斯く斯くと書かれている。耶蘇教のお札は捨て、須く各人もこれにならうべし。
という主張になっていないかをちょっと検討しましょうか。ご自身の真理説を正面に打ち出す論考ではないという点は割り引くつもりですが、対質に充分かは問題とします。

ウィキペの説明を利用した、「想定すればよい地点に戻っている」という論法は殆ど無意味でしょう。ウィキペのならべた立場は、何方かの記述を参照したのかも知れませんが、まあ言わば素朴実在論を基とした...続きを読む

Q言葉について

言葉とは人間そのもの、人間と表裏一体だということ、理解できました。

そうすると、人工知能AIの使う言葉は、どのように捉えられるでしょう。プログラミングされた言葉が人を感動させることはあるのか。いわゆる言霊というのは失われてしまうと思うのですが。

それともそういうことがあるのだとすれば、それはプログラミングした人間自身の言葉の反映なのか。
それともAIは自身で言葉を獲得して、詩や短歌、俳句の領域に至るまで凌駕していくのか。

どのように思われますか?

Aベストアンサー

ことばを《ロゴス》として広く捉えた場合 次のように分類できるのではないか
と考えます。

☆☆ ひどっち=ぶらじゅろんぬの定理 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
【Q:ヒラメキとは 人に起きるいかなる現象か】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/10598115.html

〇 ヒラメキの成り立ち (ひどっち=ぶらじゅろんぬの定理)
(または ロゴスの階層 
つまり 《非思考の庭》と《思考の緑野》とのあいだに何が起きるのか) 


 [非思考の庭]
  スピリトゥス=ロゴス(α):クレド(非経験のナゾなる非思考の庭):神
                   ↓
 ----【天使(α’):ロゴス(α)の使い】--------------
                   ↓
 [思考の緑野]            ↓
  インスピレーション=ロゴス(β):異言
       :中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ
                   ↓
  インスピレーション=ロゴス(γ):預言
       :本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間による言葉化
       :概念? 象徴(シンボル)? 世界観じたい?
                   ↓
  ラチオ=ロゴス(δ):コギト=思考〔の緑野〕
       :経験合理性にもとづこうとする論理


   *(註) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

   ・ロゴス:ことば

   ・スピリトゥス:霊。聖霊

   ・クレド( credo = I believe. 我れは信じる)

   ・異言(シャリバリ):意味の分からないことば

   ・預言:解釈。経験思考で分かるように表現する。

    〔もともとは 予言= pro-phetia(予‐言)として成ったことば〕

   ・ラチオ( ratio ):理性

    〔 = reason 。《 re-or =思う・考える・数える》から〕

   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

☆ ロボットや人工知能は インスピレーション=ロゴスつまり ヒラメキとし
ての言葉を受け取ることがあるのか? といったことが気に成ります。

ことばを《ロゴス》として広く捉えた場合 次のように分類できるのではないか
と考えます。

☆☆ ひどっち=ぶらじゅろんぬの定理 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
【Q:ヒラメキとは 人に起きるいかなる現象か】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/10598115.html

〇 ヒラメキの成り立ち (ひどっち=ぶらじゅろんぬの定理)
(または ロゴスの階層 
つまり 《非思考の庭》と《思考の緑野》とのあいだに何が起きるのか) 


 [非思考の庭]
  スピリトゥス=ロゴス(α):クレド(非経験のナゾなる非思考...続きを読む

Qこれまで数千人の命を救ってきた天才外科医1人の命となんの取り柄もないニート50人の命。どっちが大事で

これまで数千人の命を救ってきた天才外科医1人の命となんの取り柄もないニート50人の命。どっちが大事ですか?

Aベストアンサー

政治や経済、そして社会の利益から考えれば、天才外科医1人の命のほうが大事です。

でも、人道的にはどちらも大事、と云うしかありません。

宗教的には、ニート50人の命のほうが大事です。
本質的には、数は関係ありませんが、あえて選択するならと云う事です。
なぜかと云えば、天才はニートよりは理性という点において、数段神に近いという立場を確保しているからです。

だから神は、神にとっての遠い存在である“弱者”への想いが強いのです。

Q公理って何?

再び初歩的質問です。

「公理」を辞典で調べますと、

・数学で、論証がなくても自明の真理として承認され、他の命題の前提となる根本命題。

・論理学で、演繹的理論の出発点として、証明なしに採用される命題。

・現代においては、自明な命題ではなく、理論の前提となる仮定。

等の記述があります。

1.学問がないので、いまいちピンとこないのですが、具体的にはどのようなものがあるの
でしょうか?そして、どう理解したらいいのでしょうか?

2.「理論の前提となる仮定」から組み立てられた理論というものが、自然科学においても
検証されるとはいえ、何故、事実・真実と言えるのでしょうか?

Aベストアンサー

公理で一番有名なのは、平行線公理(平行線公準とも呼ばれる)でしょう。

「一つの直線上にない一点を通ってその直線は一つしかない」

この命題を証明することはできません。以前はこれを証明しようと多くの数学の天才たちが試みました。しかし誰にも証明できなかった。ロバチェフスキーが1829年に『幾何学の新原理並びに平行線の完全な理論』を発表して、彼が1826年に発見した新しい幾何学を提示して、上記の命題が証明不可能な公理であることが明らかになったのです。

ロバチェフスキーは、上記の命題の代わりに

(1)「一つの直線上にない一点を通ってその直線は何本でも引ける」

としても、数学的に無矛盾で閉じた論理体系を構築できることを明らかにしました。それがいわゆる非ユークリッド幾何学の始まりでした。この幾何学で表現されている空間は曲がった空間なのです。

その後に、リーマンが

(2)「一つの直線上にない一点を通ってその直線は一本も引けない」

としても、数学的に無矛盾で閉じた論理体系を構築できることを明らかにしました。この公理(2)が成り立つものとして構築された幾何学をリーマン幾何学と呼びます。一方、上記の公理(1)が成り立つものとして構築された幾何学をロバチェフスキー幾何学と呼びます。

さらに、リーマン幾何学の一つの具体的な例が球面状の幾何学であることもわかるようになりました。その場合この非ユークリッド幾何学を球面幾何学と呼ぶこともあります。

上記の事実の発見は、人類に多大な知的進展をもたらしました。なぜなら、自分の主張の論理的矛盾性をいかに証明しても、それでこの世界が解ったわけではないことが明らかになったからです。例えば、我々が埋め込まれている宇宙が上記のどの幾何学によって記述されている世界なのかは、論述の無矛盾性や整合性をいくら明らかにしても、判定できないことが明らかになったからです。

その判定には必ず実験や観測が必要である。すなわち論理的な理念の整合性に加え、事実はどうなのかを実験や観測で判定しなくてはならない。その判定をするのが自然科学なのです。そして数学は、命題の間の無矛盾性を論じる言語学であり、すなわち人文科学の一つであり、事実を論じる自然科学ではないことが明らかになったのです。

公理で一番有名なのは、平行線公理(平行線公準とも呼ばれる)でしょう。

「一つの直線上にない一点を通ってその直線は一つしかない」

この命題を証明することはできません。以前はこれを証明しようと多くの数学の天才たちが試みました。しかし誰にも証明できなかった。ロバチェフスキーが1829年に『幾何学の新原理並びに平行線の完全な理論』を発表して、彼が1826年に発見した新しい幾何学を提示して、上記の命題が証明不可能な公理であることが明らかになったのです。

ロバチェフスキーは、上記の命題の代わ...続きを読む

Q<大衆は 絶対的に愚かか?>などの投稿をされた常連さんは、今後、この愚かな大衆を相手にして投稿をされ

先日、このカテである常連さんが<大衆は 絶対的に愚かか?>などの投稿をされていらしゃいました。そのことについては、私にはわかりません。
ところで、この常連さんは、今後、このような愚かな大衆を相手にして投稿をされることはない、と思われますか?

Aベストアンサー

ありますよ。
釣り堀りの住人が一生懸命撒き餌していると思えば良いです。

<大衆は 絶対的に愚かか?>
こういう質問の仕方が撒き餌効果アリと考えている。
で、エサを撒いている限り自分のほうが魚より賢いのは確かだと悦に入っているわけです。
他人を貶めることでしか自分の価値を確認できない憐れな輩です。
ま、逆切れして実社会に迷惑かけても困りますし、暇な人が相手してやれば良いかと。
無駄・無意味・不毛につき、賢人は寄り付きません。


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