痔になりやすい生活習慣とは?

高校世界史の質問です。以下の問題の解答、解説をお願いします。

カルタゴについての次の1〜4の文のうち、誤りを含むものを選びなさい。
(1)カルタゴは、北アフリカに建設された。
(2)カルタゴは、西地中海の制海権を握り、多くの地域を支配した。
(3)カルタゴは、紀元前264年から紀元前146年に、3度にわたるポエニ戦争をローマと戦った。
(4)カルタゴの将軍ハンニバルがローマ軍に敗れ、その翌年にカルタゴは滅亡した。

A 回答 (2件)

カルタゴは現在のチュニジアの首都チュニスの近くにあったフェニキア人の古代都市国家。


ハンニバルが活躍した第二次ポエニ戦争(ハンニバル戦争)が紀元前219年から紀元前201年。
ハンニバルが大スキピオに負けたザマの戦いが紀元前202年。
カルタゴの滅亡につながった第三次ポエニ戦争が紀元前149年 から紀元前146年。
ちなみに、「ポエニ」はラテン語でフェニキア人のこと。
あとは自分で調べてね。
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この回答へのお礼

ありがとうございました!

お礼日時:2019/04/26 07:50

基本的に調べればわかると思うんだけどね.

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Aベストアンサー

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Aベストアンサー

文禄慶長の役は征明嚮導とか仮道入明と言われたように、
朝鮮は通り道で秀吉は朝鮮を支配する意志がほぼ無いので
秀吉が朝鮮南部だけ統治するということはまずありません。
ただし、思考実験としての可能性を述べてみます。



文禄・慶長の役で、日本が明の参戦で苦戦に陥って
不利になったのは事実と言えなくはないですが、
文禄の役では碧蹄館の戦いをはじめ、第一次・二次平壌城の戦い
慶長の役では第二次蔚山城の戦い、泗川の戦い、順天の戦い等々
ほとんどの戦いで明(と朝鮮連合軍)には戦術的に勝っています。
ちなみに、文禄の役の時に碧蹄館の戦いで大損害を出した明は、
以後は朝鮮の意向を無視して講和に方針転換しています。
さらに慶長の役が終わった後、明史では

  (前略)喪師數十萬,糜餉數百萬,
  中朝與屬國迄無勝算,至關白死而禍始息
 (明史 朝鮮伝(320巻)26年11月)

  10万の兵を失い、100万の糧食を浪費したけど
  中朝(中国)と属国(朝鮮)には勝算が無かった。
  関白(秀吉)が死んだから終わってくれた。

と書かれていたくらいです。
このように、明とはそれなりの勝負はできているので、
本格的に準備をすればいい勝負はしたと思います。

余談ですが、南原城の戦いで見ても判るように
明は朝鮮南部まで軍を進めています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E5%8E%9F%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
講和がうまくいった場合など、状況にもよりますが、
朝鮮南部だから明が来ないというわけではありません。


日本が勝てなかった理由は兵站が続かなかったから。
(慶長の役を含めるなら秀吉が死んだから)
当時、兵糧はある程度を現地調達するのが常でしたが、
朝鮮はそもそも春窮という言葉があるくらい貧しく、
耕作に適する土地が少ないので収穫は期待できません。
戦時には日本・朝鮮・明がそれぞれ徴発したから
ますます何もなくなりました。
たとえ朝鮮南部に限定して支配しても、
長大な国境線を長期にわたって維持するのは
(明側が意図しなくても)焦土戦術となって
かなりの負担で益は無いと思われます。


ちなみに、今の韓国の歴史認識に惑わされて
朝鮮人は果敢に抵抗した事を憂慮する方が多いようです。
確かに住民の反乱はそれなりにてこずりましたが、
日本が漢城に到着した時、国王は逃走し、町は既に焼かれていて
王子二名を捕虜にしたのは朝鮮人の働きなのは有名な話。
碧蹄館の戦いに先立つ第三次平壌城の戦いで
「日本側の戦死者を調べるとほとんど朝鮮人でした」
というオチが朝鮮王朝実録に書いてあるくらい。
  是日天兵當陣斬獲一千二百八十五級、生擒二名、
  竝擄浙江人張大膳、奪馬二千九百八十五匹、
  救出本國被擄男婦一千二百二十五名。
  (中略)
  李如松 平壤之役、所斬首級、半皆朝鮮之民、
  焚溺萬餘、盡皆朝鮮之民
政策さえ誤らなければ統治できなくはないと思います。

文禄慶長の役は征明嚮導とか仮道入明と言われたように、
朝鮮は通り道で秀吉は朝鮮を支配する意志がほぼ無いので
秀吉が朝鮮南部だけ統治するということはまずありません。
ただし、思考実験としての可能性を述べてみます。



文禄・慶長の役で、日本が明の参戦で苦戦に陥って
不利になったのは事実と言えなくはないですが、
文禄の役では碧蹄館の戦いをはじめ、第一次・二次平壌城の戦い
慶長の役では第二次蔚山城の戦い、泗川の戦い、順天の戦い等々
ほとんどの戦いで明(と朝鮮連合軍)には戦術的に勝っていま...続きを読む

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Q世の中って時が経つほど当たり前のように技術が進歩するのでしょうか?

世の中って時が経つほど当たり前のように技術が進歩するのでしょうか?

ㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤ

反例を挙げてみたいと思います。


古代ローマ帝国は上下水道を完備してましたが、近代ヨーロッパになると、し尿を直接川に流したりして伝染病を蔓延させていました。


また2000年以上前の、ギリシャの賢人たちは地球が丸い事も地球が太陽の周りを回ってる事も知っていましたが、17世紀頃のヨーロッパでは聖書が幅を利かせて天動説がまかり通っていました。

Aベストアンサー

世の中って時が経つほど当たり前のように技術が進歩するのでしょうか?
 ↑
そんなことはありません。
石器時代の何万年の間は、技術など
ほとんど進歩しませんでした。
技術が急速に進歩し始めたのは、ここ数百年の
間です。

ㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤㅤ

古代ローマ帝国は上下水道を完備してましたが、近代ヨーロッパになると、
し尿を直接川に流したりして伝染病を蔓延させていました。
また2000年以上前の、ギリシャの賢人たちは地球が丸い事も地球が太陽の周りを
回ってる事も知っていましたが、
17世紀頃のヨーロッパでは聖書が幅を利かせて天動説がまかり通っていました。
  ↑
技術の進歩は直線的でないこともありますよ。
ジグザグで進むこともあります。
しかし、長期的にみれば進歩しています。

Q日本史上、最後の「介錯」はいつでしょうか。

介錯というのは切腹した人の首を切り落とす行為であり、現代だとモロに殺人罪にあたります。

しかしながら、歴史上、介錯人が悪人とされたことはほとんどなく、苦しまずに自殺するための温情ある行為とされてきたことが多いです。

介錯は明治維新後にも行われており、西南戦争に敗北した西郷隆盛も介錯されているところですが、それでは、日本で最後に行われた介錯はいつ、どこであったものでしょうか?

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それとも、第二次世界大戦の頃にも介錯があったりしたのでしょうか。
自殺者は今も多いですが、さすがに戦後日本で介錯は行われていないように思いますが、どうでしょう。

Aベストアンサー

大戦中はむしろかなりの数が行われています。
例えば沖縄戦では牛島満と長勇が6月23日に
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逆に、特攻の生みの親と言われた大西瀧治郎や
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自刃するときに介錯を断っています。

Qなぜ日本では儒学が悪魔崇拝的な悪者として扱われているのですか?

なぜ日本では儒学が悪魔崇拝的な悪者として扱われているのですか?

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石平さんですか。

扱われていませんよ。


儒教の悪いところはいくつかあります。
1,周が最高、と言うように過去に遡れば遡るほど
 良い。
 これでは進歩発展は望めません。
2,儒教は、国家を家族のようにしようとしました。
 しかし、この考えを現実に当てはめたら
 家族、一族の利益を図ろうとするだけに
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儒教は中国発祥ですが、中国はサイズが
大きいので下々にまで浸透しませんでした。

しかし、韓国は小さいので、末端まで
儒教に染まりました。

日本は海に隔てられていたので、儒教は
単なる教養になりました。

こうした違いが日本と中韓の違いになったのだ
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Q4~6世紀は大阪府南部に日本(倭)の首都があったのは確実ですか?

4~6世紀というと古墳時代の真っ只中ですが、大阪府南部の堺市から羽曳野市にかけて巨大な古墳が集中しています。

古墳は日本全国に散在していますが、大阪府南部の古墳は特に大きく、巨大な権力を持つ者によって建造されたのは確実だと思われます。おそらく全国レベルで影響力を持った者でしょう。

当時は陸上の移動方法が徒歩か馬しかなく、宮殿からそこまで離れた場所に古墳を造らなかったと思われるので、大阪府南部(おそらく大阪市南部か堺市のどこかの場所)に全国規模、狭くても中国地方から東海地方までを勢力範囲とする政権(大和か倭)の首都が存在したと考えてよいでしょうか。

巨大古墳という、これ以上ないほどのその存在を示す証拠があるわけですから。

Aベストアンサー

大阪南部に、その古墳を作る程度に力を持った権力者がいた、というところまでは正しいでしょう。

しかし、それが「日本(倭)の首都」であったという根拠は明確でありません。
「全国レベル」ということも、「全国」の定義も不明確で、「全国レベルで影響力を持った者でしょう。」ということもあなたの推測です。

4~6世紀ほぼ同時期には、大阪府南部だけでなく岡山県吉備地区、奈良県奈良市・天理市・桜井市にも巨大古墳は多数あります。
また日本書紀には、5世紀の岡山吉備地区の有力集団の記載がありますが、彼らが大阪南部勢力に従属していた根拠はありません。(敵対していたという記載もあるようです。)
これらの複数地区が全て単一権力の支配下にあったという証拠は無く、ゆるいつながりをもった地方権力の並列性であった可能性もあります。
であれば、単一権力による中央集権制では無く、首都という言葉とはややずれます。

また、「大阪府南部に日本(倭)の首都があった」根拠として、あなたが示されているのは「大阪府南部の堺市から羽曳野市にかけて巨大な古墳が集中」という事実と、「宮殿からそこまで離れた場所に古墳を造らなかったと思われる」という推測ですが、後者を裏付ける根拠が必要です。(あえて宮殿から離れた場所に古墳を作った可能性も排除できません。)
上述のような古墳の大阪南部・奈良・岡山と広がる広範な分布は、単一権力大阪南部存在説では説明困難です。

もちろん、「4~6世紀は大阪府南部に日本(倭)の首都があった」可能性はあります。
4~6世紀大型建造物であれば、土台構造物(穴や柱石など)などの遺構が残ります。
それによって、古代都市そのものを確定し、さらには政治形態を確定、首都と定義なども必要で、お示しされた根拠だけを理由に「4~6世紀は大阪府南部に日本(倭)の首都があった」と確定するのはやや無理があるでしょう。

参考までに巨大古墳を20位までお示しします。
5位までに大阪南部が多いことは事実ですが、同時期に岡山にもあり、20位までで考えれば奈良にけっこう後半に分布しています。
この分布をみると初期大和朝廷は天皇ごとに宮殿を変えていた説、有力豪族並列説(吉備勢力など)などに説得力があり、現在我々が想定するような首都というもの存在に疑問が生じます。

1 大仙陵古墳 大阪府堺市大仙町 中期 486m 仁徳天皇陵
2 誉田御廟山古墳 大阪府羽曳野市誉田 中期 425m 応神天皇陵
3 石津ヶ丘古墳 大阪府堺市石津ケ丘 中期 360m 履中天皇陵
4 造山古墳 岡山県岡山市新庄下 中期 360m
5 河内大塚古墳 大阪府松原市西大塚・羽曳野市南恵我之荘 330m
6 見瀬丸山古墳 奈良県橿原市見瀬町・五条野町・大軽町 後期 310m
7 渋谷向山古墳 奈良県天理市渋谷町 前期 300m 景行天皇陵
8 土師ニサンザイ古墳 大阪府堺市百舌鳥西之町 中期 290m
9 作山古墳 岡山県総社市三須 中期 286m
10 仲ツ山古墳 大阪府藤井寺市沢田 中期 286m 仲津媛皇后陵
11 箸墓古墳 奈良県桜井市箸中 前期 278m 倭迩連日百襲姫大市墓
12 五社神古墳 奈良県奈良市山陵町 前期 275m 神功皇后陵
13 ウワナベ古墳 奈良県奈良市法華寺町 中期 255m
14 市庭古墳 奈良県奈良市佐紀町 中期 250m 平城天皇陵
15 メスリ山古墳 奈良県桜井市高田・上之宮 前期 250m
16 行燈山古墳 奈良県天理市柳本町 前期 242m 崇神天皇陵
17 岡ミサンザイ古墳 大阪府藤井寺市藤井寺 後期 242m 仲哀天皇陵
18 室宮山古墳 奈良県御所市室 中期 238m
19 市野山古墳 大阪府藤井寺市国府 中期 230m 允恭天皇陵
20 宝来山古墳 奈良県奈良市尼ケ辻町 前期 227m 垂仁天皇陵

大阪南部に、その古墳を作る程度に力を持った権力者がいた、というところまでは正しいでしょう。

しかし、それが「日本(倭)の首都」であったという根拠は明確でありません。
「全国レベル」ということも、「全国」の定義も不明確で、「全国レベルで影響力を持った者でしょう。」ということもあなたの推測です。

4~6世紀ほぼ同時期には、大阪府南部だけでなく岡山県吉備地区、奈良県奈良市・天理市・桜井市にも巨大古墳は多数あります。
また日本書紀には、5世紀の岡山吉備地区の有力集団の記載がありますが...続きを読む

Q徳川家康や秀忠は明を征服しようと思わなかったのですか?

魏忠賢などの悪臣の専横によって乱れきった明朝の末期は徳川家康・秀忠が将軍だった頃であり、鎖国も行っていませんでした。
結果的に明は女真族という辺境の弱小民族によって征服されてしまうわけですが、徳川幕府がその気になれば明を征服するのは容易だったはずなのに、家康や秀忠は明を征服しようと思わなかったのでしょうか?

秀吉の朝鮮出兵の頃は、明もまだ弱体化が進んでいない頃でしたが、その頃とは比較にならないほど弱体化が進んでいたので。

Aベストアンサー

そんなこと、これっぽっちも考えていないと思います。
理由は簡単です。秀吉の朝鮮侵略の悲惨な結果を知っているからです。

日本の戦国時代を代表する武将の中で秀吉だけは異質ですが、それは彼が商人、現代風に言えば経済人の感覚を持っていたからです。当時の日本の経済発展のためには領土の拡大が欠かせなかったと思います。
まあ、しかし、他国への侵略という点においては、身の程を知らないというか、世界を知らないというかバカですね。先進的な欧州の植民地化の手法と比較すると幼稚極まりないと思います。
そういえば、そんなバカが過去にもいました。それは、日出る国の聖徳太子です。この時に現地で中国側と交渉した人物は秀吉の時と全く同じことをしています。現地で先進的な大国の実状を知って、日本側のトップの顔をつぶさないようにして、二枚舌で収拾するという方法です。

徳川家康は、豊臣秀吉の朝鮮侵略の失敗を教訓として300年続く日本の平和な時代の仕組みを作ります。限られた領土で平和を維持するために、大名の取り潰しや、参勤交代などの仕組みをつくりますが、政治的なシステム以外に庶民が作り上げたシステムもあります。それは、徳川300年の間に人口が全く増加していない事実から導かれます。

家康と秀忠は秀吉と同時代に生きていたので、二度とアホなことはしませんでしたが、その教訓を忘れてしまった平和ボケの人々は、明治に入って中国侵略を開始しますが、秀吉の朝鮮侵略から得られた軍事的な反省をなにひとつしていなかったため、最後は悲惨な結果になっています。
日清日露戦争は短期間の戦争であり、当時の日本は、欧米の先進的な兵器に関する各種技術を導入していたため、時代遅れの兵器相手に勝てるのは当然ですが、先進的な欧米諸国ではすでに確立していた兵站システムが全く構築されていなかったことが、日本の決定的な弱点と言うか特性なのだろうと思います。

そんなこと、これっぽっちも考えていないと思います。
理由は簡単です。秀吉の朝鮮侵略の悲惨な結果を知っているからです。

日本の戦国時代を代表する武将の中で秀吉だけは異質ですが、それは彼が商人、現代風に言えば経済人の感覚を持っていたからです。当時の日本の経済発展のためには領土の拡大が欠かせなかったと思います。
まあ、しかし、他国への侵略という点においては、身の程を知らないというか、世界を知らないというかバカですね。先進的な欧州の植民地化の手法と比較すると幼稚極まりないと思います...続きを読む

Q歴史についての質問なのですが、三国協商の加盟国を答える問題でロシア帝国と答えたらバツにされました。そ

歴史についての質問なのですが、三国協商の加盟国を答える問題でロシア帝国と答えたらバツにされました。それで、何故かと質問したらロシア帝国は存在しないみたいな事を言われました。どういう意味ですか?

Aベストアンサー

おかしいですね。

三国協商とはドイツ帝国の勃興に対抗して。イギリス・フランス・ロシア帝国の各国の間で締結された、
露仏同盟・英露協商・英仏協商によって作られた三国の協調関係を指した言葉とされていますよ。

ロシアは第一次世界大戦中にロシア革命がおこりますが、それまでは帝国です。

三国協商(ウィキ)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%8D%94%E5%95%86


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