【復活求む!】惜しくも解散してしまったバンド|J-ROCK編 >>

野矢茂樹先生の話を聞いて、哲学というものは哲学者たちの
大変に深い思索の元に成り立っているものだということを改
めて感じました。

哲学をかじり始めて実質まだ少ししかたっていない初級者の
私にとって、一つ一つ確実に納得して勉強してゆくことが、
哲学者たちの苦闘の末の結論(間違っていたとしても)の真意
に触れることのできる道であると思っています。

さて、「価値」ということを考え始めているのですが、これを
辞書で引いてみますと、

『(哲)評価主体と対象との間に生ずる、吸引するか、もしくは反撥
するところの情的関係性または関係力のこと。』

とありました。
分かったような、分からないような文章です、私にとって。

1.哲学的な「価値」とは要するにどういうことですか?

2.また、辞書には『あらゆる個人、社会を通じて常に承認されるべき
絶対性を持った性質、真善美など。』とあります。
この、真善美が何故普遍性を持った価値とされているのでしょうか?

3.この三つの中の「真」というものは認識の問題に思えます。これを
価値とすると、なんだか分からなくなります。どう考えたらよいので
しょうか?

※真善美についての質問が立っていますが、背伸びして回答すること
は、やめることにしました。

「価値について」の質問画像

質問者からの補足コメント

  • bragelloneさん、こちらが返信する前に、どんどん送信するのを
    遠慮していただけますか?
    大量の文章に対応するのが大変で、論点がどんどん増えて、収集
    つかなくなることが、以前もありましたでしょう?

      補足日時:2019/04/28 02:43
  • お礼の順番が多少前後します、ご了承のほど。

      補足日時:2019/04/29 11:46
  • 質問文に添付された写真は何だと思われた方もおられたと思いますが、
    これは、百数十年前に来日した外国人が撮った写真です。

    瞽女(盲目の女芸人)と言われた人です。

    私はこの写真が美しいと思いました。感動に近いですね。彼女の唄を
    聴いてみたいと思いました。

    「価値について」の補足画像3
      補足日時:2019/04/29 13:09
  • うーん・・・

    №2.8さん、お礼が遅くなっているのは、一つは、相手の都合も考えましょうよ、
    ということを言いたかったことと、出かけていたということ、なのでありまして、
    どうか、お気を悪くなされませんように。

      補足日時:2019/05/01 17:41

A 回答 (16件中1~10件)

no12のお礼へ。


ありがとうございます。

ちなみに「わるい」は存在していない、と直感でそう思います。
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☆☆ >1. 〔《価値》とは〕最広義の定義としては 主観にとって気になる


すべてのものごとです

★(№2お礼欄) 「情的関係性」ということですね。

☆ 哲学の対話としては 《論理的に気になる》場合もあります――と もろ
に嫌われる応答をするものと思います。


★ 2. プラトンはそう考えたということですね。その流れで、そうなってい
るということですね?
☆ 《イデア》を表に出さないアリストテレスの場合もそれは たとえば《第
一原因》というふうに言いかえているだけだとも見られます。

しかし 概念の内容が違っているではないか? ――そのとおりだと思います
が 《絶対性》の問題としては 変わりないとも見られます。


★ 3. 何を仰っているかわかりません。
☆ そうですか。

★ 例えば、「この赤い物体はリンゴである」ーこれは真理ですよね?
☆ 事実認識としての真です。

経験事象について――ということは 身の感性か心の理性かで認識しうるとい
う規定(前提)のもとにということですが―― それぞれの主観が認識したそ
の内容が おおむね事象(事実)と合っていたということ これをここで《真》
と呼んでいます。

重ねて述べるならば 任意のひとりの人間の或る主観が 《「この赤い物体は
リンゴである」》と認識しているとき その内容がほかの人間によっても ま
ちがいなさそうだと見て共有されうる場合 その或るひとつの主観真実は 人
びとによって共同化がなされます。

コモンセンス・常識というものになります。





げんみつに表現するとき 認識のあり方について 次のように見ることに成る
と思います。

(あ) 経験事象についての認識・・・・・・主観真実とその共同化

(い) 超経験についての認識(?)・・・・認識しうるかどうか人間の知性
               ではおぼつかないので 仮りに《真理》とい
               う言葉をあてる。


☆ そして 《絶対》という言葉が 定義にもとづく本来の用法とは別に 移
ろいゆかざるを得ない経験事象にも派生的に使われることがあります。間違い
の可能性のある場合でも おのれの確信の強さを示すために 《絶対 間違い
ない!》と使うような場合です。

それと同じように 《真理》も 超経験(=絶対性)とは別に 相対的な確か
さや正しさのことをも――つまり 共同主観をも―― 《真理》という言葉で
表わすことが ひんぱんにあります。


★ 「この赤い物体はリンゴである」ーこれは真理ですよね?
☆ そのとおりです。たしかな主観真実です。




★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
(う) 私(評価する主体)とリンゴとの間に生ずる、情的関係性または関係力、
が価値ですから、

(え) 「リンゴが赤くて可愛らしい」というのは「美」であり、私にとって
価値になると言うのは納得できます。

(お) また、「食べれば美味しくて、栄養がある」というのも私にとって価
値です。

(か) しかし、「これはリンゴである」という真理は、認識の問題であり、
価値ではないではないか ということの疑問です。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

☆ 事実認識としての主観真実を《基礎》として それを鑑賞したり それを
食用にしようかと思ったりします。基礎が(基礎も) 大事ではないでしょう
か。

つまり確かに ものごとを知ろうとするとき やはりふたつの段階があります。
先ほどの《(あ) 経験事象についての認識》の際に 段階を踏みます。

主観としての好き嫌いや良し悪しの判断をなるべく抑えて そのものが何であ
るか〔だけ〕を知る場合が 第一段階でしょう。

もうお分かりだと思いますが そのあと第二段階として 自分の主観としての
好みや思想――つまり価値観――に沿ってその事実認識をまとめ上げる。



従いまして 《価値であるかないか》は ものの見方によっていると言えます。



主観の片寄りを減らし良し悪しの判定をひとまづ禁欲して 事実認識だけをお
こなう段階の《真》は まさしく価値判断を抜きにしているからには 《価値
ではない》と言えます。

そして その《価値自由な認識〔としての主観真実〕》は ほかの事実認識に
も実際には基礎となりますし 禁欲していた好みを発揮し思想を展開するとき
にも 基礎となって行きます。

――そういう意味では 《没価値な認識》も 価値を潜在的に持っていて利活
用され得ます

大きく全体として捉えるなら 価値をともなう世界観の中に 価値中立の認識
もおさまっています。《基礎》が重要であるならば――たしかに重要でありま
すから―― ちょっと飛躍して言うとすれば:

▲ 真理は きみたちを自由にする。

☆ と言われます。そこで ムッシュー(または マダム)真理という存在の
おとぎ話が出て来ます。

ミス真理のコンテストなら たのしいかも知れません。
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見出だすこと



かな?
( ̄ー ̄)ニャリ
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この回答へのお礼

>見出だすこと

ユラリ…

お礼日時:2019/05/01 18:16

明日のジョー すきよ

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この回答へのお礼

おう。

お礼日時:2019/05/01 18:13

価値とは「よい」。



私の回答に足りないもの。
あなたへの回答に求められる要件。
あなたへの回答を避けるべき人。

決定的なポイントに私は合格しているでしょうか?
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この回答へのお礼

ブロックされたら、失格と言えるでしょうね。

私も二三度、失格扱いをされたことがあります。

>価値とは「よい」

反価値は「わるい」ですね?

お礼日時:2019/05/01 18:13

難しいことはわかりませんが、面白そうなので勉強させてもらうつもりでお邪魔いたします。


ど素人ですので、基本的に個人的感覚や解釈に終始することになると思いますので、お含みおきください。

>1.哲学的な「価値」とは要するにどういうことですか?

『(哲)評価主体と対象との間に生ずる、吸引するか、もしくは反撥
するところの情的関係性または関係力のこと。』
ということから考えると、どんなものにも価値はある、ということになりそうな気がします。
その人が価値があると想いさえすれば、それが価値足り得ると。

>2.また、辞書には『あらゆる個人、社会を通じて常に承認されるべき
絶対性を持った性質、真善美など。』とあります。
この、真善美が何故普遍性を持った価値とされているのでしょうか?

よく耳にするカントの純粋悟性概念(カテゴリー)は、真善美を含めた認識というものが、一定の規範にもとづいて行われているはずだと考えたものなのだと思います。
因果性・必然性・可能性・実在性などについて、悟性が妥当に発揮されるならば(同じ人間である以上、)ある対象に関しては基本的に同一の評価が為されるはずだ、ということなのかもしれません。
その意味で「普遍性を持った価値」なのかな、と。
悟性が発揮される基準がカテゴリーなのでしょう。

>3.この三つの中の「真」というものは認識の問題に思えます。これを
価値とすると、なんだか分からなくなります。どう考えたらよいので
しょうか?

大辞泉の語釈のようですが、ご参考までに大辞林では以下のように。

※善きもの・望ましいものとして認め、その実現を期待するもの。内在的なもの・手段的なものなどにわかれるが、特に、真・善・美など、普遍妥当性をもった理想的・絶対的価値をいう。※

【認め、その実現を期待する(もの)】なので、おっしゃるように『認識の問題』なのでしょう。
「真」を辞書で引くと、
・うそや偽りでないこと。にせものでないこと。本当。真実。ほんもの。
・道理として正しいこと。
・まじめなこと。真剣なこと。また、そのさま。
・論理学で、ある命題が事実と一致すること。
のような語釈になっています。
先のカテゴリーにも関連してくるでしょうが、こうした概念は、誰であっても【善きもの・望ましいものとして認め、その実現を期待するもの】として認識するように思われます。
なので、【普遍妥当性をもった理想的・絶対的価値】を持つ、と注釈されてもいるのでしょう。


客観的に承認可能な主観というものはある、ということかなと考えてみました。
割り込みされて嬉しい人はいないでしょうし、小さい子が殴られているのを見て楽しく感じる人はいないはずです。
一方、9.11はムスリムにとっては真だったのだと思います。
彼らにとっては「道理として正しいこと」であったが米国にとっては違った。
「真」が【普遍妥当性をもった理想的・絶対的価値】を持つとは言っても、それをどのように現実世界に適用させるのか、ということは、また別の問題だということになるのですかね。
カントはカテゴリーの妥当性について演繹的に説明しているようですが、それはそれとして、このように考えてくると、どうも検証することの重要性を感じます。
それが、本当に【普遍妥当性をもった理想的・絶対的価値】と言えるのかどうか。
カントは、そんなものを求めること自体が誤りだと言っているようですが、この点について限りない検証を繰り返すことで、帰納的に「普遍的な真善美」に近づいていくしかないのかもしれない。
Mokuzo100nen さんあたりが、もう一歩踏み込んで解説してくれると有難いですけどね。
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野矢さんは、とても良い哲学者と思います。



哲学学者が跋扈する日本国哲学村の中で、彼は少数のphilosopherかも知れません。

哲学の問いの中心からは偏心していると思いますが、「言語学の教室」中公新書を読むと、野矢さんが哲学学者ではなく、1philosopherとして言語に関してphilosophierenしているところが分かります。

真善美に関してはカントを読まずに語れないのも事実ですが、それ以外の問題に関しても積極的に哲学する方だと思います。
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この回答へのお礼

Mokuzoさんも、よく勉強しておられるようですね。

確かに、「哲学学」をやっている人は多く、純粋に「哲学している」人は少ない
のかも知れません。

私は断然、「哲学すること」に興味があります。

お礼日時:2019/04/29 13:33

哲学においても人間にとっての価値は生存して未来の存在を実現する事です。



簡単に言うと存在する事が価値です。

真善美は存在を盛り立てる為に在ります。存在が充実して確かなものに成るのです。

真 真実・真理はエネルギーや性質ををコントロールして存在する為に必要な知識です。
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この回答へのお礼

『(哲)評価主体と対象との間に生ずる、吸引するか、もしくは反撥
するところの情的関係性または関係力のこと。』

とありますように、従来、西洋哲学では、評価主体と対象の「関係性」
において価値が生ずる、と考えているようです。

その考え方から見れば、存在自体が価値である、とするのは「的外れ」
に思えます。

しかし、私は単に的外れだとは考えたくありません。

西洋の哲学者たちが考えた「価値」とは、また「存在」とは一体何か?
まだまだ見えていないからです。

つまり、存在自体が価値であるとすることの、何が間違いなのかが分か
らないということです。

お礼日時:2019/04/29 13:24

№2です。

じつは 部分観に終わってしまう議論だったのですが。・・・


プラトンのイデア説は たとえばデカルトが引き継ぎ 神の観念として
存在論および/または認識論に摂り込みました。


これを P. ガッサンディが批判します。

▲ 唯物論者ガッサンディによるデカルト批判と生得観念の全面的否定
https://information-station.xyz/7005.html

デカルトの神の存在証明においては、無限性や完全性といった観念や、
そうした観念の源泉である神の観念は、あらゆる感覚や経験を超越して、
それらに先立って先天的に人間の知性の内に存在する生得観念であると
主張されることになりますが、

それに対して、

デカルトの批判者であるガッサンディは、知性の内にあるすべてのもの
は、先に感覚の内にあったものであって、

すべての観念は、感覚を通して得られた様々な具体的な経験に対して、
複合・分割・拡大・縮小・比較といった様々な作用が加えられることに
よって後天的に形成されていくものに過ぎないと主張することになるの
です。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


☆ 神の観念 これが人間の自然本性にやどる(つまり 《生得観念》)
という見方と そして いやいやすべてのものごとは 世界との接触に
おける感覚をとおしての知覚またその認識であるという見方 これら両
説が対立しました。


カントは これらをニで割ってその真ん中の見方を採りました。


▲ カントの認識論におけるア・プリオリな形式と生得観念との関係
https://information-station.xyz/7050.html

カントの場合は、〔そうした〕あらゆる認識や観念を形成するための条
件となる知性の働き自体は、もはや、何らかの具体的なイメージや内容
を持った観念ではあり得ず、それは、それ自体はいかなる内容も持たず
に、空虚な形式としてのみ存在すると考え、

具体的には、感性における直観としての時間と空間という二つの形式や、
悟性(知性)における量・質・関係・様相といった認識のカテゴリー形
式がそうした人間の認識におけるア・プリオリな形式として捉えられて
いくことになります。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

☆ 神なる観念〔とそれに連なる知性の像〕は放棄し ただし感性なる
現象べったりとなることを避け 感性や身体に先立つ( アプリオリな )
《認識のカテゴリ形式》を推し出したようです。


これについてわたしはワケが分からないので 個人的な見方としてはそ
の後 ヘーゲルが 《世界精神(霊としての神)と人間の自然本性との
一体》 あるいはつまり 《〈無限と有限との一体性〉なる人間存在 》
の像を推し出したのだと捉えます。




これは類型として 《梵我一如》ないし《仏仏一如》の説だと考えます。

《真善美》は 霊我(アートマン)または仏性(ブッダター)なる霊性
と そして その仮象としての経験的・具体的な――真偽・善悪・美醜
に分かれる実際の――事象との二層の構造において捉えられます。

《価値》は マイナスのそれをも含めるならば これらの現象のすべて
のものごとを言うことになると思います。
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この手の質問は、


理解するとは何かを理解出来ている事が前提。
、というのは釈迦に説法でしょうか?
「価値について」の回答画像7
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この回答へのお礼

理解すること、あるいは認識すること、とは何か?

以前考えたことがあります。考えるたびに深まっているとは思いますが、
私はあらゆる概念が「無限」の広がりを持っているのではないかと考えて
います。

「絶対」「完璧」という概念は、私は「北極星」のようなものだと思って
います。
仮に、「北極星」の視点から見たら、すべての人が未熟、ということにな
るでしょうから、少々先を行くものが偉いということもないですし、また
自分が偉いというのは慢心ですね。

ただ、人に対しては「敬意」を持った方が、幸せになれると思っています。

お礼日時:2019/04/29 12:51

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ことばを《ロゴス》として広く捉えた場合 次のように分類できるのではないか
と考えます。

☆☆ ひどっち=ぶらじゅろんぬの定理 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
【Q:ヒラメキとは 人に起きるいかなる現象か】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/10598115.html

〇 ヒラメキの成り立ち (ひどっち=ぶらじゅろんぬの定理)
(または ロゴスの階層 
つまり 《非思考の庭》と《思考の緑野》とのあいだに何が起きるのか) 


 [非思考の庭]
  スピリトゥス=ロゴス(α):クレド(非経験のナゾなる非思考の庭):神
                   ↓
 ----【天使(α’):ロゴス(α)の使い】--------------
                   ↓
 [思考の緑野]            ↓
  インスピレーション=ロゴス(β):異言
       :中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ
                   ↓
  インスピレーション=ロゴス(γ):預言
       :本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間による言葉化
       :概念? 象徴(シンボル)? 世界観じたい?
                   ↓
  ラチオ=ロゴス(δ):コギト=思考〔の緑野〕
       :経験合理性にもとづこうとする論理


   *(註) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

   ・ロゴス:ことば

   ・スピリトゥス:霊。聖霊

   ・クレド( credo = I believe. 我れは信じる)

   ・異言(シャリバリ):意味の分からないことば

   ・預言:解釈。経験思考で分かるように表現する。

    〔もともとは 予言= pro-phetia(予‐言)として成ったことば〕

   ・ラチオ( ratio ):理性

    〔 = reason 。《 re-or =思う・考える・数える》から〕

   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

☆ ロボットや人工知能は インスピレーション=ロゴスつまり ヒラメキとし
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☆☆ ひどっち=ぶらじゅろんぬの定理 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
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1. 民主制では わざわざクウキを読む必要はなく クウキをかたちづくる
必要もない。それこそ民主制の雰囲気は 空気のようなものだ。

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それに従えという意味でのクウキは このいわば白紙であるという意味での空
気のさらに上に別の訴える手段を持ちこもうとした結果状態であり その手段
じたいであるだろう。

3. いろんな意味での党派の意向を 民主的な対話や話し合いという過程の
中に持ち込み人びとを丸め込もうとするときの思潮やまた圧力と感じられもす
る雰囲気のことである。

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の陰といった《アマアガリ・シンドローム(公民アマテラスへの出世指向)》
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5. あるいはそのアマテラス公民のおこなうことは《あやまち得ない》とい
う無謬性なる神話が浸透していて アマテラス公民を無条件に信奉するという
《アマテラス予備軍症候群》がしばしば見られる。

6. これらの風潮がはびこっている――と ようやくその権威づけられた威
光がやや落ち目になってきた今 あらためて取り上げてみよう。

6-1. つまり この《伝統》なる風潮を読まないという KY は じつは 
未来社会への旗手である。

6-2. 引き籠もりは クウキに対する志向性に関する限り すでにいまシ
ャッターが押されて陰画として現われた未来社会の風景である。

7. たぶんその場合にも KY はダメだと言われるときのクウキはそれをも
読むことだけは読んでおいたほうがよいはずだが 読んだ結果として KY と
いう現象が起きても構わないし 起きたほうがひとは よりいっそう自由であ
る。

☆ どう考えますか?




8. なお最後にですが あらためて定義です。:

  ○ KY の定義 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  広い意味での会議において 会議としての意志決定をするときに 
  言論をとおしてというかたちを超えて 
  おもにヨリ高い権限を有する者の意向を人々がすでに汲み取って
  ――必ずしもまだ発言されていなくとも噂で流されているところの
  意向をすでに忖度して―― 
  多くの参加者の意向がそれになびいていくとき 
  そのような同調という風潮を意に介さない傾向および志向性。
  
 ○ ニートや引き籠もりは そのクウキなる風潮に生理的にさえ嫌悪
  をも催す現象の結果あらわれる状態ではないか。また 佐渡へ佐渡
  へと草木もなびく群れを目の前に見せられては やってらんないよ
  と言った状態。

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

1. 民主制では わざわざクウキを読む必要はなく クウキをかたちづくる
必要もない。それこそ民主制の雰囲気は 空気のようなものだ。

2. ところが 日本人にあるまじき KY だ・ニートだと言って それを読め・
それに従えという意味でのクウキは このいわば白紙であるという意味での空
気のさらに上に別の訴える手段を持ちこもうとした結果状態であり その手段
じたいであるだろう。

3. いろんな意味での党派の意向を 民主的な対話や話し合いという過程の
中に持ち込み人びとを丸め込も...続きを読む

Aベストアンサー

パチパチパチ。

Q人間が人間を超えるものをつくること

たとえば、情報工学の先端でAIの研究に携わっているとしましょう。
すべてにおいて人間を超える可能性を秘めているものを対象として目の前におくとき、主観は常に対象を客観視できるでしょうか。
人間が人間を超えるものをつくる、ということは、あえて極論を言いますと、人間が人間を滅ぼすというポテンシャルを含み持つことです。
IT化による効率性、利便性は今や否定できません。
ITシステムが修正を繰り返し生き延びる様は人間のようであり、自ら学習を重ねて賢くなる人工知能AIはいつか人間を超える存在になると言われます。
そのようになると想定される場合に、果たして人間は冷静に客観である対象に向き合えるものでしょうか。それとも、専門家のあいだでは人間を超えることはないという根拠があるから、冷静に研究開発を続けられるのでしょうか。
もしそうならば、それを開示して世の中の不安も同時に払拭していく責任も同時にあると思うのですが、皆様はどのように思われますか?

Aベストアンサー

#14です。お礼ありがとうございます。

>ああ、私たちはいつになったら悟るのだろう
人間を失ったことを

頭のいい人たちはすでに19世紀初頭に警鐘を鳴らしていますよ。
たとえばJ・J・トールキンは「人間らしさ」を「自然(精霊や斎もの)との交流と恐れが人間の本質である」としてそれが失われる前に指輪物語を書きました。指輪物語で人間以外が西の国に行ってしまうのは、まさに19世紀が「機械に人間が乗っ取られ、人間性を失う時期」だったからです。

同様にラフカディオ・ハーンは日本に来て「まだ人間性が残っている今のうちに記録を残そう」と小泉八雲として様々な小説を著作しました。

「メトロポリス」なんていうデストピアを描いた映画もありましたね。

どれも19世紀末から20世紀初頭の作品で、この辺りが機械を発明した第一世代から、機械と共存する第二世代に変わった時期なのでしょう。それから先はコンピューターでもAIでも機械化の延長にすぎないわけです。

人間のほとんどは「科学文明と共に生きること」を選んだのです。そのほうが「犠牲はあるかもしれないが、少なくとも自然の中で恐れて生きているよりは幸せである」と考えたからです。

実際、20世紀の科学進歩はすさまじく、それ以前の不治の病とされた天然痘は撲滅、ペストなどは激減、結核は治るようになり、飛行機を使えば1日で世界一周できるようになりました。機械を使うことによる犠牲者はあるものの、全体で見れば「機械のおかげで人は死ななくなった」のです。

ですから、今後もAI化などは「ほとんどの人が疑問を持たずに」進んでいくのだと思います。でも結局人間はそれで幸せなんだと思いますよ。

私には子供が居ますが、20世紀初頭の乳幼児の死亡率は50%以上だったわけです。つまり10人産んでも5人しか残らない社会で、ほとんどの人が「長生きできなかった兄弟」を背負って生きていたわけです。父母の、特に母親が自分でお腹を痛めた子を失う辛さと残酷さは悲劇以上のものだったでしょうが、たった100年前はそれが普通だったわけです。

今は乳幼児の死亡率は先進国なら数パーセントしかありません。

私は「人類が科学技術を捨てて『人間性を取り戻す』ことを望むのか?」と聞かれればNOだと思います。その代り人間は「機械とうまく付き合っていく」しか道はないのだと思います。

>人間はAIの奴隷。モルモット。

人間は自分で機械・技術の檻の中を選んだのです。アマゾンや砂漠地帯など一部の人間たちは拒否しています。ああ、インドに「文明を受け付けない島」があるようですが、そういう人たちはまだ「人間」なのでしょう。

でもほとんどの人間は自分たちで望んで、機械・技術に守られることを選んだのです。

#14です。お礼ありがとうございます。

>ああ、私たちはいつになったら悟るのだろう
人間を失ったことを

頭のいい人たちはすでに19世紀初頭に警鐘を鳴らしていますよ。
たとえばJ・J・トールキンは「人間らしさ」を「自然(精霊や斎もの)との交流と恐れが人間の本質である」としてそれが失われる前に指輪物語を書きました。指輪物語で人間以外が西の国に行ってしまうのは、まさに19世紀が「機械に人間が乗っ取られ、人間性を失う時期」だったからです。

同様にラフカディオ・ハーンは日本に来て「まだ人...続きを読む

Q生まれた時にもらったのは、いつか訪れる死である?

私達が生まれた時に貰ったのは
いつか死ぬということ

ソクラテスは

死は
人間の持っているすべての恵みの中でも
最高のものである

と言いました

それは
死がなければ
生きることが生きることではなくなるからでしょうか?


ソクラテスの言葉をどう解釈されますか?

Aベストアンサー

ソクラテスの言葉、

「死は
人間の持っているすべての恵みの中でも
最高のものである」

に付いて、わたし流の気付きが有りました。

もしかするとソクラテスは、釈尊が云うところの「生とは苦である」と見ていたのではないかと。釈尊は人の楽しむ姿さえも、苦であると観た様ですが、ソクラテスがそこまで見たかどうかは分かりません。

No.6さんの意見と同じ、でしょうか。
グッド!は別の人に付けましたが。

ただ、文章の脈絡が明らかになれば違った解釈になるかも知れません。

Q絶対善はあるのです。

私は絶対善はあると主張していますが、皆さんはそんなものなどないと否定されます。でも私が言いたい事は常識的なことなのです。

この群れ社会において最も大切なものは何か?それは群れ社会の安寧秩序です。これは社会が平穏でルールが守られ安心して暮らせることです。これを守る事が最も正しい事なのです。この群れ社会においてこれ以上大切なことはないのです。これに異論がありますか?

そしてその群れ社会の安寧秩序を守る為に最も優れた方法が「私より公を優先すること」なのです。でも「私より公を優先すること」と言われても何か分からないでしょう。ですから分かり易く言えば愛や思いやりや慈悲心などですと説明しています。これはキリストが説いた愛です、孔子が説いた仁、つまり思いやりです、そして釈迦が説いた慈悲の心です。そしてこれらに内包、共通しているのが「私より公を優先する心、行為」です。

「私より公を優先する」とは分かり易く言えば「私欲という自分の思いを少し抑えて公の為とみんなで考え行うこと」です。自分の私欲の心を少し抑えて、一人一人がみんなの為と考えることです。これは民主主義を示しています。そして「みんなの為」と考えるということは皆さん一人一人がリーダー、その群れのトップの立場に立って考えると言うことです。それは強い責任感をもって考えると言うことです。そのような心を一人一人みんながもって、みんなで考えれば最も正しい答えに辿り着ける確率が高くなるよ、ということです。これ以上に優れた方法が何かありますか? これが私の言う絶対善なのです。

その群れ社会にとって絶対的に正しいことは社会の安寧秩序であり、そのために最も優れた方法が「私より公を優先する事、つまり愛や思いやりや慈悲心」なのです。もちろんこれは最高の方法を示しているので一般的にはなかなかできないことです。しかしそれを目指す事こそが最もより良い社会が創れるのだ、と言う事なのです。

私は絶対善はあると主張していますが、皆さんはそんなものなどないと否定されます。でも私が言いたい事は常識的なことなのです。

この群れ社会において最も大切なものは何か?それは群れ社会の安寧秩序です。これは社会が平穏でルールが守られ安心して暮らせることです。これを守る事が最も正しい事なのです。この群れ社会においてこれ以上大切なことはないのです。これに異論がありますか?

そしてその群れ社会の安寧秩序を守る為に最も優れた方法が「私より公を優先すること」なのです。でも「私より公を...続きを読む

Aベストアンサー

いろいろな人がいっぱい書き込んでくれて、芯木(shinwood)さんは今回いろいろ学んだんじゃないでしょうか。芯木さんの今回の作戦の誤りは、世の中には、形式を重要視する人と実態を重要視する人の両方がいることを無視して、実態を重視する芯木さんの一方的な表現を使ってその主張がなされていることです。

「手術は成功した。しかし、患者は死んだ」

要するに、患者の生死の実態よりも、手術の手順と形式の正確さの方に興味を持つ方がこの世の中にはいくらでも居られるのです。そして、哲学好きな人にこの形式組の人がいっぱいいます。そうした方々は、言葉の使用法の形式の方に興味が優先してしまい、たとへそこで使われている言葉が不完全でもそこで言っていることの内容や実態をなんとか理解しようという方向に興味を向けない傾向にあります。

「あんたの言いたことはなんとなく判るんだが、そのような言葉の用法はその内容と矛盾しており、間違っている」

などと言って、言葉の使い方が間違っているから、あなたの言う内容も間違いだ、などと考えてしまう人もいくらでもいます。だから、芯木さんが言いたいことの本質を論じようとするのではなくて、絶対の意味などの言葉の使い方がこだわった回答が多くなっているのです。

そのような人たちは、左を指差しながら、「右、右」と言っている人の心を察することができず、その間違いを言いつのる傾向があります。この場合、常識的に見て、指を差している方向をその発信者が言いたいのは明らかですのに。

物事を論じるためには、その内容も、その言葉の使い方も、両方とも重要です。しかし、その両方を同時に論じることにどれだけの生産性があるか、自明ではありません。大論文でもない限り、それを意識せずに両方とも同時に論じてしまうと誤解を招き、混乱さえ起こしかねません。ですから、何かを論じる場合には、内容か、形式か、そのどちらにより重点を置いているのか、文面から明確にわかるように書いておく方が、生産的な議論のやり取りができます。

ここでの主題は「公に対する奉仕」なのだと思いますが、例えば、「公」という言葉一つとっても、人によってその意味がだいぶ違い、芯木さんが言いたい意味では受け取ってくれない場合が散見されます。いわんや、「絶対」などという、一神教の影響を受けた西洋文化大好連中が好んで使う言葉は、哲学好みの人たちには刺激的すぎて芯木さんの言いたい内容よりも、その刺激的な言葉に拘ってしまう人がいくらでもいます。

出来るだけ刺激的な言葉を避けてご自分で言いたいことを表現することを工夫すると、芯木さんのご主張に賛同する方も増えるのではないでしょうか。また、どうしても「絶対」と言う言葉を使いたいならば、論述を始める前に、ここでのこの言葉は、、、、を意味するものとして特殊な使い方をしている、などと一言を入れておくと、読者もそのつもりで読んでくださると思います。

いろいろな人がいっぱい書き込んでくれて、芯木(shinwood)さんは今回いろいろ学んだんじゃないでしょうか。芯木さんの今回の作戦の誤りは、世の中には、形式を重要視する人と実態を重要視する人の両方がいることを無視して、実態を重視する芯木さんの一方的な表現を使ってその主張がなされていることです。

「手術は成功した。しかし、患者は死んだ」

要するに、患者の生死の実態よりも、手術の手順と形式の正確さの方に興味を持つ方がこの世の中にはいくらでも居られるのです。そして、哲学好きな人にこの形式...続きを読む

Qあなたが人生を生きる意味を教えて下さい。 あなたが人生を生きる必要を教えて下さい お願いします。。

あなたが人生を生きる意味を教えて下さい。
あなたが人生を生きる必要を教えて下さい
お願いします。。

Aベストアンサー

美味しいものを食べて、
綺麗な音楽を聴いて、
美しいものを見るためかな。


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