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「大名」と「領主」の違いを教えてください。
 また、「旗本」とはどういう立場の人ですか?

A 回答 (3件)

>「大名」と「領主」の違いを教えてください。



いつの時代の「大名」と「領主」と「旗本」なのか不明なので回答できません。
ここで質問ができるなら↓程度のことは簡単に調べられると思いますが、それはしているのでしょうか。
していないなら、その理由は何でしょうか。
あなたは他人様があなたの為に消費するリソースをどのように考えているのでしょうか。


【領主】
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%98%E4%B8%BB …

【大名】
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%90%8D

【旗本】
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%97%E6%9C%AC


私は、たかがBAの為に怠け者に媚びる事を「親切」とは思っていません。


【『教えてチャン』に気をつけよう】
http://f-fit.net/column017.html
《当たり前ですが、誰かに何かを答えて(応えて)もらうということは、その人にそれなりの時間と手間を取らせることです。ましてや、会ったこともない人なら尚更です。自分が何気なく発したネット上の質問に対して、善意とともに答えてくれる人がたまたまいた場合、その人は会ったこともないあなたのたった数百文字(Twitterに至っては140文字しかありません)のクエスチョンの意図を汲み取り、咀嚼し、そして失礼のない文章に仕上げて知識や情報という大切なものを提供してくれているのです。

繰り返しますが、これは結構な手間であり労力です。仲間同士で「この分野はあいつが詳しいからちょっと聞いてみよう!」といった程度ならまだしも、そうでなければそんな「最後の手段」を簡単に使っていいわけがありません。ましてや、軽い口調で「〇〇について知ってる人~?」みたいな聞き方では社会人としての常識すら疑われてしまうでしょう(答える方も同様です)。》
「「大名」と「領主」の違いは?」の回答画像1
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「大名」・・・・もともと地方で勢力をふるうもののこと。


 「領主」・・・・一定の土地と其処に生活する人々(領地)の封建的な支配権を有する者のこと。
 「旗本」・・・・主として江戸時代の徳川将軍家直属の家臣団のうち石高が1万石未満で、儀式など         将軍が出席する席に参列する御目見以上の家格を持つ者の総称の人。
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大名は石高が一万石以上、旗本はそれ未満。


(実際に9999石の旗本はいたそうです)
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一般に旗本も大名と同様に自分の領地を持ちます。
しかし領地を持つとそこの政治をせねばなりません。また年貢の収納にも経費を要するので少禄の旗本ではその経費が賄えません。厳密ではありませんが禄高の200石が境で、それ以上は領地を持つのが原則です。これを「知行取り」と言います。それ以下の場合は禄は幕府から現物の米で支給されました。これを「俵取り」と言います。
この見分け方は簡単で、武士の規模(格式)が「石(こく)」で表されていれば知行取り、すなわち領地を持っています。例えば遠山景元(金さん)は500石なので領地を持っていたことがわかります。
俵取りでは規模を「150俵」のように「俵」単位で示されます。日本各地に派遣された代官は禄高50俵程度の人が多かったのですが、「俵」で表示されているので領地は持っていなかったことがわかります。
格式の比較は 200石=200俵 です。これは年貢率を4割(四公六民)とすると、200石の実収入は80石です。幕府領では俵は4斗(0.4石)入りだったので80石は200俵になるので、知行取りの200石と俵取りの200俵は同格となるのです。

大名、旗本の領地がどこにあったのか、それについては「れきはく」からデータベースが公開されています。
https://www.rekihaku.ac.jp/up-cgi/login.pl?p=param/kyud/db_param
これは明治初期の廃藩置県当時のデータを基にしています。地域からでも領主からでも検索できます。
ためしに領主を「遠山金四郎」で検索してみると上総などに4か村570石余が出てきます。たぶんこれが遠山影元の子孫の領地だと思います。

一般に旗本も大名と同様に自分の領地を持ちます。
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