【復活求む!】惜しくも解散してしまったバンド|J-ROCK編 >>

ちょっと妄想してみた。
聖書にはキリストが石打の刑で死刑になる姦淫女を救ったと言う有名な話があります「律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕えられたひとりの女を連れて来て、イエスに言った。『先生、この女は姦淫をしてつかまえられたのです。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか』 彼らはイエスをためしてこう言ったのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった。
しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。『あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい』この言葉を聞いて誰も女に石を投げられなくなってついにみんなは去り、女は助かりました」

これについて一般的にキリストはさすがに賢者であると思われていますが、絶対善で考えてみればあまり褒められたものではありません。その国の法律では姦淫は石打の刑で処刑にされるのです。つまり姦淫は現在の日本に当てはめれば数人の殺人を犯したのと同じくらいの罪であり死刑に相当するような重罪だったのです。それをキリストは言葉巧みに助けてしまった。
私の善の定義は「善とは公の為である」です。つまり「キリストのやったことが公の為であれば善であり、公の為にならないならば悪である」です。いわゆる死刑に匹敵する罪を犯した女を助けたのはその国のみんな(公)の為になったのだろうか?ということです。

その事件のその後のことを少し想像してみれば・・・キリストに助けられた姦淫女は、死刑になるような重罪でも犯してしまうような女ですので、次もまたやがていつか姦淫するでしょう。その時また捕まって石打の刑に処されようとしたとき、今度は姦淫女がこういうでしょう「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に私に石を投げなさい」この言葉を聞いて罪を犯した事が無いものなどいないのですから誰も石を投げることはできません。もし石を投げれば神に嘘をついたことになります。そしてまたまた姦淫女は助かってしまいました。これを見ていた女たちは姦淫しても何の罰も受けない方法を学んでしまったのです。
そこでこの町では死刑に匹敵する重罪の姦淫が流行りだして、宗教の戒律などあってなきが如くです。そうなれば町の秩序は乱れに乱れてやがて町は崩壊してしまうことになるかもしれません。このように考えればキリストが姦淫女を助けたのは本当に正しかったのであろうか考えさせられます。キリストのおかげで、もし多くの町々が秩序がなくなり、ゴーストタウンのようになったならば、それは悪になります。

このように善の定義が分かればキリストのような聖人のやったことにも疑問が生じてしまうのです。石打の刑の場面においてキリストはどうすれば一番よかったのだろうかとまた考えてみれば・・・やはり死刑に相当する罪を犯したのであるから、姦淫女はそれなりの罰は受けなければならないでしょう。ですからまず「大きな罪を犯していない者から石を投げなさい」といい、女がもう充分罰を受けたと見たら「小さな罪さえも犯してないものは石を投げなさい」と言えばよかったのかもしれません。人間には生まれながらに慈悲心がありますからね。殺すまでにはいかないでしょう。

まあ、当時はソクラテスのような賢人たちでも絶対善は分からなかったのですから、聖書を書いた賢人たちも勿論、絶対善は分からなかったのでしょう。ですから絶対善で見れば聖書にもおかしなところもいろいろ見えてくるのです。また「イエスはどうするのか」と問われてもしばらく地面に文字を書いていたと言う表現は「俺もこの問題はずいぶんと考えたんだぜ」と聖書を書いた人が言いたかったのではないでしょうか。
一神教を信じていない私から見れば聖書など当時の賢人たちが書いたものであろうと考えます。豚を食べるなとか、割礼をしろ、とか、こんなことは神様が言うような言葉ではなく当時の習俗そのものではないですか。このようなことからも聖書は人間が書いたものと分かるではないですか、何故彼らは聖書を疑わず素直にキリスト教などの教えを信じるのであろうか。古くは新井白石もキリスト教の教えに疑問を呈したように私たち日本人から見れば不思議でしょうがないのだ。

このようにキリストの石打の刑について絶対善で考えてみましたが皆さんどう思われますか?

A 回答 (29件中1~10件)

絶対全の全は善か。



キリストは宗教家で、妖術手品・奇術。魔術師というべきか。これら不可解な現象を奇跡で一クルメね。

日本にも墓があるしなあ。
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先ほどの回答は極端でした。


詰まりは捕まりの間違いね。
でもそう見えるでしょう。
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キリストはマリアの不倫の子。

手品師で民衆を教えと称してたぶらかし扇動して磔かな。
復活ということは偽物が詰まり処刑されて本物が取って代わり、弟子と別れた後は海外逃亡して世界各地に亡命伝説ありね。

絶対全も一皮むくとまったく悪い見方になりそうだなあ。
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長文を書いてくれてご苦労さん、聖書を読んでも理解できない証拠、自分の頭では理解できない聖霊の働きがない、姦淫の女のとこしか読んでないことがよく分かる。

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Riverr of Mercury 『H.T』(今堀恒雄)



みんなの範囲を決めなきゃね。インフルエンザウイルスからガイアまで生物無生物多少大小10^25~10^-15m複雑単純古今東南西北上下平行親子孫宇宙三本足の烏を殺しあなたと朝寝朝風呂身上つぶすよってやんでぇ死人に口なし芳一耳なしいろいろとりそろえたいところですが人権ありそうなのは、姦婬女さん、イエスさん、パリサイ人さん、シン・ウッドさん、回答者さんたち、私でだいたい11人いる。ぶっちゃけキリスト除いてみんなの原罪あるしキリストは罪を持たないので石を投げなけれはならないが石は当たると怪我をして危ないので豆にしよう。豆打ちの刑。みんなのなかから1人だけキリストになって「原罪よ!!去れッ!!」と叫びながら茹でたグリンピース∴を素手で掬って投げ打ちつけよう。ほかのみんなはメッカに向かって何度も土下座しながら手を使わずに年の数だけグリンピースを食べると無病息災です。それじゃ私キリストやりま~す。
「原罪よ!!去れッ!!」×5
 ≡≡∴  シン・ウッドさん
 ≡≡∴  姦婬女さん
 ≡≡∴  イエスさん
 ≡≡∴  ちょとつさん
 ≡≡∴  キャラドさん
めんどくなった。のこりのほかのみんなから運ぶるさんをキリストに指名して私キリストやめます。私とほかのみんなにグリンピース∴を投げ打ちつけてください。きっと楽しいぞ。
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あなたの言いたいことはわかるような気がします。


キリスト教は甘い。世の中にはもっと厳しい制裁が必要だと。

では、銃を持つことを規制したり、悪い考えを持つことを禁じたりという、一定の枠組みを作ることで人間の暴走を止めることは可能だと思われますか?あなたが提起している「公の為の絶対善」の範疇にあたりますね。

聖書には「人が心に思いはかることは、はじめから悪い」とあります。
朱に交われば赤くなるとか、良いことよりも悪いことに靡き同調しやすい人間の傾向を端的に表しています。そこに法律などで枠組みを作り、制裁をすることで、果たして人の心の傾向は改善され得るものなのか。私は違うと思いますね。
形よりも本質。今見えている世の中も途上にしかすぎません。
まだまだ途上です。

アリストテレスは、自然物はそれ自体が運動または静止の原理を内包していると言いました(以下は引用です)
それ自体で存在するものは、kinesisと静止の原理を備えている、としました。
自然哲学における原理とはkinesisであるとします。実体としてのkinesisは生成と消滅、分量としてのkinesisは増大と減少、質量についてのkinesisは変質、位置についてのkinesisは移動、としました。
そして、kinesisとはデュナミス(可能なもの)への発展的な過程だとします。

人間も自然物の一部、造られたものですから、kinesisの原理はあてはまるのではないでしょうか。
人間そのものが生成と消滅を繰り返し、存在の内部で増大と減少、変質、移動といった存在論的な試行錯誤を繰り返し、悩みながら日常生活を送っているのだと思います。
絶えず変化、流転するものだから、
そこに法律は、ある一定の秩序を与えることはできますが、そうした複雑な人間の心の全体に影響を及ぼすことは難しいのではないか、と思います。

この問題については、まだまだ言い足りない感じがしています。私自身も知識不足で、もっと学ばなければなりません。
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この回答へのお礼

>あなたの言いたいことはわかるような気がします。キリスト教は甘い。世の中にはもっと厳しい制裁が必要だと。<

違います。私が言いたいのは絶対善こそが正しいのだ、イエスよ、お前は本当に絶対善が分かっているのか?知らないから死刑に匹敵する罪を犯した者を許したのではないのか?本当にお前のやったことは正しいのか?それは本当に公の為なのか?とイエスに言っているのです。

それにあなたの文章は何を言いたいのかさっぱり分かりません、私の大事な時間を返してください。

お礼日時:2019/05/04 19:57

いまいちど初めにもどって考えてみましょう。




その昔 《〈二値的論理〉でものごとを処理してはいけない》という議
論が流行りました。

《公(みんな)のため》になるか・ならないかの区別を すでに善か悪
かの判定にそのまま当てはめるということ。この問題です。

最初に この仕分けで《公のため》に分類されたものも あとでフィー
ドバックして来てあらためて分類し直すということは あるのでしょう
けれど しかもその場合もやはり なお公か私かのあい対立する二項の
どちらかに仕分けする。

というわけです。右か左か 白か黒か この仕分けの作業しかしないわ
けです。

おまけに その作業こそが 絶対善であると言うんでしょ?

・・・
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自分で満足のいく回答に今ひとつ思い至らなかったので、私の所属教会の師にたずねたところ、回答を得られましたので、以下に記します。



ルカ23:43に
イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」とあります。
この人は強盗であって死刑囚です。イエス・キリストは、たとえ人が殺人の罪を犯しても、
悔い改めて赦されることを願うなら赦されます。
それは、ルカ5:32に「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです」と書かれてあるからです。
イエス・キリストは罪人とともにおられます。罪人を愛しておられます。
その人がどれほどの罪があろうとも、ゆるしを願うなら必ずゆるされます。
イエス・キリストを小さな者にしてはいけないのです。
命をかけて、十字架にかかられ父なる神から裁かれたキリストの愛は大きな、大きな愛です。
この方を信じることが、真実と喜びにつながるただ一つの道です。

shinwoodさんとの今回のやり取りを通して学んだことは
いわゆる姦淫の場でとらえられた女、死刑に匹敵する罪を犯した女を助けたのは、その国のみんな(公)の為であり、かつ、全世界の為になったということでした。
「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」に込められた、人間に対する深い洞察。罪に目を留めず、罪を犯してしまう人間の弱さを受け入れ、理解しようとする神の深い愛の具現化だと思いました。

「公の為」とは、何度も言いますが、そこに生きる一人一人の人間が真に幸せでなければならない。決して大義のために、真実が捻じ曲げられることがあってならない、ということです。

ありがとうございました。私もとても良い学びになりました。
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この回答へのお礼

すみませんが、私にとってやはりキリスト教は偽善の宗教です。欧米のキリスト教国家を見てください、罪びとは次々に射殺されています。神はどこにいるのですか。キリストの愛がもたらされたのは日本ではないのですか?

お礼日時:2019/05/03 22:08

お礼を拝読いたしました。



殺人・・ですか。極端ですね。ちょっと時間いただけますか。考えてみます。
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全知全能とは


〈完全無欠の知恵と才能。どんなことでもよく知り、どんなことでもよく行う神の能力。(広辞苑)〉〈すべてを知り尽くし、どんなことでも行うことのできる能力。(明鏡)〉との事。
果たしてそうでしょうか?
これ、信じられますか?

この世界に、これを当てはめようとすると、それこそ矛盾だらけ、ですね。
でも、昔の人は神を怖れ、それ故に敬う、と云う気持ちから全知全能と云う表現をする様になったのではないでしょうか。

そう思えば、全知全能と云う言葉に拘らなくてもいい、と思うのです。

キリスト・イエスは神の正体が分かっていたのでしょう。
だから、取り乱す事なく、十字架の人になったのです。
そして最後の言葉を神に、
「真の姿を見せてください」
と、投げかけたのです。
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この回答へのお礼

あなたもキリスト教信者ではないですね。神が全知全能でないならばキリスト教は瓦解するのではないですか。まあ、あまり興味ありませんが。

お礼日時:2019/05/03 22:11

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これまで数千人の命を救ってきた天才外科医1人の命となんの取り柄もないニート50人の命。どっちが大事ですか?

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人間と同じように、食べ物にも個性があって、どんなに栄養のある良いものでも、一種類の食べ物だけを食べて生きる事はできません。主食副食バランスよく食べてはじめて、健康が支えられるように人間はできていると思います。
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米国在住です。

十五年ほど前、ご質問にある、米国人のトウモロコシの食べ過ぎの件について、長女が高校で習ってきまして、それ以来、彼女はトウモロコシを食べることを拒否しています。理由としては、取り立てて料理をして食べなくても、”箱入りの食べ物”には、必ずトウモロコシが使われていて、私達の体内は、トウモロコシだらけだからだということででした。

その後、私の家族の”食事セオリー”はどんどんと発展を続け、現在では、肉食をやめ、一週間に二度のオリーブオイルで調理した鮭・マスがたんぱく源となり、酪農製品も摂らず、ピーナッツバターやアーモンドバターを、全粉のパンに塗り、お茶も、ビーツや生姜の薄切りを煮だしたものを飲んでいます。

何が体にいいのかよくわからないのですが、キノアやケールやビーツなど、あまりおいしくない食材も、出すと喜ばれるので、頑張って調理しています。あとは、季節の野菜を、組み合わせを考えて、蒸したり、茹でたり、いためたりして、”味付けをしないで”、そのまま食卓に出しています。サラダには、ライムジュースを振りかけるだけです。

基本的に、出来合いのものを使わず、食料品店で、丸のままの食材を買ってきて、それを調理する、というやり方です。体には良いのかもしれませんが、手がかかるし、そして、食費も普通の倍以上はかかります。

これが、行き過ぎた健康志向、アメリカの意識高い系の食事の実態です。もはや、バランスが取れればよい、などという問題ではないところに来ています。

一方、80パーセント以上のアメリカ人は、現在でも、漂白された白いパンを食べ、チーズバーガーをほおばり、ビールにバーベキュー、タコスに山のようなチーズ、トウモロコシだらけのシリアルを毎日食べているような状況です。

私も、食事はバランスさえ取れていて、おいしければ、それが、ベストだろうと考えていましたが、私の家族を見る限り、何が何だか、判らなくなっている現状です。私事で恐縮ですが、お知らせまで。

米国在住です。

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Q心から信じていれば命さえも懸けられる

私が「本当に心から信じていれば命だって懸けられるだろう」と言えば、皆さん「命を懸けるなど軽々しく言うものではありません、時代錯誤です」などと反論されます。また「あなたはそう言うけれども本当に信じているの? いのちを懸けてもそう言えるの?」と言えば「言論の自由だろう、お前は言論の自由を否定するのか!」と言われます。

しかしですよ、例えばバンジージャンプは命綱が絶対に切れないだろうと心から信じているから、あんな高いところから皆さん命を賭けて飛び降りているのでしょ? 皆さん命綱が切れないと心から信じているから命を懸けているではありませんか。この事実があるのに何故、皆さんこの事実を否定されるのか。事実判断を皆さんの価値判断で否定することなどできませんよ。事実そうなのですから。

「本当に信じていれば、全財産や命さえも懸けられる」というフレーズは色んな難しい社会的問題を解決できる魔法の言葉なのです。
例えば 従軍慰安婦問題も「本当に韓国政府が従軍慰安婦問題(少女二十万人拉致、性奴隷)があったと心から信じているなら、もし間違っていたら竹島を無条件で返してもらうぞ」と言えばそれで片が付くのです。何故なら韓国政府は本当は慰安婦の証言など信じていないのですからです。

このようにこのフレーズで多くの難問は解決できるのです。皆さんも「本当に、心から信じていれば命さえ懸けられるだろう」という言葉に嫌悪感を示さずにどんどん使いましよう。あらゆる難しい問題もすぐに解決できるのですから。

「本当に、心から信じていると言うことは、命さえも懸けられると言うことなのだ」というこの言葉は普通に使っても何らおかしくはないと思いますが皆さんどう思いますか? 私間違っていますか?

私が「本当に心から信じていれば命だって懸けられるだろう」と言えば、皆さん「命を懸けるなど軽々しく言うものではありません、時代錯誤です」などと反論されます。また「あなたはそう言うけれども本当に信じているの? いのちを懸けてもそう言えるの?」と言えば「言論の自由だろう、お前は言論の自由を否定するのか!」と言われます。

しかしですよ、例えばバンジージャンプは命綱が絶対に切れないだろうと心から信じているから、あんな高いところから皆さん命を賭けて飛び降りているのでしょ? 皆さん命...続きを読む

Aベストアンサー

>「本当に、心から信じていると言うことは、命さえも懸けられると言うことなのだ」というこの言葉は普通に使っても何らおかしくはないと思いますが皆さんどう思いますか? 私間違っていますか?

真木さんの今回の論旨の流れにいろいろ突込みどころがあるのですが、外国人を相手にする時には日本人とは違った価値観を彼らが持っていることを理解する必要があると思います。文化が違うのです。文化とは価値観の総称のことです。だから文化が違うとは、価値観が違うということです。

日本は日本海という越すに越されね荒海のおかげで、他の文化とは遮断され、縄文時代から現在に至るまで数千年かけて世界的にも類を見ない特異で独特な文化、すなわち価値観を築き上げてきました。外国で生活してみるとへーって思うことばかり。日本人の考え方ってこの国の人とそんなに違うのかって思い知らされることばかりです。例えば、日本人てこの地球上で性善説を信じている唯一の文化を持った国民なんですよ。そして、話し合えば解ってもらえると信じている人が態勢を占めている。

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もちろん、日本人の作り上げてきた価値観の中には、外国の一部の世界で作り上げてきた価値観と共通した部分がないわけではなく、その共通項の部分のために、日本人が尊敬されている部分もあります。例えば正直であるとか、約束を守るとか、名誉を重んじ恥づべきことをするなという価値観です。このような価値観は、昔のギリシャや中世の西欧や日本のように、常態が群雄割拠で、いつも小国同士が小競り合いの戦さをしていた歴史を持った国に共通した価値観です。そしてこれは、基本的に武人たちが国を支配してきた世界に生じた価値観です。武人は基本的に理系人間で、技術と合理性を重んじる文化を作り上げてきた。しかしこのような小国による群雄割拠が常態であった地域は世界史的には例外に属しています。

世界史的には、圧倒的に大多数の民族は常態が群雄割拠ではなくて、強大な力を持つ政府による中央集権でした。中央集権国家では、小国同士ような小競り合いもほとんどなく長期にわたって安定して平和が保たれていました。そしてこの安定した中央集権国家の支配者は官僚と呼ばれる文系人間でした。戦さもなく社会が安定しているゆえに官僚が世襲化されるようになる。この世襲化された官僚のことを貴族とも呼んでいました。このような安定した社会の支配層を維持するために必要なのは、技術でも合理性でもなく、前例という伝統を重んじる固定化された価値観です。そのように合理的な根拠もなく支配されている一般民衆の中に、性善説など生じる余地がない。

しかし、安定した社会の内部の発展による富の蓄積や外部の予期せぬ環境の変化によって、この伝統による支配の説得力は徐々に失われて行きます。だから、歴史的に見て腐敗しなかった官僚は存在していません。時代と共に官僚は必ず腐敗します。その腐敗に我慢ができなくなった時に短期間の大混乱が起こって、新たな連中によってまた新しい長期の中央集権の安定期に移行して、そのうちにまた腐敗して短期の混乱が起こって、、、とこれを繰り返してきたのが、上記の古代のギリシャ、西欧、日本という群雄割拠地域を除いた地球上の圧倒的に大多数の民族の歴史です。

上に述べたように、このような文民支配による中央集権制度では、合理性よりも前例に基づいた伝統が重んじられる。もちろん、その伝統は偶然の成り行きで出来てきたために、各民族で全然違っています。そのようなそれぞれ違った根拠で出来上がってきた彼らのそれぞれ違った価値観を、合理的な論拠に基づいて話し合えば解り合えて一つの価値観に統一できるはずがありません。唯一できることは、互いに価値観の違いがあることを認識し、それを認め合って、一方の価値観を相手に押し付けずに、それぞれのやり方に任せることです。

真木さんの言う、死の覚悟を持って、とか、名誉を重んじ恥じた行為をしない、とか、公に尽くす、と言う価値観は古代のギリシャ人や群雄割拠で戦争に明け暮れた西洋人や源平以降戦国時代を経験した日本人には理解できるでしょう。しかし、このような武人支配を長年続けてこず、文系の官僚支配を続けてきたにこの地球上のほとんどの国の人には理解できない価値観だと思います。そのような国とうまくやってゆくためには、日本人独特な価値観を相手に強要するのではなくて、某元防衛省大臣がおっしゃったように「丁寧に無視」しながらお付き合いが最善の方法だと思いあますが、どうでしょうか。

>「本当に、心から信じていると言うことは、命さえも懸けられると言うことなのだ」というこの言葉は普通に使っても何らおかしくはないと思いますが皆さんどう思いますか? 私間違っていますか?

真木さんの今回の論旨の流れにいろいろ突込みどころがあるのですが、外国人を相手にする時には日本人とは違った価値観を彼らが持っていることを理解する必要があると思います。文化が違うのです。文化とは価値観の総称のことです。だから文化が違うとは、価値観が違うということです。

日本は日本海という越すに越...続きを読む

Q哲学とは何か?

哲学とは何か?この第一歩から考えてみたくなりました。

野矢茂樹氏の「ラジオ深夜便」出演の話はどなたかが紹介していましたが、
私も一度聞いたことがありました。
改めて聞いてみると、嬉しくなるほど分かりやすいと思いました。なんだか
分からない話を随分聞いてきたせいでしょうか?

どんな分野でも、言っていることが明快な人は、その中身をよく理解してい
る人で、逆に言っていることが何だかよくわからない人は、結局分かってい
ないのだという世間一般の定説は正しいものでしょう。

哲学とは何かということについて、野矢氏は、次のように述べています。

ごく簡単に哲学史を述べれば、アリストテレスは哲学を学問として捉えていた。
トマス・アクィナスにとっては、哲学は宗教であった。
デカルトは、哲学は学問の基礎であると考えていた。
現代においては、哲学者の数だけ定義が存在すると言って過言ではない。

私(野矢氏)にとって哲学とは、人間の言葉を使った複雑な思考の中の問題として
1.思考の全体を見通せていない、2.思考を支えている多くの暗黙のものを自覚し
ていない、3.全体の曖昧さ、矛盾を分からないでいる、これらの問題を解決する
ことである、と。

確かに、哲学というものの定義は、様々であることは実感していました。だから、
「さあ統一しましょう」といったところで、そううまくはゆかない。せめて、各々
の定義を理解し合えたら、もう少し意義のある対話ができるかも知れません。

さて、あなたの「哲学の定義」はというと、どういうことになりますでしょうか?

哲学とは何か?この第一歩から考えてみたくなりました。

野矢茂樹氏の「ラジオ深夜便」出演の話はどなたかが紹介していましたが、
私も一度聞いたことがありました。
改めて聞いてみると、嬉しくなるほど分かりやすいと思いました。なんだか
分からない話を随分聞いてきたせいでしょうか?

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Aベストアンサー

キリスト教が発達してからの西洋哲学は、キリスト教を隠れ蓑にしていた人間のインモラルな部分に、風を通して、本来の人間性を取り戻そう、という、初々しいものではなかったですか。

ルネサンス美術と同じで、西洋の精神世界の理想である、ギリシアの昔のように、キリスト教を離れて、自由に思考をしたかった。もう一度、自分の頭で考えてみたかった。

ギリシアで発達した哲学は、言葉遊びのきらいもありますが、(多分に、貴族の暇つぶしだったでしょう)、発想は、もっと自由で、はつらつとしたものでした。人間の尊厳の確認であったかのような印象があります。

その旗頭であるソクラテスが牢獄に繋がれ、毒をあおって死ななければならなかったため、何か、陰惨な印象を持っていましたが、何年か前、彼の牢獄であったと伝えられている岩屋を訪れる機会があり、その場所が、アクロポリスを見渡せる、風光明媚な場所であったため、何だか、足元のはしごを外された気分、というか、牢獄でさえ、知的でした。

おっしゃる通り、哲学は、対話によって、曖昧なものや無意識に受け入れていた事柄を、明確にしてゆく役割を担っているのだと思います。中世以降のヨーロッパでは、キリスト教が邪魔になりましたが、現代の日本では、いかがでしょうか。

キリスト教が発達してからの西洋哲学は、キリスト教を隠れ蓑にしていた人間のインモラルな部分に、風を通して、本来の人間性を取り戻そう、という、初々しいものではなかったですか。

ルネサンス美術と同じで、西洋の精神世界の理想である、ギリシアの昔のように、キリスト教を離れて、自由に思考をしたかった。もう一度、自分の頭で考えてみたかった。

ギリシアで発達した哲学は、言葉遊びのきらいもありますが、(多分に、貴族の暇つぶしだったでしょう)、発想は、もっと自由で、はつらつとしたものでした。人...続きを読む

Q地球と人間はどちらが大切なのでしょうか?

愛は地球を救うと言う夏のチャリティ番組もありますが

人間が救われないと 地球を救っても何かおかしい様な?

確かに地球環境を守るか改善しないと人間も生きて行けなくなるかもしれませんが

人間が滅びてもまた進化した知的生命体が生まれるでしょう。

しかし僕らは人間だから人間が滅びたら何になるんだろうか?

この悲惨な世界で人間が大事か 地球が大事か?

Aベストアンサー

こういう問題は、極論すると
わかりやすくなると思います。

科学技術が発達して、人間が宇宙に住めるように
なった場合を想定してください。

地球が無くなっても、人間は宇宙で生き続ける
ことが出来ます。

つまり、人間にとって、地球の存在は必須では
ないのです。

人間の方が大切です。

Q言葉について

言葉とは人間そのもの、人間と表裏一体だということ、理解できました。

そうすると、人工知能AIの使う言葉は、どのように捉えられるでしょう。プログラミングされた言葉が人を感動させることはあるのか。いわゆる言霊というのは失われてしまうと思うのですが。

それともそういうことがあるのだとすれば、それはプログラミングした人間自身の言葉の反映なのか。
それともAIは自身で言葉を獲得して、詩や短歌、俳句の領域に至るまで凌駕していくのか。

どのように思われますか?

Aベストアンサー

ことばを《ロゴス》として広く捉えた場合 次のように分類できるのではないか
と考えます。

☆☆ ひどっち=ぶらじゅろんぬの定理 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
【Q:ヒラメキとは 人に起きるいかなる現象か】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/10598115.html

〇 ヒラメキの成り立ち (ひどっち=ぶらじゅろんぬの定理)
(または ロゴスの階層 
つまり 《非思考の庭》と《思考の緑野》とのあいだに何が起きるのか) 


 [非思考の庭]
  スピリトゥス=ロゴス(α):クレド(非経験のナゾなる非思考の庭):神
                   ↓
 ----【天使(α’):ロゴス(α)の使い】--------------
                   ↓
 [思考の緑野]            ↓
  インスピレーション=ロゴス(β):異言
       :中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ
                   ↓
  インスピレーション=ロゴス(γ):預言
       :本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間による言葉化
       :概念? 象徴(シンボル)? 世界観じたい?
                   ↓
  ラチオ=ロゴス(δ):コギト=思考〔の緑野〕
       :経験合理性にもとづこうとする論理


   *(註) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

   ・ロゴス:ことば

   ・スピリトゥス:霊。聖霊

   ・クレド( credo = I believe. 我れは信じる)

   ・異言(シャリバリ):意味の分からないことば

   ・預言:解釈。経験思考で分かるように表現する。

    〔もともとは 予言= pro-phetia(予‐言)として成ったことば〕

   ・ラチオ( ratio ):理性

    〔 = reason 。《 re-or =思う・考える・数える》から〕

   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

☆ ロボットや人工知能は インスピレーション=ロゴスつまり ヒラメキとし
ての言葉を受け取ることがあるのか? といったことが気に成ります。

ことばを《ロゴス》として広く捉えた場合 次のように分類できるのではないか
と考えます。

☆☆ ひどっち=ぶらじゅろんぬの定理 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
【Q:ヒラメキとは 人に起きるいかなる現象か】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/10598115.html

〇 ヒラメキの成り立ち (ひどっち=ぶらじゅろんぬの定理)
(または ロゴスの階層 
つまり 《非思考の庭》と《思考の緑野》とのあいだに何が起きるのか) 


 [非思考の庭]
  スピリトゥス=ロゴス(α):クレド(非経験のナゾなる非思考...続きを読む

Q長幼の序とグローバリズム

私は日本のシステムの長幼の序というのは社会を安定するという面では
いいシステムだと思っています。人生経験がある年寄が若い人を
諭すのはいい面もあると思います
しかし、これだけ、世界が狭くなっている今、もちろん昔に比べて長幼の序はなくなってき
ていますが、平成の世の中がグローバリズムのせいで格差社会になった所を見ると、
若い人の自由は認めながらも、大きな社会システムとしてもう一度、日本人全体が
長幼の序や思いやりといったシステムを考えていく必要があると思います。みんなどう
思いますか?

Aベストアンサー

あたしゃ高校の山岳部出身で30Kg以上もある荷物背負って歩いたけど、高校2年生と1年生じゃあその能力に雲泥の差があったね。いわゆる新米っていうやつだ。だから、その差を身を以て経験した私にゃあ、山歩きに関して山岳部の高校2年生が高校1年生に向けて上から目線でモノ言うことに疑問を感じたことがなかったどころか、そんなの当たり前だと思っていた。

でも、1年も経つとあら不思議、自分も先輩並の歩き方ができるようになってきた。一方3年生になると受験に忙しくて山歩きをやってる暇がなくなって、荷物背負った山歩きでじゃあ、2年生も3年生も大した差がなくなってた。だからって、後輩のあたしが先輩と対等になったと思ったことがなかった。そこに来るまで、先輩は献身的にあたしを育ててくれたんで、それに関する感謝の念を持っていたからだ。

あたしの基本的な考えは、あたしのような並の人間でも運よく献身的な先輩に巡り逢え、さらに本人が努力し続けられさえすれば、どんな道でもその分野でいっぱしの人間として評価されるところまでは成長できると考えている。それが実際に世間で認められようが認められまいがだ。そして、そこまで成長できた人間は後輩の指導に必ず役に立つ人間になっていることも間違い無いと思う。これが並なあたしが経験から得られたことだ。

このことは、世の中の大多数の人に当てはまっていると思っている。そして、長幼の序を是とする社会は、このような経験則を認識できる社会なんだと思う。別な言い方をすると、若者に対して、並な人間でも石の上にも三年いれば一端の人間になれることを身をもって示して、長幼の間で信頼関係ができていることが、長幼の序の必要条件なのだと思う。

若者が未熟なのは当たり前だ。だって未経験なんだもの。若者があんたの分野に夢を持って入ってきたときに、その若者に向かって謙って

「あたしゃあんた並の初心者だ」

なんてこと言ったら、未経験な若者は混乱して若者の夢を潰してしまいうかもしれない。一日の長があるあんたが、その若者と同じ初心者であるはずがないんだから。そんなことしたら、倍倍倍と成長していつかあんたを超えて行くかもしれない若者を潰してしまいかねない。

長幼の序とは、年長者が自分の過去を省みて自分の成長を認識し、若者に対して自信を持って接することのできる状況で生まれてくるもんだ。その成長を認識できない年長者が長幼の序と言ったところで、若者を説得できないと思うよ。

あたしゃ高校の山岳部出身で30Kg以上もある荷物背負って歩いたけど、高校2年生と1年生じゃあその能力に雲泥の差があったね。いわゆる新米っていうやつだ。だから、その差を身を以て経験した私にゃあ、山歩きに関して山岳部の高校2年生が高校1年生に向けて上から目線でモノ言うことに疑問を感じたことがなかったどころか、そんなの当たり前だと思っていた。

でも、1年も経つとあら不思議、自分も先輩並の歩き方ができるようになってきた。一方3年生になると受験に忙しくて山歩きをやってる暇がなくなって...続きを読む

Q人間。神と対等という立場の人間は神と言えるのか?哲学です。

人間。神と対等という立場の人間は神と言えるのか?哲学です。

Aベストアンサー

★ 哲学です。
☆ としては 少し――いえ 大幅に――飛躍があると言わなければならな
いのですが 次に引用するような聖書における文脈では:

★ 人間。神と対等という立場の人間
☆ の存在は 考えられなくはない。と思います。

ただし その人間について:
★ 神と言える
☆ ことはないでしょう。


▲ (ヨハネ福音 15:14-15 ) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
〔☆ キリスト・イエスが言っています〕
わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。

もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか
知らないからである。

わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知
らせたからである。

▲ (同上 14:12 ) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、
もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


▲ 〔イエス・キリストよりも〕もっと大きな業を行うようになる
☆ というのは キリストのちから・あるいはつまり聖霊なる神のはたらき
によってという意味です。

ですから その人間が《神になる》という意味ではありません。



なお不案内のところがあると思いますが 取りあえずこのように。

★ 哲学です。
☆ としては 少し――いえ 大幅に――飛躍があると言わなければならな
いのですが 次に引用するような聖書における文脈では:

★ 人間。神と対等という立場の人間
☆ の存在は 考えられなくはない。と思います。

ただし その人間について:
★ 神と言える
☆ ことはないでしょう。


▲ (ヨハネ福音 15:14-15 ) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
〔☆ キリスト・イエスが言っています〕
わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。

もはや、わたしはあなたがた...続きを読む

Q絶対善はあるのです。

私は絶対善はあると主張していますが、皆さんはそんなものなどないと否定されます。でも私が言いたい事は常識的なことなのです。

この群れ社会において最も大切なものは何か?それは群れ社会の安寧秩序です。これは社会が平穏でルールが守られ安心して暮らせることです。これを守る事が最も正しい事なのです。この群れ社会においてこれ以上大切なことはないのです。これに異論がありますか?

そしてその群れ社会の安寧秩序を守る為に最も優れた方法が「私より公を優先すること」なのです。でも「私より公を優先すること」と言われても何か分からないでしょう。ですから分かり易く言えば愛や思いやりや慈悲心などですと説明しています。これはキリストが説いた愛です、孔子が説いた仁、つまり思いやりです、そして釈迦が説いた慈悲の心です。そしてこれらに内包、共通しているのが「私より公を優先する心、行為」です。

「私より公を優先する」とは分かり易く言えば「私欲という自分の思いを少し抑えて公の為とみんなで考え行うこと」です。自分の私欲の心を少し抑えて、一人一人がみんなの為と考えることです。これは民主主義を示しています。そして「みんなの為」と考えるということは皆さん一人一人がリーダー、その群れのトップの立場に立って考えると言うことです。それは強い責任感をもって考えると言うことです。そのような心を一人一人みんながもって、みんなで考えれば最も正しい答えに辿り着ける確率が高くなるよ、ということです。これ以上に優れた方法が何かありますか? これが私の言う絶対善なのです。

その群れ社会にとって絶対的に正しいことは社会の安寧秩序であり、そのために最も優れた方法が「私より公を優先する事、つまり愛や思いやりや慈悲心」なのです。もちろんこれは最高の方法を示しているので一般的にはなかなかできないことです。しかしそれを目指す事こそが最もより良い社会が創れるのだ、と言う事なのです。

私は絶対善はあると主張していますが、皆さんはそんなものなどないと否定されます。でも私が言いたい事は常識的なことなのです。

この群れ社会において最も大切なものは何か?それは群れ社会の安寧秩序です。これは社会が平穏でルールが守られ安心して暮らせることです。これを守る事が最も正しい事なのです。この群れ社会においてこれ以上大切なことはないのです。これに異論がありますか?

そしてその群れ社会の安寧秩序を守る為に最も優れた方法が「私より公を優先すること」なのです。でも「私より公を...続きを読む

Aベストアンサー

いろいろな人がいっぱい書き込んでくれて、芯木(shinwood)さんは今回いろいろ学んだんじゃないでしょうか。芯木さんの今回の作戦の誤りは、世の中には、形式を重要視する人と実態を重要視する人の両方がいることを無視して、実態を重視する芯木さんの一方的な表現を使ってその主張がなされていることです。

「手術は成功した。しかし、患者は死んだ」

要するに、患者の生死の実態よりも、手術の手順と形式の正確さの方に興味を持つ方がこの世の中にはいくらでも居られるのです。そして、哲学好きな人にこの形式組の人がいっぱいいます。そうした方々は、言葉の使用法の形式の方に興味が優先してしまい、たとへそこで使われている言葉が不完全でもそこで言っていることの内容や実態をなんとか理解しようという方向に興味を向けない傾向にあります。

「あんたの言いたことはなんとなく判るんだが、そのような言葉の用法はその内容と矛盾しており、間違っている」

などと言って、言葉の使い方が間違っているから、あなたの言う内容も間違いだ、などと考えてしまう人もいくらでもいます。だから、芯木さんが言いたいことの本質を論じようとするのではなくて、絶対の意味などの言葉の使い方がこだわった回答が多くなっているのです。

そのような人たちは、左を指差しながら、「右、右」と言っている人の心を察することができず、その間違いを言いつのる傾向があります。この場合、常識的に見て、指を差している方向をその発信者が言いたいのは明らかですのに。

物事を論じるためには、その内容も、その言葉の使い方も、両方とも重要です。しかし、その両方を同時に論じることにどれだけの生産性があるか、自明ではありません。大論文でもない限り、それを意識せずに両方とも同時に論じてしまうと誤解を招き、混乱さえ起こしかねません。ですから、何かを論じる場合には、内容か、形式か、そのどちらにより重点を置いているのか、文面から明確にわかるように書いておく方が、生産的な議論のやり取りができます。

ここでの主題は「公に対する奉仕」なのだと思いますが、例えば、「公」という言葉一つとっても、人によってその意味がだいぶ違い、芯木さんが言いたい意味では受け取ってくれない場合が散見されます。いわんや、「絶対」などという、一神教の影響を受けた西洋文化大好連中が好んで使う言葉は、哲学好みの人たちには刺激的すぎて芯木さんの言いたい内容よりも、その刺激的な言葉に拘ってしまう人がいくらでもいます。

出来るだけ刺激的な言葉を避けてご自分で言いたいことを表現することを工夫すると、芯木さんのご主張に賛同する方も増えるのではないでしょうか。また、どうしても「絶対」と言う言葉を使いたいならば、論述を始める前に、ここでのこの言葉は、、、、を意味するものとして特殊な使い方をしている、などと一言を入れておくと、読者もそのつもりで読んでくださると思います。

いろいろな人がいっぱい書き込んでくれて、芯木(shinwood)さんは今回いろいろ学んだんじゃないでしょうか。芯木さんの今回の作戦の誤りは、世の中には、形式を重要視する人と実態を重要視する人の両方がいることを無視して、実態を重視する芯木さんの一方的な表現を使ってその主張がなされていることです。

「手術は成功した。しかし、患者は死んだ」

要するに、患者の生死の実態よりも、手術の手順と形式の正確さの方に興味を持つ方がこの世の中にはいくらでも居られるのです。そして、哲学好きな人にこの形式...続きを読む


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