出産前後の痔にはご注意!

祖父のお兄さんが昭和7年生まれだったんですが、昭和一桁生まれだと戦争のことを覚えてますか?

A 回答 (12件中1~10件)

本人に聞くのが一番。

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地域によります


土田舎に戦禍は来ませんし
都会は空襲ですからね
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私の母親は昭和元年生まれ女学生で軍需工場に学徒動員です。

三年生まれの弟は15で海軍飛行学校(予科練)に行きました。戦争に行ったんです。鹿児島の知覧特攻隊は15の少年飛行兵ですよ。
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切ないですね。

小学生位だとよく覚えていますよね。

うちの祖母は大正14年生まれですが、長野県から東京に働きに来ていて、今の四谷の防衛省の前辺りの自動車修理工場で住み込みで働いているときに宿泊した方に[うちで働かないか?]と言われて防衛省の阿南陸軍大将の秘書をしていたそうです。
昭和20年1月に「ここは危ないから、君達は家に帰りなさい」と言われて帰って、テレビで戦争の様子を聞いたり、後に東京を訪れたときはすっかり変わっていたのでショックを受けたということでした。

祖母は戦争とは縁なく、のんびり生きていると思っていたけれど、厳しい時代を生きた祖母の事を知り、尊敬の念を感じます。
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私の母が昭和7年で、今87歳です。

戦争のことはよく覚えています。

女性ですし、その年齢ではまだ子供で徴兵されることはない年齢ですが、
学校では勉強よりも労働奉仕などさせられ、藁で作った人形を敵とみたてて竹やりで刺す訓練などをさせられていたそうです。
防空壕も作り、空襲警報がなれば避難。
食べ物がなく、芋のツルを食べたこともあるそうです。

母の家は貧乏百姓でしたが、都会の人が高級な着物を持ってきて野菜と交換して行ったことがあり、ボロボロのモンペの上に、超高級な着物で作った半纏を着せられるなど、アンバランスな部分も。
金属を没収されたり、戦争による苛酷な影響を受けて育った記憶が強い世代です。

国からの戦前戦中の教育は、上から押し付けられたものであったため、戦後の考え方はすんなりと受け入れられたそうです。
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>昭和一桁生まれだと戦争のことを覚えてますか?



昭和一桁でも召集された者、勤労動員された者、子供だった者の別はあるでしょう。
昭和7年ですと、終戦時に12、13歳。皇民化教育を受けていた者が、終戦を境に墨塗り教科書で真逆の教育を受けた世代です。
反面、貧しいことは変わらないながら、将来への希望とか言論の自由とかを感じた世代でしょう。
戦争による経験は総じて悪いことばかりでしたから、旧軍に対しては相当に厳しい評価をする世代です。
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紛れもなく、覚えてます。

もう亡くなりましたが父は昭和元年産まれで、招集され青函連絡船で1つ先の船だったらアメリカ軍に沈められてこの世にいなかったとよく言ってました。また母は昭和8年産まれで、平成天皇と同じ年齢ですが、やはり空襲の中を逃げ回ったと言ってましたよ。
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覚えているでしょう、もしかしたら招集されているんだからね。


私は13年生まれですがいろいろ思い出すことがあるよ。
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人にもよると思うけど、うちのおばあちゃんは昭和11年生まれで


防空壕に避難していた時、近所の人を探していた自治会長さんが
「みんなに隠れろ」と大声で叫んだ直後に機銃掃射で撃たれて
亡くなられたみたい。ご遺体は見ていないけど怖かったと話してくれました。
(家は焼けてしまい、そのまま広島のほうに疎開しました)
ちなみに5年位前の旅行で、戦後の疎開先の近くに行ったのでついでに訪ねたとき
70年ぶりくらいにあった疎開先のお友達が生きていてお話しできて
とても喜んでいました。
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昭和20年が終戦ですから 終戦当時12~13才くらいだったということです


年齢的によく覚えているはず。
覚えているからこそ辛くて語りたくない 思い出したくない人も多いかもしれません
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Q天皇制は将来的になくなるのですか?

未だに歴史系の定番で平積みもみかける網野義彦による「日本の歴史をよみなおす」を久しぶりに読み返したら序盤でタイトルのような事が書いてありました。

この本自体は何年も売れている「歴史好きな人の入り口」の一つみたいな存在で、お世話になった人も多いかと思います。
その分色んな方の眼にもとまってると思いますが、この文章が批判されているところは今のところ私にはありません。
これも不思議です。

そこで質問ですが、タイトルについていかがでしょうか?

Aベストアンサー

この文章が批判されているところは今のところ私にはありません。
これも不思議です。
 ↑
保守的な人からは批判されていますが。




そこで質問ですが、タイトルについていかがでしょうか?
  ↑
氏はマルクス史観に基づいて、天皇制がなくなる
と主張している節があります。
そして、マルクス史観は過去のモノでしょう。

マルクス史観ではなく、他の理由でなくなる
可能性はあると思います。

例えば皇族男子がいなくなるとかですね。
共産党が与党になったとか、
中国辺りに征服されるとか。

天皇というのは必要があって維持されてきた
制度です。
簡単にいえば、数千万、億もいる人民を統治する
ツールとして有用だから、現在も残っているわけです。

従って、その必要性、有用性が無くなれば、天皇制も
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Q豊臣秀吉は朝鮮半島南部くらいなら支配できたのではないですか?

豊臣秀吉の朝鮮出兵ですが、朝鮮の首都(漢城)はすぐに陥落し、次に明軍との戦争になり、明・朝鮮連合軍との戦争になって最終的に撤退することになります。

でも、いくら秀吉軍が強いといっても、さすがに明を征服できる力があったようには思えません。

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そして、毛利や島津、徳川といった、後で逆らってきそうな大大名を朝鮮南部に配置すれば、邪魔者を追い出せますし、一挙両得のように思います。

Aベストアンサー

文禄慶長の役は征明嚮導とか仮道入明と言われたように、
朝鮮は通り道で秀吉は朝鮮を支配する意志がほぼ無いので
秀吉が朝鮮南部だけ統治するということはまずありません。
ただし、思考実験としての可能性を述べてみます。



文禄・慶長の役で、日本が明の参戦で苦戦に陥って
不利になったのは事実と言えなくはないですが、
文禄の役では碧蹄館の戦いをはじめ、第一次・二次平壌城の戦い
慶長の役では第二次蔚山城の戦い、泗川の戦い、順天の戦い等々
ほとんどの戦いで明(と朝鮮連合軍)には戦術的に勝っています。
ちなみに、文禄の役の時に碧蹄館の戦いで大損害を出した明は、
以後は朝鮮の意向を無視して講和に方針転換しています。
さらに慶長の役が終わった後、明史では

  (前略)喪師數十萬,糜餉數百萬,
  中朝與屬國迄無勝算,至關白死而禍始息
 (明史 朝鮮伝(320巻)26年11月)

  10万の兵を失い、100万の糧食を浪費したけど
  中朝(中国)と属国(朝鮮)には勝算が無かった。
  関白(秀吉)が死んだから終わってくれた。

と書かれていたくらいです。
このように、明とはそれなりの勝負はできているので、
本格的に準備をすればいい勝負はしたと思います。

余談ですが、南原城の戦いで見ても判るように
明は朝鮮南部まで軍を進めています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E5%8E%9F%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
講和がうまくいった場合など、状況にもよりますが、
朝鮮南部だから明が来ないというわけではありません。


日本が勝てなかった理由は兵站が続かなかったから。
(慶長の役を含めるなら秀吉が死んだから)
当時、兵糧はある程度を現地調達するのが常でしたが、
朝鮮はそもそも春窮という言葉があるくらい貧しく、
耕作に適する土地が少ないので収穫は期待できません。
戦時には日本・朝鮮・明がそれぞれ徴発したから
ますます何もなくなりました。
たとえ朝鮮南部に限定して支配しても、
長大な国境線を長期にわたって維持するのは
(明側が意図しなくても)焦土戦術となって
かなりの負担で益は無いと思われます。


ちなみに、今の韓国の歴史認識に惑わされて
朝鮮人は果敢に抵抗した事を憂慮する方が多いようです。
確かに住民の反乱はそれなりにてこずりましたが、
日本が漢城に到着した時、国王は逃走し、町は既に焼かれていて
王子二名を捕虜にしたのは朝鮮人の働きなのは有名な話。
碧蹄館の戦いに先立つ第三次平壌城の戦いで
「日本側の戦死者を調べるとほとんど朝鮮人でした」
というオチが朝鮮王朝実録に書いてあるくらい。
  是日天兵當陣斬獲一千二百八十五級、生擒二名、
  竝擄浙江人張大膳、奪馬二千九百八十五匹、
  救出本國被擄男婦一千二百二十五名。
  (中略)
  李如松 平壤之役、所斬首級、半皆朝鮮之民、
  焚溺萬餘、盡皆朝鮮之民
政策さえ誤らなければ統治できなくはないと思います。

文禄慶長の役は征明嚮導とか仮道入明と言われたように、
朝鮮は通り道で秀吉は朝鮮を支配する意志がほぼ無いので
秀吉が朝鮮南部だけ統治するということはまずありません。
ただし、思考実験としての可能性を述べてみます。



文禄・慶長の役で、日本が明の参戦で苦戦に陥って
不利になったのは事実と言えなくはないですが、
文禄の役では碧蹄館の戦いをはじめ、第一次・二次平壌城の戦い
慶長の役では第二次蔚山城の戦い、泗川の戦い、順天の戦い等々
ほとんどの戦いで明(と朝鮮連合軍)には戦術的に勝っていま...続きを読む

Q日本の国旗って韓国の国旗を真似したんでしょうか?

日本の国旗って韓国の国旗を真似したんでしょうか?

Aベストアンサー

太極旗は、李氏朝鮮(高宗)時代の1883年が最初
日の丸は、1870年制定

Q兵隊さんより、慰安婦の方が立場的に偉かったのですか?

兵隊さんより、慰安婦の方が立場的に偉かったのですか?
兵隊さんは、慰安婦に対して敬語口調となり支払いの際にタバコまでも要求されている。終戦間もない1950〜1960年代であれば事実をしっかり映画化してくれる映画監督もいたということだ。21世紀になっていつのまにか従軍慰安婦=性奴隷となりつつあるの?
 ↓
慰安婦とは何者か 古き映画に見る慰安婦(その2)
https://www.youtube.com/watch?v=0XHKT8hKTpY

Aベストアンサー

兵隊と慰安婦を同列に置いて<どちらが偉かったのか>と質問するから変になる。
同じ組織に居る訳でも無いので、「偉い、偉くない」の上下関係は成り立たない。
ビジネス関係としての立場の強い弱いは発生してくるが、どちらが強いとは
一概に言えない。

近年はかの国のお陰で混乱しているが、慰安婦は極めて一般的なものでした。
遊郭(国内の指定された地域)内で売春する者を娼妓といいました。
慰安婦は、日本占領地域(朝鮮も含む)の娼館で兵隊を相手にする娼妓です。
どちらも当時は公認で、いわゆる社会インフラの一部でした。
その中で生きなければならない女性には、彼女ら相応の悲哀も有った事と思います。

さて兵隊との関連ですが、彼女らは娼館主との契約に縛られていました。
軍との関連では、軍は性病予防の為に、彼女らの性病検診を定期的に行い、館主に
よる搾取を防ぐために料金ガイドラインを設定しました。(軍医経験者による、
学生時代に受けた保健体育の講義の記憶。)

歴史家の秦郁彦氏の著述では、戦時中の慰安婦数は約6万人、その内6割が朝鮮半島
出身者で、3割が日本内地出身、残り1割が占領現地の女性でした。朝鮮出身者は
若い娘が多く、内地出身者は年配の者が多かったそうです。朝鮮出身者は人身売買の
被害者も多く、朝鮮人の女衒の暗躍が報道されています。売り手は、娘の両親、親戚、
知人が多く、亭主が売った例まで報告されています。その為に人身売買禁止法の朝鮮への
早期施行が議論されましたが、戦争末期に掛かりそれどころではなくなりました。
(韓国主張との対比:20万人⇔3.6万人、軍が関与し強制的⇔朝鮮人による自国人の
売買、性奴隷⇔性ビジネス(半強制的な面は有るが)。)

日中戦争前の兵隊との関係です。兵隊の休みの日には全員にコンドームが1個支給され
ました。それを持って兵隊は「朝鮮銀行」や「朝鮮ピー」に行ってくると嬉々として
外出したのです。兵隊相手の慰安婦の個室前には行列ができました。
朝鮮出身の若い娘は兵隊相手、内地出身者は下士官相手の様に自然と分かれていた
そうです。兵隊の雀の涙の様な給料。それを大切に持って通う。それで「朝鮮銀行」と
読んでいました。「朝鮮ピー」は「朝鮮Prostitute(売春婦)」の隠語です。
行かない兵隊は、支給品を譲りました。タバコやお菓子や他の用品との交換で。
(軍隊経験者から、直接聞いた話です。)
行列を成して体に乗ってくるのは嫌でも、客は取らなければならない(館主との力関係)。
客ではあるが、乗せて貰って処理したい(弱い客の立場)。立場の強弱ははっきりしません。

兵隊は、貧しい田舎出身の20歳で徴兵された若者が殆どで(当時の農業人口は80%、
日本全体が貧しかった)筆下しの世話に成った方々も多かったと思います。戻っても話す事は
無かった様ですが。
貧しい下層社会からの兵隊と慰安婦の間には、妙な形での共感や悲哀感が有ったと思います。
除隊後の兵隊と所帯を持った元慰安婦(年季明け)の話さえも残っています。
<兵隊さんは、慰安婦に対して敬語口調となり支払いの際にタバコまでも要求されている。>は、
女性とは話す機会も少なかった兵隊と、生業上ちょっとすれっからしに成っている女の関係を
表現しているのかと思います。偉い偉くないの関係を表しているのではないと思います。

兵隊と慰安婦を同列に置いて<どちらが偉かったのか>と質問するから変になる。
同じ組織に居る訳でも無いので、「偉い、偉くない」の上下関係は成り立たない。
ビジネス関係としての立場の強い弱いは発生してくるが、どちらが強いとは
一概に言えない。

近年はかの国のお陰で混乱しているが、慰安婦は極めて一般的なものでした。
遊郭(国内の指定された地域)内で売春する者を娼妓といいました。
慰安婦は、日本占領地域(朝鮮も含む)の娼館で兵隊を相手にする娼妓です。
どちらも当時は公認で、いわゆる社会...続きを読む

Q新幹線の指定席で禁煙を取りたかったのですが、席が空いてなく、仕方なく、喫煙を取りました。そこで、お聞

新幹線の指定席で禁煙を取りたかったのですが、席が空いてなく、仕方なく、喫煙を取りました。そこで、お聞きしたいのですが、新幹線の喫煙席は結構、タバコを吸う人はいますか?タバコの匂いとかは車両に充満しているのでしょうか?ご回答よろしくお願いします。ちなみに、乗る時間帯は18時くらいから20時くらいの京都〜広島です。

Aベストアンサー

煙草に慣れてない方ならやめたほうが良い。
今時喫煙車自体が絶滅危惧車両なので、
そこへの集煙は以前よりも非常に濃くなっています。
昨今は公園とかホール等、各所に喫煙所が設けられてますが、
その中と同等と考えてよいでしょう。
一度入ってみては?特に気にならないようであれば大丈夫です。

京都~広島の利用でしたら、最悪、新大阪で降りる人狙いの自由席で、
という選択肢のほうがましかもしれません。

Q清の康熙帝・雍正帝・乾隆帝が日本侵略を考えなかったのはなぜですか?

清の最盛期は長く、康熙・雍正・乾隆帝の全盛期は130年以上に及び、モンゴル帝国に次ぐ広大な領土を支配しました。
日本ではちょうど江戸時代にあたりますが、その当時の日本が清を恐れていたような記録はなく、清も日本を侵攻しようとは考えなかったようです。

意図していたわけではないと思いますが、相互不可侵の紳士協定が結ばれていたような感じです。
あれだけ領土拡大意欲の強かった清が、日本に対しては一切手を出さず、朝貢を求めるような素振りもなかったのはなぜでしょうか?

Aベストアンサー

小規模な貿易は行われていたようですが、秀吉や倭寇影響か、あまり良い国交関係とは言い難かったようですね。

前王朝の時、倭寇対策が大変だった。
江戸時代になって、おとなしくなったので、あえてちょっかいを出す必要はなかったのでは?

さらに言うと、そのためもあって、清王朝でも海上交通に制限をかけていた。
そして朝貢貿易以外、むしろ鎖国に近い政策だったことも要因の一つではないでしょうか。

Qアメリカ軍による日本の都市に対する空襲やベトナムの北爆などの無差別爆撃って国際法違反で戦争犯罪ではな

アメリカ軍による日本の都市に対する空襲やベトナムの北爆などの無差別爆撃って国際法違反で戦争犯罪ではないのですか?

Aベストアンサー

戦争犯罪ですよ。

非戦闘員を殺害したんですから。

しかし、国際間には正義も悪もありません。

勝った方が正義になるのです。

イラク戦争もしかりです。

大量破壊兵器がある、という名目で侵略し
数十万のイラク人を殺害しましたが、
大量破壊兵器はありませんでした。

それで慌てて民主化だ、独裁打倒に切り替え
ました。

こんなアホな理由でも、米国は処断されませんでした。
勝ったからです。
負けたイラクは、無実の罪で大統領が処刑されました。

国際関係は弱肉強食なのです。

問題は、日本人の中に、そうした勝者の戦争犯罪を
正当化しようとする人が少なくないことです。

Q豊臣秀吉が人身売買を許せないとしたことについて

織田信長はキリスト教の布教を認め日本各地にキリスト教が広まりました。その後を継いだ豊臣秀吉は、キリスト教布教に対し見せしめのためにバテレンを始め幼いキリスト教信者まで死罪にするなど強い弾圧を行いました。その理由のひとつに、秀吉は婦女の人身売買に宣教師が関わっていたことを知りキリスト教に怒りを持ったという説を何かで知りました。
この説は真実なのでしょうか。

Aベストアンサー

真実です。ほとんどの人が知りませんが、戦国時代には日本人の考える「人身売買」と西洋の「人身売買」は全く異なるものだったからです。

西洋の人身売買、奴隷制度、というものは「人間の形をした家畜」「元々死んでいてもいいものを拾って使う」というところから来ています。
 それは古代の民族戦争で勝った方が「勝者の権利」で、負けた民族を皆殺しにしていたところを、奴隷商人などがお金で買い取って「人間の姿をした家畜」として方々に売ったところから始まっているからです。古代では「民族が違い、宗教がちがうなら人間ではない」のが普通だったからです。

日本も大和朝廷が成立する以前の「生口」などは同じ考えでした。豪族ごとに「自分のたちのコミュニティ」があり、それ以外の人は「同じ人間ではない」状態だったからです。これを変えたのが大和朝廷の成立でこれにより「朝廷に参加する豪族とその身内はすべて同じ人間」になったのです。

そのため奈良から平安期にかけて、人間を家畜として扱う奴隷制度は消えて行きました。鎌倉時代や室町時代など大きな騒乱があると奴隷制が復活するのですが、幕府は何度もそれを違法として取り締まっていきます。残ったのは「年季奉公」という概念だけ、つまり「人生の20年ぐらいを買い、その分の働きをしたら解放される」というものだけだったのです。(実際には女郎屋などは、化粧代や部屋代などを取って、なかなか年季が明けないようにしていました)

ですから、当時の日本人としては「家畜のように人が売買されて、一生奴隷として暮らす」と言うこと自体に拒否感があり、非常に野蛮なことだと考えられていたのです。当然、秀吉にもそういう感覚はあったでしょう。

宣教師は日本に来て非常に喜んだのは「日本では他の国の相場の1/3で奴隷が買える」ということです。当たり前でしょう。日本は20年(人生の1/3ぐらい)分の報酬で人身売買されていて、奴隷は一生なのですから値段が同じなわけないのです。

そのため宣教師は多数の日本人を口入屋から買い入れて外国に連れて行っていました。ところが何年経っても年季が明けず「お前は一生奴隷として買い入れた」と知った日本人が「騙された」と思って逃げてきたのを秀吉が知ったので激怒したのです。
 
 ちょうどその頃秀吉は関白職になり、関白は「天皇に変わって日本の運営に責任を持つ」役割だったため「大和民族が融和して奴隷制を廃止したのになんて野蛮なことをするのか!」と怒ったわけです。

結局それが原因になって、宣教師と軍事力の関係性などがだんだん明るみになり、南蛮の侵略方法が明らかになったので、のちの鎖国につながっていく、ということになるわけです。

真実です。ほとんどの人が知りませんが、戦国時代には日本人の考える「人身売買」と西洋の「人身売買」は全く異なるものだったからです。

西洋の人身売買、奴隷制度、というものは「人間の形をした家畜」「元々死んでいてもいいものを拾って使う」というところから来ています。
 それは古代の民族戦争で勝った方が「勝者の権利」で、負けた民族を皆殺しにしていたところを、奴隷商人などがお金で買い取って「人間の姿をした家畜」として方々に売ったところから始まっているからです。古代では「民族が違い、宗教...続きを読む

Q江戸時代にスペインやオランダが、日本に対して低姿勢だったのはなぜですか?

江戸時代前期というとスペインやオランダが強かった頃であり、スペインはフィリピンを、オランダはインドネシアを植民地とし、原住民に対して過酷な収奪をやっていました。
しかしながら、日本に対しては一切手を出さず、徳川幕府がキリスト教を迫害しても文句を言わず、オランダに至っては貿易は出島のみ、それもキリスト教を布教しないという条件でようやく認めてもらっている有様です。

このように、江戸時代の世界の覇権国とも言えるスペインとオランダが、なぜか日本に対しては強いことを言えず、低姿勢に徹したのはなぜでしょうか?

Aベストアンサー

彼らは、まずキリスト教神父が乗り込み
現地人を宣撫して、それから本国から軍隊を
送り込み、占領してしまう、
という方法をとっています。

日本は、そうした戦法をいち早く察知し
キリスト教が広がるのを阻止しました。
そもそもですが、一定レベル以上の文化、文明が
既に発達している地域で、新たな宗教を布教する
のは困難なのです。

このように、キリスト教布教に失敗した、という
のがまず上げられます。


次は武力です。

スペインの神父が、本国に当てた書見が残って
いますが、それには
「他のアジア諸国と異なり、日本の武力は強力
 である」
旨の記載がうかがえます。

幸いというか、戦国時代の余韻が残っていた
時代です。
鉄砲の数も世界一、と言われたほどです。

植民地にするのはいじめるためではありません。
儲けるためです。

武力で植民地化するよりも、貿易で儲けた方が、
という判断が働いたのでしょう。

Q新5000円札の津田梅子は津田塾大学の設立者だそうですが今も津田塾大学という大学はあるのですか?廃校

新5000円札の津田梅子は津田塾大学の設立者だそうですが今も津田塾大学という大学はあるのですか?廃校した?

Aベストアンサー

質問者さんは日本人? 女子大の人気が落ちたとはいえ、津田塾はかつては女の東大と言われたほどの名門女子大で、当然今でもあるけれど、釣りの質問かな?


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