『ボヘミアン・ラプソディ』はなぜ人々を魅了したのか >>

次の汽笛さんの考え方について 問います。

【Q:キリストの石打の刑を絶対善で考える。】 ~~~~~~
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/11097138.html
回答No.19

キリストの本質は愛、だと思います。
キリストは神の本質は愛だと、悟ったのだと思います。

「おお!神よ、何故あなたは私を見捨てるのですか」
この言葉を訳せば
「おお!神よ、あなたの本質は愛ではないのですか」
となるのです。

キリストの神への挑戦、なのです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

☆ 《キリストの神への挑戦》なのだというとき 《父なる神が
人間イエスと成った子なる神キリストを十字架じょうに見捨てた》
そのことを批判し批難しているということなんですか?

《愛》をおこなうなら どうしたということになりますか? 

見捨てはしなかった・つまり 十字架じょうに死なせはしなかっ
たという意味ですか?

質問者からの補足コメント

  • №14お礼欄のつづき1

    ★ ~~~
    これが聖書の結論であり、

    キリストが最後に
    「神よ、何故貴方は私を見捨てるのか」という言葉を残したと書かれているのは、
    その結論を説くためなのかなって思いました。
    ~~~~
    ☆ すごいですね。わたしが言うのもヘンですが ブラヴォ。

    ★ ~~~
    私は、神などいないと言った方がよっぽど楽だし、簡単だし、またそれが現実な
    んですが、
    そんな自分の延長線上を生きていくのとは違って、
    信仰を持つとか、何かを信じるというのは、
    こんな地獄のような中で、
    神がいるとは思えない状況の中で、
    それでも、此処にこそ神はいたんだ、
    と言うことにあるのかなって思いました。
    ~~~
    ☆ 余分なつけ加えになりますが 神はナゾですから 《無い神》も神なんです。
    かたちのあるものは 希望ではないとも言われます。

    つづく

    No.14の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/05/08 04:28
  • つづき2

    ★ 神が、愛であり、希望であり、赦しであり、和解であり、平和であるとする
    ならば、
    もしその神がおられないなら、愛も、希望も、赦しも、和解も、平和もこの世に
    はなくなってしまう
    ☆ そのことが おそらく《無い神 あるいは 見えざる有る神》として人びと
    に――普段は知られざるところで――根づいているし 息づいているということ
    なのかも知れません。

    (けれども オシヘをつくってこれを あたかも絶対だと言い けっきょく押し
    付けるようにして広める宗教では うるわしくありません)。


    ★ だからこそ、 神を反対の形の中に探し出す。
    ☆ 言いかえると 神は 有る無しや成功失敗や真偽・善悪・美醜を超えている
    ナゾだと言われます。

    つづく

      補足日時:2019/05/08 04:31
  • つづき3

    ★ ~~~~
    人生とはなにか。幸福な生涯とは何か。
    神様が常にいる、常に見守ってくれている人生、それも然り。

    しかし、
    もし神様が見いだせない日が来たらどうするのか。
    ~~~~
    ☆ 奥がふかいですね。

    ★ ~~~~
    キリスト教の説く幸福な人生とは、たとえ、闇の中を歩まねばならない時であっ
    ても、
    「神はおられる」「神を探そう」と歩み続ける人生であり、
    「なぜですか」と問い続ける。「どこですか」と探し続ける。愛するとは、信じ
    るとは探し続けること。

    「神はいない・希望はない」という「自然で当然な結論」に闘いを挑む、あえて
    不自然な道を行く。
    ~~~~~~~
    ☆ はい。

    つづく

      補足日時:2019/05/08 04:33
  • つづき4

    全体として 次のようにまとめておられます。
    ★ ~~~~~
    聖書では
    神無き現実にいた神=
    十字架のイエスが復活されたと書かれているようですが、
    なんとも自然を無視したお方なんですが、
    その不自然な方がいてくださることが、私たちにとっては最後の希望であり、
    希望はある。苦難の死の中に神はおられる。

    と、これがキリストの信仰の教えのようなんですが、

    愛の概念も人生の概念も
    信仰してない私とは違うのかなって思いましたが、

    けれど、
    どんな苦境の中にも希望を持ち続ける、探し続ける

    そんな考え方は、
    共感したいものがあるかなっ
    てのは思いました。
    ~~~~~
    ☆ 信仰と宗教との峻別のほかは わたしが言うのもヘンですが 文句なしです。


    ★ 質問は、汽笛さんとのやり取り?のようですが、
    ☆ 広がることは 汽笛さんも望んでおられましょう。
    ありがとう。

      補足日時:2019/05/08 04:39

A 回答 (19件中1~10件)

詩編22編は


「わが神、わが神。
どうして、わたしをお見捨てになったのですか。」
で始まる、イエスの十字架を預言した
ものとも言われています。
新改訳では、21節に
「あなたはわたしに答えてくださいます」
と、いう言葉の挿入があり
そこから讃美へと転調されています。

この「あなたはわたしに答えてくださいます」
という言葉は
「あなたはわたしに答えてくださいました」
とも訳すこともできる箇所です。

前半部に
「けれども、あなたは聖であられ、
イスラエルの讃美を住まいとしておられます」22:3
と、あります。
これは重要な鍵となるフレーズです。
「聖」とはseparate 分離するという意味を持ちます。

聖なるお方。私たちが知ることも
傍に寄ることもゆるされない
いわば、人知でははかり知ることもできない
お方が、イスラエルの讃美、
わたしたち人間の讃美を住まいとしておられる
というのです。

それゆえに
「どうか、遠く離れないでください。
苦しみが近づいており、助ける者がいないのです」22:11
という叫びが
「まことに、主は悩む者の悩みを
さげすむことなく、いとうことなく
御顔を隠されもしなかった
むしろ、彼が助けを叫び求めたとき
聞いてくださった」22:24
疑惑から讃美へと転換します。

とても真実をうちに秘めている詩編だと思います。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


★ 「聖」とはseparate 分離するという意味を持ちます。
☆ よく分からなかったんですけど 《聖別する》という意味ですね。わかり
ました。


★ 詩編22編は
「わが神、わが神。
どうして、わたしをお見捨てになったのですか。」
で始まる、

★ イエスの十字架を預言したものとも言われています。

★ 新改訳では、21節に
「あなたはわたしに答えてくださいます」
と、いう言葉の挿入があり
そこから讃美へと転調されています。

☆ そして では何故 磔を抜け出せなかったか? という問いになると思い
ます。

むつかしい主題ですよね。



① 悪魔――つまり死の制作者であり 死そのもの――に勝利するためには
その悪魔と同じようになる――つまりは 死の淵まで行き しかもその死そ
のもののところまで同道するというかたちを取る――必要があった。か。


② サンヘドリン(高等法院)のお偉方や大衆またローマの人間たちは 自
分たちが イエスを迫害するということについて 何をしているかが分から
なかった。その人たちがすくわれるためには 死の道に甘んじて就かなけれ
ばならなかった。か?


③ ひとつの見方として 神の子なら そこから降りて来いという揶揄を受
けつつも もし降りて行ったなら それは神なのだから 出来て当然だと受
け取られて すべておしまいとなる。

そしてまた別の見方では もし人間イエスとしてだけなら あぁ けなげな
男もいたもんだ ローマ総督から見ても別に咎があるとは思えなかったその
《罪》のために磔にまでなって去って行くとは。よくやったよ。――という
ことで おしまいとなる。

けれども そうではなく 人間であるだけではなく 同時に神の子でありみ
づからも父なる神と一体であると言ったその神が 人間の裁きを受けてそれ
に甘んじて従ったとは。

――ということで 人それぞれをして《神とわれとの関係》について永遠に・
つねに思いを致さしめることになる。か?

お礼日時:2019/05/16 21:55

あなたがお人好しなだけね。


全て仕組まれたシナリオですよ。キリストは処刑される可能性が分かったので偽物を立てて、掴まえさせて、偽物がすべてを演じた。本物は復活と称して後で出てきた。
聖書は弟子が書いたもの。キリスト本人は書かない。だから、信仰の書として幾らでも脚色可能。初めから双子とか、よく似た異父兄弟がいたとかね。要は替え玉がいて、常に影武者として守っていて、ユダに売られてしまったのかな。

マリアが不倫かレイプでキリストが生まれたという説はよく聞く話。
誰かヨセフ以外の男と結ばれたというのも読む人の中ではよく言われる。
実父はザカリヤとかローマ兵とかいろんな説あり。神の子とかいうことで宇宙人説まで飛び出す。ヨセフは養父ね。
マリアの子でないなんて説まであるが、それは極端。
不倫かレイプ辺りで止めておきましょう。ともあれ、誰かほかの男と出来た子と思います。

奇跡も皆科学的証明可能と思うが、書いた時代は科学がないから、いくらでも表現でごまかせたのね。

懐疑的な見方かもしれぬが、こういうことにエホバの証人さんは問うと黙るのですが、共鳴者もいます。私はエホバの証人さん相手によく話します。
みなサービスいいですね。
絵本とかいろんなもの貰ったなあ。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。



科学でもその認識は間違えますが それは きちんとした推論をあきらか
にしているので どこで間違えたか どこに問題があるのかが やはり明
らかになります。

あなたの言っている話は どうでもよい話ばかりです。

お礼日時:2019/05/11 11:56

キリストが磔にかかったのは嘘だよね。


偽物が処刑された時の断末魔の叫びね。

誰かが言ったね。キリスト教はイカサマ宗教かとね。

マリアが不倫してキリスト生んだ。キリストを含めた聖人の起こす奇跡の多くは手品かな。
神の正体は宇宙人か。

こういう解釈は不謹慎かね。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ キリストが磔にかかったのは嘘だよね。
☆ キリスト(救世主または神の子)と呼ばれた人間イエスという男が
実在の人物だったかは ある程度の議論を呼んでいます。その信仰の外
における証拠資料が少ないからです。

★ 偽物が処刑された時の断末魔の叫びね。
☆ あぁ。《嘘》というのは 磔の刑を受けたことは 史実であって・
だけれども イエスその人は その刑をすり抜けたという意味ですか?

そうですね。すでに前もって 十字架じょうに去る(死ぬ)ことが分か
っていて イエスは泣きながらその盃を取り除いてくださいと願ったし
キリストは 父なる神のみこころのままにと言って 盃を飲むことに同
意しています。

つまり こうであるなら ニセの人間が磔になったという見方は 筋が
違うようにも見られます。


★ 誰かが言ったね。キリスト教はイカサマ宗教かとね。
☆ 宗教というう宗教は――その〔思考すべき〕オシヘを無条件に心に
受け容れなさい(つまり 信じなさい)と説くならその限りで―― す
べてアホンダラ教です。

個人の信仰とは 別です。


★ マリアが不倫してキリスト生んだ。
☆ それは 俗説です。許婚のヨセフとコイトスをして イエスを生ん
だのです。そして そのとき同時に 聖霊によってみごもったという恰
好です。


同時にです。すなわち 人間イエスであり神の子キリストである一人の
存在を生んだのだと言われています。

飛躍がありますが 表現の問題として捉えれば 何の問題もありません。



★ キリストを含めた聖人の起こす奇跡の多くは手品かな。
☆ 奇蹟は あくまで表現の問題です。物語であり 文学です。その虚
構をとおして わたしたちがどんな主観を形成しおのれの真実をつむぐ
か 人間性のあり方をどう捉えるか。これが 問われています。

聖書は それだけの内容を秘めていましょう。


★ 神の正体は宇宙人か。
☆ AI も知らない人間でして 宇宙人についてもよく知りません。あし
からず。



★ こういう解釈は不謹慎かね。
☆ あらゆる疑問は とうといものです。解釈し批判する相手について
も もっとよく調べていくと さらによいでしょう。

お礼日時:2019/05/11 09:06

ブラジュさん、ありがとうございます



はい、
私のハンネは長いなと
自分でも思います笑

ラヴサイケデリコという
歌手の名前からとりました。

略して「ラヴ」でよいです。
でも抵抗ありましたら笑、
少しもじって
「ラフ」とかでも、
なんでもよいですよ…もじれてないですかね笑

信仰に関してのブラジュさんの考え方は、
私にはなかったので
面白くなりました

もう一つのスレも
ありがとうございます
読んでみます

たたき台なんですか?笑
そうゆう表現も
皆さんがブラジュさんに対して
愛着といいますか、
慣れ親しむといいますか、
そんなところでもあるのかなって思いました笑
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この回答へのお礼

サイケは おかしいから デリコ。いや これも なんかおかしい
ですね。

全部を言ったほうが よいみたい。


ラヴサイケデリコさん ご回答をありがとうございます。





理論のほう ひととおり どうぞ見てやってみてください。


かなり練れて来ている仮説ですが なおまだ改善の余地があるかと
思います。

みなさんからの批判によって 考え直して行きます。

お礼日時:2019/05/08 15:40

bragelloneさん、こんにちは



ご指摘ありがとうございます

>私は無宗教なのですが、

ここの部分は、正しくは
「私は無信仰なのですが」
といった方が的確な表現だったのですね
すみません笑

補足もお礼もありがとうございます

❀疑問に思ったのですが、

> 余分なつけ加えになりますが 神はナゾですから 《無い神》も神なんです。
かたちのあるものは 希望ではないとも言われます。

ここにある、”神はナゾですから”というのは
神の存在自体云々というより、
神が何であるかという概念を説明する場合の意味合いですか?

> おっしゃるところが まさに信仰の問題ですね。(ですから 余計なことを
言いますと ほんとうは世に言う《キリスト教》という宗教は 信仰ではないわ
けです)。

なるほど、言いたいことがわかるような気がします。

ですが、例えば私個人が
神なき絶望の現実の中でも「神を信じて探し続ける」という観点からしたら、
信仰ということにはなりえませんでしょうか?
もし成りえないとしたら、これは一体何事に思われますか?
(ん?笑、なんか表現がまた怪しいかも?笑)

それから私個人が思うに
キリストの本質は「救うこと」にあったのかなって思います。
特にキリストの人柄って罪人に優しい印象を持ちます
誰しも罪を犯すけれど、罪を責めるのではなく
罪人であっても誰であっても
「神=救い、希望」があられる(もしかするとこれを人は愛と呼んだのかと)

なので
bragelloneさんの仰るとおり、”弱いときにこそ強い”
に少し似たようなそんな印象です。
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この回答へのお礼

LOVEPSYCHEDELICOさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。
お名前は なかなか長いですね。

全体として ちょうどいま挙げている質問がありますので その趣旨説明を
参照してくださいますか?

【Q:一般および個別絶対性理論 ならびに 特殊絶対性仮説 または 宗教への
絶対批判】
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/11097065.html

ぜひ たたき台にして よかったら自由な批判を寄せてください。




★★ >私は無宗教なのですが、
★ 「私は無信仰なのですが」
☆ 細かくなりますが 《無宗教》でよいのだと思います。

そして 神は 普遍神ひとつしかないはずであり しかもこれは 《有る神》
と言っても《無い神》と言っても 同じことだと考えます。《或る無し》を
超えているからです。

つまり――わたしの考えですが―― 《無信仰》とは 《無い神とわれとの
カカハリ》を言うものと思います。そういうかたちでの《普遍神信仰》なの
だと捉えます。




★ ですが、例えば私個人が
神なき絶望の現実の中でも「神を信じて探し続ける」という観点からしたら、
信仰ということにはなりえませんでしょうか?
☆ 《信仰》とは 《神とわれとのカカハリ》です。

《或る日ふと 心の窓をノックする音が聞こえる。もしこれを神の訪れだと
捉えたなら この声を 無条件で心に受け容れるとき 信仰が生じる》と思
います。

気づく前にも 《神とわれとの関係》はありましたが 意識(ないし自覚)
するようになるのだと見ます。

もし仮りにこんな声などは 神ではないと判断して わたしは神を信じない
というふうに自己表現したとすれば それは 《普遍神を〈無い神〉として
捉え それとのカカハリを自覚的に持つことになった》のだと見ます。つま
り そういうかたちの信仰なのだと。

神は けなされても ののしられても 何の痛痒も感じません。反発という
反応において 信仰を持ってくれればよいということかも分かりません。


★ キリストの本質は「救うこと」にあったのかなって思います。
☆ 主観の内に――隠す必要はないでしょうが――いだいているとよいと思
います。

神とわれとのタテの関係は 人と人とのヨコの関係には そのままでは入っ
て行かないものと思います。

お礼日時:2019/05/08 13:29

bragelloneさん、こんばんは



私は無宗教なのですが、

宗教の概念って、おそらく、私のように信仰していない者とはまた違う概念があるんですね。
私は不勉強で世間知らずなので大変申し訳ないのですが、
この質問をみて考えさせられました。

キリストは最後、神に対して批判をしたわけでもなく、避難をしたわけでもなく、

キリスト自身が、神の存在を探し、そして他の者たちに神の存在を提示したのかなって思いました。

キリスト教の哲学?というのかわかりませんが、
キリスト教の信仰というのは、

何故私を捨てたのかという理由を探すことではなく、

何故私を捨てたのかと言わざるを得ないその現実の中に神を見出すのが宗教、信仰の概念なのかと。

さらに、聖書が説明する神というのは
見捨てられた者の姿(=キリスト)をもって私達の前に現れると。

これが聖書の結論であり、

キリストが最後に
「神よ、何故貴方は私を見捨てるのか」という言葉を残したと書かれているのは、
その結論を説くためなのかなって思いました。

私は、神などいないと言った方がよっぽど楽だし、簡単だし、またそれが現実なんですが、
そんな自分の延長線上を生きていくのとは違って、
信仰を持つとか、何かを信じるというのは、
こんな地獄のような中で、
神がいるとは思えない状況の中で、
それでも、此処にこそ神はいたんだ、
と言うことにあるのかなって思いました。

神が、愛であり、希望であり、赦しであり、和解であり、平和であるとするならば、
もしその神がおられないなら、愛も、希望も、赦しも、和解も、平和もこの世にはなくなってしまう

だからこそ、

神を反対の形の中に探し出す。 

人生とはなにか。幸福な生涯とは何か。
神様が常にいる、常に見守ってくれている人生、それも然り。

しかし、
もし神様が見いだせない日が来たらどうするのか。 

キリスト教の説く幸福な人生とは、たとえ、闇の中を歩まねばならない時であっても、
「神はおられる」「神を探そう」と歩み続ける人生であり、
「なぜですか」と問い続ける。「どこですか」と探し続ける。愛するとは、信じるとは探し続けること。 

「神はいない・希望はない」という「自然で当然な結論」に闘いを挑む、あえて不自然な道を行く。

聖書では
神無き現実にいた神=
十字架のイエスが復活されたと書かれているようですが、
なんとも自然を無視したお方なんですが、
その不自然な方がいてくださることが、私たちにとっては最後の希望であり、
希望はある。苦難の死の中に神はおられる。

と、これがキリストの信仰の教えのようなんですが、

愛の概念も人生の概念も
信仰してない私とは違うのかなって思いましたが、

けれど、
どんな苦境の中にも希望を持ち続ける、探し続ける

そんな考え方は、
共感したいものがあるかなっ
てのは思いました。

なんだか、質問は、
汽笛さんとのやり取り?のようですが、
まだ締められてないようでしたので、回答しにきてみました。すみません笑

参考になれば幸いです。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

こんばんは。(お早うございます)。ご回答をありがとうございます。

★ 私は無宗教なのですが、
☆ わたしの考えをいきなりぶつけますが 《宗教》は――教義無しでナラハシ
として共有されている場合がありますが―― オシヘであって(それは 考える
ことですから) 信じることとは関係ありません。

《信じる(信仰)》とは 無条件で無根拠にて神を――と言ってもナゾですから
その名前を――心に受け容れることです。

シュウキョウは 組織宗教であって オシヘを掲げ これのもとに集団を形成し
学習のため・生活協同のため・あるいは商売のために活動します。

オシヘは 信仰〔する人の得たヒラメキ・観想〕から来ていますが 集団を形成
したときには 個人の信仰は 二の次になります。あたかも組織が 個人の信仰
をつくり管理します。すべて――信教・良心の自由をないがしろにするなら――
無効です。

★ この質問をみて考えさせられました。
☆ ありがとうございます。

★ ~~~
キリストは最後、神に対して批判をしたわけでもなく、避難をしたわけでもなく、

キリスト自身が、神の存在を探し、そして他の者たちに神の存在を提示したのか
なって思いました。
~~~~
☆ たぶんそこが むつかしいところなのだと思います。№10お礼欄で触れた
『詩編』(旧約聖書の一編です)の一節をキリストが引用したという見方が参考
になるかと思います。

すなわち:
★ ~~~
キリスト教の信仰というのは、

何故私を捨てたのかという理由を探すことではなく、

何故私を捨てたのかと言わざるを得ないその現実の中に神を見出すのが宗教、信
仰の概念なのかと。
~~~
☆ おっしゃるところが まさに信仰の問題ですね。(ですから 余計なことを
言いますと ほんとうは世に言う《キリスト教》という宗教は 信仰ではないわ
けです)。

★ さらに、聖書が説明する神というのは
見捨てられた者の姿(=キリスト)をもって私達の前に現れると。
☆ これは おもしろいですね。誰もが一人のこらず《神から? 世間から?
見捨てられなければならない》わけではないでしょうが そのように《世界にわ
れひとり(独り)》と知るようになったときに信仰がチカラとなるのでしょうね。

(わたしは 弱いときにこそ強い。/誇るなら わたしの弱さを誇ろう)。

つづく

お礼日時:2019/05/08 04:25

僕的にはかわらないあなたが可愛いとおもうが、


あなたのためにはあなたはもっと恥をかく経験をしたほうがいい。
ネットではなくリアルな哲学サークルで。
それが無理なら実名式質問サイトのQuoraつかってみたらいい。
雪山君から教えてもらったサイトだ。
私の実名もばれる可能性があるが成り行きにまかせることにした。

あなたの人生は自分の好きにしたらいい。
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この回答へのお礼

恥ぢも掻いていますし 好きにしてもいます。


コメントをありがとうございます。



専門的に〔ならざるを得ないし ならなければいけないのですが〕
なって言わば空中戦のような議論になると 肌に合うかどうかが
分からなくなるし 襞をかき分けて奥に迫ることも あんがい出
来ないのです。

そして 理論は いわゆる中間層を成すふつうの人びとのあいだ
にしっかりと根を張ることが 必要であり重要でしょう。

つまり そのためには 哲学サークルやQUORAよりも いまの
この質疑応答の場のほうが――いまの段階では―― 実り多いも
のと思っています。

考えが変わったら それに従って行きます。



そして 誰かが新知見を提出したなら みんなは寄ってたかって
それに対して有益な野次を飛ばすほどでないと ダメでしょう。

活気がありません。まだ ここにはありません。ほとんどが 小
さくまとまっています。あなたからも カツを入れてみてくださ
い。

お礼日時:2019/05/04 08:46

これは消費期限は消費起源だと知りましたとか言う


レトルトのツイッターの派k類ですか。
イライラしますね。
江すえる歯南アのでしょうか。まだ山口さんが関係有るのでしょうか。
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この回答へのお礼

ん?

お礼日時:2019/05/04 00:19

神勅旨


ぱうろの手紙を参照し照られないので、文章がわかりませんが
現象とか現前プレゼンスは信じる必要が無いのでh層化。
体験とか経験とかはこれでも錯覚の問題が有るとは思うのですが。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

どうぞ。:
▲ (コリント後書 13:8-13 ) ~~~~~~~
http://bible.salterrae.net/kougo/html/1corintian …

13:8 愛はいつまでも絶えることがない。しかし、預言はすたれ、異言は
やみ、知識はすたれるであろう。

13:9 なぜなら、わたしたちの知るところは一部分であり、預言するとこ
ろも一部分にすぎない。

13:10 全きものが来る時には、部分的なものはすたれる。

13:11 わたしたちが幼な子であった時には、幼な子らしく語り、幼な子
らしく感じ、また、幼な子らしく考えていた。しかし、おとなとなった今
は、幼な子らしいことを捨ててしまった。

13:12 わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。
しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう。わたしの知ると
ころは、今は一部分にすぎない。しかしその時には、わたしが完全に知ら
れているように、完全に知るであろう。

13:13 このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、こ
の三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

☆ いまただちに神直視が成るということではないと思います。

日から日へ わたしたちは 聖霊によってのように変えられて行くものと
思います。

お礼日時:2019/05/04 00:18

失礼しました。

何に対して「いいえ」と言ってしまったのか、今となってはわかりません。

付け加えますと、「なぜ、わたしをお見捨てになったのですか」
これは人間イエスとしての、神に対する最後の語りかけでした。
>神の本質(愛)がまだ民衆に伝わってないではないかという、神に対する訴え、叫び
という汽笛さんの見解、納得しました。
極刑といわれる十字架による痛みの中で、わたしを見捨て、もしもそうだとしたら、人間は神の愛を知らずに滅びるしかないのではないか、とまでイエスは思い至ったのかもしれません。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

ひとつの説として 詩編の一編が その初めの句だけ引用されているのだ
という解釈です。

▲ (詩編 22編全体) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
http://bible.salterrae.net/kougo/html/psalms.html

22:1 わが神、わが神、なにゆえわたしを捨てられるのですか。
(エリ エリ ラマ・サバクタ二)
〔エル(神)‐イ(わが) エル-イ
ラ(ために)-マ(何の) サバク(見捨てる)-タ(きみが)-ニ(われを)〕

なにゆえ遠く離れてわたしを助けず、
わたしの嘆きの言葉を聞かれないのですか。

22:2 わが神よ、わたしが昼よばわっても、あなたは答えられず、
夜よばわっても平安を得ません。

22:3 しかしイスラエルのさんびの上に座しておられる
あなたは聖なるおかたです。
・・・

22:6 しかし、わたしは虫であって、人ではない。
人にそしられ、民に侮られる。
22:7 すべてわたしを見る者は、わたしをあざ笑い、
くちびるを突き出し、かしらを振り動かして言う、
22:8 「彼は主に身をゆだねた、主に彼を助けさせよ。
主は彼を喜ばれるゆえ、主に彼を救わせよ」と。
・・・

22:16 まことに、犬はわたしをめぐり、
悪を行う者の群れがわたしを囲んで、
わたしの手と足を刺し貫いた。
22:17 わたしは自分の骨をことごとく数えることができる。
彼らは目をとめて、わたしを見る。
22:18 彼らは互にわたしの衣服を分け、
わたしの着物をくじ引にする。
・・・

22:21 わたしをししの口から、
苦しむわが魂を野牛の角から救い出してください。

22:22 わたしはあなたのみ名を兄弟たちに告げ、
会衆の中であなたをほめたたえるでしょう。
・・・

22:25 大いなる会衆の中で、
わたしのさんびはあなたから出るのです。
わたしは主を恐れる者の前で、
わたしの誓いを果します。
・・・
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

☆ つまり 途中で転調がなされているということのようです。

疑問から賛美へと変わるという意味です。

お礼日時:2019/05/03 06:16

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