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般若心経では、何もかもが無だと否定されています。
1. 無・色受想行識
2. 無・眼耳鼻舌身意 色声香味触法 眼界・・・意識界
3. 無・苦集滅道

質問です。無だといわれている命題は、般若心経より前は仏教の教え(釈迦の教え)だったのですか?
その教えは何に(どこに)書いてあるのですか?


般若心経を唱えていると、否定されているものが頭に残ってしまうのです。
世界は、これらでできているのではないか、と思ってしまいます。

ご教示お願いいたします。

以上

A 回答 (4件)

最初に、


>般若心経が無だといっている対象は、仏教のどこに存在するのですか?
>「無だといわれている命題は
>般若心経より前は仏教の教え(釈迦の教え)だったのですか?」

「無」というのは、中国仏教によって、特別な意味が与えられましたが、しかし、この般若心経をどのように読んでいるかにもよりますが、般若心経に、特別に「無」という言葉に概念として意味が与えられているとは思えません。

大乗仏教の中心的な思想は、「空(sunyata)」ですが、中国に渡って、仏教が中国に伝来する数百年も前、老荘の思想の「無」を優先させたのではないか、と私は思っています。つまり、仏教のどこにというよりも、中国仏教の中では、「無(abhava)」の概念を上位とし「空」と同義で使用しているようです。しかし、以下の文章でも分かるように、般若心経の「無(なし)=na」は単なる否定形で、特殊な意味をもたせたてはいません。

この般若心経の「無」は、「無レ色。無レ受想行識。」
漢語の単なる否定形です。

na rupam na vedana na samjna na samskara na vijnana
[no form no feeling no thought no choice no consciousness ]

na caksuh srotam na ghrana jihva kaya manah
[ no eye ear no nose tongue body mind ]

na rupa sabda gandha rasa spistavya dharmah
[ no form sound smell taste touch ]

dharmas na caksur dhatur ya van na mano vijnanam dhatur
[no eye-area up to no mind-consciousness area ]

引用; 直リンク:
https://huntingtonarchive.org/resources/download …

むしろ、「色不異空・空不意識・色即是空・空即是色」...「是諸法空相」の「空相」のほうが重要ではないかと思います。

般若心経によれば、「認識している我がない」といっているので、自分の存在さえ意味がなくなってしまいます。それは、見方を変えると、私たちの存在は、相対的なものだと言えるわけです。西田幾多郎の『絶対矛盾の自己同一』と同じことのように思えます。

絶対矛盾の自己同一
https://www.aozora.gr.jp/cards/000182/files/1755 …

>その教えは何に(どこに)書いてあるのですか?

釈迦の直接の教えとして、確かなものは一つありません。これは、上座部仏教でも同様です。もしも、原典回帰で、原始経典として阿含経(アーガマ)を探すということを意味するなら、

『般若心経』の以前のスタイルでは、上座部仏教の経典の『雑阿含無常経』にあると、岩波文庫『般若心経・金剛般若経』の訳者の一人、紀野一義先生がその著書で挙げています。
「色は無常なり、無常なるは即ち苦なり、苦なるは即ち我に非ず、
 我に非ざれば亦我所に非ず、是の如く観ずるを、真実観と名づく、……」
(紀野一義『「般若心経」講義』PHP文庫, p124-125)

しかし、いわゆる小乗仏典は、上座部仏教の経典であって、大乗仏教経典として、いくぶんはパラレルに存在するだけで、どちらがオリジナリティに近いとはいいがたいものがあります。
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この回答へのお礼

大変ご親切に、しかも詳しくお教えいただき、ありがとうございました。

私の理解するところでは、次のようになります。

1. 無について
大乗仏教(般若経)が空の思想を定着し、広めるために、古い仏教思想にあるもろもろの概念を「無」といって否定しようとした。

2、出典について
釈迦の教え(小乗仏教)に確かなものは、なにひとつないが、しいてあげれば雑阿含無常経に原典を求めることができるであろう。

3. 引用について
https://huntingtonarchive.org/resources/download …(11-12).pdf
は not found です。

大変ありがとうございました。ありがとうございました。

お礼日時:2019/05/06 16:45

諸行無常。


世の中は移り変わる。
どう移り変わるか。
…色…空…色…空…。
深層と表出の繰り返し。
認識できるすべてのもののルーツを
階層構造の中でのより深い層へと掘り下げていくと
認識の閾値以下の無という領域に行き着いてしまう。
という
教義の発展における時間軸に沿った協調体制の成果
なんだろうと思います。
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観音経は、一番分かりやすいお経で、私も毎日唱えています。



そもそも釈迦牟尼仏は、本当は仏では無いと思います。悟りを開いたから仏と言うならば、人間は皆仏になり得ます。後世の人間が仏と同等と思って崇めているに過ぎないと思います。キリストもマホメットも同じと考えられます。

私は、人間の本質は無であると考えています。死ねば皆平等で、其れこそ無であると考えます。美人ばかりなら、比較対象が無いので皆ブスでもあります。と言った平等性こそが無であると考えるようになっています。

男男も女も相手を心底愛したら、もう比較する隣の芝生は有りません。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2019/05/02 20:19

>無だといわれている命題は、般若心経より前は仏教の教え(釈迦の教え)だったのですか?


そうだと思います。

>その教えは何に(どこに)書いてあるのですか?
阿含経典です、多分。読んだことないですが。

その部分だけ取り出しても理解できないです。
般若心経の前半部分は空(くう)について説かれており、その一環ですから。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2019/05/02 20:20

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