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南北朝時代、南朝側は敗れ公家が、たくさん没落したみたいですが、北朝側に、ついてた常陸國佐竹氏は南朝側の没落した公家の人たちを家臣にしたらしいです
なぜ、敗れた側である公家を家臣にしたんでしょうか?
それに茨城に公家の人たちが、たくさんいたのも謎です、公家は京都に住むものですよね

A 回答 (3件)

>公家は京都に住むものですよね


だから、当時治安のわるい茨城へ敗れた側である公家を駐在させたのです。そのような公家の娘が書いた
のが更科日記です。任期を終えて、京都へ帰る途上の出来事が書かれています。また、富士山から赤い煙
の立ち上るのも目撃しています。
南北朝時代以前にも、天皇家争いは沢山あって、その中でも規模の大きかったのは壬申の乱ですね。
南北朝時代に天皇は第3代将軍足利義満の傀儡となって、江戸末期まで続きました。とさ。
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この回答へのお礼

ありがとうございます

お礼日時:2019/05/06 15:21

南朝は理想追い過ぎ。

北朝は室町幕府の傀儡で、操り人形ですね。
でも天皇いないとなり立たぬのが日本ですからね。足利氏以降も皇室は北朝で続きましたね。

南朝にいた公家は南北統一後は北朝に迎合した公家もいれば、南朝に残った公家もあり。
南朝は後南朝となるが、ふるわずに歴史の闇に消えていきましたね。
南朝は全国各地に散って北朝や室町と闘うが、負け戦の連続でしたね。
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この回答へのお礼

ご回答、ありがとうございます
南朝側の公家は負け後に、没落して行ったのでしょうね

お礼日時:2019/05/07 20:57

詳しく知らんけど・・・



後の応仁の乱の時がそうだったけど、京都の治安が乱れて公家としての権威が役に立たない
地方の領地からの年貢(税)の納入も滞り、生活に困窮した公家などは
京都を離れて、自分の所領や有力な支援者の元へ疎開した

この京都からの疎開者が、今各地にある○○の小京都のようなものを生んだ
京都の文化や風習が、それまで全くの田舎だった各地に伝えられ京都への憬れを生んだ

戦乱が治まって公家衆が京都へ帰還した後も、土地の上級支配層には京都風のものが残った

という感じで、京都に憬れる支配層のお相手といて
京都との外交関係を担当する官僚として
或いは、法令や学問の教授として
そのような人々を支配下に置くことに意味は合ったと推定できる

鎌倉幕府の初期の官僚には、京都から流れてきた中下級の公家階層が就任している

文化と知識を持つ人には価値があるということ
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この回答へのお礼

ありがとう

佐竹は家臣にして、自分にプラスになることがあったってわけですね

お礼日時:2019/05/06 10:01

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