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質問、と云うよりは回答?

心にぽっかりと空いた穴を埋めるのは、、、

愛情!

ではないでしょうか。

愛情、って云うのは肯定、に近い心理ですよね?

穴は、否定という工具を持って、空けられるのだから。

質問者からの補足コメント

  • 再考、するので待っていてください。

    No.2の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/05/24 23:20
  • No.2、キサラギさんの回答を見て気付きました。
    “心の穴”と云う表現を、キサラギさんは“失う”と受け止めたのですね。
    そう思えばこの回答は成る程と思えます。

    ただ、この質問?(回答?)を思いついたのは、キャラウェイさんが、一つ前の質問で「心にあいた穴は何によって埋めることができるか?」と云っていたので、それは愛情ですと答えたのです。

    キャラウェイさんは「アリとキリギリス」の質問の補足欄で、「思いがけない指摘を受けた」と云っていますが、これを私は“心にキズを受けた”と解釈し、心のキズを癒すのは愛情でしょ、となったのでした。

      補足日時:2019/05/25 16:09
  • 自然治癒とは、ブラジュロンヌさんは“時間派”なんですね。

    “心に空いた穴”は一方的な意見、批判などが因だと思います。

    No.3の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/05/25 18:24
  • 心のキズは時が癒す。
    そう思います。

    心がヤワな私は簡単にキズが付きます。
    でも浅いから時が癒してくれます。
    ブラジュロンヌさんの云う自然治癒、でしょうか。

    ただ、そのキズが深ければ頼れるのは“愛情”ではないでしょうか。
    深いキズもその事柄によっては、一瞬で癒されるかも知れないのです。

    愛のチカラ、万歳!

    No.5の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/05/25 18:51
  • 充填剤。

    戦い? それなら闘争心というクスリ。
    やる気を起こさせるため。

    仕事? それなら生活力?と云うクスリ。
    これもやる気だ!

    愛、は“キズ”に効く。

    No.4の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/05/25 22:59
  • 愛情をある種のエゴ、としか見ないから自己都合の押し付け、になってしまうのではないでしょうか。

    愛には個々の愛から、博愛までの階段があると思えば、そのようには決めつけられないと思うのですが。

    No.6の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/05/25 23:06
  • 皆さま、回答を有り難うございました。

      補足日時:2019/05/26 19:09

A 回答 (21件中1~10件)

皆様の回答を読んで思いました。



No.17ブラジュさん
>相手に悪いことをしてしまった! という自責の念にかられます

No.18ラヴさん
>また、存在の否定というのは、誰かに指摘を受けたことで、自分自身がしてしまうのかなとも思います。自分で自分のことを否定してしまうっていちばん辛いのかなって思います。

そうでした。私は自分の日頃の言動を反省しました。書き込むということの責任をあらためて痛感しました。哲学カテを汚してしまったかもしれないと思うと、動けず固まってしまいました。

No.2キサラギさん
>愛情が穴を埋めるのではなく、愛情が穴を作るのです。そして、その喪失感から何を学ぶか感じ取るか。

この考え方には、人が本質的に救われる秘訣があるように思いました。

これからもよろしくお願いします。哲学について真面目に、議論できるように学んでいこうと思います。
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私にとって愛情とは与えるものという位置づけです。


なので心身が万全でない時は愛情そのものが負担になります。(与えられるのも)
心に穴があいた時は自分で埋めるようにしています。
手段はその時々で違いますが、自分を許すことに専念しますね。
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この回答へのお礼

案外、自分で埋められるのかも知れません。

お礼日時:2019/05/26 19:07

★ (上から四つ目の補足欄) 心のキズは時が癒す。



☆ ここは 徹底的にいぢわるぢぢいになり切りましょう。

次のような歌があります。

♪ I can't stop loving you. ♪


▲ 歌詞
https://www.google.com/search?q=I+can%27r+stop+l …

☆ こう言っています。
▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
・・・
They say that Time heals a broken heart.

But Time had stood still since we've been apart.
・・・
~~~~~~~~~~~~~~~~~

☆ 《心のキズは時が癒すと言う。けれども わたしにとっては
時が止まってしまったままなんだけれど。・・・》と


こういう人の場合にも 哲学は すくいの手を どうぞ差し伸べ
てやってください!
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この回答へのお礼

この歌はいいですね。
特に歌手が。
最後まで聴いてしまいました。

時が止まるほどのキズは深いですね。
時間には即効性がないので、止まってしまったと感じるのです。

お礼日時:2019/05/25 23:26

汽笛さん、こんばんは*・゜゚・*



私の先の回答で
「何かの否定」と回答しましたが、
その「何か」を考えてたんですが、
タンゾウさんの回答の中に
愛情は存在の肯定と書かれてましたが、
そうかもしれないなって
少し思いました❀
私の中ではその「何か」とは
「存在」なのかなってなりました.。..。.❀

また、
存在の否定というのは
誰かに指摘を受けたことで、
自分自身がしてしまうのかなとも思います.。..。❀
自分で自分のことを否定してしまうって、
一番辛いのかなって思いますす。..。.❀

存在の肯定は愛情もそうだと思いますし、
他にも例えば、
何かで自信をつけれたり、
誰かの共感を得れたりなどすると、
さらに自分自身の肯定に
繋がるのかなって思いました*・゜゚・*❀


お礼ありがとうございました❀
そうですね*・゜゚・*:❀
ミックスの事を書かれたのですね、きっと❀
梅の花のミックス
*・゜゚・*:.。..。.・*:.。. .。.:*・゜゚・*❀
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この回答へのお礼

心(しん)あらば
聞いてみたいと
梅が香に
きみにかさなる
その陽だまりを

ラヴさんの作でしょうか?
いいですね。

ラヴさんとブラジュロンヌさんのやり取りが、私には勉強になります。

お礼日時:2019/05/26 19:04

★(№3への補足コメント) 自然治癒とは、ブラジュロンヌさんは


“時間派”なんですね。
☆ ここは げんみつには びみょうに複雑です。

《時間》派とは ケセラセラ史観のことです。時間過程においてもの
ごとは成るように成ると捉えているようです。そう捉えていれば よ
く成ることもあるし またそこからわるく成ることもあるという見方
のことです。

一般には またわるく成っても かつてのわるい状態よりはよく成っ
ているというものであり たえず向上してゆくと見ているとも思いま
す。



《自然治癒》とは 生まれつき備わった自然本性とそのチカラに答え
をゆだねるなら――物理的に取り返しのつかないことでないかぎり―
― 元のわれに 幾度でも 還ることができると見ている史観です。

この場合 時間過程を予定していますが 問題は その現在時です。
あるいは そのいまの一瞬です。

これは――まだ論証し得ていませんが―― 《永遠の現在》というや
は歴史観です。過去は 現在における記憶にあり 未来は現在におけ
る期待にあると見切る境位と言いたいところです。

樅の木に見立てたその自然本性なる《わたしはわたし》史観です。



★ “心に空いた穴”は一方的な意見、批判などが因だと思います。
☆ 次のようにわたしは見ます。

行き違いや少々のいさかいは すべて互いの勘違いやあるいは考えの
ゆき届かないところから起きると見ます。

相互の責任です。(つまり けんか両成敗という見方です)。

ただし 《相手の意志や心をないがしろにして平気な人間》となると
その人のしゃべることや振る舞いは すべて じつは 社会的に=人
間的に無効なのです。すべてが 不法行為になります。

これを もう一方の相手たるこちら側のわれわれは 《一方的な言動》
ではないかと捉え 指摘をしつつも どうにもならないことがありま
す。

多少なりとも 感情移入していたからでしょう。その無効なる一方性
(つまり 独り善がり)を むしろあたかも自分の心の中に見出した
恰好となり そのことで あわてます。

相手にわるいことをしてしまった! という自責の念にかられます。

これは 関係(人と人とのカカハリ)の社会的な絶対性において 不
法行為としての無効を 何とか元にもどそうという良心のはたらきに
よって起こる思いなはずです。


つまり こちらには問題はありません。独り善がりの相手を ふつう
の社会人に立ち返らせてやりたいとの思いで しきりに自分自身のあ
やまちだと受け留めがちになります。ただし それだけの問題です。




結論: 相手によるこちらの意志を無視した一方的な無効の振る舞い
によって こちらの心が傷つくことも穴が空くことも ゼッタイ あ
りません。

そう感じるのは 同情の余韻によるものです。
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この回答へのお礼

心に空いた穴を埋めるという方法論でしょうか?

そんな風に受け止めました。

お礼日時:2019/05/26 18:54

工具で空いた穴ならば、土(レンガ)を積んで塞ぐべし。



(ほんっと昭和生まれってのは、漢字つかっての能書きが好きだねぇ・・・。)←え、私?

(むかしの人の想像では、「工」の字4つ「㠭」で「塞」になるんだと。)
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この回答へのお礼

そう。

貴方です。

お礼日時:2019/05/25 23:15

私たちは砂粒のような存在であると思います。



特にSNSなどでは、顔も姿もわからない。どこに住んでいるのかもわからない。ほんとうに生きているのかすらもわからない。お互いに不確かで、こうしてただ、言葉だけでつながっている、存在。砂時計のように今の時間を過ぎていく、その瞬間に、うれしさや喜び、悲しみ、怒り、生き難さ、切なさなどを共有する。それがすべてのつながり。

砂粒には本来、そのような感情はありませんが、象徴としてみると、この世界の無機質な状況の中に、時間という可塑性のないある意味、冷徹な奔流の中に、投げ出されて生きていかざるを得ない人間のあり方、そのものを砂に見ることもできるのではないかと思います。

いのちなき砂のかなしさよ
さらさらと
握れば指のあひだより落つ

これを、神と人間という観点から読むとするなら(まったくの私訳です)
人間を手の中に握ろうとすると、いのちなき砂のようにさらさらと指の間よりこぼれ落ちる。まさに海辺の砂のように、砂漠の砂のように、おびただしく存在する人間であるが、この「いのちなき砂」を愛しい、と言っている。さらさらと移ろいやすい状況、環境に翻弄されていかざるを得ない人間を慈しみ、愛しいと言っているように思われます。

時間というものはきっと、人間に与えられた「待ち望む」という可能性のための器、のようなものかもしれません。
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この回答へのお礼

その通りだと思います。

お礼日時:2019/05/25 23:14

こころの穴〔と感じるできごと〕は 和解の問題です。



▲ (マタイ福音 5:23-24 ) ~~~~~~~~~~~~~~~
・・・祭壇に供え物をささげようとする場合、兄弟が自分に対して
何かうらみをいだいていることを、そこで思い出したなら、その供
え物を祭壇の前に残しておき、まず行ってその兄弟と和解し、それ
から帰ってきて、供え物をささげることにしなさい。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

☆ けれども このことは すでにおこない終わっているのではな
いのですか?


相手が 《兄弟》であることをこばんだ場合は どうしますか?
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この回答へのお礼

和解の問題ではありません。

お礼日時:2019/05/25 23:13

今はもういないけれども、自分に愛情を持って育ててくれた人達。


他人に理解されなかった過去。
これらの喪失感を克服して、新たに一歩踏み出すために必要なことは、自分で考えて信念を持って行動すること。
「哲学」する。でしょうね。「無知の知」ソクラテス、ありがとう。
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この回答へのお礼

生命にはチカラがありますね。

お礼日時:2019/05/25 23:10

再考、します。

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