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次の文で、どれが主語、動詞、目的語でしょうか?


以下の文では、どれが主語、動詞(自/他)、目的語なのか教えて下さい。
1. 鳥は 空を 飛べる。
2. 私は 日本語が 話せる。
3. 私は 日本語を 話せる。
4. 私は 日本語が 分かる。
5. 彼が 日本語を 話せる。

☆ 3 は正しい日本語と言えますよね?
☆ 1で「空が」とは出来ず、4 で「日本語を」とは出来ないことと、3では「を」も「が」も使えることとの差は何なのでしょうか?

よろしくお願いします。
よろしくお願いします。

質問者からの補足コメント

  • 皆さまの意見を読みながら、見当外れかもしれませんが思いついたことを念のため記します。
    ・「私は(主題)日本語が(主語)話せる(述語 : 自動詞)」では?
    →「私は日本語が好きだ。」に構造が酷似している→「私は(主題)日本語が(主語)好きだ(述語 : 形容動詞)」と言えるのであれば可能な解釈では→一部のご回答者による「話せるは状態を表す動詞」というご意見とも平仄が合い、形容動詞の「好きだ」が「好き」の対象を主語に取るなら「話す」の対象である「日本語」が主語になっても良いのではないか。

    ・「私は(主語)日本語を(目的語)話せる(述語 : 他動詞)。」
    こちらは「私は(主語)日本語を(目的語)話す(述語 : 他動詞)。」の動詞が可能動詞に変化したもの。

    「が」と「を」だけの違いだが基本構造は全く異なるという考え方です。

      補足日時:2019/05/31 08:45
  • たくさんの方々から貴重なご意見を頂き悩みましたが、小生の愚問に最後までお付き合い頂いた方をBAerにさせて頂きました。

      補足日時:2019/06/08 22:09

A 回答 (34件中1~10件)

#33です。



>学国の例文は「その人は英語が話せるの」に主語「その人」が元々あって後ろに回ったということですよね?

そうだと思います。
連体格の場合の用法は別に考えるべきという説もあるようですが、詳しいことはわかりません。

>明鏡の「自動詞/他動詞」「が/を」は、「私は」等の主語が省略されていて「が」なら自動詞で「を」なら他動詞という意図でしょうかね?

そこは私もどちらなのか判断しかねているところです。
私見に基づくなら、

ヲ⇒他動詞
ガ⇒自動詞&他動詞

であることを願って?いますが。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
母国語は難しいです。

お礼日時:2019/06/06 23:36

#32に関連してもう一度お邪魔します。



「私は日本語が話せる」で「日本語」が主語になるのは、基本的に、
(ア)可能動詞から敷衍してできた意味(「物わかりがよく融通がきく」など)
の場合ではないかと思われます。

(イ)可能動詞
の場合にも主語と捉えることができなくはないでしょうが、それはあくまで構造的なものではないでしょうか。

#30でもお示ししましたが、
『話せる』に関して、
(イ)可能動詞
としての語釈を明記しているのは、下記の3辞書だけです。

●[日国] ⇒無記載
 話すことができる。「英語が話せる」
 〘自他下一〙 〔「話す」の可能形〕
●[学国] ⇒自動詞
 話すことができる。「英語が話せる人」
●[明鏡]⇒自動詞・他動詞
 「英語 が/を━」

一方で、
(ア)可能動詞から敷衍してできた意味(「物わかりがよく融通がきく」など)
に関しては、すべての辞書が項目として取り上げている。
(ア)の意味しか載せていない辞書が大半だということでもあります。
結果的に、
可能動詞 [ も ] 自動詞。⇒自動詞なのだから主語。
といった発想に繋がりやすいのかもしれません。
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この回答へのお礼

稚拙な思いつきにお付き合い頂きありがとうございました。
(ア)は「あいつは話せる奴だ」などのことですよね?

学国の例文は「その人は英語が話せるの」に主語「その人」が元々あって後ろに回ったということですよね?

明鏡の「自動詞/他動詞」「が/を」は、「私は」等の主語が省略されていて「が」なら自動詞で「を」なら他動詞という意図でしょうかね?

お礼日時:2019/06/06 16:15

#31です。



>- 因みに、「私は音楽が好きだ」における主語はどれと考えるのが一般的なのでしょうか?もし「音楽が」であるとすると、「私は日本語が話せる」で「『日本語が』は対象なので主語ではない」とは言い切れなくなると思いお伺いします(「『日本語が』=主語」が全く一般的でないことは理解しています)。

まったく個人的な感覚になってしまうので、『一般的』かどうかは保証できませんが、「私は」だと思います。
「私は音楽を好きだ」
と言い換えもできると思っています。
「音楽」は、あくまで「好き」という心情の対象であり、対象語(または補語?)かと。

主語と考えられるのは、

・ 私に関して言うなら、 音楽が、「好き」という状態で存在している。
あるいは、
・ 私に関して言うなら、 音楽が、「好き」と言える条件としてある。

といったような構造的特徴に着目した場合だという気がします。
実際的には、「好き」の対象として表現しているでしょう。

●[広辞苑]
「が」
㋑後の情意を表す形容詞、可能の表現などに続け、その原因・条件となったことを示す。述語の対象を示すととらえる説もある。現代語では「が」の代りに「を」の使われることもある。

という語釈の【その原因・条件となったことを示す】という箇所と思います。
ただ、【述語の対象を示すととらえる】ほうが個人的にはなじみやすい。
#30の D でお示しした、「私は日本語が話せる」の場合とほぼ同様に捉えています。
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#30です。



1.
まず、参照した辞書の url がまだでしたので、お示ししておきます。
下記サイトの上段からタブで各辞書を選択します。
https://sakura-paris.org/dict/%E5%BA%83%E8%BE%9E …
因みに、以前もお知らせしましたが、他の質問者↓
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/11115532.html
が見つけたサイトです。

2.
>- あくまで私個人の感覚では、「私は日本語を話せる」の強調が「私は日本語が話せる」とは感じておりません。「が」の強さのニュアンスとしては「今日は空が青い」と同じ程度と言えばよいでしょうか。

その感覚は非常によくわかります。
「強調」だけでは示しきれない用法と思います。
「が」の基本的用法として、「を」との違いを表わすために、主格や(一部の)対象の【特定】という表現を以前はよく使っていました。
対象に関して「を」はそれを単純に示すだけであるが、それとは異なるという意味です。
説明は難しいですが、先にも挙げた例で言えば次のような場合です。

たとえば、外国籍のある2人がお互いに自慢話をしていたとしましょう。
色々自慢が挙げられる中で、不利だった一方が、【形成逆転を狙う意図をもって何か言うなら】、

「私は 日本語を 話せる。」

ではなく、

「私は 日本語が 話せる!!!」

のように表現すると思う、ということです。
しかし、無意識の動きを説明する難しさは感じているところ。

返信のないまま投稿を続けることへの心配はあったのですが、応答がありまして安堵しているところです。
ありがとうございます。

niwa氏の良いところは、手堅いところですね。
現在使われている日本語の規範を大きくはみ出すようなことは、おっしゃいません、基本的に。そして、高度な内容にもかかわらず、表現がわかりやすい。
同意するしないは別ですが(←ここは強調)、何を言っているのかわかりやすいのは有難いことですし、これもひとつの才能なのでしょう。
わたしは思い付きでなんでもしゃべってしまうため、良く諫めてもらっております。
誰しも、自分の是とするところを述べているだけなのですが、お互い、思わぬ気づきに接することができるのは、こうしたサイトの利点と感じています。
誰が言ったかではなく、何を言ったかを咀嚼しつつ、是々非々で判断していくのが最善の思考形態だろうと以前から思っている次第です。
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この回答へのお礼

- 多忙のために返信出来ませんでした。お気になさらずに。
- 強調としての「が」の使い方は自然な感覚としてもちろん理解出来ます。そもそも「私は日本語が話せる」は、おそらく「が」の持つ「新規情報力」(英語のaのように)のためでしょうか、「私は日本語を話すことが出来る」に対して何らか強調性を「日本語」に与える表現で、コンテクストによっては更にご指摘の「殊更の強調」もあるのだと感じています。
- 因みに、「私は音楽が好きだ」における主語はどれと考えるのが一般的なのでしょうか?もし「音楽が」であるとすると、「私は日本語が話せる」で「『日本語が』は対象なので主語ではない」とは言い切れなくなると思いお伺いします(「『日本語が』=主語」が全く一般的でないことは理解しています)。

お礼日時:2019/06/06 09:33

#27です。


引き続き述べさせていただきます。
とりあえず、『話せる』について。

A.
ネット辞書の記載は多様ですが、
(ア)可能動詞から敷衍してできた意味(「物わかりがよく融通がきく」など)
だけを記載しているものと、
(イ)可能動詞自体の意味
も併記しているものとに分かれています。
双方とも、(ア)の場合、すべての辞書が自動詞に分類していると捉えて良さそうです。

一方、(イ)の場合は、
●[日国] ⇒無記載
 話すことができる。「英語が話せる」
 〘自他下一〙 〔「話す」の可能形〕
●[学国] ⇒自動詞
 話すことができる。「英語が話せる人」
●[明鏡]⇒自動詞・他動詞
 「英語 が/を━」
のように見解が分かれていることがわかります。

B.
a.
ところで、格助詞「を」の項目で可能(能力)の対象を表わす、と明記しているのは以下の2つだけのようです。
「を」
●[広辞苑]
①対象を示す。現代語では、他動的意味の動詞と対応して目的格的な働きをするが、奈良・平安時代には、自動的意味の動詞や形容詞の前でも使われた。心情・可能の対象を示す「を」は、古くは「が」が一般的であったが、現代語では「人を好き」「故郷を恋しい」「字を書ける」など、「を」も広く使われる。
●[大辞林]
希望・能力・好悪などの対象になるものを表す。「リンゴ―たべたい」「あの人―好きだ」

b.
ただ、「が」の項目で、
●[ 明鏡 ]
語法「英語を読める」「魚を食べられない」「ゆっくりと音楽を聴ける」のように「を」で置き換えられるものが多い。

のように記載しているものもある。
可能(能力)の対象を表わす、という用法を認めているということのようです。

c.
因みに、希望・好悪の対象と記しているのは下記。
「を」
●[日国]
2-6 希望の対象を提示する。
●[学国]
{好悪・願望などの心情を表す述部を伴い}それらの心情の向けられる対象を示す。「水を飲みたい」用例(壺井栄・田中千禾夫) 《参考》「が」となることも多い。
●[大辞泉]
動作・作用の目標・対象を表す。「家を建てる」「寒いのをがまんする」「水を飲みたい」
「水を飲みたい」などは、「を」の代わりに「が」を用いることもある。

d.
これらのことから、

 3. 私は 日本語を 話せる。

という表現を明示的に認めているネット辞書は、
●[広辞苑]
●[大辞林]
●[ 明鏡 ]
ということになりそうです。

C.
ただ、むろん、上記 d 以外の辞書においても「が」が能力の対象格用法であることは認めています。
その例文を確認してみますが、下記で「を」に置き換えることは可能でしょう。
置き換えたからといって意味が変わるでしょうか?
そんなことはないでしょう。

●[日国]
「酒が飲めないのはつまらない」
●[学国]
特に無し。
●[新明解]
「語学が出来る」
●[大辞泉]
「中国語が話せる」

であるなら、明記こそしていないが、これらの辞書も「を」には、可能(能力)の対象を表わす用法があることを認めていることになるはずです。
以上のことから、

可能動詞は、可能(能力)の対象を表わすためのヲ格を取り得る。

ということは辞書界でも定着している、と考えて良いと思われます。
また、縷々述べてきましたように、ヲ格であろうとガ格であろうと、「可能(能力)の対象を表わす」という用法に違いはないわけですから、どちらの場合も他動詞と考えるのが自然ではないかと個人的には思います。

D.
では、なぜ、ガ格の場合は自動詞とされるのでしょうか。
因みに、1-A でも触れましたが、可能動詞としての「話せる」の自動詞用法を明記しているのは、
●[学国]
 話すことができる。「英語が話せる人」
●[明鏡]
㈠  〘自他下一〙 〔「話す」の可能形〕
「英語 が/を━」
の2つだけです。

いずれにせよ、この点については、下記辞書が、極めて重要なヒントを示しているように思います。

●[広辞苑]
「が」
㋑後の情意を表す形容詞、可能の表現などに続け、その原因・条件となったことを示す。述語の対象を示すととらえる説もある。現代語では「が」の代りに「を」の使われることもある。

 2. 私は 日本語が 話せる。

という文は、

・ 私に関して言うなら、 日本語が話せるという状態が存在している。

という意味に解釈できる可能性についてすでに申し上げましたが、広辞苑では、

 2. 私に関して言うなら、 日本語が、「話せる」と言える条件としてある。

のように解釈するのだと思います。
いずれも【構造的には】主語と捉えることができるため自動詞と解釈するわけでしょう。
ただ、この解釈を示しているのは、上記語釈の、
【可能の表現などに続け、その原因・条件となったことを示す】
という箇所です。
この側面に着目すると、たしかに自動詞になるでしょう。
一方、【述語の対象を示すととらえる説】が、1-C で申し上げた、

「可能(能力)の対象を表わす」という用法に違いはないわけですから、どちらの場合も他動詞と考えるのが自然ではないか

という解釈に相当するかと思われます。
広辞苑では、

はな・せる【話せる】
〔自下一〕
(「話すことができる」の意から)話相手とするに足る。話がよくわかる。「―・せるおやじだ」

のように、可能動詞については記載していません。
しかし、可能動詞の場合はガ格であっても他動詞と認識していることになるのではないかという気がします。
むろん、可能動詞の場合は自動詞にならないと申し上げているわけではありません。
どちらもあるだろう、ということです。
なので、

hakobulu:私は 日本語が 話せる。(主語+目的語+他動詞)
niwa先生:私は 日本語が 話せる。(主語 +対象語 +自動詞)

は、どちらもあり得る解釈ではないかと思われます。
あとは趣味の問題になるのかもしれません。
個人的には前者が好み、ということになりそうです。
(ア)可能動詞から敷衍してできた意味(「物わかりがよく融通がきく」など)も含めると、『話せる』は3通りの解釈が可能ということになると思われます。
●[明鏡]の場合も、同様ではないかと思うのですが、例文が少なくて検証が難しい。
ガ格なら自動詞でヲ格なら他動詞という意味のような記述にも見えるがどうなのか?(私としては違うと期待するわけですが)

はな・せる【話せる】
㈠  〘自他下一〙 〔「話す」の可能形〕
「英語 が/を━」
㈡  〘自下一〙 〔㊀から〕話し相手とするに足りる。ものわかりがよい。融通がきく。
「うちの親は━」

とりあえず、こんなところですが、また、気づいたことがあればおじゃまするかもしれません。
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#27です。



B-
>b.「上を向く」
⇒「向く」という動作が「上(という方向)」を目指している、つまり「上(という方向)」に及んでいる。

辞書語釈を鵜呑みにして、「変化する」「影響を被る」という点にのみ着目してしまうと、え?これって自動詞じゃなきゃおかしいじゃん、といったことになってしまう。

と偉そうに書きましたが、自動詞としている辞書も多いようです。
「変化する」「影響を被る」わけじゃないから自動詞になるのが当たり前ということなのでしょう。
この点は、実は、#28G で申し上げたこととも関連しますので、明日改めて触れさせていただきます。
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この回答へのお礼

様々な考察、ありがとうございます。
- #26のご回答者のバックグラウンドについては全く存じ上げておりません。この場でご本人がそう仰っていない限り、先入観なく読まさせて頂いております。hakobuluさんを含め、大変丁寧で分かりやすいとは感じております。
- あくまで私個人の感覚では、「私は日本語を話せる」の強調が「私は日本語が話せる」とは感じておりません。「が」の強さのニュアンスとしては「今日は空が青い」と同じ程度と言えばよいでしょうか。#26のご回答に対するお礼もご覧いただければ幸いです。
- 質問に関係することであればいかなるご意見も大歓迎です。もちろん、修正、意見変更、等についても然りです。

お礼日時:2019/06/05 19:23

#27からの続きです。



G.
>「空を」は場所を示す補語。これは一般的な考え方です。
自動詞の補語で「対象」と考えられるものは「対象(補)語」とする。
「を」をとる場合はもちろん他動詞。可能動詞は自他両用です。
「目的語」というのはここでの便宜的な名称で、つまりは「を」の「対象補語」です。

この点について、若干思う所があります。
niwa 先生のご見解を伺ってみたいので、質問者さんさえよろしければ、明日にでもまたお話しさせていただければと思います。
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#25です。



#26niwa先生のご回答に関連して述べさせていただきます。
若干横レス気味になるかもしれませんが、ご質問の内容と大いに関係することですので、ご容赦いただきたいと思います。
質問者さんがご存知かどうかはわかりませんが、この方は日本語教師で、大変有為なホームページも開設しておられる方です。

A.
まず、自動詞・他動詞というのは日本語構文を理解する上で極めて有効な分類ではないかと思っています。
ただ、他動詞の定義に関して、辞書が正確に表現しきれていない、という点が、一般人を混乱に陥れる要因になっていると言えそうです。
>「対象への働きかけがある/作用が対象に及ぶ/対象が動作の影響を被る」

という語釈の意味が多様性を持ちすぎている、と言っても良いでしょう。
しかし、あるひとつの他動詞に関して、我々が、何らかの(しかも共通性を持つ)語釈を付与しているのは間違いないはずです。
ただ、それが無意識的な認識であるため、語釈として上手に表現しきれていない、というだけの話である、というのが私の基本的なスタンスです。
#18で、
『辞書編纂者の方々は、【動作・作用が他に及ぶ】という他動詞の定義を、あまりに狭義に捉え過ぎではないかという気がします。』
と申し上げたのも、このスタンスに基づいている。

ですから、
>この議論は往々にして、その論者固有の感覚の問題になって

しまうとしても、それで良いというのが私の考え方です。
自らの無意識を、どのように意識面に浮上させ、それを日本語にして表現するかという問題になるのですから、むしろ当然のことと言えるでしょう。
また、
>国語辞典や学校文法では、意味的な特徴を前面に出して説明しようと

するのも当然であり、
>自他の問題というのは、もともとは文法的・形態論的問題

というniwa氏とは見解が異なる、ということは一応申し上げておきます。

B.
>「空を見る」と、空が何か変化するのか。「上を向く」と、「上」は何か影響を被るのか。

もちろん、「見る」や「向く」という動作は、あきらかに、「対象に対して」何かしている、と言えるでしょう。「働きかけ」とか「及ぶ」とか言ってもいいでしょう。

a.「空を見る」
⇒「空を飛ぶ」という(明白な)自動詞と比較するとわかりやすくなると思います。
「見る」という動作の先には「空」があります。
「空を見上げる」とすれば、さらにはっきりするかもしれません。
「空」は、あくまで「見る」「見上げる」という「動作の先」に位置しています。
その意味で「及んでいる」という無意識が、我々の中に働くのだろうと思われます。
しかし、「飛ぶ」という「動作の先」に「空」はないでしょう。
あくまで、「飛ぶ」という「動作の行われている背景」にすぎません。
つまり、及ぼす、という意図は持っていない、と無意識は判断するのだと。

b.「上を向く」
⇒「向く」という動作が「上(という方向)」を目指している、つまり「上(という方向)」に及んでいる。

辞書語釈を鵜呑みにして、「変化する」「影響を被る」という点にのみ着目してしまうと、え?これって自動詞じゃなきゃおかしいじゃん、といったことになってしまう。
この語釈は、あくまで無意識の一端を示して(一端に気づいて)いるにすぎない。

C.
>  1. 鳥は 空を 飛べる。
>どうしてこういう話になるのかわかりません。(「状態」であるというところは賛成です)
「状態」が「「空」に向かってのもの」というのは何を言いたいのか。
「空に対して、「飛べるという状態」が及ぶ」というのは何が何だかわかりません。

たしかに自分でもわかりづらい表現だとは思います。
改めて
1ーa. 鳥は 空を 飛ぶ。
との比較を持ち出すしかないのですが、
端的に申し上げるなら、「飛ぶ」は(必ずしも)空を必要としていないが、「飛べる」の場合は空が必須の対象である、ということです。(あくまでも、この文脈では)

>こういうのは論証とは言えません。ご本人しかわからない議論です。

繰り返しになってしまいますが、「本人しかわからない」無意識的内容が、実は「ほとんどの人もわかっているはずの」無意識的内容であることを論証しようとするわけなので、それがわからないと言われてしまえば、そこで議論は終わってしまうでしょうね。
それは止むを得ないと思います。
あとは、表現の技術を磨くか、あるいは、自らの無意識に対する論証が誤りであったことに気づくか、この2択になるでしょう。
私も niwa 氏をはじめとして、多くの方に、何度となく気づかせていただいたことがあります。

D.
>自他や受身・可能などの「微妙な意味の差」は議論する必要がありますが、それを持って文法の問題の基準にするのは無理です。

後述しますが、ネット辞書に限った場合でも、そもそも「基準」自体が極めて曖昧であることはniwa先生もよくご存じのはずでは?
つまり、あって無いようなものなわけですから、それに対する見解を述べるのは、逆に自然なことかと。

E.
>  1. 鳥は(主語) 空を(目的語) 飛べる(自動詞)。
  のように言えなくもないのではなかろうか・・・。

「のように」は言えません。目的語をとるなら他動詞です。「空を飛ぶ」あるいは「空を飛べる」を「目的語-他動詞」とするのなら、それはそれで議論の対象となる論です。

ご尤もですが、この点については、すでに以下のように述べているところ。

※(#22)Aーb.
「自動詞が目的語をとってもおかしくはない」という点に関しては、「目的語」という用語自体に問題があると思っていて、たとえば、「自動詞に対象が存在してもおかしくはない」という意味で考えています。
たしかに、
「飛ぶ」という動作が、空に [ 及んでいる ] とは言えませんが、
「飛ぶ」という動作が、空を [ 対象として ] 行われていると考えても良いのではないか、ということです。※

>「目的語」というのはここでの便宜的な名称

ということです。
>つまりは「を」の「対象補語」です。

のように表現すれば良いということですか。
参考になります。

>しかし、ここで大変なのは、「対象」とはなにか、という議論を、これまで一般的に考えられてきた「対象」という概念とは別に構築していかなければならないことです。かなり広い範囲の、精密な議論が必要になります。

これはよくわかります。
しかし、それなりの解説を付与しているわけですから、そこは斟酌していただかないと議論にならないでしょう。
むしろ、その解説に対するご批判などを大いに期待するぐらいの立場ですよ。
やりとりによって、より良い表現が見つかる場合も多いはずです。
語釈は辞書編纂者の特権ではないでしょう。

F.
(可能動詞にも自他がある、という説に妥協して)相違点は下記(下段)なのですね。

1. 鳥は 空を 飛べる。(主語+対象語(あるいは連用修飾語)+自動詞)
1. 鳥は 空を 飛べる。(主語 + (場所)補語 + 自動詞)

2. 私は 日本語が 話せる。(主語+目的語+他動詞)
2. 私は 日本語が 話せる。(主語 +対象語 +自動詞)

4. 私は 日本語が 分かる。(主語+目的語+他動詞)
4. 私は 日本語が 分かる。(主語 +対象語 +自動詞)

a.
1に関しては、以下のような前提での「目的語」という表現でしたが、適切でないのはそのとおりでしょうね。
(#18)
また、「目的語」の定義が曖昧だと思います。
「飛べる という動詞の目的語」と考えてしまうので違和感が生じるのであって、ウィキにも解説されているように「対象(語)」と考えれば、自動詞に対象があっても、特に不自然ではないでしょう。
「空を(連用修飾語)」という分類ができない場合なら、このような考え方もできるかなと思いました。

『1. 鳥は 空を 飛べる。(主語 + (場所)補語 + 自動詞)』

という niwa 先生の分類は、質問者さんに対する直接的なご回答になっているのかもしれません。

b.
2と4に関して。
「目的語ではない対象語」ということですね?

2. 私は 日本語が 話せる。

のようにガ格を使う場合は、

・ 私は 日本語が話せる という状態にある。↓
・ 私に関して言うなら、 日本語が話せるという状態が存在している。

というニュアンスになると思うのですが、いかがですか。

この質問の趣旨としては、以下のとおり。

(仮にイエス・・・)であれば、「日本語」が構造的に主語になると思います。
しかし、

2. 私は 日本語が 話せる。

と我々が言う場合、こうした認識に基づいているでしょうか。
そうではなく、ガ格を使うのはあくまで、

3. 私は 日本語を 話せる。

を強調するためであり、強調の手段として、「日本語」が構造的に主語となるような構文になっていると考えるほうが自然ではないか、ということです。

「構造的に主語となるような構文」を使って目的語を強調している。

つまり、3も他動詞と捉えるほうが自然ではないか、という気がするのですけどね。
見解の相違ということになれば、それはそれで一つの落着ですが、一応、お伺いしたいと思いました。
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もう一度問題点の整理を。



前の投稿(No. 15)では現在の理論的な説まで触れてしまったので、かえってわかりにくいものになってしまいました。
今回はもっと基本的なところを述べます。

まず、自動詞・他動詞の対立とは何か、という話から。

ラテン語やその他のヨーロッパの言語での自他(transitive : intransitive)の話と、日本語の(江戸時代以来の)自他の問題が微妙に交錯したところから、この問題が始まるのでいろいろと厄介なことになっています。

英語の例がわかりやすいのですが、目的語をとるかとらないか、というのは非常に明快な基準になります。目的語は語順で示され、日本語のように簡単に省略できず、代名詞(itとか)を残さなくちゃいけない。また、他動詞は基本的に受け身文にできる、とか、文法的な基準がはっきりしています。
それに対して自動詞は、動詞にとって必要な格を示すには前置詞を使う。

それに対して日本語では、「目的語」は「を」で示されるとは言っても、移動動詞(明らかに、基本的に自動詞です)が「を」をとるし、「を」というマーカーがあるので語順はかなり自由だし、受け身についてはご存知の「自動詞の受け身」なんてのもあるし、で、何のために「他動詞」という動詞のカテゴリーが必要なのか、というところから議論しなければなりません。

日本語で「自他」が必要なのは、形態的に共通性のある自他の対がたくさんあることと、膠着語であることにより、他動詞の語尾と使役を表す接辞(学校文法では助動詞)の区別がわかりにくいこと、などがあるからです。

そういうわけで、自他の問題というのは、もともとは文法的・形態論的問題なのですが、それでは話が分かりにくいので、国語辞典や学校文法では、意味的な特徴を前面に出して説明しようとします。
「対象への働きかけがある/作用が対象に及ぶ/対象が動作の影響を被る」とか。

最後の「影響を被る」というのはいちばんはっきりしていてわかりやすいのですが(「押す」とか「殴る」とか)、ちょっと考えればわかるように、例外がありすぎます。

「空を見る」と、空が何か変化するのか。「上を向く」と、「上」は何か影響を被るのか。

もちろん、「見る」や「向く」という動作は、あきらかに、「対象に対して」何かしている、と言えるでしょう。「働きかけ」とか「及ぶ」とか言ってもいいでしょう。

しかし、この議論は往々にして、その論者固有の感覚の問題になってしまいます。

例えば、私が疑問に思ったのは、No. 18の回答の次のところです。

  たしかに、
  (1) 鳥は 空を 飛ぶ。
  の場合、飛ぶという動作が、空に [ 及んでいる ] とは言えないでしょう。
  空に何か働きかけようという意図があるわけではないので、自動詞と考えるのが自然かと。

上の考え方には賛成です。しかし、

  1. 鳥は 空を 飛べる。
  のような可能動詞の場合、「飛べる」は動作ではなく、むしろ「状態」と呼ぶべきものかもしれ  ない。
  この場合、「飛べる、という状態」は、あくまで「空」に向かってのものであることになります。
  つまり、【空に対して、「飛べるという状態」が及ぶような動詞】と言えるのかもしれません。

どうしてこういう話になるのかわかりません。(「状態」であるというところは賛成です)
「状態」が「「空」に向かってのもの」というのは何を言いたいのか。
「空に対して、「飛べるという状態」が及ぶ」というのは何が何だかわかりません。

こういうのは論証とは言えません。ご本人しかわからない議論です。

意味によるとらえ方は、大筋をわかりやすくするには便利ですが、細かい話になると、ぐちゃぐちゃになります。文法の議論は文法的な証拠で議論すべきです。

自他や受身・可能などの「微妙な意味の差」は議論する必要がありますが、それを持って文法の問題の基準にするのは無理です。


話を元に戻すと、「目的語」とは他動詞の定義の元です。ですから、

  1. 鳥は(主語) 空を(目的語) 飛べる(自動詞)。
  のように言えなくもないのではなかろうか・・・。

「のように」は言えません。目的語をとるなら他動詞です。「空を飛ぶ」あるいは「空を飛べる」を「目的語-他動詞」とするのなら、それはそれで議論の対象となる論です。
No. 22の、

「飛ぶ」という動作が、空を [ 対象として ] 行われていると考えても良いのではないか、
  ということです。

というところは、一つの考え方としてあると思います。しかし、ここで大変なのは、「対象」とはなにか、という議論を、これまで一般的に考えられてきた「対象」という概念とは別に構築していかなければならないことです。かなり広い範囲の、精密な議論が必要になります。

まだまだ細かい問題で議論が必要なところがありますが、疲れてきたので、結論的なところをかんたんに論じます。
No. 25から。

1. 鳥は 空を 飛べる。(主語+対象語(あるいは連用修飾語)+自動詞)
  1-a.鳥は 空が 飛べる。(主語+対象語(あるいは連用修飾語)+自動詞)
  2. 私は 日本語が 話せる。(主語+目的語+他動詞)
  3. 私は 日本語を 話せる。(主語+目的語+他動詞)
  4. 私は 日本語が 分かる。(主語+目的語+他動詞)
  4-a. 私は 日本語を 分かる。(主語+目的語+他動詞)
  5. 彼が 日本語を 話せる。(主語+目的語+他動詞)

私の考え。(可能動詞にも自他がある、という説に妥協して書きます)

1. 鳥は 空を 飛べる。(主語 + (場所)補語 + 自動詞)
  1-a.鳥は 空が 飛べる。(主語 + 対象語 +自動詞)
  2. 私は 日本語が 話せる。(主語 +対象語 +自動詞)
  3. 私は 日本語を 話せる。(主語 +目的語 +他動詞)
  4. 私は 日本語が 分かる。(主語 +対象語 +自動詞)
  4-a. 私は 日本語を 分かる。(主語 +目的語 +他動詞)
  5. 彼が 日本語を 話せる。(主語 +目的語 +他動詞)

「空を」は場所を示す補語。これは一般的な考え方です。
自動詞の補語で「対象」と考えられるものは「対象(補)語」とする。
「を」をとる場合はもちろん他動詞。可能動詞は自他両用です。
「目的語」というのはここでの便宜的な名称で、つまりは「を」の「対象補語」です。
「わかる」「できる」の類は基本的に自動詞。「が」の対象補語をとります。
「わかる」は「を」をとる用法が広がりつつあります。自他両用になりつつあります。
「できる」の「を」を許容する人は、おそらく「わかる」よりは少ないでしょう。なお、「できる」は「する」の「可能形」ではありません。それに「相当する」、だけです。一方、「勉強できる」の「-できる」は「勉強する」の「-する」の可能形です。本動詞と、補助動詞/形式動詞/軽動詞(色々呼び方があります。定まっていません)の性質が違うのはごく当たり前のことです。

「わかる」「できる」で「を格」を許容する人としない人は、それぞれの日本語の文法が少し違うということです。そのくらいの個人差はよくあることです。(「ちがう」というのは、different の意で、wrongの意ではありません!)

なお、「わかる」について、明鏡国語辞典は「俗に他動詞としても使う」とし、岩波国語辞典は「俗用」としています。その辺が、一般の辞書編集者の感覚でしょう。

私は、いつも書いていることですが、「正しい:文法的」「間違い:非文法的」という言い方を好みません。言語学でも、「文法性」とは別に「許容性」ということを言います。はっきり分けられるものではない、ということです。

三省堂の辞書の編纂者である飯間浩明がツイッターで「誤用」について書いています。これは日本語学・言語学者の共通の見解です。一部を引用します。(この前後にも色々書いています)
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飯間浩明‏ @IIMA_Hiroaki · 5月27日
言語学の初歩を学ぶと、「それは誤用だ」と断定することが難しくなります。「変化することこそがことばの本質だ」というのが基本だからです。「飯間さんはことばに対する姿勢が優しい」とも言われますが、べつに姿勢とか主義とかの問題ではなく、学問の基本に忠実に考えると、誰でもそうなります。
ことばについて、言語学(日本語学)のどの先生に質問しても、「それは誤用です」と言われることはほとんどないだろうと思います。「姿勢」ということばをあえて使うなら、研究者の姿勢は、結果的にことばに優しくなるわけです。「誤用」は定義できず、学問的にどうこう言うことができないからです。

文法学で「自然な文」「不自然な文」を扱う以上、「文法に『正しい日本語』はある」と言えそうです。ただ、その「正しい」は「ネイティブ(母語話者)の感覚では自然」ということで、「『的を得る』は正しいか」など、母語話者の感覚だけでは議論できない問題と分けて考えたいです。

このように、母語話者が誰でも自然と感じる文を称して「正しい」とは言えますが、それは母語話者の間で共通理解があるので、「誤用か正用か」という議論はそもそも起こらないものです。ただ、私としては、この場合も「正しい」ではなく「母語話者にとって自然」という表現が穏当だと思います。

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saburoo
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この回答へのお礼

詳しいご説明ありがとうございます。大変分かりやすいです。
- 文法と「誤用」との関係に関するお話は、私も「ら抜き言葉」等も含め同じ様に考えております。誰しも規則に基づいて話しているのではなく、それでいいと思って話しているだけですよね。法則と呼ぶに足る共通性を文法と呼び、例外あり、変化あり、人により違いあり、だと思っています。下記の記述は全てこの認識を大前提としております。
- 確かに、文構造からほぼ自動的に主語・目的語・動詞の自他を区別出来る(もちろん例外あり)言語とは話が違いますね。辞書も含めて、広範に受け入れられている共通の定義がまだない様に見受けられます。今回の質問に関しても、それらの定義に関する議論になってしまう所があると感じています。
- あくまで個人的な感覚であり余談ですが、私には例文2-4での「を」の使用はちょっと変な日本語に感じます。本当に昔からそういう言い方したかなぁ、という感じがします。実際に耳にしますし、自分も使うかもしれないので間違いとは全く思いませんが新しい言い方に感じます。変さの程度は「食べれる」くらいの感じですかね。元々は「が」であったものが、「〜を話す」に対する「〜を話すことができる」の類推で「〜を話せる」も使う様になった様な気がします。誤用だと言う意図はありませんが、自分にこの感覚があるために、「〜を話せる」の「〜を」が目的語だから「〜が」も目的語だという考え方はあまりしっくりこないというのが正直なところです。なぜなら、上記の通り2-4での「〜を」は元々ない表現だと感じているのでそれに依拠した説明がストンと胸に落ちないだけです。
- 一方で、「空を飛べる」の「を」には全く違和感を感じません。この感覚の違いに基づけば、1の「を」と2-4の「を」は本質的に異なる「を」なのでは無いかという気がします。
- さらに、1の「が」は2-4の「を」以上に変に感じます。1の「を」と2-4の「を」が本質的に異なるとすれば、2-4で「を、が」を両用出来ることは、1で両用出来る理由にはならないはずです。ただ、2-4で両用する様になったために、一見同じ構造に見える1でも「が」が使えると感じる人が増えたのでは無いかと思ってしまうほどです。
- なお、冒頭にも触れた様に「自分の感覚に基づいて上記の様な分析が正しいはずだ」という趣旨ではありません。

お礼日時:2019/06/05 19:05

他の質問者↓


https://oshiete.goo.ne.jp/qa/11115532.html
が見つけたサイトによると、『できる』について、ネット辞書のほとんどは自動詞としているようです。
広辞苑・日本国語大辞典・学研国語大辞典・明鏡国語辞典・新明解国語辞典
現状、これが大勢と考えて良いのでしょう。
自他の区別を記していないのは、大辞林・大辞泉の2つのみ。
こうした新事情を受けて、蟷螂之斧といった趣もありますが、若干感想などを。

1.
ここで「他動詞」の定義について、改めて確認することから始めてみます。
どの辞書も大差ないが、大辞林の語釈は下記のとおり。
【その表す動作・作用が他に及ぶ意味をもつ動詞。その対象となる事物を,多く助詞「を」で表す。】
多くの辞書で、「できる」はこうした要件を満たしていないと捉えているのでしょう。
「できる」は能力や可能性を意味する動詞であり、何らかの動作でも作用でもない。
という考え方なのだと思います。
あるいは、「する」の可能態と捉えて、自他の区別をすべきではないという説もあるようで、いずれにせよ、「できる」に他動詞用法を認めない考え方が辞書界を席巻しているのでしょう。

2.
さて、以上を踏まえ、

a. この店では食事をできる。

は間違った日本語でしょうか。
「できる」の場合ヲ格はとらない、という考え方もあるようですが、わたしには(どうしても)そうは思われません。
多くの辞書のように自動詞、または可能態と捉える場合、「食事」は目的語ではなく連用修飾語などと呼ぶことになるのでしょう。しかし、

「食事をする」

は他動詞ですから、その可能形も他動詞と考えることが不可能とは思われません。実際、

・この店では食事をできる(という状態にある)。←自動詞

ではなく、

・この店では食事を(することが)できる。←他動詞

という意味に解釈する構文のほうが、我々の無意識に近い感覚でしょう。
「できる」という可能性の持つ作用が「食事」に及んでいる、と捉えるわけです。

b. 私は 日本語を 話せる。

のような可能動詞の場合は、なおさら他動詞と思います。
ほとんどの辞書は、「話せるという状態であること」と解釈するので、「動作・作用が他に及ぶ意味をもつ」という意味の他動詞とは考えないのだろうと思います。
しかし、「話せる」という動詞の対象となっているのは日本語なのですから、他動詞と解釈するほうが自然でしょう。

aー1. この店では食事ができる。

のようにガ格を使う場合は、

・ この店では 食事ができるという状態にある。↓
・ この店に関して言うなら、 食事ができるという状態が存在している。

というニュアンスで、「食事」が構造的に主語になり得るため、「食事」に焦点が当たり、a の強調表現になる。

b-1. 私は 日本語が 話せる。

の場合もむろん同様です。

3.
辞書編纂者の方々は、【動作・作用が他に及ぶ】という他動詞の定義を、あまりに狭義に捉え過ぎではないかという気がします。

c. 鳥は空を飛べる。

を他動詞と呼べないのは納得できるのですが、この自動詞と、
a. この店では食事をできる。
b. 私は日本語を話せる。
を同列に取り扱うのは、極めて不合理という印象を受けます。

4.
「目的語」とは別に、自動詞専用に適用するものとして「対象語」という概念を導入すると良いのではないかと思います。

1. 鳥は 空を 飛べる。(主語+対象語(あるいは連用修飾語)+自動詞)
1-a.鳥は 空が 飛べる。(主語+対象語(あるいは連用修飾語)+自動詞)
2. 私は 日本語が 話せる。(主語+目的語+他動詞)
3. 私は 日本語を 話せる。(主語+目的語+他動詞)
4. 私は 日本語が 分かる。(主語+目的語+他動詞)
4ーa. 私は 日本語を 分かる。(主語+目的語+他動詞)
5. 彼が 日本語を 話せる。(主語+目的語+他動詞)
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