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もし織田信長が本能寺の変で倒れなかったら、その後の日本はどうなっていたと思いますか?とてもカリスマティックな人だっただけにとても気になります。

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A 回答 (7件)

まず信長の目指していたのは、既存の勢力を倒し、自由闊達な世の中を作る事ですから、西欧のルネサンスのような活気のある国家になったと思います。


そして日本人は中国が「華僑」として世界に乗り出していったように「倭僑」として世界に飛び出し、山田長政のような他国で活躍する人物も多く出たと思います。
政権的には幕府を開くかどうか疑問ですが、信長の子供たちは総じて凡庸な中で、信忠だけは抜きん出ており、正当性から言っても疑問はありませんから、信長-信忠により政権の委譲もスムーズに行くと思われます。
私の空想ですが、信忠が二条城を躊躇なく逃げ出していれば、堺に走って渡河寸前の四国遠征軍を掌握し、明智光秀を討ち、天下を取れたと考えます。
諸般の事情を考えても西へ逃げる事は容易でしたし、何故むざむざと討たれたか不思議でなりません。(一緒にいた有楽斎は余裕で逃げてますし)
話が脱線しましたが、本能寺の変がなければ早々に四国は制圧され、毛利も軍門に下って九州遠征の先方(大体降伏した大名が務めますから)になって南下、西日本を平定した後、信忠が織田家当主(織田家の当主は既に信忠でしたが)として内政を固め、大御所信長が家康の先導で関東を攻略、伊達などの恭順により日本は統一されます。
これ以降内政は信忠、「倭僑」は信長と棲み分けが出来、日本は貿易立国としてオランダなどの様に世界の港に日本船が見られるようになります。
国内では関白太政大臣織田信忠が諸大名を動員して大坂に巨大な城を築き、城下町にはセミナリオなども建てられ、南蛮商人が行き交う街になると思います。
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「本能寺」だけの問題で考えるなら、


いずれ、恨みを買って誰かに殺されると思いますが。

「本能寺の変」自体、明智軍がその気であれば、敵将の首も取れない、なんてことはありえない。(中国攻めをする軍隊と身辺警護隊の戦いです。「神戸製鋼対少年ラグビー」よりも差がある。あっというまに銃撃されて寺に火をかける前に殺されているはず。)

秀吉あたりは、自分と年の違わないの信長が早く死ななけりゃ天下を取れないと判ってますからね。
(自分でこっそり信長を暗殺しておいて、光秀をそそのかしてダミーにする、ってのが私の想像)
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信長がどういう政権を望んでいたか?


朝廷の権威の下、征夷大将軍となり幕府を開いていれば、安定した政治になったんではないでしょうか。信忠は弟達のように凡庸ではないと思います。#4の方の書かれている通り、少なくとも当分は鎖国は無く、西洋の文明を取り入れ重商主義・富国強兵に努めたのではないかと思います。国の政権が安定していれば外国も付け入りにくい。キリスト教も広まってローマ教皇とも親交が結ばれたでしょう。

そうでなく、足利義満のように、太政天皇・日本国王を目指したとすると、信長の生きているうちは何とかなったとしても、死後は朝廷を中心とする反動勢力が盛り返して、本能寺の変に似たクーデーターが起こってしばらく国が安定しない時期が起きたのではないかと思います。戦国期は朝廷の権威が高まってますからね。
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良く質問される題ですね。

それだけ魅力のある問いなんでしょうね。

 だいぶ先進的な国になったのではないでしょうか?日本という国は。鎖国はなかったでしょう。#1の方は、後継者に信長は恵まれなかったとおっしゃいますがどうでしょうか?信忠が信長と同時に、光秀に殺害された為に、織田政権が後継者に恵まれなかったという印象があるかもしれません。家康に秀忠。秀忠も信忠もどっこいどっこいだと思いますが。

 鎖国がないだけ、尊王攘夷さどヒステリーな現象もなく、第2次世界大戦みたいな無謀な戦争もなく、安保闘争もなく、安定的で進んだ先進国になったのではないでしょうか?うまくいけば、東のイギリスに匹敵した帝国が出来たかも?

 蓋を開けてみなければわかりませんが。
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この回答へのお礼

やはりいち早く先進国になりえたのでしょうね。わかりませんが・・・器のでかい人だったのですね!

お礼日時:2004/12/05 23:24

織田信長が、素直に「征夷大将軍」の官位を受けていれば問題は無かった事です。



本能寺は、史実的には、文献、書状から見て、足利将軍の最後の悪あがきである事がほぼ証明出来そうらしいです。
一応はまだ将軍でしたので、元家臣の明智光秀を抱きこんだらしいです。

豊臣秀吉にしろ、家康にしろ、
織田信長の築いた領地や天下をちょこちょこっといじった程度で、
とても何も無い最初から、全国制覇出来る器は無い感じがします。

ある評論家の論です。
織田信長は、明治を作ろうとした。
選銭令は、天皇に出させようとしていた。
信長が、公家がまだ政治するのをを怖がり、官位を送って生計を立てようとする公家を苛立たしく思っている姿を公家は良く思わず、

官位を贈れぬのは朝敵(天皇に媚びてこない、入金が無い)
とみなし、警戒した。
ここに付け込まれたと言うのです。

いち早く、明治が来たかもしれません。??
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この回答へのお礼

そうだったのですか!初めて知りました!体制に反発する姿勢はかなりのものだったのですね。ありがとうございました。

お礼日時:2004/12/05 23:26

こんばんは。



天皇を廃し、自分が皇帝になったと思います。
で日本は「織田大和帝国」みたいな、より専制君主的な国家になったと思います。

失礼しました。
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この回答へのお礼

簡潔な回答ありがとうございます。皇帝ですか・・・似合いそうですねぇ。 

お礼日時:2004/12/05 23:22

 こんにちは。



 ん~難しい質問ですが、私の空想を……

 織田信長は、とても気性が荒く乱暴者に思われがちですが、楽市・楽座を認め既得権を無くし、新規参入(「堀江もん」ですね)を促すなど、色々な面で良い意味での改革を進めた両面性を持った人なんですね。もし、長生きしていたら、色んな改革を進めたでしょうし、国の統一も出来たでしょう。
 ただ、そうなると、豊臣秀吉や徳永家康が政権を取れなかったと思われます。信長が亡くなると、それだけの力量を持った跡継ぎが見当たらないので、また戦国時代に戻ったかもしれませんね。徳永家康の政策が平和な世の中を築く礎になったと思いますので。
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この回答へのお礼

なるほど!ありがとうございます。やはり力量のあった人物ですよね。

お礼日時:2004/12/05 23:21

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Q織田信長が本能寺の変で死ななかったらどうなっていたでしょうか??

織田信長が本能寺の変で死ななかったらどうなっていたでしょうか??
個人的には信長が天下統一をして、他の国を侵略していたんじゃないかと思います。
(すぐに病死したなどはやめて下さい)実際塩分を取りすぎて健康ではなかったようですが・・・

Aベストアンサー

 織田信長の経済感覚や「天下布武」と言うスローガンから見て、もしあと20年、信長が生きていたら相当違った世界があったでしょう。

 信長の過去の方針や、商業振興による富の蓄積・天下平定による武士の余剰(秀吉の朝鮮出兵や徳川家による大坂の役・大名の取り潰しなどはその影響という説も。)からみて、フィリピン・東南アジアへの進出はかなり大規模であったと考えられますが、他国への侵略という面の支配ではなく、当時のヨーロッパ諸国がやっていたような植民都市建設=貿易拠点整備という形で、既に出来上がりつつあった東南アジアの日本人町をネットワーク化していったのではないかと思います。(経済感覚が並外れた政治家である信長ですから。)


 信長の行動から見る限り、天下布武とは、武士だけに当てはまるのではなく、常にその分野で革新的・積極的(=戦闘的)であり続けることを意味しているように思います。

 宗教であれば、より哲学的で民衆救済に努力し続けるものを良しとする。
 商人であれば、より安く安定した物資供給を目指す者を良しとする。
 農民であれば、開墾・治水に努力し、より多くの収穫を目ざす者を良しとする。

 つまり、今の自由主義のような、貿易・経済活動を目指していたと思われます。

 また戦争がなくなっても、織田軍団は得意の土木工事(豊臣政権に引き継がれます。)をする公共・インフラ整備部隊として(ローマ帝国の軍団がそうでした。戦いのないときは、都市建設・道路・水道・港湾整備などの公共工事をやっていました。)全国展開・海外進出したと思われます。

 更に一つの夢物語ですが、アメリカ西海岸への植民が行なわれたかもしれません。1620年、イギリスからアメリカへメイーフラワー号に乗っていった移民が、今日のアメリカ合衆国の基礎となる移民の始まりとされています。

 信長が本能寺で死ななければ、1585~90年ごろには、日本全土の統一は十分可能ですから、1595年頃からアメリカに移民が始まり、1650年ごろには、アメリカ西海岸に広大な日本の植民地が出来上がっていたかもしれません。(日本からアメリカは、ヨーロッパから行くより大分遠いのが難点ですが・・・)
 新大陸に、アジア系仏教国が出来ていれば、世界史における白人・アジア人種の立場が逆転した世界になっていくはずです。

 織田信長の経済感覚や「天下布武」と言うスローガンから見て、もしあと20年、信長が生きていたら相当違った世界があったでしょう。

 信長の過去の方針や、商業振興による富の蓄積・天下平定による武士の余剰(秀吉の朝鮮出兵や徳川家による大坂の役・大名の取り潰しなどはその影響という説も。)からみて、フィリピン・東南アジアへの進出はかなり大規模であったと考えられますが、他国への侵略という面の支配ではなく、当時のヨーロッパ諸国がやっていたような植民都市建設=貿易拠点整備という形で、既に...続きを読む

Q織田信長が死なず,日本が鎖国をしなかった場合の世界秩序は?

織田信長が死なず,徳川家が江戸幕府をつくらなかった場合,
日本は鎖国をしなかったと思います。

1600年代には,大航海時代に突入したヨーロッパは,東南アジアをはじめとして,世界を植民地化していたわけですが,
鎖国をせず,海外と貿易活動を積極的におこなっていたとしたら,
日本は,どうなっていたでしょうか。

貿易大国となって,東南アジアあたりを海外植民地とするような大国となっていたでしょうか。

Aベストアンサー

>貿易大国となって,東南アジアあたりを海外植民地とするような大国となっていたでしょうか。

可能性は大いにあったと思います。

まず信長の時代には日本人も相当に東南アジアに進出していた、という事実があります。タイの日本人街が最大で、その他にもベトナムのホイアン、マレー半島のパタニ王国、カンボジアのプノンペン、フィリピンのマニラなどに日本人街が存在しました。

これらの日本人街の構成員は商人・娼婦そして傭兵でした。日本の武士が傭兵として雇われており、なかなかに強かったと記録されています。

織田信長が本能寺の変で死なず、秀吉程度に長寿であったとしたら、間違いなく日本を出て明を攻めていたと思います。理由は簡単で「大陸を御さない限り日本の安全は守れない」からです。実はもう一つ日本を守る方法があって、それは海外貿易を諦めて鎖国すること、でありました。家康はこれを選びましたが、信長は貿易と対外戦争を選んだと思います。

もし、明というか大陸の国家と戦争になれば、日本の軍隊はそれなりに優位に戦争を進めたでしょう。問題は「どこでやめるのか」です。貿易を睨んで現実的な判断をするとすれば、朝鮮と明国に日本の出先機関を作り(鎌倉時代の六波羅短大みたいなやつね)上海などにも出先機関をおいて貿易を活発に行ったであろうと思います。
もちろん、これを足掛かりに南蛮貿易も行ったことでしょう。

では、キリスト教の伝播はどうなったかというと、どこかで宣教師追放が行われたと思います。なぜそう思うか、というと宣教師が奴隷貿易を行っていたからです。
 西洋の奴隷と日本の奴隷(人買い)は意味が違っていて、西洋では「主人の持ち物=犬猫と同じ」だったのですが、当時から日本の人買は「借金の返済のための拘束」であって、西洋的な奴隷ではありませんでした。

実はこの行き違いは最初からあって、宣教師たちが日本で奴隷を買い求めた時に、日本の口入れ屋が提示した金額は当時の南蛮諸国の1/3だったと言われます。そのため宣教師たちは争って買い入れたのですが、宣教師たちは終身奴隷、日本人は年季が明ければ解放される、とズレが生じていました。1/3なのは借金分の金額だったから安かったのです。
この違いが分かるにつれ、宣教師による奴隷購入は日本人に嫌われるようになり、秀吉が宣教師を追放したのはそういう問題もあった、と言われています。

 またキリスト教はのちに島原の乱を起こしたように、明らかに日本の宗教観とは異質であり、日本に忠誠を誓わず法王に忠誠を誓うことから、いずれにしても信長がキリスト教を放置したとは思えません。したがって、大陸に対して一定の影響力を保持した時点で、南蛮貿易もコントロールするようになったと思います。

西洋国はこの時代より植民地支配を強めていき、西洋列強として東アジアに襲い掛かるわけですが、この時点ではまだ東南アジアに足掛かりを築いただけであり、フィリピンを除いた東アジアはまだそれほど支配されていたわけではありませんでした。

もしここに、日本からの出兵または日本人街などによる日本への情報があれば、信長やその跡継ぎは躊躇なく介入したと思います。いわば、400年ほど早く上海事変の状態に近い状態に入るわけで、当時の兵力からすれば日本もそこそこ戦えたであろうし、明ともアジア人同士の同盟が組めた可能性もあります。ベトナムやタイなどにはすでに影響力を及ぼしていたようですので、日本武士による義勇軍出兵などもあったかもしれません。

この後はサイコロがどちらに転がるのか、信長の継嗣が何代まで続くのか、など複雑な要素がたくさんありますが、少なくともアジアの目覚めが早くなり、日本や明などは西洋列強に対する対抗勢力になり得ていたと思います。

日本が海外植民地をもったかどうか、という点でいえば「ほぼ間違いなく持たなかった」であろうと思います。それは任那日本府の失敗からどれほど海外植民地をコントロールすることが難しいか学んでいたであろうからです。
せいぜい沖縄が早めに統合され、もしかしたら台湾は日本の領土になっている可能性があるぐらいで、これらの地域を押さえて基地化し同時に東南アジアへの貿易を行っていれば、西洋は攻めることが難しくなるといえます。

ペリーなどは来ても「どうぞ、どうぞ、薪でも水でも買ってください」となるだけで、貿易のための条約などは16世紀中に整えられたでしょう。

そうなれば、日本や中国などはアジアの列強として、17世紀には大国化していたと思います。

>貿易大国となって,東南アジアあたりを海外植民地とするような大国となっていたでしょうか。

可能性は大いにあったと思います。

まず信長の時代には日本人も相当に東南アジアに進出していた、という事実があります。タイの日本人街が最大で、その他にもベトナムのホイアン、マレー半島のパタニ王国、カンボジアのプノンペン、フィリピンのマニラなどに日本人街が存在しました。

これらの日本人街の構成員は商人・娼婦そして傭兵でした。日本の武士が傭兵として雇われており、なかなかに強かったと記録されて...続きを読む


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