里崎智也さんからビデオメッセージがもらえる

今、人並みに、<人間の本質って何だろう?>を考えています。
ところで、本質という言葉がわかりません。
本質とは、誰々にとっての、いつの時代の、どこの場所での、どういう立場などの、「本質」と捉えるのでしょうか?
あるいは、本質とは、何も付かない、裸の「本質」なのでしょうか?
(人間が考える”人間の本質”、”犬が考える”人間の本質”、宇宙人が考える”人間の本質”は、みな同じなのでしょうか? あるいは、違うのでしょうか?)

A 回答 (12件中1~10件)

辞書的ですが本質とは、本来そのものが持っている本来の性質です。

これを違った言い方で説明するとそれる気がします。立場とか場所とかは関係ありません。本質に具体は余計な説明になります。
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「本質」と言う言葉が理解しずらいのは、全く異なる次元での意味を一つの言葉で表しているからです。



物理学や数学などの「科学でいう本質」
科学で扱う本質とは「その物の根本の要素」と言う意味になります。たとえば数学の幾何学の本質と言う意味なら「三角は3つの頂点とそれを結ぶ3本の辺」という書き方になります。頂点が4つでも、辺が2本でも「三角形」とは言わないわけです。これが科学でいう本質です。

哲学でいう本質
ギリシャ哲学は科学でもありましたので「本質」を追求していました。たとえば人間を分解するとどこに本質があるか、などです。当時の科学では「人間や動物、石などを分解すると4元素に分解できると考えていました。
 この4元素をさらに分解して量子学まで行っちゃったのが科学なのですが、しかし「形態」として見えるものをどのように解釈するか、という形は哲学として進化していきます。

アリストテレスはこれを「形而上学」として考えました。
分かりやすく言えば「社会は実態としてのモノはないので4元素には分解できない。しかしその実態には成り立ちや必要性などの『本質』があるはずで、それを見極める」のが形而上学であるとしています。

先に書いた「科学」はどこまで行っても「モノ」を追求するので形而下学ともいいます。

実存的価値観でいうところの本質
これは実存主義という哲学の一派なのですが「本質は実は存在の後」という考え方をしているのがすごいエポックなところであるといえます。
つまり「本質というのは、それを考える人間などの知性があって初めて認識できるので、人間がいなければ本質は存在しないのではないか?ならば『実存=人間がそこに居ること』が先で、本質は人間が考え出したものなのではないか、という論です。まあ、ややこしい(笑)


さて「人間の本質」を考える場合、まず形而上なのか形而下なのか、それとも実存的価値観からアプローチすべきなのか、と言う点を考える必要があります。この区分けを意識しないで、人間という対象物を見ると「訳が分からない」ことになるわけです。質問者様が入り込んでいる迷路はこの部分だと思います。

そういう視点からみると、質問者真の疑問である「人間が考える”人間の本質”、”犬が考える”人間の本質”、宇宙人が考える”人間の本質”は、みな同じなのでしょうか? あるいは、違うのでしょうか?」に対する答えは、実存主義で考えることになるでしょう。

つまり「もし人間と犬と宇宙人の知覚や知性が同じものであれば、本質は多分同じものであるだろうし、人間と犬と宇宙人の知覚が異なるなら、本質とされるものは異なる可能性も高い」といえるわけです。

宇宙人がどんな考えをするかは知りませんが、人類でも18世紀ぐらいの人類が知覚できる形而下的本質と、現代の量子力学まで発展している人類が知覚している形而下的本質はすでに異なっているといえるでしょう。
これは「科学」というものがその時代の技術的限界に頼っている以上仕方がないことであるといえます。

となれば、たぶん質問者様が疑問に思っている「人間の本質」を見るのに形而下的なアプローチは多分無駄であるといえるでしょう。MRIで分解した人間の体を見ても「人間の脳が作りだす知性」を見抜くことはできないからです。

そうすると「人間の本質」は哲学的なアプローチになると思いますが、そこには形而上学と実存主義の亀裂が横たわっているわけです。だからどちらのアプローチで本質を追求していくか、という命題が生まれるし、そこで「本質に行きついた」としても、別の角度から見れば「まったく間違っている」かもしれません。

ということで、とりあえず私から回答できるのは以下の通り
>本質とは、何も付かない、裸の「本質」なのでしょうか?

たぶん、裸の本質ではない、もし裸の本質があったとしても、今の人間の思考ではアプローチ出来ない可能性が高い、です。

だから「人間の本質」を考えるのに、「社会における人間の本質」とか「実存主義と本質論」などの限定的な解釈しかできないと思います。

です。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。
<人間の本質」を考えるのに、「社会における人間の本質」とか「実存主義と本質論」などの限定的な解釈しかできない>のですね。したがって、宇宙人が考える”人間の本質”と我々人間が考える”人間の本質”とは、異なっているかもしれないのですね。
そして、<裸の本質があったとしても、今の人間の思考ではアプローチ出来ない>のですね。残念というか、諦めるというか、助かったというか、です。

お礼日時:2019/06/25 05:33

本質と言う言葉の意味は前につく言葉から独立して存在します。

ですので、前に言葉がつくと本質を見い出す対象が決まります。例えば“人間の本質“では人間が本質を見い出される対象です。さらにそこに主体の限定を加えると見方が生まれます。例えば、宇宙人が考える“人間の本質“では宇宙人から見た“人間の本質“になります。ですので、主体をさまざまに限定すると、さまざまな見方ができるので、さまざまな視点からみた本質ができるでしょう。しかし、それらがさまざまな視点から見ているからといってそれぞれの本質を見いだしているとも限らないし、1つの同じ本質を見いだしているとも限らない。ですので、それぞれの視点に立たないと本質に対する見方はわからないでしょう。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございました。
<主体をさまざまに限定すると、さまざまな見方ができるので、さまざまな視点からみた本質ができるでしょう。>
<しかし、それらがさまざまな視点から見ているからといってそれぞれの本質を見いだしているとも限らないし、1つの同じ本質を見いだしているとも限らない。>
<それぞれの視点に立たないと本質に対する見方はわからないでしょう。>
宇宙全体の立場から見た”人間の本質”は、求めるのがむずかしいのですね。地球人の考える”人間の本質”で、我慢せざるをえないのですね。

お礼日時:2019/06/22 19:30

人間の脳は大雑把に以下のような3つの部分からなっているとする捉え方があります。



1.爬虫類脳(生命維持脳)
呼吸などの生命維持や生殖など本能を司る。
部位:脳幹・脊髄など。

2.哺乳類脳(感情脳)
喜怒哀楽などの情動を司る。
部位:大脳辺縁系。

3.人間脳(理性脳)
論理・言語・創造・倫理などの思考を司る。
部位:前頭葉などを含む大脳新皮質。

爬虫類のトカゲに喜怒哀楽はおそらく無いはずですが、哺乳類のライオンにはありそうです。
ただ、ライオンにとっての本質は他の動物を捕食し、そこから得た栄養で子を産み育て種をつなぐことであり、思考するという作業はおそらく含まれないでしょう。
同じ哺乳類でも猿ぐらいになると社会性とともに思考も発達してくるようですが、あくまで限定的と言えます。
こういったことから、人間の特異的な属性は「生命維持と直接的に関係のない事柄についても思考する生き物」と言ってよいかもしれません。
そして、これを本質として良いのではないかと。

生命維持や喜怒哀楽だけにうつつを抜かしていれば良かったバラの日々を、ある日手放すことになる何らかの契機が存在していたのでしょう。
ただ、その契機は突然訪れたわけではなく、おそらく、大脳の神経細胞が何らかの理由で次第に増加やトリミングを繰り返す過程で蓄積された結果なのだろうと思われます。
人間の脳は、まだ身体機能を十全にカバーするまでには至っていませんが、わずかづつではあるものの巨大化しています。
「巨大化=高機能化」とは限りませんが、ある程度必要な要素ではある。
考える主体が異なると本質が異なるということはないでしょう。
仮にそうだとすれば、それは当初規定した本質が単に間違っていた、ということになります。
もっとも、脳の変化が顕著になった未来においては異なってくるのかもしれません。
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本質を判じる時には、そこに綜合的判断が存在すると思います。

一個の視点、一個の対象物、一個の時代、など、単一の基準から導き出される判断ではないように思います。本質というのは。
で、そういう綜合的判断を為さしめる機能というのがあるはずで、それが、感覚であったり、計算であったり、或いは論理かも知れないし、直観と言うものかも知れない。
さて、上述の事は一先ず置いとくとして、本質という言葉は、それの核心とか、根っこの部分、掘り下げたり、余計を排除して捉える事のできる部分を言うのだと思うが、往々にして、本質とは目に見えた所や、はじめに思ってた所とは異な所にあるものだと言うのが、私の経験上からは語られる事です。

例えばよくある離婚問題の本質はどこにあるか?と考えた時に、夫婦の絆が脆弱であったと単に結論するのは拙速で、仕事が忙し過ぎたとか、仕事が忙し過ぎる事の背景にある社会問題とか、浮気があったとか、浮気が起こった事の背景にある不運な出会いとか、子供を育てる負担が大き過ぎたとか、その大きすぎる理由がその子供固有の性質にあったとか、或いは金銭的な事であったとか、兎に角、夫婦の絆の脆弱性を問うのは正論かも知れないが、果たして正解なのか?と言うと微妙になってくる。夫婦が、余計なものに巻き込まれ、重荷を背負い込み過ぎたと言えるのかも知れない。つまり、ここでは離婚の問題の本質は、色々ある中で、夫婦間のあるべき大切なもの、(例えば信のようなもの)を見失ったことによるのではないか?と考える。これは、単に絆が脆弱だったとだけ言うよりも、ずっと解答に近いと私は思う。


このように離婚問題を簡単に考えただけでも、その本質を捉えるためには多元的な見方が必要になるが、人間の本質とは何か、を考える時には、当然、人間と言うものを先ずは複合的な存在であるとみなさなければならない。単一の存在ではなく。
何と何と何が合わさって人間と呼ばれているのだろうかと。

先ず人間と書いて"じんかん"と読むように、人間は人々の間にあって生きている。一言で言えば社会的存在であると言う事。この時点で、すでに社会と言う巨大な複合物が現れた。次に、人間は思念する存在であるというのが私には思い浮かぶ。それは言語という形を取るだけでなく、想像もあれば、何かの念い、といったような場合もある。このような単純ではない内的動態を持つという事を挙げることによって、人間を考えることについてが一層複雑になる。
更に人間を規定する客観的事実を挙げよう。時に残酷であり、欲深で、気まぐれに親切であり、稀に気高く、かと思えば暴力的でずる賢く、しかもその性質は個人差が極端に大きい上、境遇の差が、それらの差異の広がりに拍車をかける。

このように複雑で多元的な存在である人間の本質とは何かを考えるのに、私に一つのアイデアが浮かんだ。

それは、人間はどこに向かうのかと言う観点である。
はじめに人間は社会的存在であると言ったが、この社会的営みを通じてどこへ向かおうとしているのかと言うのが一つ。
次に、人間は思念する存在と言ったが、なにを思念していて、その方向性は何処へ向いているのかと言うのが一つ。
そして、様々な個体やシチュエーションによって色々に振る舞いを変える人間と言うものが持つ動きは、何に傾斜しているのだろうか、と言うのが一つ。

おそらくであるが、性急に(思索はゆっくりしてくれたらいいが、解答のための、まさしく綜合的判断を下すために)結論すると、
一つ目、社会性においては、人間はエゴをぶつけ合いながらも幸福とは何かを模索して、そちらに向かっているように思われる。
二つ目、思念の方向性は、これは最も重要だと思うが、人は、完全に人になろうとしていると言う事。それが理想なのかイメージなのか、念いなのか、探求なのか、人によりその過程は様々であろうが、方向性としてはそのように見える。
三つ目は、これも重要な点ではあるが、この豊かなバリエーションが、何によって現れているのかと言えば、それは快不快への傾斜ではないか。そして、快不快に揺られる事自体への厭離の心を起こすことも含めて、人間にはその性質と振る舞いにバリエーションが生じている。

・幸福
・完全に人であること
・快不快とそれからの厭離

これら三つの方向性を持つ事が人である事、であると仮に結論しよう。
そして、二つ目の完全に人であろうとする方向性、これがやはり焦点になるだろう。
只に人であることと、完全に人であることは違うのは分かると思う。
完全に人であると言うのは、言ってしまえば、人から只の人と言う濁りの部分を除去した"純粋な人の部分"と言うことであるから、それは何かを推察するとしよう。

この純粋な人の部分が、濁りである只の人の部分から抽出された精、エッセンスのようなものであると私は考えた。何故そう考えるかと言うと、もし、只の人の部分に完全なる人の部分が僅かも含まれていないならば、人が完全に人である事を志向する事など出来やしないからである。
と言うことは、只の人の部分から、人ならざる部分を排除すれば、人の本質が得られるのではないか?と更に考える。
とすると、単に悪を排除し、善を取ると言う短絡した道筋になるのだろうか。
いやしかしどうだろうか。人ならざる部分こそが人の本質である可能性も拭えない。
時に人は獣よりも凶暴であり、神(精神的な何か)よりも純粋に振る舞う。
と言うことは、悪の本質にも、善の本質にも、人の本質は関わっていそうだ。悪をより悪く、善をより善くする作用が人にはあるのだろうか。増幅作用のようなものである。確かに人は、この世に見られる"作る作用"を増幅させている事実があるし。
ただ、そもそも殆どの自然界には善悪は存在しない。それを識別するのは人間だけか、或いは人間ほどではないにせよ高度に発達した種族だけだと考えられる。
隕石落下や火山の噴火はもとより、食物連鎖や生存戦略には善悪は存在しない。
善悪は、生き残る為ではなく、如何に生きるのかという話だからである。価値の話にもなるだろう。如何に生きるのが価値のあることなのかと言う話である。

この善悪を識別すると言う点と、それらを増幅させると言う作用、この二つが人間の本質にあるようだと今回私は考えた。
ここで、何を善と為すのかを一言言っておくと、群の生存のために動くことが善ではない。善は結果的には群のためになるかもしれないが、その動機は、如何に生きるのが価値のあることなのか、ということなのである。従って、善人が早死にすることもあるだろうし、善き共同体が、早々に歴史から退くこともあるだろう。善悪は生存戦略ではない。それを超えた所の話なのである。

で、問題は、その善悪を増幅させる作用である。悪魔とは悪を増幅させたもの、天とは善を増幅させたものであるとするなら、それらは人間の世界観の中で生まれたものであるから、この世界観を持つという事が、人間の本質なのではないか。この世界観の中で、善悪を識別し、それぞれの極致を想起し、そして人とは何かを考える、これが人間である。

すると質問者が言うように、人間の本質は人間が考えたものであるのが妥当だろう。当然ではあるが。
で、人間が持つ世界観の中における人とは何かというと、善悪とはまた異なる次元の軸に従って生きる存在であると言える。
善悪は生物が行うような生存戦略は超えているが、しかし争いの中に身を投じていてそこから脱していない。
所が人が目指す道、方向性というのは、常に争いを捨て去る。
例えば、人が何か良い品を手に入れたとしよう。品の他に知識や技術でも構わない。
愚者はそれを他の人に見せびらかして満足するが、こころある人はひけらかさない。持っていない人に乏しい思いをさせてしまうからである。このように、こころある人は事前に争いや諍いの種である嫌悪の起こるのを予防する。

人の本質、人の在る道と言うのは、あえて言えばこのような事柄に見られるのである。
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人間の本質は人間らしさ 人間の主体となっているものです。



人間はTPOが変わっても 上がらなければ 必ずある事だと思います。

人間の本質って何でしょうか?
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
<人間はTPOが変わっても>なのですね。
したがって、人間の本質は、地球人にとっても、宇宙人にとっても、異なることがない、と理解してよろしいのですね。

お礼日時:2019/06/15 16:44

人間の本質は 化粧? スッピン? 精神? 存在性? 何でしょうか?



人間といえば これ と言う本質があるのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

ご尤もさま

お礼日時:2019/06/15 16:38

森のチンパンジーと、90度腰の曲がったおばあちゃん、この両者をクリアに弁別する属性は何か? よく考えてみましょう!

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この回答へのお礼

再三のご回答ありがとうございます。
<森のチンパンジー>の二足歩行は、本質的であり、
<90度腰の曲がったおばあちゃん>は、直立二足歩行の揺らぎなり。

お礼日時:2019/06/15 16:37

二本足歩行ができない車椅子のパラリンピック選手をどう考えるかですね。



あと、二本足歩行が得意な森のチンパンジーも。
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この回答へのお礼

再度のご回答ありがとうございます。
1.歩行に支障にある、あるいは言語に支障のあることは、ゆらぎになるでしょう。
2.チンパンジーは二足歩行であり、人間は直立二足歩行なり。

お礼日時:2019/06/14 19:22

本質とは 存在のことです。



《何かがある》とは どういうことか?
《ある》とは いったい何のことか?
《何か》とは いったい何か?


けれども この世にあるものは すべて移ろいゆくものであり
いつかは朽ちざるを得ないものではないのか?


そこで 変わり得ないもの・朽ちるべからざるものは あるか?


あると答えた場合には これを絶対性――つまり神――とします。
したがって この神とのカカハリにおいて 世界とそこにある一
切のものごとは その《あること》が 言わば裏づけされている。
――と考えます。

ないと答えた場合には 絶対性は無いということですから――神
については 《無い神がある》という想定になりますが―― 変
わり得るものの中に いちおう変わらざるものと捉えた何かを
存在つまり本質と見ることになります。

やがてほろびるとしても かなり長い間あり続けるところの宇宙。

あるいは 個別の存在としてのわたしは移ろいゆくとしても 類
としての人間は――そのDNAとしては―― 或る程度の時のあい
だあたかも永遠である。






まとめるならば 人間にとってその本質とは:

① 真無限としての永遠〔なる《有る》〕とわれとのカカハリに
おいて おのれの《あること》を捉えているか 

または

② 有限なのではあるがあたかも限りなくつづく可能無限・それ
としての《あたかも永遠なる〈有る〉》によって おのれの存在
を捉えたと見なして 元気に生きるか

となります。




なお ①の場合に 神を イデアと見なし 理念であるとか純粋
精神であるとかのように捉えている場合は いわゆる観念論であ
り げんみつには①の場合に入りません。

よく似ていますが 自分の思いや願いや気持ちを神として思い込
んだだけのおままごとです。
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