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好きな戦国武将と逸話を聞かせて下さい

A 回答 (3件)

家康です。

天下を取った武将としてではなく、今の東京の基礎を造った先見性です。

西に信長が居て、その後秀吉に代わりましたが、彼は西進しませんでした。そして彼は平野を目指して戦い続けた武将の様に見えて来ます。米が主体の経済下では、水田の過多が国力の基礎になった当時、一番近い濃尾平野や近江盆地は、どんなに欲しくとも高嶺の花で、同盟軍として戦いに参加するのみで、決して領地を獲得できませんでした。

それなら関東と早くから目を付けていたに違いなく、小田原の北条氏滅亡後の関東移封は、本心大歓迎であったと思います。これで戦わずして、最も欲しい関東の地が手に入ったのです。喜ばない筈はないのに、その喜びを隠し、生まれ故郷を追われた家臣を含めた大名と同情されます。しかし本心はこれで将来天下人と、確信したでしょう。

その後の彼は、下心を隠し、朝鮮出兵をも免除され、関東の経営に専念して、成功を納めます。何よりは、廃城となっていた江戸の地を城下として整備した事です。そして徳川幕府は滅亡しても、江戸の地は、東京と名前を変えて現在に至ります。このような先見性に優れた武将は、織田信長の先見性に勝り、歴史上稀有な人間と言えます。

現在の首都は、政治経済の基礎となる人員を必要とし、それを支えるインフラが必要です。それには住宅や工業的な立地や、海外貿易も必要なのは当然ですが、条件を満たすのは、日本では関東平野以外にありません。
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この回答へのお礼

ありがとうございます

お礼日時:2019/07/07 13:08

人生の悲哀を感じさせるので、武田信虎です。


信虎が家督を相続したころは、武田家は内紛で混乱していました。
親族間の争いはあるし、配下の国衆は隣国の大名と手を組んで武田に反抗してくるというありさまで、武田家の支配地域は
甲府盆地周辺に限定されていたようです。
そのような中、甲斐の国の政治の中心地(甲府)を整備し、家臣を甲府の城下町に呼び寄せ(このような城下町整備は戦国大名初)浪人を傭兵として雇い入れ信頼のおける家臣に預ける(直轄軍事力の充実、これも他の大名に先駆ける発想)という戦略で、たび重なる戦に勝ち
国衆の反抗を抑え込み、甲斐の国の統一に成功します。
また、隣国駿河で内乱がおこると、義元に肩入れし義元が今川の当主になる手助けをしました。この事から、武田と今川には信頼が生まれ、義元の仲介で公家から武田晴信(信玄)に正室、三条の方を招くことができ、武田家の威信は高まりました。
信虎の政治的センス、軍事的才能、先見の明 が見て取れます。
しかし、その才能を恐れたためか、武田家臣団と嫡男晴信に甲斐の国を追放されてしまうというのは有名ですよね。
やがて信虎は追放のショックから立ち直り、信玄と和解、
畿内で信虎は武田家が有利になるような活動をしていたようです。
信玄の死後、孫勝頼と信濃で対面を果たしますが、信虎を(自分の地位を脅かすとして)危険人物とみなした勝頼は
信虎が甲斐の国に足を踏み入れることを許さなかったというのです。
結局、武田飛躍の基礎を固め、甲斐追放後も武田の為に尽力したのに、孫に故郷へ戻ることを許されなかったという事です
もし、追放されなければ広大な領地を獲得できたかもしれない(うまくすれば天下を取ることもできたかも)のに、なんか可哀そうな人ですよね。
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敵に塩を送った上杉謙信

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