出産前後の痔にはご注意!

20代半ば女です。
自分の事が嫌いで、そのせいで強いコンプレックスを持っています。

その為か、自分を変えたい、もっと理想の自分になりたい、みたいな気持ちを
モチベーションにしていた事もありました。
でも、どんなに努力しようと根本の自分は変えられない事もありますし
どんなに嫌っても逃げられないものだなあとこの歳になってまで思いました。

この気持ちのせいで、というのも変なのですが、
対人関係でも素の自分を知られたくない、知られたら幻滅される・嫌われるという
発想に何故かいってしまいがちです。
そんな事はそうそう起こらないと頭で分かっていますが、怖いです。

どんな人も自分の好きな所と嫌いな所を折り合いつけてるんだと思いますが、
どういう風にコンプレックスを克服しましたか?

A 回答 (2件)

貴方が思っている自分の短所には、次の4種類(その割合)があります。


1かなりの短所(5~10%)
  大分部の人がまあ、そうかな、と思うレベル
2多少の短所(20~25%)
  貴方が思うほどではなない、というレベル
3普通(40~50%)
  短所ではなく、普通でしょ、というレベル
4長所(20~30%)
  逆に長所だろう、と言うレベル

3と4で60~80%を占めます。
3は、客観的な基準もないのに、貴方が勝手に思い込んでいる場合です。
 例:肉体的なもの(目・鼻・口・声・目・手・腰・脚など)
   性格的なもの(暗い、根気が無い、飽きっぽいなど)
4は、性格全てで、人の評価と貴方の評価が違うものがたくさんあります。
 例:神経質 → 感性が鋭い、繊細
   鈍感  → おっとりしている、動じない
   コミュ障 → 尊重な思考、拙速を嫌う

貴方のコンプレックスの原因の大半が3と4なのです。
本当は、貴方が短所と思っていることが、
他人は長所と思っていることが沢山あると言うことです。
これが実態なんです。
貴方も例外ではありません。
貴方が短所だと思っている点を全て列記してみてください。
その全てを上記の4区分に分類してあげます。
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自分の好きや嫌い、思いなど関係なく世の中があると言うこと。



それを受けいれているか? でしょうね。


何かを考える、思う、感じると言う行為は、

体で言うところの食事をすると言う行為であり、

何かを変える行為ではありませんよ。


美味しいかどうかであり、克服する話でもないと思いますよ。

ですので質問者さんの話を、体に置き換えてみます。

「うちのご飯が嫌いです。

 何を食べても美味しくないです。

 昔は、それが嫌で理想のご飯を夢見ており、それを生き甲斐にしていました。

 でもどんなに夢見て願っても、うちのご飯が変わるわけではないですし、

 どんなに嫌ってもご飯は食べないと生きていけません。

 美味しくなくても食べないといけないなあと思う、この頃です。

 しかし、誰かがうちに来て、

 『なんだこれ、お宅のご飯、不味いねえ』

 とバレルのではないかと、心配です。

 それを考えても仕方ないと思うのですが、

 そう思うと余計にご飯が美味しくないです。

 皆さんは、どうやって家のご飯と折り合いつけました?」

こんな感じでしょうか。


なんと言うか、

「この人には美味しいものを食べさせてあげたい」

と思いますよね。

その上で、幸せな悩みだなと思って微笑ましいですよね。

後半の心配は、面白いくらい余計ですよね。

他人の家のご飯が美味しかろうと、不味かろうと、気にする人はいません。


そう言えば私の実家のご飯は不味かったですねえ。

母は、

「何でも、美味しい美味しいって言って食べると美味しいよ。」

と、言ってましたね。

料理が下手で、家族の間では不評だったんです。

私は、

「母さん、自分でそれを言ったら台無しだよ。」

と思いました。

うちの父は、

「料理をどんぶりで出すんじゃない。

 皿を分けて出す事で、味が変わってくるんだ。」

と言ってましたね。

すると母は、

「中味が同じなんだから、容器で味が変わるはずがない。

 美味しいものが食べたいなら、もっと稼いできな。」

と反論していました。

しかし、母以外の家族はどんぶりで料理が出てくるのが嫌でしたね。

美味しそうに見えないんです。

食べる前から不味いと思う。

これは不思議ですよね。


質問者さんは、うちの母と同じ間違いをしていませんか?

自分の家の食材を嘆くばかりで、飾る手間を惜しんでいませんか?

素のままで美味しい物があると信じていませんか?


思う、感じる前に、手間を掛けないといけませんよね。

心で言うと、目標を設定すると言う事です。

ぼんやりと手を伸ばして、何でも口に入れれば、どんな食材も苦いですよ。

食べ物ですらない場合が多いでしょう。

口の中は傷つきますから、大体は血の味がするでしょう。


何かを思う、何かを感じる前には、

何でもいいので、小さな得、小さな快感を目指して、これを目標にします。

その上で、方法を考えて、結果を楽しみにする。

その後で味わい、結果について思うようにします。


出たとこ勝負で生きて、口に入った物の味を確かめていたら?

不味いものばかりを口に入れることになります。


それでもたまには、小さい楽しみがあり、小さいチャレンジがありますよね?

こんなときは、自分を好きになっているはずです。


では、常に、休むまもなく、小さい目標を設定し続けるのが普通であると

知っていましたでしょうか?

そういう習慣が身についていますか?


世の中を見てみましょう。

誰かの行動を批判して、思いをぶちまけている人が沢山いますよね。

それは自分がたてた目標ではないのですから、口に入れてはいけませんよね。

その上で、味に不満を言えば、ギャグになります。

つまり、これらの人は、(先ほど私が言った事を)知らないと言うことです。

口をあけて、飛び込んできたものを何でも食べてしまう。

そして、美味しいか不味いかをいう。

ひな鳥みたいな状態です。

母親がそばにいるときは、母の力量次第で味は五分五分でしょう。

少なくても食べ物ではあるのでしょう。

しかし、自己責任で生きるとなった後は、口に飛び込んでくるものが、

食べ物じゃない場合のほうが多いはずです。


突然、まずいものが口に入り続けるようになり、

「これを食べないといけないんですか?

 いつまで我慢していればいいんですか?

 なんだか何もかも苦いし、堅いし、気持ち悪いです。

 我慢をしても、口の中が血だらけでキツイです。

 お腹がいつも下っているんです。」

と涙目になるはずです。

このままでいいんでしょうか?


どんな人でもこれを聞けば、

「それ食べ物じゃないから。食べなくていいから。

 あと、口をあけて待ってるのは、もうダメだから。

 頑張っても無駄だから。

 お願い、早く気付かないと、大変な事になるから。」

と本気で心配しますよね。


しかし、相談しあっている者同士が、共に口をあけて待つ系だったら?

それが大変危険であると知らない派閥であったら?

酷い事になると思いませんか?

子が親を殺し、親が子を殺し、無差別に人を殺し・・・。

そういう発狂した世の中になっても不思議ではありません。


罪を犯した後で反省せず、

「だって仕方ない。口は痛いし、お腹が痛いし、余裕がないんだよ。」

と怒りをあらわに反論するでしょう。

そしてこれを聞いて、そのまま口に入れて、

「なんて不味いもの(罪を犯してなお自分勝手な意見が不快だ)を俺の口に入れてくれたんだ。

 お前なんていかしておかない。」

と言うでしょう。

するとまたこれを聞いて、

「そんな命をどうこう言う権利がお前にあるのか。それを聞いて俺は不快だ。

 それを俺の口に入れたおまえこそ死んでくれ。」

となり、また地獄の復活です。


さて、何でもかんでも(心の)口に入れて、感じて、味わって、いいのでしょうか?

それが通用したのは幼い頃だけではないですか?

大人が管理していた生活空間での話でしょう?


私たちは、

小さな損得や小さな憧れを元にして、

小さい目標をたて、

ささやかな挑戦をする。

その結果に対してのみ、感じる事を許されており、

それ以外のものに何かを感じると、怒りと狂気が沸き起こるだけなんではないでしょうか?

しかも、

食べても栄養になりませんし(心が成長しないし)、味も不味いですし、危険なんです。


昨今のツィッター、SNS、その他インターネットで繋がっている状態は、

親鳥になったのに、口をあけて待つ成鳥が巣箱にぎっしりと詰まって、

互いに排泄物を投げ合って口にいれ、涙目で喧嘩をしているのと同じです。

餌を与えられなくなったブロイラーみたいな感じですね。

これは何かの罰ゲームでしょうか?


一方で、

何かちょっと工夫をした。

こうすると美味しいぞ。

こうすると便利だぞ。

と言うささやかな挑戦をアピールしている人もいますよね?

こう言う人の記事は人気が集まります。

本人もしあわせそうです。


一方で、小さい悪戯をした、皆の受けを狙ったという記事もあります。

これは自分の小さな損得や憧れで始まっていません。

つまり真似て得する情報じゃありませんから、心の食べ物じゃありません。

おしゃぶり見たいな空虚なものです。

これに何かを感じても、心は成長しませんよね。



冒頭に述べましたが、

自分の好き嫌いと関係なく世の中があります。

美味しい物を食べたいと願い、目を瞑って口あける。

「神様、お願い。あ~ん。」

これで玉砕し、世の中を恨んでも笑い話です。


自分を好きだとか、自分を嫌いだとか。

これも同じですよね。

対象が何であれ、出たとこ勝負で「感じて」良い筈がありません。

何か体が得をするようなものをテーマにし、

それについて行動し、

それについてのみ感じ、思うことです。

自分の体が上手くやれたかどうかだけ評価すべきであり、

それ以外の事を考えれば、不快に決まっています。

これを知らないと言うだけに思えます。


自由に思う、自由に感じると言うのは、危険であると言うこと。

例えば、小さい子供は何でも口に入れて食べようとしますよね。

大人から見れば不可思議な行動です。

しかし、子供の気持ちで考えて見ましょう。

「どうして? 美味しいかもしれない。

 美味しいものだったらどうするの?

 美味しいものであって欲しいの。

 願うの。祈るの。お願い。あ~ん。」

何とも言えない。何とも可愛らしい。切ない話です。


私たちも同じなんですよ。

心は何でも食べたがっていますが、お腹を壊さないように、

自由を制限する知恵も必要なんです。

他人の思い、他人のチャレンジ、他人の結果。

こればかり見続けて、こればかりを心の口に入れ、

こればかりを食べてしまい、お腹を壊している人が沢山います。

遊ぶにしても、適度にしないといけません。

それは毒なんですから。


以上、ご参考になれば。
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