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「私」は、誰なのでしょうか。
今、自宅のパソコンで、サイトに
書き込みを入れる「私」とは。
「私」は、この世に2人いるのか?
「私」は、死んだら何になるのか?
「私」って何なんでしょう??

A 回答 (41件中1~10件)

病んだ思想、孤独説について補足しておきます。


「ムッ」としてしまう、「あなたに私の何がわかるの」と思ってしまう。
その気持ちはよくわかります。
でも、「あなたに私の何がわかるの」という時点で、「私」という存在についてほとんど自分で答を出しているような気がします。「私とはこういうものだ」という考えがすでにあるではないですか。まあ、それをうまく表現できないとか、いろいろ問題はあるかもしれませんが。

とりあえず哲学のとっかかりとして「ソフィーの世界」というベストセラーになった本をおすすめします。

本題に戻して、孤独説。
どうして孤独なのかというと、「私」というものがある一点にあると解釈してしまうからかもしれません。
確かに昨日の自分と今の自分とでは違うという意見もありますが、基本的に誕生から死までの時間の中で自分というものは連続性を持っています。コマ送りのように突然違う状態になるわけではありません。昨日の自分と今の自分が違うのは、その時間の一点を取り上げて比較しているからで、その間に動いていてつながっているということです。もしそうでなければ、その瞬間瞬間いつも新しいものに触れていることになり、身動き一つとるのも不安になります。例えばコインロッカー。入れる時にちょっとだけ不安になったことはありませんか。出そうとした時になくなっているんじゃないだろうかと思って。時間の連続性を信じるか信じないかで、世の中の見え方が相当変わってきます。
僕自身は「私」を一点で見ることは危険だと思います。誕生から死に向かう大きな流れなのにもかかわらず、その一滴だけで全てを判断することはとてもできません。
そんな大きな流れなのにもかかわらず、「私」というものは孤独です。そして孤独を解消したいと思ってあがくのが「生きる」ということなんだと思います。

ではどうやって孤独を解消できるのか。楽な方法としては孤独から目をそらすこと。孤独という現実から目を背けることです。たとえば漫然とテレビを見て笑っていたり、たとえば芸術を至上のものとして愛したり、たとえば本当に好きかどうかわからない人と恋人のふりをしたり、たとえば神という存在に自分を庇護してもらったり……まあ、いろいろあります。
しかしながら、はっきり言っておきますが、孤独というものは雲散霧消するものではありません。オギャアからポックリまで、孤独が解消されることはありません。楽な生き方をしたいなら上のようなやり方でもいいでしょう。でも、孤独ではない、幸せだと感じる気持ちは、一瞬で幻滅します。抱き合う瞬間に幸せを感じるかもしれない、けれども、その抱擁が解けた瞬間、それは過去のものになってしまう。満腹になって幸せを感じるかもしれない、けれども、消化されてしまうと、また空腹になって不幸になってしまう。
孤独から目をそらすのは一つの方法です。人間の知恵でもあります。だからそれを否定はしません。
しかしそれが虚しいと気づく人も中にはいるのです。その時は逃げることなくその「孤独」と向き合う。そして新たな価値を創造する。それが哲学することなのではないかと思うのです。

僕の考え方は哲学者で言えばショーペンハウアーやニーチェの言っているあたりをなぞっているだけにすぎないかもしれません。だとしたら、僕がこうして話すよりも、彼らの言葉に触れた方がより効果的だと言えるでしょう。

ちなみに、ニーチェの「永劫回帰」という考え方は、美しいものから忌わしいものまで、全てを肯定的に受け入れる、だから孤独も孤独からの逃避も受け入れるという道を示しています。
僕もつい最近それを直観的に納得したのですが、さらに破るべき殻があるのではないかと模索している最中なのです。

現代思想では、到達すべき真理も、それを考える理性も、それを表現する言語も、疑われているそうです。いわば渾沌とした状態に置かれていますが、その中から人を輝かせる思想が生まれるかもしれません。もしかしたら、happyxmasさんがその生みの親になるかもしれませんね。
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この回答へのお礼

お礼の前に、
一言。
ごめんなさい。
せっかくアドバイスを下さったのに
「ムッ」とした、なんて書かれたら
私は激怒するに違いないでしょう。

そして
また書き込んでくださって、
ありがとうございます。

>孤独から目をそらすのは一つの方法です。人間の知恵でもあります。だからそれを否定はしません。

孤独は逃れられないと聞き、
でも、それから逃れようとすることを
否定されないと聞き、
少なからず救われました。

>しかしそれが虚しいと気づく人も中にはいるのです。

nabayoshさんもその1人では?

>その時は逃げることなくその「孤独」と向き合う。そして新たな価値を創造する。それが哲学することなのではないかと思うのです。

その通りですね。
孤独と向き合うことも、
人間には必要とされる場合が
あると思います。

書き込み、ありがとうございました

お礼日時:2004/12/13 15:46

あなたが、この疑問で悩んでいるのか、楽しんでいるのか、もしくは退屈しのぎかどうかは分かりませんが、もし悩んでおられる様であれば、その疑問は今すぐにでも捨てるべきだと思います。

答え絶対に見つからないのですから、考えるだけ無意味かとおもいます。
この手の疑問で悩んでると自分が現実逃避しているだけのような錯覚した事がありますので・・・なんというか鬱になります(^^;

あくまで知の探求を目的とするならば、それは価値のあるものになると思います。それと、私個人とは何かと考える他に、私たちは一体何かとか視野を変えてみたりして考えてみてはいかかですか?私たちは、共通する点が沢山あるはずだから・・・。答えには到底及ばないにしろ、もしかしたらヒントに繋がるかもしれませんから。

なんか、偉そうにべらべらと書き込みした事を誤ります。どうか、ほんの少しでもアドバイスになれればと思います。
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この回答へのお礼

皆さん今までありがとうございました。

お礼日時:2004/12/22 16:13

宇宙です。


コスモです。
生きとし生けるもの。
みな同じ共通の「チカラ」を共有しています。
あなたと私も同じ。
世界中、細かい違いでいがみ合っているようですが。
気にしすぎ、なのです。
もう一度おもいだして、、
落ち着けばわかるはず。
「同じチカラ」を。
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毎度どうも。


今日は経験者として回答しますよ。
ええ、ちょっと前の#27にも話があって、その時に言おうと思っていたんですが、言いそびれたままになっておりました。

#38に登場した「多重人格」のお話です。
えっと、多重人格という言い方はどうやら差別的なので、「乖離性同一性障害」という言い方が正統的のようなのですが、基本的に人格がいろいろあるということですね。

つい最近、この「乖離性同一性障害」の方にお会いする機会を得られたんですよ。
基本的にこういう方と接するのは危険であるというのが一般的な見方で、僕もちょっと不安ではあったんですけど、会ったことによって、僕の世界は広がりましたね。

こういうことを言うと頭おかしいんじゃないかと思われるかもしれませんが、僕には他人に同調する力が強いのです。ですから、今その多くの人格を持つ人の人格のうちの1つをコピーすることが(不完全ではありますが)できる自信があります。この乖離性同一性障害の方はどの人格も求心力が強く、同調するのが大変だったりしたのですが……それはともかく、同調という現象を簡単に言ってしまうと、「相手の思考が自分に入ってきて、そしてその思考が自分の中で生きる」ということです(実は誰にも起こっている現象なんですが、意識しているかしていないかで随分変わりますよね)。

だから、乖離性同一性障害の方の人格は、また僕にも入り込んできているのです。もちろん、だからといって僕が乖離性同一性障害になったというわけではないのですが。

何が言いたいかというと、「鏡」です。僕とhappyxmasさんがこの場を通じて影響を与え合う。このことで、僕がhappyxmasさんの中に、happyxmasさんが僕の中に生きる(映る)ことができるのです。
だから、「私」は「あなた」であり、「あなた」が「私」でもあるという発想に至ります。なんだかややこしい話ですね。そう言えば、NHK教育テレビの「にほんごであそぼ」でヒットした「ややこしや」というのを思い出します。……わたしがそなたで、そなたがわたし、そもわたしとは、なんぢゃいな……。

ラカンという精神医学者が「鏡像段階」という説を出してしますが、まあそれを中学生レベルにわかりやすくねじまげたのがこの考えです。

さて、乖離性同一性障害の方は、ちょうど自殺を考えるほど悩んでいた僕に力を与えてくれました。その人が僕の中に入りこんできてくれたからです。
同時に、僕の思考もその人に入って、その人を励ますことができたようです。
今僕が意識してこの人に言いたいことはこういうことです。
「僕は、あなたの外部にあるあなたの人格なんですよ」と。

といっても、なかなかわかりにくい話ですよね。
この経験談から質問に回答すると、こうなります。

●「私」は、誰という質問で特定するものではありません。
●「私」というものはあらゆるところに存在します。
●「私」は、死にません! 滅びるとしたら身体だけです。
●「私」は時代やら思想やらを受けて、未来へと反射させる鏡のような存在です。

最後に余談を。
受け売りの話で申し訳ないのですが、「私は私だ」という考え方が第二次世界大戦を引き起こしたと言われています。つまり「ドイツ人はドイツ人だ」という理由でユダヤ人を迫害したナチス・ドイツの考えの土台が、この「同一性」であった、という話があるのだそうです。「私」を見いだす歴史は、まだ続いているようです。僕は未来に「私」を見いだすであろう誰か(あなた)に向けて、この話を反射させておこうと思います。
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>>世界を見る「私」であり、


>>「私」の化身

>は、無数個あるわけで、
>でもそれに気づかないヒトも
>たくさんいる、
>という意味でしょうか・・・?

「多重人格」という病気をご存知だと思います。
古くは新約聖書にそれらしい症例が記され、
現代でもダニエル・キイス著「24人のビリー・ミリガン」に記された、
日常生活にはちょっとやっかいな病気です。

薬物の投与やカウンセリングなどを組み合わせて、
ある程度の治療と抑制はできますが、
まだまだ多くのことが分かってません。

しかしとにかく、
彼は(彼らは?)「私」が一人ではないと主張します。

こういう症例を見るにつけ、
私たちが理性で信じている「私」というものは案外、
一つの「フィクション(虚構、作り事、想像による小説)」だったりして。あは。
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またまた登場~♪



僕が書いてきたことは、わからないところがあったりして難しいですよね?僕も
自分なりに悩みがあって、その先を展開しようと哲学的に書いてしまいました。
ごめんなさい。
でも、これだけは書かせて下さい。僕はできるだけ専門用語とかは使わないよう
にしています。誰にでも読めるように心がけています。常識に囚われず、自由な
精神で読めば、必ず誰にでも理解できるはずです。わからないのであれば、一般
常識になぞって読むのでなく、自分の自由な精神でつかむことです。そうすれば、
そこに新たな自分が発見できると思いますよ。
(僕が思うに、人間の自由な精神を言葉で表現しようとすれば、それは個性的な、ユニークな表現となって、常識に囚われて読めばチンプンカンプン。一種の嫌悪感すらあると思います。もっと解放した自由な精神で取り組むべきだと思うのです。)

難しい話は抜きにして、

「NANA」面白いですよね♪
ボーカルの方のNANAは、ひたすら孤独な自分を貫き、逆に結婚したNANA
は、周りに影響されまくりで彼氏もとっかえひっかえ…。まったく異なる二人で
すが、それぞれ自分なりに悩んでます。
そうやって悩んで成長していくのが人生の面白いところですね。そのためには、
自分1人だけでは無理なんですよね。他人と交友するからこそ出来るんですね。
当然、人間関係は出会い、別れ、裏切り、傷付き、決して楽なことではありませ
んが、しかし、多くの人と出会って自分が磨かれていくんです。

矢沢あいは、「セックスピストルズ」というイギリスのパンクブームの先駆けと
なったバンドをモデルに、漫画の「NANA」の中に登場させています。ビビア
ンもこのバンドと交友があって、(ボーカルのジョン・ライドンは彼女を嫌って
いたけど)そのファッションも、NANAの中に登場します。シド・ビシャスは
「鍵の首輪」を本当にしていたんですよ!…といっても、たまたまジョン・ライ
ドンの自伝を読んだだけです。(笑)
その本もお勧めですよ。

お礼を読んで気になったので、また書き込みしました。
自分が上手くつかめていない大人は、たくさんいます。
社会に出れば忙しくて、とてもこのような疑問を追究する時間なんてないのです。
そんな金にならないことよりも社会という現実の中で生きていくことが大事。人
脈作りに金。いかに自分を有利な立場に置くか。出世と権威。契約と結果が全て。
本音と建て前が交差する世界なのです。サービス残業に…とダメだししたらキリ
がありません。
happyxmasさんも社会に出るようになれば、この問題を感じると思います。

大人ぶる必要は決して必要ないです。
今のhappyxmasさん、そのままの姿であるべきです。
その姿をストレートに肯定して、それをそのまま押し出していくべきなんです。
子供を理解できない大人になんかなってほしくありません。
大人になるより、自律した1人の人間を目指して下さい。
みんな、孤独なんです。それを表に出すか出さないかだけです。
自分に正直に、自分にウソをつかず、まっすぐに生きていけば、
そのうち、「私」が何かわかる…というより、感じるかもしれません。

焦らず、自分のペースで、自分なりに成長していってください。
そして、素敵な女性になって下さいね。将来どこかで出会って、恋に落ちるかもしれません。^^;
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はじめまして。


むかーし、そんなことを嫌々考えさせられましたが、
(ほんっとヤでした^^;)
で、結局分らずじまいでした。
哲学科というわけではありませんので、
全然、責任なしの回答です。

近代絵画を例に考えてみます。
絵画(一般的な風景画や静物画)は
世界の事物をキャンバスに描き出します。

山や木、建物や直立する人といった物々です。
画家から見て遠くにいる人は、
近くにいる人よりも小さく描かれます。

いわゆる遠近法です。
常套な遠近法では、架空の焦点Pが存在します。
すべての物の高さや幅が焦点Pへと集約していきます。

もちろんこの世界に焦点Pなんか存在しません。
焦点Pは無秩序な世界の風景を
絵画という秩序化された世界として把握し
構築するための、「かりそめの一点」です。

言い換えれば、この焦点Pは、
世界を見る「私」であり、
「私」の化身とも考えられます。

焦点Pなしには、世界の秩序化は困難ですし、
質量を奪われた空間のように、
フワフワ、ネバネバとした
混沌の支配する世界になってしまうかもしれません。

しかし抜き差しならないのは、
焦点Pが、初めにあるのか、
つまり焦点P思う故に焦点Pありなのか、

案外、周囲の事物の高さや幅などの関係性が、
かりそめの焦点Pを「ツクリ」出しているのか
という問題かもしれません。

ところで焦点Pは、2つとないのでしょうか?
ときにピカソに代表されるキュビズムの絵画は、
この点でとても示唆的のように思います。

それは、あるときは上空に、あるときは手前に、
たくさんの焦点をもって描かれます。
それはあたかも精神病患者(あ、これ禁止用語でしたか?)が見たもののようでもあります。
あるいは、時間や空間に縛られることのない、
超越した何かの目のようにも思えます。

思うに、「私」ってのは、
ちょっと胡散臭いところがあるんじゃないでしょうか?
もう、なんか勝手な想像ですが、

中世西洋の教会権威が崩壊して、
近代的個人主義が確立される過程で、
意図的に何かがあったかも知れないとも疑っています。

けど、今はそれどころではない日々になってしまいました。
あーあ。ってな感じです。
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この回答へのお礼

はじめまして。
私も自分ですすんで
「私とは?」と、
考えているのに
自分が嫌になることがあります。
それは、まぁ答えの見つからない
「もどかしさ」からでしょうが。。。

焦点、ですか。。。
ピカソの話は
美術の時間に聞かされました。
ピカソの若い頃の絵と、
それから少したってからの絵とを
見せられ、
ピカソのすごいところは
焦点が1つの場合に、
すばらしい絵が描けていたのに
焦点をたくさんつくって、
誰も考えなかった発想で
絵を描いたことだ、とか。

>世界を見る「私」であり、
「私」の化身

は、無数個あるわけで、
でもそれに気づかないヒトも
たくさんいる、
という意味でしょうか・・・?

お礼日時:2004/12/18 10:26

フォローしないと。



「解釈によっては」と書いた通りです。いくらでも答があるということです。

つまり「コトバ」と「コトバが意味するそのもの」との関係というのは、実はしっかりしているようであやふやなのです。

無意味というより、どんなにコトバを費やしても知ることができないのではないか、と思います。
僕は思うんですが、「私」であること意味は、コトバで表現するものではなく、生きることそのものによって表現するしかないだと思います。

悲しむことはないと思いますよ。
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この回答へのお礼

フォローありがとうございます。

>つまり「コトバ」と「コトバが意味するそのもの」との関係というのは、実はしっかりしているようであやふやなのです。

>無意味というより、どんなにコトバを費やしても知ることができないのではないか、と思います。

ということで、
私の理解違いで、
すみません。。。
でも、

>「私」であること意味は、コトバで表現するものではなく、生きることそのものによって表現するしかないだと思います。

と書いてくださったので、
「私」という
コトバにちゃんと
個性を持たせて
生きることで
私をアピールしていきたいな、
と思います。

お礼日時:2004/12/17 08:36

こんばんは!


論で争うつもりはありませんよ。僕は大学も行ってないほどの無学ですから。でもソシュールなら少し聞いたことがあります。

日本の歴史は、文明開化まで日本という概念がありませんでした。あくまで自分の藩主(お殿様)の為に奉公するのが義務であり、その藩主の上に徳川幕府があったのです。その後ろ盾に天皇がありました。その時代は、滅私奉公が美徳とされ、当然、社会が主であったのです。生まれながら自分の身分や職が決まっている時代で、人権も不平等で、自分を主張することは大変危険でした。しかし、文明開化にともない、どっと西洋の文化が流れ込んできました。そこから、No.33の方がおっしゃってる「自己と他者」の概念ができたのです。

このように、文化は異なるからこそ、面白いと僕は思うのですが(そこから多くを学べます)、文化によって異なる、つまり、私という絶対的定義はないのですね。
ソシュールはこう言っています。
「言葉というものは、その本質や実体が常に一つとして存在するのではなく、繰り返し使うことによって、あたかもそれらの概念が常に同一であると錯覚しているのです。」
つまり、言葉というものは便利で経済性がいいのですが、その反面、錯覚に陥る危険があるということです。つまり、私という概念は、人の数だけあるってことです。(笑)

だから僕はNo.28で、「答えは自分の中にある」と書いたのです。

しかし、知りたいという知的欲求は人間としての本能であり、それを言葉で捉えたいと思うのも人間である故です。

現にこれだけの投稿があります。人それぞれ自分なりの考え方があって、僕は面白くユニークに感じます。
僕がNo.32で、「1人1人、顔も性格も違います。違うからこそ、お互いが輝き合うのです。ナンバーワンではなく、オンリーワンということですね。(笑)」と言ったのはその意味です。
だからこそ、自分がこの世界の中心だという実感を持って、全責任を負って堂々と、自分の意見を主張するべきだと書いたのです。無知を恥じること自体恥ですよ。

なので、わからないことがあったら、どんどん質問して下さい。僕も文章を上手く書けているとは思いません。

最後に。僕がその人との「出会い」で教わったことは、理屈だけでは、この世界を捉えることは出来ないということです。「私って何?」の一つの質問ですら、このように多くの回答が寄せられるのが事実です。そもそも哲学は、一つの答えがでないものです。人それぞれ考え方が異なります。
哲学に限らず、教科書などで学ぶより、実際に体験することを強くお勧めします。例えば恋愛にしたって、恋愛映画や漫画でも面白いですが(僕は今NANAにはまってます)、実際の恋愛は比べられないほど強烈でいいですよ♪
僕は中1の頃に初恋をしたのですが…と、また話が脱線するので止めます。(笑)
中学生から高校生辺りは、激しく成長する時期で、心も身体も大きく変化します。それに伴い、情緒不安定になったり、反抗期に入ったりします。僕もそうでしたよ。^^
みんながそうなので心配することもありません。もし心配なら学校の先生や両親や友達に相談するのが一番です。私って何?ってハッキリ解らないと思いますが、不安にならず、青春を謳歌して、その中で自分の考えを、価値観を創っていくので一番です♪
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この回答へのお礼

はい!わかりました^^
といっても、
読みました、という意味で。

すべてを理解するのは
自分でも
過去だったり未来だったりすると
難しいと思います。
でも、
少なからず共感できました(*^_^*)

自分が上手くつかめてないのに
大人ぶって、
大人扱いされて
狭い場所にいて、
苦しい時期なのかもしれませんね(^_^;)

すこしずつ、
「価値観」
というモノを
確立していくのが
大切なのですね^∀^  -с-

NANAにハマっている、
というコトですが。。。

私もなんです!(爆
友達から借りて読んだら、
ハマってしまい、
自分で11巻まで
揃えました(笑)

大人になるのは
自然の摂理?なので、
あせらずに
やっていきたいと思います

お礼日時:2004/12/17 08:32

孤独説はさておき(#28の方の言及ありがとうございました。

回答者同士で論争はしてはいけないので、これだけにとどめます)、僕は僕自身の専門分野を持っているので、その切り口で語るのも、happyxmasさんの役に立つのではないかと思い、再度回答することになりました。

その分野とは、言語学です。
結論を先に申し上げます。質問文に答やヒントがすでにある、と。
今からそれを説明していきましょう。

「わたし(私)」という言葉は実に厄介なものです。日本語の「私」と英語の「I」は違います。もともと文化が違いますからね。日本語は「公(おおやけ)」に対する「私(わたし/わたくし)」という関係であって、西洋哲学のような「自己と他者」というような関係の言葉ではありません(でした、もともと)。

西洋のものの考え方が入ってきた時、「私」に新たに「他人と対する自分」という意味が加わりました。それまでは主観とか客観とか、そんなものの考え方はありませんでした。

で、「私」ってどういう意味なんでしょう。
おっと、逆に聞いてしまいました。

むかしむかしの西洋の言語学では、言葉はものに名前をつけていくことによって生まれると判断されていました。例えば(犬)という種類の動物に、犬という名前をつけたりすることです。「言葉はモノの目録である」という考えです。
ところが、ひとむかし前くらいになって、言語学に新たな展開がありました。ソシュールという言語学者なのですが、この人が逆転の発想をしました。

いろいろな言語を見てみると、犬とオオカミを区別していない言語などもあります。このことから、「言葉がモノを決定する、モノの範囲を決める」という風に考えたのがソシュールさんなのです。

「私」という質問文の中の言葉が、すでに私という存在があるという前提で話していることを示していて、その言葉がすでにどの範囲を表しているのかを決めている、ということになります。だから、質問者が思い浮かべている「私」が「私」になるんだと思います。それ以上でもそれ以下でもない。

ソシュールさんの考え方を使えば。

でもこの人は20世紀の初めに死んでしまったんですよね。それより新しい思想もあります。ソシュールが死んだ後に生まれて、1980年まで生きた、ロラン・バルトという人の考えを僕なりにご紹介しましょう。

この人が言ったことは、簡単に言えばこういうことです。
「誰かが発した言葉は、その誰かの意図したものから自由になって、それを受け取る人の解釈に委ねられる。そしてその解釈が多種多様で錯綜していて、複雑なので、織物のようになる。これをテクストと言う」

「私」という言葉も、誰かが作り出して、そこに「公と私」という構図が入り込んで、「他者と私」という考え方も紛れ込んで、一筋縄ではいかないものになったんだと思います。

そういう考え方からすると、「私」というのは世界の中でさまざまな角度からさまざまに解釈されたもので、例えるならば、複雑にからみあった毛玉のようなものかもしれません。

沢山の解釈があって、その全部を知ることはとてもできませんが、おそらくhappyxmasさんが世界の一部であるように、「私」ということばの意味することも、解釈される意味の世界の中の一部なのかもしれませんね。

解釈によっては、「私」なんて実体はないものということもできるかもしれませんね。実体のないものに対して、この世に2人いるかとか、死んだら何になるかとかを考えるのは、あまり意味のあることではなさそうです。
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この回答へのお礼

>解釈によっては、「私」なんて実体はないものということもできるかもしれませんね。実体のないものに対して、この世に2人いるかとか、死んだら何になるかとかを考えるのは、あまり意味のあることではなさそうです。

と、されていますが
では「私」を問うことは無意味なのですね?


そうだとしたら
悲しいです。
一気に、ここにいる自分を
否定されてしまった気がします。。。

またあらためて
機会があったら
書き込んだりしてください。
nabayoshさんとは、
何度でもお話をしたいです。

お礼日時:2004/12/16 22:03
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