プロが教えるわが家の防犯対策術!

朝鮮半島は15世紀の初頭から20世紀の初頭まで(=日韓併合まで)、李朝が支配していたと思います。首都は、一貫して、いまのソウルにありました。一度も遷都は行われませんでした。

さて首都の名称についてですが、当初は「漢城」でした。李朝は明朝(中国)の冊封体制下で属国としてスタートしたからです。
※「漢」は中国の古名

首都の名称が「漢城」から「京城」に変更されたのはいつからですか。教えて下さい。

質問者からの補足コメント

  • ウィキの記述は正しいですか?

    『ベルツの日記』(岩波文庫)の明治36年(1903年)から明治38年(1905年)の部分を読むと、一貫して「京城」と書いてあります。

    ※『ベルツの日記』のベルツとは、日本政府お抱えのドイツ人医師、エルウィン・ベルツのこと。明治9年(1876年)から明治38年(1905年)まで日本に滞在し、皇族や政府要人の担当医をつとめ、また東京帝国大学で教鞭をとった

    No.1の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/08/08 07:42
  • 「京城(けいじょう)」は韓国併合までは"俗称"だったのですか。それなら解かります。

    そういえば「ソウル」というのは「都」を意味する普通名詞だそうです。大韓民国は普通名詞を首都の名称(=固有名詞)として使っているわけです。

    No.3の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2019/08/08 20:32

A 回答 (3件)

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説



ソウルの地は古くは馬韓(ばかん)=百済(くだら)の領土であったが、5世紀なかば過ぎ、高句麗(こうくり)に占領され、南平壌ともよばれた。6世紀なかば以降は新羅(しらぎ)の支配下に置かれ、755年、漢陽郡となった。

高麗初期は楊州(ようしゅう)と命名されたが、1067年、南京留守官が置かれ、以後、都市として発展し始め、南京あるいは中京ともよばれ、やがて開城、平壌と並ぶ三京の一つとなった。

1308年、漢陽府と改められ、李朝に入ると、1394年、李成桂(りせいけい)がこの地へ遷都、翌年、漢陽を漢城と改名し、景福宮などの宮殿や官庁、周囲18.5キロメートルの城壁と四大門などを築き、城郭都市として一新、李朝初期の人口は約10万人に達した。以後、漢城(京城は俗称)は約500年間、李朝の王都として政治、経済、文化の中心地となった。

壬辰倭乱(じんしんわらん)(豊臣秀吉の朝鮮侵略)の際、大半を焼失したが、やがて復旧され、18世紀末には人口20万人を数える大都市となった。

しかし、1910年、韓国併合とともに日本は名称を京城とした。1945年の解放で初めて正式名をソウルと改称、大韓民国の成立とともにその首都となった。
(引用終わり)

京城が正式名称になったのは1910年だが、その前から使われていた。
以前から俗称として使われていたから、正式名称に格上げしたとも言える。
そもそも、京城は天子のいる都という意味の普通名詞だし。


京と言っても、都と言っても、同じ場所を指していたが、ある日を境に京都府になったようなものかな。
この回答への補足あり
    • good
    • 3
この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2019/08/10 20:02
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2019/08/10 20:02

京城府は日本統治時代におかれた朝鮮の行政区域の名称です。

李朝朝鮮が変更したわけではありません。
以下、ウィキより引用です。

1910年(明治43年)の韓国併合後、同年9月30日に施行された朝鮮総督府地方官官制に基づき京城府に改称され、京畿道の下に置かれた。他方でその長は府尹とされ、これは改称されなかった。

京城府(ウィキ)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E5%9F%8E …
この回答への補足あり
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2019/08/10 20:01

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!